「ここだってまだずいぶんと遠すぎる。したがって私が始終は来られないことになるから、やはり私があなたのために用意した所へお移りなさい」 と源氏は明石に言うのであったが、 「こんなふうに田舎者であることが少し直りましてから」 と女の言うのも道理であった。源氏はいろいろに明石の心をいたわったり、将来を堅く誓ったりしてその夜は明けた。なお修繕を加える必要のある所を、源氏はもとの預かり人や新たに任命した家職の者に命じていた。源氏が桂の院へ来るという報せがあったために、この近くの領地の人たちの集まって来たのは皆そこから明石の家のほうへ来た。そうした人たちに庭の植え込みの草木を直させたりなどした。 「流れの中にあった立石が皆倒れて、ほかの石といっしょに紛れてしまったらしいが、そんな物を復旧させたり、よく直させたりすればずいぶんおもしろくなる庭だと思われるが、しかしそれは骨を折るだけかえってあとでいけないことになる。そこに永久いるものでもないから、いつか立って行ってしまう時に心が残って、どんなに私は苦しかったろう、帰る時に」 源氏はまた昔を言い出して、泣きもし、笑いもして語るのであった。こうした打ち解けた様子の見える時に源氏はいっそう美しいのであった。のぞいて見ていた尼君は老いも忘れ、物思いも跡かたなくなってしまう気がして微笑んでいた。東の渡殿の下をくぐって来る流れの筋を仕変えたりする指図に、源氏は袿を引き掛けたくつろぎ姿でいるのがまた尼君にはうれしいのであった。仏の閼伽の具などが縁に置かれてあるのを見て、源氏はその中が尼君の部屋であることに気がついた。 「尼君はこちらにおいでになりますか。だらしのない姿をしています」 と言って、源氏は直衣を取り寄せて着かえた。几帳の前にすわって、 「子供がよい子に育ちましたのは、あなたの祈りを仏様がいれてくだすったせいだろうとありがたく思います。俗をお離れになった清い御生活から、私たちのためにまた世の中へ帰って来てくだすったことを感謝しています。明石ではまた一人でお残りになって、どんなにこちらのことを想像して心配していてくださるだろうと済まなく私は思っています」 となつかしいふうに話した。 「一度捨てました世の中へ帰ってまいって苦しんでおります心も、お察しくださいましたので、命の長さもうれしく存ぜられます」 尼君は泣きながらまた、 「荒磯かげに心苦しく存じました二葉の松もいよいよ頼もしい未来が思われます日に到達いたしましたが、御生母がわれわれ風情の娘でございますことが、御幸福の障りにならぬかと苦労にしております」 などという様子に品のよさの見える婦人であったから、源氏はこの山荘の昔の主の親王のことなどを話題にして語った。直された流れの水はこの話に言葉を入れたいように、前よりも高い音を立てていた。
住み馴れし人はかへりてたどれども清水ぞ宿の主人がほなる
歌であるともなくこう言う様子に、源氏は風雅を解する老女であると思った。
「いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人や面変はりせる
悲しいものですね」 と歎息して立って行く源氏の美しいとりなしにも尼君は打たれて茫となっていた。 源氏は御堂へ行って毎月十四、五日と三十日に行なう普賢講、阿弥陀、釈迦の念仏の三昧のほかにも日を決めてする法会のことを僧たちに命じたりした。堂の装飾や仏具の製作などのことも御堂の人々へ指図してから、月明の路を川沿いの山荘へ帰って来た。 明石の別離の夜のことが源氏の胸によみがえって感傷的な気分になっている時に女はその夜の形見の琴を差し出した。弾きたい欲求もあって源氏は琴を弾き始めた。まだ絃の音が変わっていなかった。その夜が今であるようにも思われる。
契りしに変はらぬ琴のしらべにて絶えぬ心のほどは知りきや
と言うと、女が、
変はらじと契りしことを頼みにて松の響に音を添へしかな
と言う。こんなことが不つりあいに見えないのは女からいえば過分なことであった。明石時代よりも女の美に光彩が加わっていた。源氏は永久に離れがたい人になったと明石を思っている。姫君の顔からもまた目は離せなかった。日蔭の子として成長していくのが、堪えられないほど源氏はかわいそうで、これを二条の院へ引き取ってできる限りにかしずいてやることにすれば、成長後の肩身の狭さも救われることになるであろうとは源氏の心に思われることであったが、また引き放される明石の心が哀れに思われて口へそのことは出ずにただ涙ぐんで姫君の顔を見ていた。子心にはじめは少し恥ずかしがっていたが、今はもうよく馴れてきて、ものを言って、笑ったりもしてみせた。甘えて近づいて来る顔がまたいっそう美しくてかわいいのである。源氏に抱かれている姫君はすでに類のない幸運に恵まれた人と見えた。 三日目は京へ帰ることになっていたので、源氏は朝もおそく起きて、ここから直接帰って行くつもりでいたが、桂の院のほうへ高官がたくさん集まって来ていて、この山荘へも殿上役人がおおぜいで迎えに来た。源氏は装束をして、 「きまりの悪いことになったものだね、あなたがたに見られてよい家でもないのに」 と言いながらいっしょに出ようとしたが、心苦しく女を思って、さりげなく紛らして立ち止まった戸口へ、乳母は姫君を抱いて出て来た。源氏はかわいい様子で子供の頭を撫でながら、 「見ないでいることは堪えられない気のするのもにわかな愛情すぎるね。どうすればいいだろう、遠いじゃないか、ここは」 と源氏が言うと、 「遠い田舎の幾年よりも、こちらへ参ってたまさかしかお迎えできないようなことになりましては、だれも皆苦しゅうございましょう」 など乳母は言った。姫君が手を前へ伸ばして、立っている源氏のほうへ行こうとするのを見て、源氏は膝をかがめてしまった。 「もの思いから解放される日のない私なのだね、しばらくでも別れているのは苦しい。奥さんはどこにいるの、なぜここへ来て別れを惜しんでくれないのだろう、せめて人心地が出てくるかもしれないのに」 と言うと、乳母は笑いながら明石の所へ行ってそのとおりを言った。女は逢った喜びが二日で尽きて、別れの時の来た悲しみに心を乱していて、呼ばれてもすぐに出ようとしないのを源氏は心のうちであまりにも貴女ぶるのではないかと思っていた。女房たちからも勧められて、明石はやっと膝行って出て、そして姿は見せないように几帳の蔭へはいるようにしている様子に気品が見えて、しかも柔らかい美しさのあるこの人は内親王と言ってもよいほどに気高く見えるのである。源氏は几帳の垂れ絹を横へ引いてまたこまやかにささやいた。いよいよ出かける時に源氏が一度振り返って見ると、冷静にしていた明石も、この時は顔を出して見送っていた。源氏の美は今が盛りであると思われた。以前は痩せて背丈が高いように見えたが、今はちょうどいいほどになっていた。これでこそ貫目のある好男子になられたというものであると女たちがながめていて、指貫の裾からも愛嬌はこぼれ出るように思った。解官されて源氏について漂泊えた蔵人もまた旧の地位に復って、靫負尉になった上に今年は五位も得ていたが、この好青年官人が源氏の太刀を取りに戸口へ来た時に、御簾の中に明石のいるのを察して挨拶をした。 「以前の御厚情を忘れておりませんが、失礼かと存じますし、浦風に似た気のいたしました今暁の山風にも、御挨拶を取り次いでいただく便もございませんでしたから」 「山に取り巻かれておりましては、海べの頼りない住居と変わりもなくて、松も昔の(友ならなくに)と思って寂しがっておりましたが、昔の方がお供の中においでになって力強く思います」 などと明石は言った。すばらしいものにこの人はなったものだ、自分だって恋人にしたいと思ったこともある女ではないかなどと思って、驚異を覚えながらも蔵人は、 「また別の機会に」 と言って男らしく肩を振って行った。りっぱな風采の源氏が静かに歩を運ぶかたわらで先払いの声が高く立てられた。源氏は車へ頭中将、兵衛督などを陪乗させた。 「つまらない隠れ家を発見されたことはどうも残念だ」 源氏は車中でしきりにこう言っていた。 「昨夜はよい月でございましたから、嵯峨のお供のできませんでしたことが口惜しくてなりませんで、今朝は霧の濃い中をやって参ったのでございます。嵐山の紅葉はまだ早うございました。今は秋草の盛りでございますね。某朝臣はあすこで小鷹狩を始めてただ今いっしょに参れませんでしたが、どういたしますか」 などと若い人は言った。
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