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源氏物語(げんじものがたり)26 常夏

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 9:43:17  点击:  切换到繁體中文

源氏物語

常夏

紫式部

與謝野晶子訳




露置きてくれなゐいとど深けれどおも
ひ悩めるなでしこの花   (晶子)

 炎暑の日に源氏は東の釣殿つりどのへ出て涼んでいた。子息の中将が侍しているほかに、親しい殿上役人も数人席にいた。かつら川のあゆ加茂かも川の石臥いしぶしなどというような魚を見る前で調理させて賞味するのであったが、例のようにまた内大臣の子息たちが中将をたずねて来た。
「寂しく退屈な気がして眠かった時によくおいでになった」
 と源氏は言って酒を勧めた。氷の水、水飯すいはんなどを若い人は皆大騒ぎして食べた。風はよく吹き通すのであるが、晴れた空が西日になるころにはせみの声などからも苦しい熱がかれる気がするほど暑気が堪えがたくなった。
「水の上の価値が少しもわからない暑さだ。私はこんなふうにして失礼する」
 源氏はこう言って身体からだを横たえた。
「こんなころは音楽を聞こうという気にもならないし、さてまた退屈だし、困りますね。お勤めに出る人たちはたまらないでしょうね。帯もひもも解かれないのだからね。私の所だけででも几帳面きちょうめんにせずに気楽なふうになって、世間話でもしたらどうですか。何か珍しいことで睡気ねむけのさめるような話はありませんか。なんだかもう老人としよりになってしまった気がして世間のこともまったく知らずにいますよ」
 などと源氏は言うが、新しい事実として話し出すような問題もなくて、皆かしこまったふうで、涼しい高欄に背を押しつけたまま黙っていた。
「どうしてだれが私に言ったことかも覚えていないのだが、あなたのほうの大臣がこのごろほかでお生まれになったお嬢さんを引き取って大事がっておいでになるということを聞きましたがほんとうですか」
 と源氏はべんの少将に問うた。
「そんなふうに世間でたいそうに申されるようなことでもございません。この春大臣が夢占いをさせましたことがうわさになりまして、それからひょっくりと自分は縁故のある者だと名のって出て来ましたのを、兄の中将が真偽の調査にあたりまして、それから引き取って来たようですが、私は細かいことをよく存じません。結局珍談の材料を世間へ呈供いたしましたことになったのでございます。大臣の尊厳がどれだけそれでそこなわれましたかしれません」
 少将の答えがこうであったから、ほんとうのことだったと源氏は思った。
「たくさんなかりの列から離れた一羽までもしいてお捜しになったのが少し欲深かったのですね。私の所などこそ、子供が少ないのだから、そんな女の子なども見つけたいのだが、私の所では気が進まないのか少しも名のって来てくれる者がない。しかしともかく迷惑なことだっても大臣のお嬢さんには違いないのでしょう。若い時分は無節制に恋愛関係をお作りになったものだからね。底のきれいでない水に映る月は曇らないであろうわけはないのだからね」
 と源氏は微笑しながら言っていた。子息の左中将も真相をくわしく聞いていることであったからこれも笑いをらさないではいられなかった。弁の少将と藤侍従とうのじじゅうはつらそうであった。
「ねえ朝臣あそん、おまえはその落ち葉でも拾ったらいいだろう。不名誉な失恋男になるよりは同じ姉妹きょうだいなのだからそれで満足をすればいいのだよ」
 子息をからかうような調子で父の源氏は言うのであった。内大臣と源氏は大体は仲のよい親友なのであるが、ずっと以前から性格の相違が原因になったわずかな感情の隔たりはあったし、このごろはまた中将を侮蔑ぶべつして失恋の苦しみをさせている大臣の態度に飽き足らないものがあって、源氏は大臣がしゃくにさわる放言をすると間接に聞くように言っているのである。新しい娘を迎えて失望している大臣のうわさを聞いても、源氏は玉鬘たまかずらのことを聞いた時に、その人はきっと大騒ぎをして大事に扱うことであろう、自尊心の強い、対象にする物のさ悪さで態度を鮮明にしないではいられない性質の大臣は、近ごろ引き取った娘に失望を感じている様子は想像ができるし、また突然にこの玉鬘を見せた時のよろこびぶりも思われないでもない、極度の珍重ぶりを見せることであろうなどと源氏は思っていた。夕べに移るころの風が涼しくて、若い公子たちは皆ここを立ち去りがたく思うふうである。
「気楽に涼んで行ったらいいでしょう。私もとうとう青年たちからけむたがられる年になった」
 こう言って、源氏は近い西の対をたずねようとしていたから、公子たちは皆見送りをするためについて行った。日の暮れ時のほの暗い光線の中では、同じような直衣のうし姿のだれがだれであるかもよくわからないのであったが、源氏は玉鬘に、
「少し外のよく見える所まで来てごらんなさい」
 と言って、従えて来た青年たちのいる方をのぞかせた。
「少将や侍従をつれて来ましたよ。ここへは走り寄りたいほどの好奇心を持つ青年たちなのだが、中将がきまじめ過ぎてつれて来ないのですよ。同情のないことですよ。この青年たちはあなたに対して無関心な者が一人もないでしょう。つまらない家の者でも娘でいる間は若い男にとって好奇心の対象になるものだからね。私の家というものを実質以上にだれも買いかぶっているのですからね、しかも若い連中は六条院の夫人たちを恋の対象にして空想に陶酔するようなことはできないことだったのが、あなたという人ができたから皆の注意はあなたに集まることになったのです。そうした求婚者の真実の深さ浅さというようなものを、第三者になって観察するのはおもしろいことだろうと、退屈なあまりに以前からそんなことがあればいいと思っていたのがようやく時期が来たわけです」
 などと源氏はささやいていた。この前の庭には各種類の草花を混ぜて植えるようなことはせずに、美しい色をした撫子なでしこばかりを、唐撫子からなでしこ大和やまと撫子もことに優秀なのを選んで、低く作ったかきに添えて植えてあるのが夕映ゆうばえに光って見えた。公子たちはその前を歩いて、じっと心がかれるようにたたずんだりもしていた。
「りっぱな青年官吏ばかりですよ。様子にもとりなしにも欠点は少ない。今日は見えないが右中将は年かさだけあってまた優雅さが格別ですよ。どうです、あれからのちも手紙を送ってよこしますか。軽蔑けいべつするような態度はとらないようにしなければいけない」
 などとも源氏は言った。すぐれたこの公子たちの中でも源中将は目だってえんな姿に見えた。
「中将をきらうことは内大臣として意を得ないことですよ。御自分が尊貴であればあの子も同じ兄妹きょうだいから生まれた尊貴な血筋というものなのだからね。しかしあまり系統がきちんとしていて王風おおぎみふうの点が気に入らないのですかね」
 と源氏が言った。
「来まさば(おほきみ来ませ婿にせん)というような人もあすこにはあるのではございませんか」
「いや、何も婿に取られたいのではありませんがね。若い二人が作った夢をこわしたままにして幾年も置いておかれるのは残酷だと思うのです。まだ官位が低くて世間体がよろしくないと思われるのだったら、公然のことにはしないで私へお嬢さんを託しておかれるという形式だっていいじゃないのですか。私が責任を持てばいいはずだと思うのだが」
 源氏は歎息たんそくした。自分の実父との間にはこうした感情の疎隔があるのかと玉鬘たまかずらははじめて知った。これが支障になって親にいうる日がまだはるかなことに思わねばならないのであるかと悲しくも思い、苦しくも思った。月がないころであったから燈籠とうろうがともされた。
「灯が近すぎて暑苦しい、これよりはかがりがよい」
 と言って、
「篝を一つこの庭でくように」
 と源氏は命じた。よい和琴わごんがそこに出ているのを見つけて、引き寄せて、鳴らしてみると律の調子に合わせてあった。よい音もする琴であったから少し源氏はいて、
「こんなほうのことには趣味を持っていられないのかと、失礼な推測をしてましたよ。秋の涼しい月夜などに、虫の声に合わせるほどの気持ちでこれの弾かれるのははなやかでいいものです。これはもったいらしく弾く性質の楽器ではないのですが、不思議な楽器で、すべての楽器の基調になる音を持っている物はこれなのですよ。簡単にやまと琴という名をつけられながら無限の深味のあるものなのですね。ほかの楽器の扱いにくい女の人のために作られた物の気がします。おやりになるのならほかの物に合わせて熱心に練習なさい。むずかしいことがないような物で、さてこれに妙技を現わすということはむずかしいといったような楽器です。現在では内大臣が第一の名手です。ただ清掻すががきをされるのにもあらゆる楽器の音を含んだ声が立ちますよ」
 と源氏は言った。玉鬘もそのことはかねてから聞いて知っていた。どうかして父の大臣の爪音つまおとに接したいとは以前から願っていたことで、あこがれていた心が今また大きな衝動を受けたのである。
「こちらにおりまして、音楽のお遊びがございます時などに聞くことができますでしょうか。田舎いなかの人などもこれはよく習っております琴ですから、気楽に稽古けいこができますもののように私は思っていたのでございますがほんとうの上手じょうずな人の弾くのは違っているのでございましょうね」
 玉鬘は熱心なふうに尋ねた。
「そうですよ。あずま琴などとも言ってね、その名前だけでも軽蔑けいべつしてつけられている琴のようですが、宮中の御遊ぎょゆうの時に図書の役人に楽器の搬入を命ぜられるのにも、ほかの国は知りませんがここではまず大和やまと琴が真先まっさきに言われます。つまりあらゆる楽器の親にこれがされているわけです。くことは練習次第で上達しますが、お父さんに同じ音楽的の遺伝のある娘がお習いすることは理想的ですね。私の家などへも何かの場合においでにならないことはありませんが、精いっぱいに弾かれるのを聞くことなどは困難でしょう。名人の芸というものはなかなか容易に全部を見せようとしないものですからね。しかしあなたはいつか聞けますよ」
 こう言いながら源氏は少し弾いた。はなやかな音であった。これ以上な音が父には出るのであろうかと玉鬘たまかずらは不思議な気もしながらますます父にあこがれた。ただ一つの和琴わごんの音だけでも、いつの日に自分は娘のために打ち解けて弾いてくれる父親の爪音にあうことができるのであろうと玉鬘はみずからをあわれんだ。「貫川ぬきがは瀬々せぜのやはらだ」(やはらたまくらやはらかに寝る夜はなくて親さくる妻)となつかしい声で源氏は歌っていたが「親さくる妻」は少し笑いながら歌い終わったあとの清掻すががきが非常におもしろく聞かれた。
「さあ弾いてごらんなさい。芸事は人に恥じていては進歩しないものですよ。『想夫恋そうふれん』だけはきまりが悪いかもしれませんがね。とにかくだれとでもつとめて合わせるのがいいのですよ」
 源氏は玉鬘の弾くことを熱心に勧めるのであったが、九州の田舎で、京の人であることを標榜ひょうぼうしていた王族の端くれのような人から教えられただけの稽古けいこであったから、まちがっていてはと気恥ずかしく思って玉鬘は手を出そうとしないのであった。源氏が弾くのを少し長く聞いていれば得る所があるであろう、少しでも多く弾いてほしいと思う玉鬘であった。いつとなく源氏のほうへ膝行いざり寄っていた。
「不思議な風が出てきて琴の音響ひびきを引き立てている気がします。どうしたのでしょう」
 と首を傾けている玉鬘の様子がの明りに美しく見えた。源氏は笑いながら、
「熱心に聞いていてくれない人には、外から身にしむ風も吹いてくるでしょう」
 と言って、源氏は和琴を押しやってしまった。玉鬘は失望に似たようなものを覚えた。女房たちが近い所に来ているので、例のような戯談じょうだんも源氏は言えなかった。
撫子なでしこを十分に見ないで青年たちは行ってしまいましたね。どうかして大臣にもこの花壇をお見せしたいものですよ。無常の世なのだから、すべきことはすみやかにしなければいけない。昔大臣が話のついでにあなたの話をされたのも今のことのような気もします」
 源氏はその時の大臣の言葉を思い出して語った。玉鬘は悲しい気持ちになっていた。

「なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根かきねを人や尋ねん

 私にはあなたのお母さんのことで、やましい点があって、それでつい報告してあげることが遅れてしまうのです」
 と源氏は言った。玉鬘は泣いて、

山がつのかきほにひし撫子なでしこのもとの根ざしをたれか尋ねん

 とはかないふうに言ってしまう様子が若々しくなつかしいものに思われた。源氏の心はますますこの人へかれるばかりであった。苦しいほどにも恋しくなった。源氏はとうていこの恋心は抑制してしまうことのできるものでないと知った。
 玉鬘たまかずらの西の対への訪問があまりに続いて人目を引きそうに思われる時は、源氏も心の鬼にとがめられて間は置くが、そんな時には何かと用事らしいことをこしらえて手紙が送られるのである。この人のことだけが毎日の心にかかっている源氏であった。なぜよけいなことをし始めて物思いを自分はするのであろう、煩悶はんもんなどはせずに感情のままに行動することにすれば、世間の批難は免れないであろうが、それも自分はよいとして女のために気の毒である。どんなに深く愛しても春の女王にょおうと同じだけにその人を思うことの不可能であることは、自分ながらも明らかに知っている。第二の妻であることによって幸福があろうとは思われない。自分だけはこの世のすぐれた存在であっても、自分の幾人もの妻の中の一人である女に名誉のあるわけはない。平凡な納言級の人の唯一の妻になるよりも決して女のために幸福でないと源氏は知っているのであったから、しいて情人にするのが哀れで、兵部卿ひょうぶきょうの宮か右大将に結婚を許そうか、そうして良人おっとの家へ行ってしまえばこの悩ましさから自分は救われるかもしれない。消極的な考えではあるがその方法を取ろうかと思う時もあった。しかもまた西の対へ行って美しい玉鬘を見たり、このごろは琴を教えてもいたので、以前よりも近々と寄ったりしては決心していたことがゆらいでしまうのであった。玉鬘もこうしたふうに源氏が扱い始めたころは、恐ろしい気もし、反感を持ったが、それ以上のことはなくて、やはり信頼のできそうなのに安心して、しいて源氏の愛撫あいぶからのがれようとはしなかった。返辞などもなれなれしくならぬ程度にする愛嬌あいきょうの多さは知らず知らずに十分の魅力になって、前の考えなどは合理的なものでないと源氏をして思わせた。それでは今のままに自分の手もとへ置いて結婚をさせることにしよう、そして自分の恋人にもしておこう、処女である点が自分に躊躇ちゅうちょをさせるのであるが、結婚をしたのちもこの人に深い愛をもって臨めば、良人おっとのあることなどは問題でなく恋は成り立つに違いないとこんなけしからぬことも源氏は思った。それを実行した暁にはいよいよ深い煩悶はんもんに源氏は陥ることであろうし、熱烈でない愛しようはできない性質でもあるから悲劇がそこに起こりそうな気のすることである。
 内大臣が娘だと名のって出た女を、直ちに自邸へ引き取った処置について、家族も家司けいしたちもそれを軽率だと言っていること、世間でも誤ったしかただと言っていることも皆大臣の耳にははいっていたが、べんの少将が話のついでに源氏からそんなことがあるかと聞かれたことを言い出した時に大臣は笑って言った。


 

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