源氏物語
絵合
紫式部
與謝野晶子訳
あひがたきいつきのみことおもひてき
さらに遥かになりゆくものを(晶子)
前斎宮の入内を女院は熱心に促しておいでになった。こまごまとした入用の品々もあろうがすべてを引き受けてする人物がついていないことは気の毒であると、源氏は思いながらも院への御遠慮があって、今度は二条の院へお移しすることも中止して、傍観者らしく見せてはいたが、大体のことは皆源氏が親らしくしてする指図で運んでいった。院は残念がっておいでになったが、負けた人は沈黙すべきであると思召して、手紙をお送りになることも絶えた形であった。しかも当日になって院からのたいしたお贈り物が来た。御衣服、櫛の箱、乱れ箱、香壺の箱には幾種類かの薫香がそろえられてあった。源氏が拝見することを予想して用意あそばされた物らしい。源氏の来ていた時であったから、女別当はその報告をして品々を見せた。源氏はただ櫛の箱だけを丁寧に拝見した。繊細な技巧でできた結構な品である。挿し櫛のはいった小箱につけられた飾りの造花に御歌が書かれてあった。
別れ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき中と神やいさめし
この御歌に源氏は心の痛くなるのを覚えた。もったいないことを計らったものであると、源氏は自身のかつてした苦しい思いに引き比べて院の今のお心持ちも想像することができてお気の毒でならない。斎王として伊勢へおいでになる時に始まった恋が、幾年かの後に神聖な職務を終えて女王が帰京され御希望の実現されてよい時になって、弟君の陛下の後宮へその人がはいられるということでどんな気があそばすだろう。閑暇な地位へお退きになった現今の院は、何事もなしうる主権に離れた寂しさというようなものをお感じにならないであろうか、自分であれば世の中が恨めしくなるに違いないなどと思うと心が苦しくて、何故女王を宮中へ入れるようなよけいなことを自分は考えついて御心を悩ます結果を作ったのであろう、お恨めしく思われた時代もあったが、もともと優しい人情深い方であるのにと、源氏は歎息をしながらしばらく考え込んでいた。
「この御返歌はどうなさるだろう、またお手紙もあったでしょうがお答えにならないではいけないでしょう」
などと源氏は言ってもいたが、女房たちはお手紙だけは源氏に見せることをしなかった。宮は気分がおすぐれにならないで、御返歌をしようとされないのを、
「それではあまりに失礼で、もったいないことでございます」
こんなことを言って、女房たちが返事をお書かせしようと苦心している様子を知ると、源氏は、
「むろんお返事をなさらないではいけません。ちょっとだけでよいのですからお書きなさい」
と言った。源氏にそう言われることが斎宮にはまたお恥ずかしくてならないのであった。昔を思い出して御覧になると、艶に美しい帝が別れを惜しんでお泣きになるのを、少女心においたわしくお思いになったことも目の前に浮かんできた。同時に、母君のことも思われてお悲しいのであった。
別るとてはるかに言ひしひと言もかへりて物は今ぞ悲しき
とだけお書きになったようである。お使いの幾人かはそれぞれ差のあるいただき物をして帰った。源氏は斎宮の御返歌を知りたかったのであるが、それも見たいとは言えなかった。院は美男でいらせられるし、女王もそれにふさわしい配偶のように思われる、少年でいらせられる帝の女御におさせすることは、女王の心に不満足なことであるかもしれないなどと思いやりのありすぎることまでも考えてみると、源氏は胸が騒いでならなかったが、今日になって中止のできることでもなかったから儀式その他についての注意を言い置いて、親しい修理大夫参議である人にすべてを委託して源氏は六条邸を出て御所へ参った。養父として一切を源氏が世話していることにしては院へ済まないという遠慮から、単に好意のある態度を取っているというふうを示していた。もとからよい女房の多い宮であったから、実家に引いていがちだった人たちも皆出て来て、すでにはなやかな女御の形態が調ったように見えた。御息所が生きていたならば、どんなにこうしたことをよろこぶことであろう、聡明な後見役として女御の母であるのに最も適した性格であったと源氏は故人が思い出されて、恋人としてばかりでなく、あの人を失ったことはこの世の損失であるとも源氏は思った。洗練された高い趣味の人といっても、あれほどにすぐれた人は見いだせないのであると、源氏は物のおりごとに御息所を思った。
このごろは女院も御所に来ておいでになった。帝は新しい女御の参ることをお聞きになって、少年らしく興奮しておいでになった。御年齢よりはずっと大人びた方なのである。女院も、
「りっぱな方が女御に上がって来られるのですから、お気をおつけになってお逢いなさい」
と御注意をあそばした。帝は人知れず大人の女御は恥ずかしいであろうと思召されたが、深更になってから上の御局へ上がって来た女御は、おとなしいおおような、そして小柄な若々しい人であったから自然に愛をお感じになった。弘徽殿の女御は早くからおそばに上がっていたからその人を睦まじい者に思召され、この新女御は品よく柔らかい魅力があるとともに、源氏が大きな背景を作って、きわめて大事に取り扱う点で侮りがたい人に思召されて宿直に召される数は正しく半々になっていたが、少年らしくお遊びになる相手には弘徽殿がよくて、昼などおいでになることは弘徽殿のほうが多かった。権中納言は后にも立てたい心で後宮に入れた娘に、競争者のできたことで不安を感じていた。
院は櫛の箱の返歌を御覧になってからいっそう恋しく思召された。ちょうどそのころに源氏は院へ伺候した。親しくお話を申し上げているうちに、斎宮が下向されたことから、院の御代の斎宮の出発の儀式にお話が行った。院も回想していろいろとお語りになったが、ぜひその人を得たく思っていたとはお言いにならないのである。源氏はその問題を全然知らぬ顔もしながら、どう思召していられるかが知りたくて、話をその方向へ向けた時、院の御表情に失恋の深い御苦痛が現われてきたのをお気の毒に思った。美しい人としてそれほど院が忘れがたく思召す前斎宮は、どんな美貌をお持ちになるのであろうと源氏は思って、おりがあればお顔を見たいと思っているが、その機会の与えられないことを口惜しがっていた。貴女らしい奥深さをあくまで持っていて、うかとして人に見られる隙のあるような人でない斎宮の女御を源氏は一面では敬意の払われる養女であると思って満足しているのであった。
こんなふうに隙間もないふうに二人の女御が侍しているのであったから、兵部卿の宮は女王の後宮入りを実現させにくくて煩悶をしておいでになったが、帝が青年におなりになったなら、外戚の自分の娘を疎外あそばすことはなかろうとなお希望をつないでおいでになった。宮廷の二人の女御ははなやかに挑み合った。帝は何よりも絵に興味を持っておいでになった。特別にお好きなせいかお描きになることもお上手であった。斎宮の女御は絵をよく描くのでそれがお気に入って、女御の御殿へおいでになってはごいっしょに絵をお描きになることを楽しみにあそばした。殿上の若い役人の中でも絵の描ける者を特にお愛しになる帝であったから、まして美しい人が、雅味のある絵を上手に墨で描いて、からだを横たえながら、次の筆の下ろしようを考えたりしている可憐さが御心に沁んで、しばしばこちらへおいでになるようになり、御寵愛が見る見る盛んになった。権中納言がそれを聞くと、どこまでも負けぎらいな性質から有名な画家の幾人を家にかかえて、よい絵をよい紙に、描かせることをひそかにさせていた。
「小説を題にして描いた絵が最もおもしろい」
と言って、権中納言は選んだよい小説の内容を絵にさせているのである。一年十二季の絵も平凡でない文学的価値のある詞書きをつけて帝のお目にかけた。おもしろい物であるがそれは非常に大事な物らしくして、帝のおいでになっている間にも、長くは御前へ出して置かずにしまわせてしまうのである。帝が斎宮の女御に見せたく思召して、お持ちになろうとするのを弘徽殿の人々は常にはばむのであった。源氏がそれを聞いて、
「中納言の競争心はいつまでも若々しく燃えているらしい」
などと笑った。
「隠そう隠そうとしてあまり御前へ出さずに陛下をお悩ましするなどということはけしからんことだ」
と源氏は言って、帝へは
「私の所にも古い絵はたくさんございますから差し上げることにいたしましょう」
と奏して、源氏は二条の院の古画新画のはいった棚をあけて夫人といっしょに絵を見分けた。古い絵に属する物と現代的な物とを分類したのである。長恨歌、王昭君などを題目にしたのはおもしろいが縁起はよろしくない。そんなのを今度は省くことに源氏は決めたのである。旅中に日記代わりに描いた絵巻のはいった箱を出して来て源氏ははじめて夫人にも見せた。何の予備知識を備えずに見る者があっても、少し感情の豊かな者であれば泣かずにはいられないだけの力を持った絵であった。まして忘れようもなくその悲しかった時代を思っている源氏にとって、夫人にとって今また旧作がどれほどの感動を与えるものであるかは想像するにかたくはない。夫人は今まで源氏の見せなかったことを恨んで言った。
「一人居て眺めしよりは海人の住むかたを書きてぞ見るべかりける
あなたにはこんな慰めがおありになったのですわね」
源氏は夫人の心持ちを哀れに思って言った。
「うきめ見しそのをりよりは今日はまた過ぎにし方に帰る涙か
中宮にだけはお目にかけねばならない物ですよ」
源氏はその中のことにできのよいものでしかも須磨と明石の特色のよく出ている物を一帖ずつ選んでいながらも、明石の家の描かれてある絵にも、どうしているであろうと、恋しさが誘われた。源氏が絵を集めていると聞いて、権中納言はいっそう自家で傑作をこしらえることに努力した。巻物の軸、紐の装幀にも意匠を凝らしているのである。それは三月の十日ごろのことであったから、最もうららかな好季節で、人の心ものびのびとしておもしろくばかり物が見られる時であったし、宮廷でも定まった行事の何もない時で、絵画や文学の傑作をいかにして集めようかと苦心をするばかりが仕事になっていた。これを皆陛下へ差し上げることにして公然の席で勝負を決めるほうが興味のあってよいことであると源氏がまず言い出した。双方から出すのであるから宮中へ集まった絵巻の数は多かった。小説を絵にした物は、見る人がすでに心に作っている幻想をそれに加えてみることによって絵の効果が倍加されるものであるからその種類の物が多い。梅壺の王女御のほうのは古典的な価値の定まった物を絵にしたのが多く、弘徽殿のは新作として近ごろの世間に評判のよい物を描かせたのが多かったから、見た目のにぎやかで派手なのはこちらにあった。典侍や内侍や命婦も絵の価値を論じることに一所懸命になっていた。女院も宮中においでになるころであったから、女官たちの論議する者を二つにして説をたたかわせて御覧になった。左右に分けられたのである。梅壺方は左で、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦などで、右方は大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦などであった。皆世間から有識者として認められている女性である。思い思いのことを主張する弁論を女院は興味深く思召して、まず日本最初の小説である竹取の翁と空穂の俊蔭の巻を左右にして論評をお聞きになった。
「竹取の老人と同じように古くなった小説ではあっても、思い上がった主人公の赫耶姫の性格に人間の理想の最高のものが暗示されていてよいのです。卑近なことばかりがおもしろい人にはわからないでしょうが」
と左は言う。右は、
「赫耶姫の上った天上の世界というものは空想の所産にすぎません。この世の生活の写してある所はあまりに非貴族的で美しいものではありません。宮廷の描写などは少しもないではありませんか。赫耶姫は竹取の翁の一つの家を照らすだけの光しかなかったようですね。安部の多が大金で買った毛皮がめらめらと焼けたと書いてあったり、あれだけ蓬莱の島を想像して言える倉持の皇子が贋物を持って来てごまかそうとしたりするところがとてもいやです」
この竹取の絵は巨勢の相覧の筆で、詞書きは貫之がしている。紙屋紙に唐錦の縁が付けられてあって、赤紫の表紙、紫檀の軸で穏健な体裁である。
「俊蔭は暴風と波に弄ばれて異境を漂泊しても芸術を求める心が強くて、しまいには外国にも日本にもない音楽者になったという筋が竹取物語よりずっとすぐれております。それに絵も日本と外国との対照がおもしろく扱われている点ですぐれております」
と右方は主張するのであった。これは式紙地の紙に書かれ、青い表紙と黄玉の軸が付けられてあった。絵は常則、字は道風であったから派手な気分に満ちている。左はその点が不足であった。次は伊勢物語と正三位が合わされた。この論争も一通りでは済まない。今度も右は見た目がおもしろくて刺戟的で宮中の模様も描かれてあるし、現代に縁の多い場所や人が写されてある点でよさそうには見えた。平典侍が言った。