源氏物語
藤袴
紫式部
與謝野晶子訳
むらさきのふぢばかまをば見よといふ
二人泣きたきここち覚えて (晶子)
尚侍になって御所へお勤めするようにと、源氏はもとより実父の内大臣のほうからも勧めてくることで玉鬘は煩悶をしていた。それがいいことなのであろうか、養父のはずである源氏さえも絶対の信頼はできぬ男性の好色癖をややもすれば見せて自分に臨むのであるから、お仕えする君との間に、こちらは受動的にもせよ情人関係ができた時は、中宮も女御も不快に思われるに違いない、そして自分は両家のどちらにも薄弱な根底しかない娘である。中宮や女御における後援は期して得られるものでない上に、自分の幸運げな外見をうらやんで何か悪口をする機会がないかとうかがっている人を多く持っていてはその時の苦しさが想像されると、若いといってももう少女でない玉鬘は思って苦しんでいるのである。そうかといって今のままで境遇を変えずにいることはいやなことではないが、源氏の恋から離れて、世間の臆測したことが真実でなかったと人に知らせる機会というものの得られないのは苦しい。実父も源氏の感情をはばかって、親として乗り出して世話をしてくれるようなことはないと見なければならない。曖昧な立場にいて自身は苦労をし、人からは嫉妬をされなければならない自分であるらしいと玉鬘は歎かれるのであった。実父に引き合わせてからはもう源氏は道徳的にはばからねばならぬことから解放されたように、戯れかかることの多くなったことも玉鬘を憂鬱にした。自分の心持ちをにおわしてだけでも言うことのできる母というものを玉鬘は持っていなかった。東の夫人にせよ、南の夫人にせよ、娘らしく、また母らしくはして交わってくれるが、どうしてそんな貴婦人に内密の相談などが持ちかけられようと思うと、だれよりも哀れなのは自分の身の上であるような気がして、夕方の空の身にしむ色を、縁に近い座敷からながめて物思いをしているのであったが、その様子はきわめて美しかった。淡鈍色の喪服を玉鬘は祖母の宮のために着ていた。そのために顔がいっそうはなやかに引き立って見えるのを、女房たちは楽しんでながめている所へ、源宰相の中将が、これも鈍色の今少し濃い目な直衣を着て、冠を巻纓にしているのが平生よりも艶に思われる姿で訪ねて来た。最初のころから好意を表してくれる人であったから、玉鬘のほうでも親しく取り扱った習慣から、今になっても兄弟ではないというような態度をとることはよろしくないと思って、御簾に几帳を添えただけの隔てで、話は取り次ぎなしでした。今日は源氏の用で来たのである。宮中からあった仰せを源氏は子息によって伝えさせたのである。おおようではあるが要領を得た返辞をする様子に、中将は貴女と話し合う快感が覚えられた。野分の朝にのぞいた顔の美しさの忘られないのを、その人は姉ではないかと恋しくなる心を責めていた中将であったが、そうした障りの除かれた今は恋人としてこの人を中将は考えていた。尚侍の職をお勤めさせになるだけで帝は御満足をあそばすまい、この世で第一の美貌をお持ちになる帝との間に恋愛関係は必ずできてくることであろうと思うと、中将は胸を何かでおさえつけられる気もするのであったが自制していた。
「人に聞かせぬようにと父が申されましたことを申し上げようと思いますが、よろしいのでしょうか」
と意味ありげに言っているのを聞いて、女房たちは少し離れた場所を捜して、几帳の後ろのほうなどへ皆行ってしまった。中将は源氏の言ったのでもない言葉を、真実らしくいろいろと伝えていた。帝が尚侍にお召しになる御真意は別にあるらしいから、きれいに身を護ろうとすれば始終その心得がなくてはならないというような話である。返辞のできることでもなくて、玉鬘がただ吐息をついているのが美しく感ぜられた時に、中将の心にはおさえ切れないものが湧き上がってきた。
「私たちの喪服はこの月で脱ぐはずですが、暦で調べますと月末はいい日でありませんから延びることになりますね。十三日に加茂の河原へ除服の御祓にあなたがおいでになるように父は決めていられるようです。私もごいっしょに参ろうと思っています」
「ごいっしょでは目だつことになるでしょう。だれにもあまり知られないようにして行くほうがいいかと思います」
と玉鬘は言っていた。内大臣の娘として大宮の喪に服したことなどは世間へ知らせぬようにせねばならぬと考えるところにこの人の聡明と源氏への思いやりが現われていた。
「隠したくお思いになることが私には恨めしい気もいたしますよ。悲しい祖母のかたみのような喪服ですから、私は脱いでしまうのも惜しく思われるのです。それにしましてもやはりあなたと私とは一人の方を祖母に持っているのですから不思議な気がいたしますね。喪服をお着になることがありませんでしたら、真実のことを私は知らずじまいになったのかもしれません」
「私などにはましてよくわかりませんが、とにかく喪服を着ております気持ちは身にしむものですね」
こう言う玉鬘の平生よりもしんみりとした調子が中将にうれしかった。この時にと思ったのか、手に持っていた蘭のきれいな花を御簾の下から中へ入れて、
「この花も今の私たちにふさわしい花ですから」
と言って、玉鬘が受け取るまで放さずにいたので、やむをえず手を出して取ろうとする袖を中将は引いた。
「おなじ野の露にやつるる藤袴哀れはかけよかごとばかりも
道のはてなる(東路の道のはてなる常陸帯のかごとばかりも逢はんとぞ思ふ)」
こんなことが言いかけられたのであった。玉鬘にとっては思いがけぬことに当惑を感じながらも、気づかないふうをして、少しずつ身を後ろへ引いて行った。
「たづぬるに遥けき野辺の露ならばうす紫やかごとならまし
従姉ということは事実だからいいでしょう。そのほかのことは何も」
と言うと、中将は少し笑って、
「その事実のほかに考えてくださらなければならないこともおわかりになるはずですがね。常識ではもったいないことだと思っているのですが、この感情はおさえられるものでないのですからお察しください。こんなことを告白してはかえってお憎みを受けることになろうと思って今までは黙っていたのですが、ただ哀れだと思っていただくだけのことで満足したい心にもなっているのです。頭中将の近ごろの様子をご存じですか、あのころは明らかに第三者だと思っていた私が、こんなに恋の苦しみを味わうようになるなどということは冷淡にした時の報いです。今ではあの人が冷静になってしかもつながる縁のあることに満足しているのですから、うらやましくてなりません。かわいそうだとだけでも私をお心にとめておいてください」
まだいろいろに言ったのであるが、中将のために筆者は遠慮しておく。玉鬘に気味悪く思うふうの見えるのを知って、
「私を信じてくださらないのですね。ばかな真似などをする人間でないことはおわかりになっているはずですが」
こう中将は言った。この機会にもう少し告げたい感情もあるのであったが、
「少し気分が悪くなってきましたから」
と言って、玉鬘が向こうへはいってしまったのを見て、深く中将は歎息しながら去った。
よけいな告白をしたと中将は後悔をしたのであったが、この人以上に身に沁んで恋しく思われた紫の女王と、せめてこれほどの接触が許されてほのかな声でも聞きうる機会をどんな時にとらえることができるであろうと、その困難さを思って心を苦しめながら中将は南の町へ来た。源氏はすぐ出て来たので、中将は聞いて来た返事をした。
「御所へ上がるのを、やっとしぶしぶ承諾した形なのだから困る。兵部卿の宮などが求婚者で、深刻な情熱の盛られたお手紙が送られていて、そのほうへ心が惹かれるのではなかろうかと思うと気の毒な気にもなる。しかし大原野の行幸の時にお上を拝見して、お美しいと思った様子だったのだからね。若い女は一目でもお顔を拝見すれば宮仕えのできる者は皆出ないではいられまいと思って、最初に私の計らったことなのだが」
などと源氏は言う。
「それにしましてもあの方はどんなふうになられるのがいちばん適したことでしょう。御所には中宮が特殊な尊貴な存在でいらっしゃいますし、また弘徽殿の女御という寵姫もおありになるのですから、どんなにお気に入りましてもそのお二方並みにはなれないことでしょう。兵部卿の宮は熱烈に御結婚を望んでおいでになるのですから、表面は後宮の人ではありませんでも、尚侍などにお出しになることによって、これまでの親密な御交情がそこなわれはしないかと私は思いますが」
中将は老成な口調で意見を述べた。
「むずかしいことだね。私だけの意志でどう決めることもできない人のことではないか。それだのに右大将なども私を恨みの標的にしているそうだ。一人の求婚者に同情して与えてしまえばほかの人は皆失恋することになるのだから、うかと縁談が決められないのだよ。あの人を生んだ母親が哀れな遺言をしておいたのでね、郊外であの人が心細く暮らしているということを聞いて、内大臣も子と認めようとするふうは見えないと悲観しているようだったから、最初私の子として引き取ることにしたのだよ。私が大事がるのでやっと大臣も価値を認めてきたのだ」
源氏は真実らしくこう言っていた。
「人物は宮の夫人であることに最も適していると思う。近代的で、艶な容姿を持っていて、しかも聡明で、過失などはしそうでない女性だから、いい宮の夫人だと思う。そしてまた尚侍の適任者でもあるのだよ。美貌で、貴女らしい貴女で、職責も十分に果たしうるような人物というお上の御註文どおりなのはあの人だと思う」
とも言った。中将は源氏自身の胸中の秘事も探りたくなった。
「今日まで実父に隠してお手もとへお置きになったことで、いろいろな忖度を世間はしております。内大臣もそんな意味を含んだことを、右大将からあちらへの申し込みに答えて言ったそうです」
と中将が言うと、源氏は笑いながら、
「それは思いやりのありすぎる迷惑な話だね。宮仕えだって何だって内大臣の意志を尊重して、私はできる世話だけをする気なのだがね。女の三従の道は親に従うのがまず第一なのだからね。その美風を破るようなことはとんでもないことだ」
と言った。
「こちらには以前からりっぱな夫人がたがおいでになって、新しくその数へお入れになることができないため、世間体だけを官職におつけになることにして、やはりいつまでも愛人でお置きになることのできるようなお計らいは、賢明な処置だといって、大臣が喜ばれたということを、確かな人から私は聞きました」
中将が真正面からこう言うのを聞いて、源氏は内大臣としてはそうも想像するであろうと気の毒に思った。
「曲がった解釈をされているものだね。それが賢明な人の観察というものかもしれない。もうすぐに事実が万事を明らかにするだろう。しかし、どうなるにしても余りにひどい想像だ」
と源氏は笑っていた。あざやかな弁解をしたつもりであろうが、まだ疑いは十分に残してよいことであると中将は思っていた。源氏も心の中で、こう人の噂する筋書きどおりのあやまった道は踏むまいとみずから警めた。このきれいな気持ちを大臣にも徹底的に知らせたいと源氏は思ったが、玉鬘を官職につけておいて情人関係を永久に失うまいとすることなどを、どうして大臣に観測されたのであろうと薄気味悪くさえなった。