翌朝源氏は、左大臣家へ久しく行かないことも思われながら、二条の院の少女が気がかりで、寄ってなだめておいてから行こうとして自邸のほうへ帰った。二、三日ぶりに見た最初の瞬間にも若紫の美しくなったことが感ぜられた。愛嬌があって、そしてまた凡人から見いだしがたい貴女らしさを多く備えていた。理想どおりに育て上げようとする源氏の好みにあっていくようである。教育にあたるのが男であるから、いくぶんおとなしさが少なくなりはせぬかと思われて、その点だけを源氏は危んだ。この二、三日間に宮中であったことを語って聞かせたり、琴を教えたりなどしていて、日が暮れると源氏が出かけるのを、紫の女王は少女心に物足らず思っても、このごろは習慣づけられていて、無理に留めようなどとはしない。 左大臣家の源氏の夫人は例によってすぐには出て来なかった。いつまでも座に一人でいてつれづれな源氏は、夫人との間柄に一抹の寂しさを感じて、琴をかき鳴らしながら、「やはらかに寝る夜はなくて」と歌っていた。左大臣が来て、花の宴のおもしろかったことなどを源氏に話していた。 「私がこの年になるまで、四代の天子の宮廷を見てまいりましたが、今度ほどよい詩がたくさんできたり、音楽のほうの才人がそろっていたりしまして、寿命の延びる気がするようなおもしろさを味わわせていただいたことはありませんでした。ただ今は専門家に名人が多うございますからね、あなたなどは師匠の人選がよろしくてあのおできぶりだったのでしょう。老人までも舞って出たい気がいたしましたよ」 「特に今度のために稽古などはしませんでした。ただ宮廷付きの中でのよい楽人に参考になることを教えてもらいなどしただけです。何よりも頭中将の柳花苑がみごとでした。話になって後世へ伝わる至芸だと思ったのですが、その上あなたがもし当代の礼讃に一手でも舞を見せてくださいましたら歴史上に残ってこの御代の誇りになったでしょうが」 こんな話をしていた。弁や中将も出て来て高欄に背中を押しつけながらまた熱心に器楽の合奏を始めた。 有明の君は短い夢のようなあの夜を心に思いながら、悩ましく日を送っていた。東宮の後宮へこの四月ごろはいることに親たちが決めているのが苦悶の原因である。源氏もまったく何人であるかの見分けがつかなかったわけではなかったが、右大臣家の何女であるかがわからないことであったし、自分へことさら好意を持たない弘徽殿の女御の一族に恋人を求めようと働きかけることは世間体のよろしくないことであろうとも躊躇されて、煩悶を重ねているばかりであった。 三月の二十日過ぎに右大臣は自邸で弓の勝負の催しをして、親王方をはじめ高官を多く招待した。藤花の宴も続いて同じ日に行なわれることになっているのである。もう桜の盛りは過ぎているのであるが、「ほかの散りなんあとに咲かまし」と教えられてあったか二本だけよく咲いたのがあった。新築して外孫の内親王方の裳着に用いて、美しく装飾された客殿があった。派手な邸で何事も皆近代好みであった。右大臣は源氏の君にも宮中で逢った日に来会を申し入れたのであるが、その日に美貌の源氏が姿を見せないのを残念に思って、息子の四位少将を迎えに出した。
わが宿の花しなべての色ならば何かはさらに君を待たまし
右大臣から源氏へ贈った歌である。源氏は御所にいた時で、帝にこのことを申し上げた。 「得意なのだね」 帝はお笑いになって、 「使いまでもよこしたのだから行ってやるがいい。孫の内親王たちのために将来兄として力になってもらいたいと願っている大臣の家だから」 など仰せられた。ことに美しく装って、ずっと日が暮れてから待たれて源氏は行った。桜の色の支那錦の直衣、赤紫の下襲の裾を長く引いて、ほかの人は皆正装の袍を着て出ている席へ、艶な宮様姿をした源氏が、多数の人に敬意を表されながらはいって行った。桜の花の美がこの時にわかに減じてしまったように思われた。音楽の遊びも済んでから、夜が少しふけた時分である。源氏は酒の酔いに悩むふうをしながらそっと席を立った。中央の寝殿に女一の宮、女三の宮が住んでおいでになるのであるが、そこの東の妻戸の口へ源氏はよりかかっていた。藤はこの縁側と東の対の間の庭に咲いているので、格子は皆上げ渡されていた。御簾ぎわには女房が並んでいた。その人たちの外へ出している袖口の重なりようの大ぎょうさは踏歌の夜の見物席が思われた。今日などのことにつりあったことではないと見て、趣味の洗練された藤壺辺のことがなつかしく源氏には思われた。 「苦しいのにしいられた酒で私は困っています。もったいないことですがこちらの宮様にはかばっていただく縁故があると思いますから」 妻戸に添った御簾の下から上半身を少し源氏は中へ入れた。 「困ります。あなた様のような尊貴な御身分の方は親類の縁故などをおっしゃるものではございませんでしょう」 と言う女の様子には、重々しさはないが、ただの若い女房とは思われぬ品のよさと美しい感じのあるのを源氏は認めた。薫物が煙いほどに焚かれていて、この室内に起ち居する女の衣摺れの音がはなやかなものに思われた。奥ゆかしいところは欠けて、派手な現代型の贅沢さが見えるのである。令嬢たちが見物のためにこの辺へ出ているので、妻戸がしめられてあったものらしい。貴女がこんな所へ出ているというようなことに賛意は表されなかったが、さすがに若い源氏としておもしろいことに思われた。この中のだれを恋人と見分けてよいのかと源氏の胸はとどろいた。「扇を取られてからき目を見る」(高麗人に帯を取られてからき目を見る)戯談らしくこう言って御簾に身を寄せていた。 「変わった高麗人なのね」 と言う一人は無関係な令嬢なのであろう。何も言わずに時々溜息の聞こえる人のいるほうへ源氏は寄って行って、几帳越しに手をとらえて、
「あづさ弓いるさの山にまどふかなほの見し月の影や見ゆると
なぜでしょう」 と当て推量に言うと、その人も感情をおさえかねたか、
心いる方なりませば弓張の月なき空に迷はましやは
と返辞をした。弘徽殿の月夜に聞いたのと同じ声である。源氏はうれしくてならないのであるが。
●表記について
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