きまりの悪い迷惑なことと思いながら女王は侍従を応接に出した。煤けた几帳を押し出しながら侍従は客と対したのである。容貌は以前に比べてよほど衰えていた。しかしやつれながらもきれいで、女王の顔に代えたい気がする。 「もう出発しなければならないのですが、こちらのことが気がかりなものですから、今日は侍従の迎えがてらお訪ねしました。私の好意をくんでくださらないで、御自分がちょっとでも来てくださることを御承知にならないことはやむをえませんが、せめて侍従だけをよこしていただくお許しをいただきに来たのです。まあお気の毒なふうで暮らしていらっしゃるのですね」 こう言ったのであるから、続いて泣いてみせねばならないのであるが、実は大弐夫人は九州の長官夫人になって出発して行く希望に燃えているのである。 「宮様がおいでになったころ、私の結婚相手が悪いからって、交際するのをおきらいになったものですから、私らもついかけ離れた冷淡なふうになっていましたものの、それからもこちら様は源氏の大将さんなどと御結婚をなさるような御幸運でいらっしゃいましたから、晴れがましくてお出入りもしにくかったのです。しかし人間世界は幸福なことばかりもありませんからね、その中でわれわれ階級の者がかえって気楽なんですよ。及びもない懸隔のあるお家でしたが、こちらはお気の毒なことになってしまいまして、私も心配なんですが、近くにおりますうちは、何かの場合に力にもなれると思っていましたものの、遠い所へ出て行くことになりますと、とてもあなたのことが気になってなりません」 と夫人は言うのであるが、女王は心の動いたふうもなかった。 「御好意はうれしいのですが、人並みの人にもなれない私はこのままここで死んで行くのが何よりもよく似合うことだろうと思います」 とだけ末摘花は言う。 「それはそうお思いになるのはごもっともですが、生きている人間であって、こんなひどい場所に住んでいるのなどはほかにめったにないでしょう。大将さんが修繕をしてくだすったら、またもう一度玉の台にもなるでしょうと期待されますがね。近ごろはどうしたことでしょう、兵部卿の宮の姫君のほかはだれも嫌いになっておしまいになったふうですね。昔から恋愛関係をたくさん持っていらっしゃった方でしたが、それも皆清算しておしまいになりましたってね。ましてこんなみじめな生き方をしていらっしゃる人を、操を立てて自分を待っていてくれたかと受け入れてくださることはむずかしいでしょうね」 こんなよけいなことまで言われてみると、そうであるかもしれないと末摘花は悲しく泣き入ってしまった。しかも九州行きを肯うふうは微塵もない。夫人はいろいろと誘惑を試みたあとで、 「では侍従だけでも」 と日の暮れていくのを見てせきたてた。侍従は名残を惜しむ間もなくて、泣く泣く女王に、 「それでは、今日はあんなにおっしゃいますから、お送りにだけついてまいります。あちらがああおっしゃるのももっともですし、あなた様が行きたく思召さないのも御無理だとは思われませんし、私は中に立ってつらくてなりませんから」 と言う。この人までも女王を捨てて行こうとするのを、恨めしくも悲しくも末摘花は思うのであるが、引き止めようもなくてただ泣くばかりであった。形見に与えたい衣服も皆悪くなっていて長い間のこの人の好意に酬いる物がなくて、末摘花は自身の抜け毛を集めて鬘にした九尺ぐらいの髪の美しいのを、雅味のある箱に入れて、昔のよい薫香一壺をそれにつけて侍従へ贈った。
「絶ゆまじきすぢを頼みし玉かづら思ひのほかにかけ離れぬる
死んだ乳母が遺言したこともあるからね、つまらない私だけれど一生あなたの世話をしたいと思っていた。あなたが捨ててしまうのももっともだけれど、だれがあなたの代わりになって私を慰めてくれる者があると思って立って行くのだろうと思うと恨めしいのよ」 と言って、女王は非常に泣いた。侍従も涙でものが言えないほどになっていた。 「乳母が申し上げましたことはむろんでございますが、そのほかにもごいっしょに長い間苦労をしてまいりましたのに、思いがけない縁に引かれて、しかも遠方へまで行ってしまいますとは」 と言って、また、
「玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけて誓はん
命のございます間はあなた様に誠意をお見せします」 などとも言う。 「侍従はどうしました。暗くなりましたよ」 と大弐夫人に小言を言われて、侍従は夢中で車に乗ってしまった。そしてあとばかりが顧みられた。困りながらも長い間離れて行かなかった人が、こんなふうにして別れて行ったことで、女王はますます心細くなった。だれも雇い手のないような老いた女房までが、 「もっともですよ。どうしてこのままいられるものですか。私たちだってもう我慢ができませんよ」 こんなことを言って、ほかへ勤める手蔓を捜し始めて、ここを出る決心をしたらしいことを言い合うのを聞くことも末摘花の身にはつらいことであった。十一月になると雪や霙の日が多くなって、ほかの所では消えている間があっても、ここでは丈の高い枯れた雑草の蔭などに深く積もったものは量が高くなるばかりで越の白山をそこに置いた気がする庭を、今はもうだれ一人出入りする下男もなかった。こんな中につれづれな日を送るよりしかたのない末摘花の女王であった。泣き合い笑い合うこともあった侍従がいなくなってからは、夜の塵のかかった帳台の中でただ一人寂しい思いをして寝た。 源氏は長くこがれ続けた紫夫人のもとへ帰りえた満足感が大きくて、ただの恋人たちの所などへは足が向かない時期でもあったから、常陸の宮の女王はまだ生きているだろうかというほどのことは時々心に上らないことはなかったが、捜し出してやりたいと思うことも、急ぐことと思われないでいるうちにその年も暮れた。四月ごろに花散里を訪ねて見たくなって夫人の了解を得てから源氏は二条の院を出た。幾日か続いた雨の残り雨らしいものが降ってやんだあとで月が出てきた。青春時代の忍び歩きの思い出される艶な夕月夜であった。車の中の源氏は昔をうつらうつらと幻に見ていると、形もないほどに荒れた大木が森のような邸の前に来た。高い松に藤がかかって月の光に花のなびくのが見え、風といっしょにその香がなつかしく送られてくる。橘とはまた違った感じのする花の香に心が惹かれて、車から少し顔を出すようにしてながめると、長く枝をたれた柳も、土塀のない自由さに乱れ合っていた。見たことのある木立ちであると源氏は思ったが、以前の常陸の宮であることに気がついた。源氏は物哀れな気持ちになって車を止めさせた。例の惟光はこんな微行にはずれたことのない男で、ついて来ていた。 「ここは常陸の宮だったね」 「さようでございます」 「ここにいた人がまだ住んでいるかもしれない。私は訪ねてやらねばならないのだが、わざわざ出かけることもたいそうになるから、この機会に、もしその人がいれば逢ってみよう。はいって行って尋ねて来てくれ。住み主がだれであるかを聞いてから私のことを言わないと恥をかくよ」 と源氏は言った。 末摘花の君は物悩ましい初夏の日に、その昼間うたた寝をした時の夢に父宮を見て、さめてからも名残の思いにとらわれて、悲しみながら雨の洩って濡れた廂の室の端のほうを拭かせたり部屋の中を片づけさせたりなどして、平生にも似ず歌を思ってみたのである。
亡き人を恋ふる袂のほどなきに荒れたる軒の雫さへ添ふ
こんなふうに、寂しさを書いていた時が、源氏の車の止められた時であった。 惟光は邸の中へはいってあちらこちらと歩いて見て、人のいる物音の聞こえる所があるかと捜したのであるが、そんな物はない。自分の想像どおりにだれもいない、自分は往き返りにこの邸は見るが、人の住んでいる所とは思われなかったのだからと思って惟光が足を返そうとする時に、月が明るくさし出したので、もう一度見ると、格子を二間ほど上げて、そこの御簾は人ありげに動いていた。これが目にはいった刹那は恐ろしい気さえしたが、寄って行って声をかけると、老人らしく咳を先に立てて答える女があった。 「いらっしゃったのはどなたですか」 惟光は自分の名を告げてから、 「侍従さんという方にちょっとお目にかかりたいのですが」 と言った。 「その人はよそへ行きました。けれども侍従の仲間の者がおります」 と言う声は、昔よりもずっと老人じみてきてはいるが、聞き覚えのある声であった。家の中の人は惟光が何であったかを忘れていた。狩衣姿の男がそっとはいって来て、柔らかな調子でものを言うのであったから、あるいは狐か何かではないかと思ったが、惟光が近づいて行って、 「確かなことをお聞かせくださいませんか。こちら様が昔のままでおいでになるかどうかお聞かせください。私の主人のほうでは変心も何もしておいでにならない御様子です。今晩も門をお通りになって、訪ねてみたく思召すふうで車を止めておいでになります。どうお返辞をすればいいでしょう、ありのままのお話を私には御遠慮なくして下さい」 と言うと、女たちは笑い出した。
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