源氏物語
梅が枝
紫式部
與謝野晶子訳
天地に春新しく来たりけり光源氏の
みむすめのため (晶子)
源氏が十一歳の姫君の裳着の式をあげるために設けていたことは並み並みの仕度でなかった。東宮も同じ二月に御元服があることになっていたが、姫君の東宮へはいることもまた続いて行なわれて行くことらしい。一月の末のことで、公私とも閑暇な季節に、源氏は薫香の調合を思い立った。大弐から贈られてあった原料の香木類を出させてみたが、これよりも以前に渡って来た物のほうがあるいはよいかもしれぬという疑問が生じて、二条の院の倉をあけさせて、支那から来た物を皆六条院へ持って来させたのであったが、源氏はそれらと新しい物とを比較してみた。
「織物などもやはり古い物のほうに芸術的なものが多い」
といって、式場用の物の覆、敷き物、褥などの端を付けさせるものなどに、故院の御代の初めに朝鮮人が献げた綾とか、緋金錦とかいう織物で、近代の物よりもすぐれた味わいを持った切れ地のそれぞれの使い場所を決めたりした。今度大弐のほうから来た綾や薄物は他へ分けて贈った。香の原料に昔のと今のとを両方取り混ぜて六条院内の夫人たちと、源氏の尊敬する女友だちに送って、二種類ずつの薫香を作られたいと告げた。裳着の式日の贈り物、高官たちへの纏頭の衣服類の製作を手分けして各夫人の所でしているかたわらで、またそれぞれ撰び出した香の原料の鉄臼でひかれる音も立って忙しい気のされるころであった。源氏は南の町の寝殿へ、夫人の所から離れてこもりながら、どうして習得したのか承和の帝の秘法といわれる二つの合わせ方で熱心に薫香を作っていた。夫人は東の対のうちの離れへ人を避ける設備をして、そこで八条の式部卿の宮の秘伝の法で香を作っていた。こうして夫婦の中にも、秘密をうかがわれまいと苦心する香の優劣を勝負にしようと言っていた。姫君の親である人たちらしくない競争である。どの夫人の所にもこの調合の室に侍している女房は選ばれた少数の者であった。式用の小道具を精巧をきわめて製作させた中でも、特に香合の箱の形、壺、火入れの作り方に源氏は意匠を凝らさせていたが、その壺へ諸所でできた中のすぐれた薫香を、試みた上で入れようと思っているのであった。
二月の十日であった。雨が少し降って、前の庭の紅梅が色も香もすぐれた名木ぶりを発揮している時に、兵部卿の宮が訪問しておいでになった。裳着の式が今日明日のことになっているために、心づかいをしている源氏に見舞いをお述べになった。昔からことに仲のよい御兄弟であったから、いろいろな御相談をしながら花を愛していた時に、前斎院からといって、半分ほど花の散った梅の枝に付けた手紙がこの席へ持って来られた。宮は源氏と前斎院との間に以前あった噂も知っておいでになったので、
「どんなおたよりがあちらから来たのでしょう」
とお言いになって、好奇心を起こしておいでになるふうの見えるのを、源氏はただ、
「失礼なお願いを私がしましたのを、すぐにその香を作ってくだすったのです」
こう言って、お手紙は隠してしまった。沈の木の箱に瑠璃の脚付きの鉢を二つ置いて、薫香はやや大きく粒に丸めて入れてあった。贈り物としての飾りは紺瑠璃のほうには五葉の枝、白い瑠璃のほうには梅の花を添えて、結んである糸も皆優美であった。
「艶にできていますね」
と宮は言って、ながめておいでになったが、
花の香は散りにし袖にとまらねどうつらん袖に浅くしまめや
という歌が小さく書かれてあるのにお目がついて、わざとらしくお読み上げになった。宰相の中将が来た使いを捜させ饗応した。紅梅襲の支那の切れ地でできた細長を添えた女の装束が纏頭に授けられた。返事も紅梅の色の紙に書いて、前の庭の紅梅を切って枝に付けた。
「何だか内容の知りたくなるお手紙ですが、なぜそんなに秘密になさるのだろう」
と言って、宮は見たがっておいでになる。
「何があるものですか、そんなふうによけいな想像をなさるから困るのです」
と言って、斎院へ今書いた歌をまた紙にしたためて宮へお見せした。
花の枝にいとど心をしむるかな人のとがむる香をばつつめど
というのであるらしい。
「少し物好きなようですが、一人娘の成年式だからやむをえないと自分では定めまして、こうした騒ぎをしているのですが、ほめたことではありませんから、ほかの方を頼むことはやめまして、中宮を御所から退出していただいて腰結いをお願いしようと思っています。一家の方になっていらっしゃっても、晴れがましい気のする人格を持っておられますから、並み並みの儀式にしておいてはもったいない気がするのです」
などと源氏は言っていた。
「そうですね。あやかる人は選ばねばなりませんね。それにはこの上もない方ですよ」
と宮は源氏の計らいの当を得ていることをお言いになった。前斎院から香の届けられたことと、宮のおいでになったのを機会にして、夫人らの調製した薫香も取り寄せる使いが出された。
「湿りけのある今日の空気が香の試験に適していると思いますから」
と言いやられたのである。夫人たちからは、いろいろに作られた香が、いろいろに飾られて来た。
「これを審判してください。あなたのほかに頼む人はない」
こう源氏は言って、火入れなどを取り寄せて香をたき試みた。
「知る人(君ならでたれにか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る)でもないのですがね」
と宮は謙遜しておいでになったが、においの繊細なよさ悪さを嗅ぎ分けて、微瑕も許さないふうに詮索され、等級をおつけになろうとするのであった。源氏の二種の香はこの時になってはじめて取り寄せられた。右近衛府の溝川のあたりにうずめるということに代えて、西の渡殿の下から流れて出る園の川の汀にうずめてあったのを、惟光宰相の子の兵衛尉が掘って持って来たのである。それを宰相中将が受け取って座へ運んで来た。
「苦しい審判者になったものですよ。第一けむい」
と宮は苦しそうに言っておいでになった。同じ法が広く伝えられていても、個人個人の趣味がそれに加わってでき上がった薫香のよさ悪さを比較して嗅ぐことは興味の多いものであった。どれが第一の物とも決められない中にも斎院のお作りになった黒方香は心憎い静かな趣がすぐれていた。侍従香では源氏の製作がすぐれて艶で優美であると宮はお言いになった。紫の女王のは三種あった中で、梅花香ははなやかで若々しく、その上珍しく冴えた気の添っているものであった。
「このごろの微風に焚き混ぜる物としてはこれに越したにおいはないでしょう」
と宮はおほめになる。花散里夫人は皆の競争している中へはいることなどは無理であると、こんなことにまで遺憾なく内気さを見せて、荷葉香を一種だけ作って来た。変わった気分のするなつかしいにおいがそれからは嗅がれた。冬の夫人である明石の君は、四季を代表する香は決まったものになっているのであるから、冬だけを卑下させておくのもよろしくないと思って、薫衣香の製法の中にも、すぐれた物とされている以前の朱雀院の法を原則にして公忠朝臣が精製したといわれる百歩の処方などを参考として作った物は、製作に払われた苦心の効果の十分に表われた、優美な香を豊かに持たせたものであると、どれにも同情のある批評を宮があそばされるのを、
「八方美人の審判者だ」
と言って源氏は笑っていた。月が出てきたので酒が座に運ばれて、宮と源氏は昔の話を始めておいでになった。うるんだ月の光の艶な夜に、雨ののちの風が少し吹いて、花の香があたりを囲んでいた。だれも皆艶な気持ちに酔っていった。侍所のほうでは明日ある音楽の合奏のために、下ならしに楽器を出して、たくさん集まっていた殿上役人などが鳴らしてみたり、おもしろい笛の音をたてたりしていた。内大臣の子の頭中将や弁の少将なども伺候の挨拶だけをしに来て帰ろうとしたのを、源氏はとめて、そして楽器を侍にこちらへ運ばせた。頭中将は和琴の役を命ぜられて、はなやかに掻き立てて合奏はおもしろいものになった。源宰相中将は横笛を受け持った。春の調子が空までも通るほどに吹き立てた。弁の少将が拍子を取って、美しい声で梅が枝を歌い出した。この人は子供の時韻塞に父と来て高砂を歌った公子である。宮も源氏も時々歌を助けて、たいそうな音楽ではないが、おもしろい音楽の夜ではあった。酒杯がさされた時に、宮は、
「うぐひすの声にやいとどあくがれん心しめつる花のあたりに
千年もいたくなってます」
と源氏へお言いになった。
色も香もうつるばかりにこの春は花咲く宿をかれずもあらなん
と源氏は歌ってから、杯を頭の中将へさした。中将は杯を受けたあとで宰相の中将へ杯をまわした。
うぐひすのねぐらの枝も靡くまでなほ吹き通せ夜半の笛竹
と頭の中将は歌ったのである。
「心ありて風のよぐめる花の木にとりあへぬまで吹きやよるべき
少しひどいでしょうね」
と宰相中将が言うと皆笑った。弁の少将が、
かすみだに月と花とを隔てずばねぐらの鳥もほころびなまし
と言った。長居のしたくなる所であるとお言いになったとおりに、宮は明け方になってお帰りになるのであった。源氏は贈り物に、自身のために作られてあった直衣一領と、手の触れない薫香二壺を宮のお車へ載せさせた。
花の香をえならぬ袖に移してもことあやまりと妹や咎めん
宮がこうお歌いになったと聞いて、
「何と言いわけをしようと御心配なのだね」
と源氏は笑った。お車はもう走り出そうとしていたのであったが、使いを追いつかせて、
「めづらしとふるさと人も待ちぞ見ん花の錦を着て帰る君
この上ないことだと御満足なさるでしょう」
と源氏がお伝えさせると宮は苦笑をあそばされた。頭中将や弁の少将などにも目だつほどの纏頭でなく、細長とか小袿とかを源氏は贈ったのであった。
裳着の式を行なう西の町へ源氏夫婦と姫君は午後八時に行った。中宮のおいでになる御殿の西の離れに式の設けがされてあって、姫君のお髪上げ役の(正装の場合には前髪を少しくくるのである)内侍などもこちらへ来たのである。紫夫人もこのついでに中宮へお目にかかった。中宮付き、夫人付き、姫君付きの盛装した女房のすわっているのが数も知れぬほどに見えた。裳を付ける式は十二時に始まったのである。ほのかな灯の光で御覧になったのであるが、姫君を美しく中宮は思召した。
「お愛しくださいますことを頼みにいたしまして、失礼な姿も御前へ出させましたのです。尊貴なあなた様がかようなお世話をくださいますことなどは例もないことであろうと感激に堪えません」
と源氏は申し上げていた。
「経験の少ない私が何もわからずにいたしておりますことに、そんな御挨拶をしてくださいましてはかえって困ります」
と御謙遜して仰せられる中宮の御様子は若々しくて愛嬌に富んでおいでになるのを見て、この美しい人たちは皆自身の一家族であるという幸福を源氏は感じた。明石が蔭にいてこの晴れの式も見ることのできないことを悲しむふうであったのを哀れに思って、こちらへ呼ぼうかとも源氏は思ったのであるが、やはり外聞をはばかって実行はしなかった。こうした式についての記事は名文で書かれていてもうるさいものであるのを、自分などがだらしなく書いていっては、かえってきれいなりっぱなことをこわしてしまう結果になるのを恐れて、細かにはしるさない。
東宮の御元服は二十幾日にあった。もうりっぱな大人のようでいらせられたから、だれも令嬢たちを後宮へ入れたい志望を持ったが、源氏がある自信を持って、姫君を東宮へ奉ろうとしているのを知っては、強大な競争者のあるこの宮仕えはかえって娘を不幸にすることではなかろうかと、左大臣、左大将などもまた躊躇していることを源氏は聞いて、
「それではお上へ済まないことになる。宮仕えは多数のうちで、ただ少しの御愛寵の差を競うのに意義があるのだ。貴族がたのりっぱな姫君がお出にならないではこちらも張り合いのないことになる」
と言って、姫君の宮仕えの時期を延ばした。たとえ娘を出すにしてもあとのことにしようとしていた人たちはそれを聞いて、最初に左大臣が三女を東宮へ入れた。麗景殿と呼ばれることになった。