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源氏物語(げんじものがたり)15 蓬生

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-6 9:27:59  点击:  切换到繁體中文

源氏物語

蓬生

紫式部

與謝野晶子訳




道もなきよもぎをわけて君ぞこしたれにもま
さる身のここちする    (晶子)

 源氏が須磨すま明石あかし漂泊さすらっていたころは、京のほうにも悲しく思い暮らす人の多数にあった中でも、しかとした立場を持っている人は、苦しい一面はあっても、たとえば二条の夫人などは、源氏が旅での生活の様子もかなりくわしく通信されていたし、便宜が多くて手紙を書いて出すこともよくできたし、当時無官になっていた源氏の無紋の衣裳いしょうも季節に従って仕立てて送るような慰みもあった。真実悲しい境遇に落ちた人というのは、源氏が京を出発した際のこともよそに想像するだけであった女性たち、無視して行かれた恋人たちがそれであった。常陸ひたちの宮の末摘花すえつむはなは、父君がおかくれになってから、だれも保護する人のない心細い境遇であったのを、思いがけず生じた源氏との関係から、それ以来物質的に補助されることになって、源氏の富からいえば物の数でもない情けをかけていたにすぎないのであったが、受けるほうの貧しい女王にょおう一家のためには、たらいへ星が映ってきたほどの望外の幸福になって、生活苦から救われて幾年かを来たのであるが、あの事変後の源氏は、いっさい世の中がいやになって、恋愛というほどのものでもなかった女性との関係は心から消しもし、消えもしたふうで、遠くへ立ってからははるばると手紙を送るようなこともしなかった。まだ源氏から恵まれた物があってしばらくは泣く泣くも前の生活を続けることができたのであるが、次の年になり、また次の年になりするうちにはまったく底なしの貧しい身の上になってしまった。古くからいた女房たちなどは、
「ほんとうに運の悪い方ですよ。思いがけなく神か仏の出現なすったような親切をお見せになる方ができて、人というものはどこに幸運があるかわからないなどと、私たちはありがたく思ったのですがね、人生というものは移り変わりがあるものだといっても、またまたこんな頼りない御身分になっておしまいになるって、悲しゅうございますね、世の中は」
 となげくのであった。昔は長い貧しい生活に慣れてしまって、だれにもあきらめができていたのであるが、中で一度源氏の保護が加わって、世間並みの暮らしができたことによって、今の苦痛はいっそうはげしいものに感ぜられた。よかった時代に昔から縁故のある女房ははじめてここに皆居つくことにもなって、数が多くなっていたのも、またちりぢりにほかへ行ってしまった。そしてまた老衰して死ぬ女もあって、月日とともに上から下まで召使の数が少なくなっていく。もとから荒廃していたやしきはいっそうきつねの巣のようになった。気味悪く大きくなった木立ちになくふくろうの声を毎日邸の人は聞いていた。人が多ければそうしたものは影も見せない木精こだまなどという怪しいものも次第に形をあらわしてきたりする不快なことが数しらずあるのである。まだ少しばかり残っている女房は、
「これではしようがございません。近ごろは地方官などがよい邸を自慢に造りますが、こちらのお庭の木などに目をつけて、お売りになりませんかなどと近所の者から言わせてまいりますが、そうあそばして、こんなおそろしい所はお捨てになってほかへお移りなさいましよ。いつまでも残っております私たちだってたまりませんから」
 などと女主人に勧めるのであったが、
「そんなことをしてはたいへんよ。世間体もあります。私が生きている間は邸を人手に渡すなどということはできるものでない。こんなにこわい気がするほど荒れていても、お父様の魂が残っていると思う点で、私はあちこちをながめても心が慰むのだからね」
 女王は泣きながらこう言って、女房たちの進言を思いも寄らぬことにしていた。手道具なども昔の品の使い慣らしたりっぱな物のあるのを、なま物識りの骨董こっとう好きの人が、だれに製作させた物、某の傑作があると聞いて、譲り受けたいと、想像のできる貧乏さを軽蔑けいべつして申し込んでくるのを、例のように女房たちは、
「しかたのないことでございますよ。困れば道具をお手放しになるのは」
 と言って、それを金にかえて目前の窮迫から救われようとする時があると、末摘花は頑強がんきょうにそれを拒む。
「私が見るようにと思って作らせておいてくだすったに違いないのだから、それをつまらない家の装飾品になどさせてよいわけはない。お父様のお心持ちを無視することになるからね、お父様がおかわいそうだ」
 ただ少しの助力でもしようとする人をも持たない女王であった。兄の禅師ぜんじだけはまれに山から京へ出た時にたずねて来るが、その人も昔風な人で、同じ僧といっても生活する能力が全然ない、脱俗したとほめて言えば言えるような男であったから、庭の雑草を払わせればきれいになるものとも気がつかない。浅茅あさじは庭の表も見えぬほど茂って、よもぎは軒の高さに達するほど、むぐらは西門、東門を閉じてしまったというと用心がよくなったようにも聞こえるが、くずれた土塀どべいは牛や馬が踏みならしてしまい、春夏には無礼な牧童が放牧をしに来た。八月に野分のわきの風が強かった年以来廊などは倒れたままになり、下屋の板葺いたぶきの建物のほうはわずかに骨が残っているだけ、下男などのそこにとどまっている者はない。くりやの煙が立たないでなお生きた人が住んでいるという悲しいやしきである。盗人というようながむしゃらな連中も外見の貧弱さに愛想あいそをつかせて、ここだけは素通りにしてやって来なかったから、こんな野良藪のらやぶのような邸の中で、寝殿しんでんだけは昔通りの飾りつけがしてあった。しかしきれいに掃除そうじをしようとするような心がけの人もない。ちりは積もってもあるべき物の数だけはそろった座敷に末摘花すえつむはなは暮らしていた。古い歌集を読んだり、小説を見たりすることでつれづれが慰められることにもなるし、物質的に不足の多い境遇も忍んで行けるのであるが、末摘花はそんな趣味も持っていない。それは必ずしもよいことではないが、暇な女性の間で友情を盛った手紙を書きかわすことなどは、多感な年ごろではそれによって自然の見方も深くなっていき、木や草にも慰められることにもなるが、この女王は父宮が大事にお扱いになった時と同じ心持ちでいて、普通の人との交際はいっさい避けて友人を持っていないのである。親戚関係があっても親しもうとせず、好意を寄せようとしない態度は手紙を書かぬ所にうかがわれもするのである。古くさい書物だなから、唐守からもり藐姑射はこや刀自とじ赫耶姫かぐやひめ物語などを絵に描いた物を引き出して退屈しのぎにしていた。古歌などもよい作をって、端書きも作者の名も書き抜いて置いて見るのがおもしろいのであるが、この人は古紙屋紙ふるかんやがみとか、檀紙だんしとかの湿り気を含んで厚くなった物などへ、だれもの知っている新味などは微塵みじんもないようなものの書き抜いてしまってあるのを、物思いのつのった時などには出してひろげていた。今の婦人がだれもするように経を読んだり仏勤めをしたりすることは生意気だと思うのかだれも見る人はないのであるが、数珠じゅずを持つようなことは絶対にない。こんなふうに末摘花は古典的であった。
 侍従という乳母めのとの娘などは、主家を離れないで残っている女房の一人であったが、以前から半分ずつは勤めに出ていた斎院がおくれになってからは、侍従もしかたなしに女王にょおうの母君の妹で、その人だけが身分違いの地方官の妻になっている人があって、娘をかしずいて、若いよい女房を幾人でもほしがる家へ、そこは死んだ母もおりふし行っていた所であるからと思って、時々そこへ行って勤めていた。末摘花は人に親しめない性格であったから、叔母おばともあまり交際をしなかった。
「お姉様は私を軽蔑けいべつなすって、私のいることを不名誉にしていらっしゃったから、姫君が気の毒な一人ぼっちでも私は世話をしてあげないのだよ」
 などという悪態口も侍従に聞かせながら、時々侍従に手紙を持たせてよこした。初めから地方官級の家に生まれた人は、貴族をまねて、思想的にも思い上がった人になっている者も多いのに、この夫人は貴族の出でありながら、下の階級へはいって行く運命を生まれながらに持っていたものか、卑しい性格の叔母君であった。自身が、家門の顔汚しのように思われていた昔の腹いせに、常陸ひたちの宮の女王を自身の娘たちの女房にしてやりたい、昔風なところはあるが気だてのよい後見役ができるであろうとこんなことを思って、
時々私の宅へもおいでくだすったらいかがですか。あなたのお琴のも伺いたがる娘たちもおります。
 と言って来た。これを実現させようと叔母は侍従にも促すのであるが、末摘花は負けじ魂からではなく、ただ恥ずかしくきまりが悪いために、叔母の招待に応じようとしないのを、叔母のほうではくやしく思っていた。そのうちに叔母の良人おっとが九州の大弐だいにに任命された。娘たちをそれぞれ結婚させておいて、夫婦で任地へ立とうとする時にもまだ叔母は女王を伴って行きたがって、
「遠方へ行くことになりますと、あなたが心細い暮らしをしておいでになるのを捨てておくことが気になってなりません。ただ今までもお構いはしませんでしたが、近い所にいるうちはいつでもお力になれる自信がありましたので」
 と体裁よくことづてて誘いかけるのも、女王が聞き入れないから、
「まあ憎らしい。いばっていらっしゃる。自分だけはえらいつもりでも、あのやぶの中の人を大将さんだって奥様らしくは扱ってくださらないだろう」
 と言ってののしった。そのうちに源氏宥免ゆうめんの宣旨が下り、帰京の段になると、忠実に待っていた志操の堅さをだれよりも先に認められようとする男女に、それぞれ有形無形の代償を喜んで源氏の払った時期にも、末摘花だけは思い出されることもなくて幾月かがそのうちたった。もう何の望みもかけられない。長い間不幸な境遇に落ちていた源氏のために、その勢力が宮廷に復活する日があるようにと念じ暮らしたものであるのに、いやしい階級の人でさえも源氏の再び得た輝かしい地位を喜んでいる時にも、ただよそのこととして聞いていねばならぬ自分でなければならなかったか、源氏が京から追われた時には自分一人の不幸のように悲しんだが、この世はこんな不公平なものであるのかと思って末摘花は恨めしく苦しく切なく一人で泣いてばかりいた。
 大弐の夫人は、私の言ったとおりじゃないか。どうしてあんな見る影もない人を源氏の君が奥様の一人だとお思いになるものかね、仏様だって罪の軽い者ほどよく導いてくださるのだ。手もつけられないほどの貧乏女でいて、いばっていて、宮様や奥さんのいらっしゃった時と同じように思い上がっているのだから始末が悪いなどと思っていっそう軽蔑けいべつ的に末摘花を見た。
「ぜひ決心をして九州へおいでなさい。世の中が悲しくなる時には、人は進んでも旅へ出るではありませんか。田舎いなかとはいやな所のようにお思いになるかしりませんが、私は受け合ってあなたを楽しくさせます」
 口前よく熱心に同行を促すと、貧乏に飽いた女房などは、
「そうなればいいのに、何のたのむ所もない方が、どうしてまた意地をお張りになるのだろう」
 と言って、末摘花を批難した。侍従も大弐のおいのような男の愛人になっていて、京へ残ることもできない立場から、その意志でもなく女王のもとを去って九州行きをすることになっていた。
「京へお置きして参ることは気がかりでなりませんからいらっしゃいませ」
 と誘うのであるが、女王の心はなお忘れられた形になっている源氏を頼みにしていた。どんなに時がたっても自分の思い出される機会のないわけはない、あれほど堅い誓いを自分にしてくれた人の心は変わっていないはずであるが、自分の運の悪いために捨てられたとも人からは見られるようなことになっているのであろう、風の便たよりででも自分の哀れな生活が源氏の耳にはいればきっと救ってくれるに違いないと、これはずっと以前から女王の信じているところであって、やしきも家も昔に倍した荒廃のしかたではあるが、部屋の中の道具類をそこばくの金に変えていくようなことは、源氏の来た時に不都合であるからと忍耐を続けているのである。気をめいらせて泣いている時のほうが多い末摘花の顔は、一つの木の実だけを大事に顔に当てて持っている仙人せんにんとも言ってよい奇怪な物に見えて、異性の興味をく価値などはない。気の毒であるからくわしい描写はしないことにする。
 冬にはいればはいるほど頼りなさはひどくなって、悲しく物思いばかりして暮らす女王だった。源氏のほうでは故院のための盛んな八講を催して、世間がそれにき立っていた。僧などは平凡な者を呼ばずに学問と徳行のすぐれたのを選んで招じたその物事に、女王の兄の禅師も出た帰りに妹君をたずねて来た。
「源大納言さんの八講に行ったのです。たいへんな準備でね、この世の浄土のように法要の場所はできていましたよ。音楽も舞楽もたいしたものでしたよ。あの方はきっと仏様の化身けしんだろう、五濁ごじょくの世にどうして生まれておいでになったろう」
 こんな話をして禅師はすぐに帰った。普通の兄弟きょうだいのようには話し合わない二人であるから、生活苦も末摘花すえつむはなは訴えることができないのである。それにしてもこの不幸なみじめな女を捨てて置くというのは、情けない仏様であると末摘花は恨めしかった。こんな気のした時から、自分はもう顧みられる望みがないのだろうとようやく思うようになった。
 そんなころであるが大弐の夫人が突然訪ねて来た。平生はそれほど親密にはしていないのであるが、つれて行きたい心から、作った女王の衣裳いしょうなども持って、よい車に乗って来た得意な顔の夫人がにわかに常陸の宮邸へ現われたのである。門をあけさせている時から目にはいってくるものは荒廃そのもののような寂しい庭であった。門の扉も安定がなくなっていて倒れたのを、供の者が立て直したりする騒ぎである。この草の中にもどこかに三つだけの道はついているはずであると皆が捜した。そしてやっと建物の南向きの縁の所へ車を着けた。


 

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