源氏物語
若菜(上)
紫式部
與謝野晶子訳
たちまちに知らぬ花さくおぼつかな天
よりこしをうたがはねども (晶子)
あの六条院の行幸のあった直後から朱雀院の帝は御病気になっておいでになった。平生から御病身な方ではあったが、今度の病におなりになってからは非常に心細く前途を思召すのであった。
「私はもうずっと以前から信仰生活にはいりたかったのだが、太后がおいでになる間は自身の感情のおもむくままなことができないで今日に及んだのだが、これも仏の御催促なのか、もう余命のいくばくもないことばかりが思われてならない」
などと仰せになって、御出家をあそばされる場合の用意をしておいでになった。皇子は東宮のほかに女宮様がただけが四人おいでになった。その中で藤壺の女御と以前言われていたのは三代前の帝の皇女で源姓を得た人であるが、院がまだ東宮でいらせられた時代から侍していて、后の位にも上ってよい人であったが、たいした後援をする人たちもなく、母方といっても無勢力で、更衣から生まれた人だったから、競争のはげしい後宮の生活もこの人には苦しそうであって、一方では皇太后が尚侍をお入れになって、第一人者の位置をそれ以外の人に与えまいという強い援助をなされたのであったから、帝も御心の中では愍然に思召しながら后に擬してお考えになることもなく、しかもお若くて御退位をあそばされたあとでは、藤壺の女御にもう光明の夢を作らせる日もなくて、女御は悲観をしたままで病気になり薨去したが、その人のお生みした女三の宮を御子の中のだれよりも院はお愛しになった。このころは十三、四でいらせられる。世の中を捨てて山寺へはいったあとに、残された内親王はだれをたよりに暮らすかと思召されることが院の第一の御苦痛であった。西山に御堂の御建築ができて、お移りになる用意をあそばしながらも、一方では女三の宮の裳着の挙式の仕度をさせておいでになった。貴重な多くの御財産、美術の価値のあるお品々などはもとより、楽器や遊戯の具なども名品に近いような物は皆この宮へお譲りになって、その他の御財産、お道具類を他の宮がたへ御分配あそばされた。
東宮は院の重い御病気と、御出家の御用意のあることをお聞きになって、お見舞いの行啓をあそばされた。母君の女御もお付き添いして行った。殊寵があったわけではないが、東宮の御母となる宿縁のあった人を御尊重あそばされて、院はこの方にもこまやかにお話をあそばされた。東宮にも帝王とおなりになる日のお心得事などをお教えあそばされるのであった。御年齢よりも大人びておいでになったし、御後援をする人が母方のそばにも多くある方であったから、院は御安心をしておいでになるのである。
「私はもうこの世に遺憾だと心に残るようなこともない。ただ内親王たちが幾人もいることで将来どうなるかと案ぜられることは、今の場合だけでなくこの世を離れる際にも絆になるであろうと思われる。今まで一般の世の中に見ていても、女というものは、その人の意志でもなしに、ほかから働きかける者のために悪名も立てられ、恥辱も受けるような運命になっていくのがかわいそうだ。どの姉妹にもあなたの御代が来た時にはあたたかい庇護を加えてやってもらいたい。その中でも後見をする母などのついている者は託して行く所があるような気もしてまずいいが、女三の宮は年のゆかないのに母のない内親王なのだから、私だけをたよりにして育ってきたことを思うと、私が寺へはいったあとではどんな心細い身の上になることかと気がかりでならない」
と、涙をお拭いになりながら東宮へ後事をお頼みになるのであった。母君の女御にも信じ切ったようにして院は女三の宮のことを仰せになった。とはいっても昔宮中にあった時代には、内親王の御母の女御は格別な御寵愛を得ていて、この方にとっては強力な競争者だったのであるから、その宮にまで憎悪を持つわけはないが真心からお世話をする気にはなれなかったであろうと想像される。
院は明けても暮れても女三の宮の将来についてばかり御心配をあそばされるせいもあって、年末が近づいてから御容態がいちじるしくお悪くなり、御簾の外へおいでになることもなくなった。これまでも妖気がもとでおりおりお煩いになることはあっても、こんなに続いて永く御容態のすぐれぬようなことはなかったのであるから、御自身では御命数の尽きる世が来たというように解釈をあそばすのであった。御退位になってからも御在位時代に恩顧を受けた人たちは、今も優しく寛容な御性質をお慕い申し上げて、屈託なことのある時の慰安を賜わる所のようにして参候する慣いになっていて、その人たちは院の御悩の重いのを皆心から惜しみ悲しんでいた。六条院からもお見舞いの使いが常に来た。そのうち御自身でもおいでになりたいという御通知のあった時、院は非常にお喜びになった。六条院の御子の源中納言が参院した時に、御病室の御簾の中へお招きになり、朱雀院はいろいろなお話をあそばされた。
「お崩れになった陛下が御終焉の前に私へいろいろな御遺言をなされたのだが、その中で特に六条院と今の陛下のことについては熱心に仰せられて私へお託しになったのだが、帝王というものになっては、自分の意志を単純に実行へ移すことのできない点があってね。個人としての愛は少しも変わらなかったが、しかも私の過失によって、あの方にとって私が恨めしかっただろうと思うこともしたのに、今日までそれに対する復讐的なことは何の端にもお見せにならない。どんな賢人でも自身の問題になると恨むことも憎むことも凡人どおりにすることからいろいろな事件の起こるのは歴史の上にあることだからね。機会があれば私への復讐が姿になって現われることであろうと、世人も言うことだったし、私自身も罰を受ける気でいたのだが、あの方に見たのは絶対の愛だけだった。東宮などにも好意をお寄せになったり、また現在では婿舅の関係までも作っていただいているのを私はどんなに感激しているかしれないが、愚かな上に盲目的な親の愛までも暴露してお目にかけることも恥ずかしくて、父である私が東宮に対してかえって冷淡なふうをしている。陛下のことは院の御遺言どおりに万事計らって位をお譲り申し上げたから、この聖天子を国民がいただきうることになり、私の不名誉まで取り返していただいている。これだけは意志を強くして遂行なしえた善事だと信じて満足している。六条院にこの秋の行幸の節にお目にかかった時から、私の心にはしきりに青春時代の兄弟間の愛が再燃してお目にかかりたくてならない。直接お目にかかってお話し申したいこともある。ぜひ御自身でおいでくださるようにあなたからもお勧めしてほしい」
などとしおれたふうで院が仰せられたのである。
「御過失でございましたか、正当な御処置でございましたか、昔のことは今になって御批評の申し上げようもございません。私が大人になりまして一官吏の職を奉じますようになりましてから、私のために院がいろいろの注意を実例によってお与えくださいます際などにも、自分は冤罪によってどんなことが過去にあったというようなことを少しでも仰せになることはございません。一生を通じて陛下の御補佐をすべきであるのを、人生を静かに考えたい欲求から中途で閑散な地位に移らせていただいたために、故院の御遺言もお守りできぬことになり、またあなた様に対しては御在位の節には若輩であり、力もなく、上のかたがたが多くおいでにもなって、御自身の至誠をお尽くしする機会がなかったと申されまして、静かな御環境においでになります今日はせめてたびたび御訪問も申し上げてお話も承りたいのを、さすがに事の大仰になるのに遠慮されて御無沙汰を申し上げているとこんなことをおりおり歎息しておいでになるのでございます」
などと中納言は申し上げた。二十歳に少し足らぬのであるが、すべてが整って美しいこの人に院の御目はとまって、じっと顔をおながめになりながら、どう処置すべきかと御煩悶あそばされる姫宮を、この中納言に嫁がせたならと人知れず思召された。
「太政大臣の家に行っているそうだね。長い間私なども大臣の態度を腑に落ちなく思っていたところ、円満な結果を得てよいことと思っているが、またどうしたことか大臣がうらやまれもしてね」
との院の仰せを不思議に思って中納言は考えてみたが、それは女三の宮のお身の上をとやかくとお案じになって、相当な人があれば結婚をさせて安心して宗教の中へはいりたいという思召しが院におありになるということがほかから耳にもはいっていたことであったから、その問題に触れて仰せられることかと気がついたものの、呑み込み顔なお返辞はできないことであった。ただ、
「つまらない者でございますから、配偶者を得ますこともとかく困難でございまして」
と申し上げるのにとどめた。
のぞき見をしていた若い女房たちが、
「珍しい美男でいらっしゃる。御様子だってねえ、なんというごりっぱさでしょう」
集まってこんなことを言っているのを、聞いていた老けたほうに属する女房らが、
「それでも六条院様のあのお年ごろのおきれいさというものはそんなものではありませんでしたよ。比較には、まあなりませんね、それはね、目もくらんでしまうほどお美しかったものですよ」
と言っても、若い人たちは承知をしない。こうした争いのお耳にはいった院が、
「そのとおりだよ。あの人の美は普通の美の標準にはあてはまらないものだった。近ごろはまたいっそうりっぱになられて光彩そのもののような気がする。正しくしていられれば端麗であるし、打ち解けて冗談でも言われる時には愛嬌があふれて、二人とないなつかしさが出てくる。何事にもどうした前生の大きな報いを得ておられる人かとすぐれた点から想像させられる人だ。宮廷で育って、帝王の愛を一身に集めるような幸福さがあって、まったくだよ。故院は御自身の命にも代えたいほど御大切にあそばしたものだが、それで慢心せず謙遜で、二十歳までには納言にもならなかった。二十一になって参議で大将を兼ねたかと思う。それに比べると中納言の官等の上がり方は早い。子になり孫になりして威福の盛んになる家らしい。実際中納言は秀才であり、確かな教養を受けている点で昔の光源氏にあまり劣るまい。父君の昔に越えて幸福な道を踏んでもそれが不当とも思えない偉さが彼にある」
と御甥をほめておいでになった。可憐な姫宮の美しく無邪気な御様子を御覧になっては、
「十分愛してくれて、足りない所は蔭で教育してくれるような、そして安心して託せるような人を婿に選びたい気がする」
などと仰せられた。
乳母の中でも上級な人たちをお呼び出しになって、裳着の式の用意についていろいろお命じになることのあったついでに、院は、
「六条院が式部卿の宮の女王を育て上げられたようにして、この宮の世話をする男はないのだろうか。普通人の中に私が選び出すような人格者はまずないらしい。宮中には中宮がおいでになる。その下の女御たちもよい後援者のついている人ばかりだからね。たいした後ろだてがなくて後宮の生活をするのは苦労の多いことに違いない。今日の権中納言が独身でいたころに話をしてみるのだった。若いがりっぱな秀才で将来の頼もしい人らしいのに」
こんなこともお言いになった。
「中納言は初めからまじめ一方な方でございますから、今までも初恋のあの奥様のことばかりを思いつめて、失恋時代にもほかの話に耳をかさなかった人でございました。そのお姫様とごいっしょにおなりになったただ今では、第二の結婚のお話があの方を動かしうるものでもございますまい。私どもはかえって六条院様にその可能性がおありになるように存じ上げます。恋愛好きで女性に好奇心をお持ちになることは今も昔のままのようだと申すことでございます。その中でも最高の貴女に趣味をお持ちあそばして、前斎院様などを今になっても思っておいでになるそうでございます」
と女宮の乳母の一人が申し上げた。
「その今でも恋愛好きである点はありがたくないことだね」
院はこう仰せられたが、乳母が言うように六条院には多くの夫人や愛人があって、唯一の妻と認めさせることはできないでも、やはりその人を親代わりの良人に選ぶのが最善のことであるかもしれぬというお考えを院はあそばしたようである。
「おまえの言うことはおもしろいよ。よい生き方をさせたいと思う女の子があって、配偶を求めるなら、あの院に愛されることを願うのがほんとうのようだ。人生は短いのだから、生きがいのあることをだれも願うべきだよ。私が女であれば兄弟であっても兄弟以上の接近もすることだろう。真実若い時に私はそう思ったのだ。そうなのだから女が誘惑にかかるのは道理で、また自然なことなのだよ」
院は御心の中に尚侍の事件を思い出しておいでになった。
この中の最も重立った一人の乳母の兄で、左中弁の某は六条院の恩顧を受けて、親しくお出入りしていたが、一方ではこの姫宮を尊敬する伺候者の一人であった。この人の来た時に妹である乳母が朱雀院の御希望を語った。
「この話をあなたから六条院様に機会がありましたら申し上げてみてください。内親王様は一生御独身が原則のようですが、婿君としてどんな場合にもお力の借りられる方をお持ちになるのは、御独身の宮様よりも頼もしく思われます。院のほかに誠意のあるお世話をお受けになる方をお持ちあそばさない宮様ですからね。私がどんなにお愛し申し上げていましても、それは限りのあることしかできないのですもの。それに私一人がお付きしているのでなくておおぜいの人がいるのですから、だれがいつどんな不心得をして失礼な媒介役を勤めるかもしれません。そしてどんな御不幸なことになるかわかりません。院がおいでになりますうちにこの問題が決まりますれば私は安心ができてどんなに楽だろうと思います。尊貴な方でも女の運命は予想することができませんから不安で不安でなりません。幾人もおいでになる姫宮の中で特別に御秘蔵にあそばすことで、また嫉妬をお受けになることにもなりますから、私は気が気でもありません」
「お話はしますがよい結果が得られることかどうか。院は御恋愛の上で飽きやすいとか、気がよく変わるとかいうことはない方で、珍しい篤実性を持っておられます。仮にも愛人になすった人は、お気に入った入らぬにかかわらず皆それ相応に居場所を作っておあげになって、幾人もの御夫人、愛姫というものを持っておいでになるというものの、煎じつめれば愛しておいでになる夫人はお一人だけということになる方がおいでになるのだから、そのために同じ院内においでになるというだけで寂しい思いをして暮らしておられる方も多いようですからね。もし御縁があって姫宮があちらへお移りになった場合には、紫の女王様がどんなにすぐれた奥様でも、これにお勝ちになることは不可能でしょうとは思いますが、あるいは必ずしもそういかない場合も想像されます。しかしまた院が、自分はすべての幸福に恵まれているが、熱愛では人の批難を受けもしているし、私自身にも不満足を感じる点もあると何かの場合にお洩らしになるが、私らとしてもそう思われる節がないでもない。夫人がたといっても今までの方はただの女性で、内親王がたが一人も混じっておいでになりませんからね。私らとしては院の御身分として姫宮様級の御夫人があってしかるべきだと思われますからね。今度のことが実現されたらどんなにすばらしい御夫妻だろう」
と左中弁は言うのであった。乳母は何かのことを朱雀院へ申し上げたついでに、自分が試みに前日兄の左中弁へした話を申し上げて、
「兄が申しますのには院は必ず御承諾あそばされることと思う。六条院は年来の御希望がかなうことと思召すに違いない御縁談であるから、こちらのお許しさえあればお伝えいたしましょうと申しました。どういたしたらよろしゅうございましょう。御愛人にはそれぞれの御身分に応じた御待遇をあそばしまして、思いやりの深いお方様と承りますけれど、普通の女の方でもほかに愛妻のある方と結婚をすることを幸福とはいたさないのでございますから、御不快な思いをあそばすことがないとも思われません。姫宮様をいただきたいと望む人はほかにもたくさんあるのでございますから、よくお考えあそばしましてお決めなさいますのがよろしゅうございましょう。宮様は最も尊貴な御身分でいらっしゃいますが、ただ今の世の中ではりりしく独身生活をりっぱにしていく婦人がたもありますのに、三の宮様はどうもその点で御安心申し上げられない強さが欠けておいであそばすのですから、私たち侍女どもは一所懸命の御奉仕をいたしましても、それはたいした宮様のお力になることでもございませんから、世間の女の例によって、変則な独身でお立ちになろうとあそばさないで、御結婚をあそばすほうが御安心のおできになることと存じます。特別な御後見をなさいます方のないのはお心細いことでないかと存じ上げます」
と、自身の意見も述べた。
「私も宮のことをいろいろと考えて、内親王は神聖なものとしておきたくも思うし、また高い身分の者も結婚したがために、内輪のことも世評に上るようになるし、しないでよいはずの煩悶で自身を苦しめることにもなるのだからと否定に傾きもするのだが、また親兄弟にも別れたあとで、女が独身でいては、昔の時代の人は神聖なものは神聖なものとしておいたが、近代の男はそれを無視して強要的な結婚を行なうのに躊躇しない悪徳を平気でするようになったために、いろんな噂の種もまくのだがね。昨日までは尊貴な親の娘として尊敬されていた人が、つまらぬ男にだまされて浮き名を立て、ある者は死んだ親の名誉をそこなうという類の話は幾つもあるから、姫宮であっても女であれば同じことで、宿命などということはことにわからぬものだから、私が配偶者を選ばずに捨てておくことは不安だとも一方では考えられる。良くなっても悪くなっても、それは自発的に決めたことでなくて親や兄が選んだ結婚をしておれば、悪いことがあとにあってもその人の責任にはならないで済むし、恋愛結婚のあとが良くなれば、ああしたことの結果も良くなるものであるとは見えても、その初めに噂の広まったころには、親の同意も得ず、家族も許さないのに恋愛をして良人を持ったということは女の第一の恥と聞こえるからね。それは普通の家の娘の場合でも軽佻に思われることに違いない。また自分は自分の身体の持ち主であるのに、それを暴力で蹂躪された結果、意外な男の妻になるようなことも軽率で、その女を侮蔑したくなるが、姫宮も元来弱い、隙の見える性質ではないかと私は心配しているのだから、侍女どもが勝手なことを宮に押しつけるようなことをさせてはならないよ。そんな噂が世間へ聞こえては恥ずかしいからね」
などとお別れになったあとのことまでもお案じになって仰せられることで、乳母たち、女房たちは責任の重さを苦労に思った。
「もう少し大人になられるまで私がついていたいと、今まで念じ続けてきたものだが、このごろの健康状態でそうしていては、信仰生活にはいることもできずに死んでしまうのではないかという気がされるので、やむをえず出家を断行することにした。六条院に託しておくのが、なんといってもいちばん安心のできることだと思う。幾人も侍している夫人はあってもそれをいちいち念頭に置いてゆかねばならぬことでもなし、ただ主観的にこちらさえ寛大な心を持って臨めばよいことなのだ。はなやかな時代も過ぎて平淡な心境におられるあの院に三の宮の良人となっていただくことは最も安心なことだと私は認めている。そのほかに適当な候補者はないよ。兵部卿の宮は風采も人物もひととおりはりっぱな人だがね、それに私としては兄弟のことだから他人のようにひどい批評はできないものの、とにかくあの人はあまりに柔弱で、芸術家に傾き過ぎて、世間の信望が少し薄いようだ。そんなふうな人は良人として頼もしくは思われない。また大納言が臣礼をもって奉仕しようというのは親切な男というべきだが、さてそれに許してやる気にはちょっとなれない。やはり普通の男の妻には与えにくい気がする。昔の時代にも帝王の婿にはある一事の傑出した人物が選ばれたようだ。ただ都合のよいというようなことで人選をするのは恥ずかしいことだ。右衛門督がやはりその希望を持っているということを尚侍が言っていたが、あれだけはすぐれた人物だから、官位がもう少し進んでいたら私も大いに考慮するが、まだ今のところでは地位が不十分だ。理想が高くてだれとも結婚をせずにまだ独身でいて思い上がった精神が実によい。学問も相当なものだし、廟堂に立って仕事のできる点で将来も有望だが、私には愛女の婿はそれでもないという心がある。相当に濃厚にある」
こんなふうに仰せられて院はお心を悩ませておいでになった。多い候補者の中の婿選びを困難に思召す女三の宮以外の姉宮がたに求婚をする人はさてないのである。院がどんなにその一方をお愛しになって、よい配偶をお決めになることに専心しておいでになるかということが、院内から自然に外へ聞こえ、自身を候補に擬しているものが多いのである。太政大臣も長男の右衛門督がまだ独身でいて、妻は内親王でなければ結婚はせぬと思うふうであるから、御降嫁が決定してだれもがお許しを願って出た時に、院の御婿に長男が選ばれたなら、どんなに自身のためにも光栄であるかしれないと考え、院の御寵姫の尚侍の所へは、その人の姉である夫人から言わせて運動もし、一方では直接お話も申し上げて懇請もしていた。兵部卿の宮は左大将の夫人に失恋をあそばされたのであるから、その夫婦に対してもりっぱでない結婚はできないようにお思いになって、夫人を選んでおいでになる場合であったから、お心の動かないわけはない。非常に熱心な求婚者で宮はおありになった。藤大納言は長い間院の別当をしていて、親しく奉仕して来た人であったから、院が御寺へおはいりになれば有力な保護者を失いたてまつることになるのを、内親王と結婚をして今後も地位の保証を得たいという功利的な考えからしきりにお許しを乞うているのであった。源中納言も院の御婿の候補者が続出するのを見ては、この人には間接でなく、あれほどにも明瞭に御意のあるところをお見せになったのであるから、中間によい人を得て姫宮をお望み申し上げた場合には冷淡な態度を院はおとりになるまいという自信もあって、心がときめきもするのであるが、自身を信頼している妻を見ては、過ぎ去ったあの苦しい境地に置かれて、もう絶縁をしてもよかった時代にさえなお自分はこの人以外の女を対象として考えようともせず通して来て、二度目の結婚を今さらすればにわかに妻は物思いをすることになろうし、一方が尊貴な人であれば自分の行動は束縛されて、思っていてもこちらを同じに扱うことができずに、左にも右にも不平があれば自分は苦しいことであろうという気になって、元来が多情な人ではないのであるから、動く心をしいておさえて何とも表面へは出さないのであるが、さすがに姫宮の婚約が他人と成り立つことは願われないで、この人のためには一つの心を離れぬ問題にはなった。東宮もこの婿選びのことをお聞きになって、
「目前のことよりも、そうしたことは後世への手本にもなることですから、よくお考えになった上で人を選定あそばされるがよろしく思われます。どんなにりっぱな人物でも普通人は普通人なのですから、結局は六条院へお託しになるのが最善のことと考えます」
とこれは表だった使いで進言されたのではないが、ある人をもって申された。
「もっともな意見だ。非常によい忠告だ」
院はこうお言いになって、いよいよその心におなりになり、まず三の宮のお乳母の兄である左中弁から六条院へあらましの話をおさせになった。女三の宮の結婚問題で院が御心痛をしておいでになることは以前から聞いておいでになったから、
「御同情する。お気の毒に存じ上げている。しかし院が御生命の不安をお感じになったとすれば、私だって同じことなのだからね。どれだけあとへお残りする自信をもって御後事がお引き受けできると思うかね。御兄が先で、弟があとというそれも決まっていもせぬことを仮にそうとして私が何年かでも生き残っている間は、どの宮だって血縁のある方なのだから私はできるだけの御保護はするつもりなのに、しかも特別お心がかりに思召す方にはまた特別のお世話もするが、しかしそれだって無常の人生なのだから、自分の生命が受け合われない」
とお言いになって、また、
「まして私の妻にしておくことはどんなによくないことかしれない。私が院に続いて亡くなる時に、どんなにまたそれが私の気がかりになることか。私だけのことを考えても執着の残ることで、なすべきことでないと思われる。私の子の中納言などは年も若くて軽い身分であっても、将来のある人物だからね。国家の柱石となる可能性を持っているのだから、中納言などへ御降嫁になってもそれが調和のとれないこととは思われない。しかしあまりにまじめ過ぎる男で、一人の妻と円満に家庭を持っているということで院は御遠慮になるだろうか」
こうもお言いになって、御自身の結婚問題としてお取り上げにならないのを弁は見て、朱雀院のほうでは堅い御決意で申し入れをさせておいでになるのであるがと残念にも思い、朱雀院をお気の毒にも思って、あちらの院がこのことの成り立つのを熱望しておいでになる事情をくわしく申し上げると、さすがに院は微笑をされて、
「非常な御愛子なのだろうから、いろいろと将来を御心配になってのお考えだろう。宮中へお上げになればいいではないか。りっぱな後宮のかたがたがすでにおられるからといって、望みのないもののように思われるのは誤りだよ。故院の時に皇太后が東宮時代からの最初の女御で、たいした勢力を持っておいでになったが、それがずっとのちにお上がりになった入道の宮様にその当時はけおとされておしまいになった例もあるのだからね。その宮の母君の女御は入道の宮のお妹さんだった。御容貌なども入道の宮に続いてお美しいという評判のあった方だから、御両親のどちらに似てもこの宮は平凡な美人ではおありになるまい」
などと言っておいでになった。好奇心は持っておいでになるらしいのである。
歳暮に近くなった。朱雀院では院の御病気がそのまま続いてお悪いために、姫宮の裳着の式をお急ぎになり、準備をいろいろとさせておいでになったが、過去にも未来にもないような華美なお儀式になる模様で、だれもだれも騒ぎ立っていた。式場は院の栢殿の西向きのお座敷で御帳、几帳その他に用いられた物も日本の織物はいっさいお使いにならず唐の后の居室の飾りを模して、派手で、りっぱで、輝くようにでき上がっていた。御腰結いの役を太政大臣へ前から依頼しておありになったが、もったいぶったこの人は気は進まないままで、院のお言葉には昔からそむくことのなかったほど好意をお示しする用意は常に持って、御辞退ができずに参列したのであった。そのほかの左右二大臣、高官らも万障を排し病気もしいて忍ぶまでにして座に加わったものである。親王様はお八方来ておいでになった。いうまでもなく殿上人の数は多かった。宮中の奉仕をする者も東宮の御殿へお勤めする者も残らず集まったのであって、盛大なお儀式と見えた。やがて出家をあそばされようとする院の最後のお催し事と見ておいでになって、帝も東宮も御同情になり宮中の納殿の支那渡来の物を多く御寄贈になったのであった。六条院からも多くの御贈り物があった。それは来会者へ纏頭に出される衣服類、主賓の大臣への贈り物の品々等である。中宮からも姫宮のお装束、櫛の箱などを特に華麗に調製おさせになって贈られた。院が昔このお后の入内の時お贈りになった髪上げの用具に新しく加工され、しかももとの形を失わせずに見せたものが添えてあった。中宮権亮は院の殿上へも出仕する人であったから、それを使いにあそばして、姫宮のほうへ持参するように命ぜられたのであるが、次のようなお歌が中にあった。
さしながら昔を今につたふれば玉の小櫛ぞ神さびにける
これを御覧になった院は身にしむ思いをあそばされたはずである。縁起が悪くもないであろうと姫宮へお譲りになった髪の具は珍重すべきものであると思召されて、青春の日の御思い出にはお触れにならず、お悦びの意味だけをお返事にあそばされて、
さしつぎに見るものにもが万代をつげの小櫛も神さぶるまで
とお書きになった。
御病気は決して御軽快になっていなかったのを、無理あそばして御挙行になった姫宮のお裳着の式から三日目に院は御髪をお下ろしになったのであった。普通の家でも主人がいよいよ出家をするという時の家族の悲しみは大きなものであるのに、院の御ためには悲しみ歎く多くの後宮の人があった。尚侍はじっとおそばを離れずに歎きに沈んでいるのを、院はなだめかねておいでになった。
「子に対する愛は限度のあるものだが、あなたのこんなに悲しむのを見ては私はもう堪えられなく苦しい心になる」
と仰せになって、御心は冷静でありえなくおなりになるのであろうが、じっと堪えて脇息によりかかっておいでになった。延暦寺の座主のほかに戒師を勤める僧が三人参っていて、法服に召し替えられる時、この世と絶縁をあそばされる儀式の時、それは皆悲しいきわみのことであった。すでに恩愛の感情から超越している僧たちでさえとどめがたい涙が流れたのであるから、まして姫宮たち、女御、更衣、その他院内のあらゆる男女は上から下まで嗚咽の声をたてないでいられるものはない、こうした人間の声は聞いていずに、出家をすればすぐに寺へお移りになるはずの、以前の御計画をお変えになったことを院は残念に思召して、皆女三の宮へ引かれる心がこうさせたのであるとかたわらの者へ仰せられた。宮中をはじめとしてお見舞いの使いの多く参ったことは言うまでもない。
六条院は朱雀院の御病気が少しおよろしい報せをお得になって御自身で訪問あそばされた。宮廷から封地をはじめとして太上天皇と少しも変わりのない御待遇は受けておいでになるのであるが、正式の太上天皇として六条院は少しもおふるまいにならないのである。世人のささげている尊敬の意も信頼の心も並み並みではないのであるが、外出の儀式なども簡単にあそばして、たいそうでない車に召され、お供の高官などは車で従って参った。朱雀院法皇はこの御訪問を非常にお喜びになって、御病苦も忍ぶようにあそばされて御面会になった。形式にはかかわらずに御病室へ六条院の今一つの座をお設けになって招ぜられたのである。御髪をお剃り捨てになった御兄の院を御覧になった時、すべての世界が暗くなったように思召されて、悲歎のとめようもない。ためらうことなくすぐにお言葉が出た。
「故院がお崩れになりましたころから、人生の無常が深く私にも思われまして、出家の願いを起こしながらも心弱く何かのことに次々引きとめられておりまして、ついにあなた様が先にこの姿をあそばすまでになってしまいました。自分はなんというふがいなさであろうと恥ずかしくてなりません。一身だけでは何でもなく出離の決心はつくのでございますが、周囲を顧慮いたします点で実行はなかなかできないことでございます」
と、お言いになって、慰めえないお悲しみを覚えておいでになるふうであった。朱雀院も御病気であって心細いお気持ちもあそばされる時であったから、冷静なふうなどはお作りになることができずにしおしおとした御様子をお見せになり、昔の話、今の話を弱々しい声であそばすのであったが、
「今日か、明日かと思われるような重態でいて、しかも生き続けていることに油断をして、希望の出家も遂げないで亡くなるようなことがあってはと奮発をして実行したのですよ。こうなっても生命がなければしたい仏勤めもできないでしょうが、まず仮にも一つの線を出ておいて、はげしいお勤めはできないでも念仏だけでもしておきたいと思います。私のような者が今日生きているということはこの志だけは遂げたいという望みに燃えていたのを仏が憐んでくだすったのだと自分でもわかっているのに、まだお勤めらしいこともしていないのを仏に相済まなく思います」
御出家についての感想をこうお述べあそばしたのに続いて、
「女の子を幾人も残して行くことが気がかりです。その中で母も添っていない子で、だれに託しておけばよいかわからぬような子のために最も私は苦悶しています」
と、仰せになった。正面からその問題をお出しにもならない御様子をお気の毒に六条院は思召された。お心の中でもその宮についていささかの好奇心も動いているのであるから、冷ややかにこのお話を聞き流しておしまいになることができないのであった。