法皇は仏勤めに精進あそばされて、政治のことなどには何の干渉もあそばさない。春秋の
「ごもっともなことですよ。こんな仰せがなくともこちらから進んでお伺いをなさらなければならないのに、ましてこうまでお待ちになっておられるのだから、実行しないではお気の毒ですよ」
とお言いになり、機会をどんなふうにして作ろうかと考えておいでになった。何でもなくそっと伺候をするようなことはみすぼらしくてよろしくない。法皇をお喜ばせかたがた外見の整ったことがさせたいとお思いになるのである。来年法皇は五十におなりになるのであったから、若菜の賀を姫宮から奉らせようかと院はお思いつきになって、それに付帯した
「こちらへ来られた時に宮の琴の音が聞きたい。あの芸だけは仕上げたことと思うが」
と言っておいでになることが宮中へも聞こえて、
「そう言われるのは決して平凡なお手並みでない芸に違いない。一所懸命に法皇の所へ来てお
などと仰せられたということがまた六条院へ伝わって来た。院は、
「今までも何かの場合に自分からも教えているが、質はすぐれているがまだたいした芸になっていないのを、何心なくお伺いされた時に、ぜひ弾けと仰せになった場合に、恥ずかしい結果を生むことになってはならない」
とお言いになって、それから女三の宮に熱心な琴の教授をお始めになった。変わったものを二、三曲、また大曲の長いのが四季の気候によって変わる音、寒い時と空気の暖かい時によっての弾き方を変えねばならぬことなどの特別な奥義をお教えになるのであったが、初めはたよりないふうであったものの、お心によくはいってきて
十一月が過ぎるともどるようにと宮中からの御催促が急であるのもさしおいて、このごろの楽の
年末などはことに対の女王が忙しくていっさいの
「春ののどかな気分になった夕方などにこの琴の音をよくお聞きしたい」
などと言っていたが年も変わった。
年の初めにまず
「対の女王がいつもお聞きしたがっているあなたの琴と、その人たちの十三
と院がお言いになると、宮は無邪気に
「長くお目にかからないでおいでになるのだから、大人になってりっぱになったと認めていただけるようにしてお目にかからなければいけませんよ」
と事に触れて院は教えておいでになるのであった。実際こうした
一月の二十日過ぎにはもうよほど春めいてぬるい
「二月になってからでは賀宴の
と院はお言いになって女王を寝殿のほうへお誘いになった。供をしたいという希望者は多かったが、寝殿の人と知り合いになっている以外の人は残された。少し年はいっている人たちであるがりっぱな女房たちだけが夫人に添って行った。童女は顔のいい子が四人ついて行った。朱色の上に桜の色の
「
とお笑いになりながら、
「大将にこちらへ」
とお呼び出しになるのを聞いて、夫人たちは恥ずかしく思っていた。明石夫人以外は皆院の御弟子なのであるから、院も大将が聞いて難のないようにとできばえを祈っておいでになった。女御は平生から陛下の前で他の人と合奏も仕
左大将は晴れがましくて、音楽会のいかなる場合に立ち合うよりも気のつかわれるふうで、きれいな
「失礼だがこの
とお言いになると、大将はうやうやしく琴を受け取って、
「調子をつけるだけの一弾きは気どらずにすべきだよ」
と院がお言いになった。
「今日の会に私がいささかでも音を混ぜますようなだいそれた自信は持っておりません」
大将は遠慮してこう言う。
「もっともだけれども、女だけの音楽に引きさがった、逃げたと言われるのは不名誉だろう」
院はお笑いになった。で大将は調子をかき合わせて、それだけで
夜がふけてゆくらしい冷ややかさが風に感ぜられて
「たよりない春の
と院は大将に向かってお言いになった。
「秋の明るい月夜には、音楽でも何の響きでも澄み通って聞こえますが、あまりきれいに作り合わせたような空とか、草花の露の色とかは、専念に深く音楽を味わわせなくなる気もいたします。やはり春のたよりない雲の間から朧な月が出ますほどの夜に、静かな笛の音などの上ってゆくのを聞きますほうが、音楽そのものを楽しむのにはよいかと思われます。女は春を
と大将が言うと、
「それは断定的には言えないことだ。古人でさえ決めかねたことなのだから、末世のわれわれの力で正しい批判のできるわけもない。ただ音楽のほうでは秋の律の曲を、春の
院はこう仰せられた。また、
「どう思うかね。現在の優秀な音楽家とされている人たちの、宮中などのお催しなどの場合に演奏を命ぜられる人のを
「それを申し上げたいと思ったのでございますが、しかし頭の悪い私はでたらめを申すことになるかもしれません。今の世間の者は昔の音楽の盛んな時を知らないからでもありますか
大将はほめた。
「そんな最大級な言葉でほめられるほどのものではないのだが」
得意な御微笑が院のお顔に現われた。
「私にはまずできそこねの弟子はないようだね。琵琶だけは私に骨を折らせた
こうして皆御自身の功にしてお言いになるのを聞いていて、女房たちなどは
「すべての芸というものは習い始めると奥の深さがわかって、自分で満足のできるだけを習得することはとうていできないものなのだが、しかしそれだけの熱を芸に持つ人が今は少ないから、少しでも
などと院のお語りになるのを聞いていて大将は自身をふがいなく恥ずかしく思った。
「
このお言葉を
女御は
「眠くなっただろうのに、今晩の合奏はそう長くしないはずでわずかな予定だったのがつい感興にまかせて長く続けていて、それも楽音で時間を知るほどの敏感がなく、思わずおそくなって、思いやりのないことをした」
とお言いになり、
「変ですね。まず先生に御
院がこう
大将は子供をいっしょに車へ乗せて月夜の道を帰って行ったが、いつまでも第二回のおりの箏の音が耳についていて、
院は対のほうへお帰りになり、紫夫人はあとに残って女三の宮とお話などをして、明け方に去ったが、昼近くなるまで寝室を出なかった。
「宮は
と院は夫人へお話しかけになった。
「初めごろ、あちらでなさいますのを、聞いておりました時は、まだそうおできになるとは伺いませんでしたが、非常に御上達なさいましたね。ごもっともですわね、先生がそればかりに没頭していらっしゃったのですものね」
「そうですね、手を取りながら教えるのだからこんな確かな教授法はなかったわけですね。あなたにも教えるつもりでいたが、あれは面倒で時間のかかる稽古ですからね、つい実行ができなかったのだが、院の陛下も琴だけの稽古はさせているだろうと言っておられるということを聞くと、お気の毒で、せめてそれくらいのことは保護者に選ばれたものの義務としてしなければならないかという気になって、やり始めた先生なのですよ」
などと仰せられるついでに、
「小さかったころのあなたを手もとへ置いて、理想的に育て上げたいとは思ったものの、そのころの私にはひまな時間が少なくて、特別なものの先生になってあげることもできなかったし、近年はまたいろいろなことが次から次へと私を駆使して、よく世話もしてあげなかった琴のできのよかったことで私は光栄を感じましたよ。大将が非常に感心しているのを見たこともうれしくてなりませんでしたよ」
ともおほめになった。そうした芸術的な能力も豊かである上に、今は一方で祖母の義務を御孫の宮たちのために忠実に尽くしていて、家庭の実務をとることにも力の不足は少しも見せない夫人であることを院はお思いになり、こうまで完全な人というものは短命に終わるようなこともあるのであると、そんな不安をお覚えになった。多くの女性を御覧になった院が、これほどにも物の整った人は断じてほかにないときめておいでになる紫の女王であった。夫人は今年が三十七であった。
「
ともお言いになった。また、
「私は生まれた初めからすでにたいそうに扱われる運命を持っていたし、今日になって得ている名誉も物質的のしあわせも珍しいほどの人間ともいってよいが、また一方ではだれよりも多くの悲しみを見て来た人とも言えるのです。母や祖母と早く別れたことに始まって、いろいろな悲しいことが私のまわりにはありましたよ。それが罪業を軽くしたことになって、こうして思いのほか長生きもできるのだと思いますよ。あなたは私とあの別居時代のにがい経験をしてからはもう物思いも
と院がお言いになると、
「お言葉のように、ほかから見ますれば私としては過分な身の上になっているのですが、心には悲しみばかりがふえてまいります。それを少なくしていただきたいと神仏にはただそれを私は祈っているのですよ」
言いたいことをおさえてこれだけを言った女王に貴女らしい美しさが見えた。
「ほんとうは私はもう長く生きていられない気がしているのでございますよ。この
とも夫人は言った。
「それはもってのほかのことですよ。あなたが尼になってしまったあとの私の人生はどんなにつまらないものになるだろう。平凡に暮らしてはいるようなものの、あなたと
院がこうお言いになるのを、またもいつもの慰め言葉で自分の信仰にはいる道をおはばみになると聞いて、夫人の涙ぐんでいるのを院は
「そうおおぜいではありませんが、私の接触した比較的優秀な女性について言ってみると、女は何よりも性質が善良で落ち着いた考えのある人が一等だと思われるが、それがなかなか望んで見いだせないものなのですよ。大将の母とは少年時代に結婚をして、尊重すべき妻だとは思っていましたが、仲をよくすることができずに、隔てのあるままで終わったのを、今思うと気の毒で堪えられないし、残念なことをしたと後悔もしていながら、また自分だけが悪いのでもなかったと一方では考えられもするのですよ。りっぱな貴婦人であったことは間違いのないことで、なんらの欠点はなかったが、ただあまりに整然とととのったのが堅い感じを受けさせてね。少し賢過ぎるといっていいような人で、話で聞けば頼もしいが、妻にしては面倒な気のするというような女性でしたよ。
なお
「
と院がお言いになると、
「ほかの方は見ないのですからわかりませんけれど、あの方にはおりおりお目にかかっていますが、
夫人にとってはねたましく思われた人であった
「あなたは恨む心もある人だが思いやりもあるから私をそう困らせませんね。たくさんな女の中であなたの
微笑して院はこうお言いになる。
夕方になってから、
「宮がよくお
と言って、院は寝殿へお出かけになった。自分があるために苦しんでいる人がほかにあることなどは念頭になくて、お若々しく宮は琴の
「もう琴は休ませておやりなさい。それに先生をよく歓待なさらなければならないでしょう。苦しい骨折りのかいがあって安心してよいできでしたよ」
と院はお言いになって、楽器は押しやって寝ておしまいになった。