女性と服装のことについては今日まで、実に多くの話をされて来た。服装一般の問題、糸を紡いで織って縫って着るという仕事に、女の人生はこれまで歴史的にどんな関係をもってきたものだろうか。着物と女の運命についてすこし社会的に見直されてもいい時になっているのではないだろうか。
衣類または服装と婦人との社会的な関係をあるがままに肯定した上で、これまで整理保存の方法、縫い方、廃物利用、モードの選びについてなどが話題とされて来ている。けれども考えてみれば女性が縫物をすることになったのは一体人間の社会の歴史の中でいつ始まったのだろう。糸を紡ぐこと、織ること、そしてそれを体にまとえるように加工することは非常に古い時代から女のやることであった。これはギリシア神話の中のアナキネという話の物語にでも推察される。アナキネは大変美しく可愛い娘で、織物を織ることが上手であった。みごとな織物をする上に美しいものだからオリムパスの神々の間にさえ大評判になった。神々の首領であったジュピターはその大変美しい織物上手の娘が好きになった。ジュピターの妻ジュノーの嫉妬がつのって、到頭哀れなアナキネはジュノーのために蜘蛛にさせられてしまった。そんなに織ることがすきなら、一生織りつづけているがよい、と。女神から与えられた嫉妬の復讐として、美しい織物ばかり織りつづける蜘蛛にさせられたという伝説の中には、女はいつも糸を紡ぎそれを織らなければならないということについての悲しみの感情の現れがあると思う。しかもそれが、神の罪のように逃げられない運命と語られているところに古代のギリシアの社会でその仕事が何かしら、幸福の表徴としてはうけとられていなかった証拠だと思う。ひろく知られているところのギリシアの社会は、人類の若々しい文化をはじめて花咲かせ、古典文化のつきない源泉となったが、このギリシアの繁栄と自由とは奴隷使用の上に咲きほこっていた。人口比率は一人の自由人に対して五人ぐらいの奴隷があって、その奴隷が生活に必要なすべての労役的仕事をしていた。紡ぐことも、織ることも、縫うことも、奴隷がした。主に女奴隷が主人たちの必要のために糸を紡ぎ織りして、主人たちは直接そういうことをしなくてもよい生活を送った。そういう社会構成の上にギリシアの自由都市は築かれていた。アナキネの物語は、ギリシアの社会に、婦人の本当の自由がなかったこととともに、女に課せられている紡織仕事に対し疑いをもっていたことがうかがわれる。
ジュノーとアナキネの関係が織り紡ぐ仕事における奴隷と主人との関係、義務を与えるものと、義務づけられたものとの関係を語っている。これを一つの例としてみてもすべての神話はその神話のつくられた時代の実生活とその社会的な根拠から湧き出ているということがわかる。ヨーロッパの封建時代、中世にはいろいろな騎士物語がある。騎士物語が近代小説の濫觴となっているのだが、なかで有名なランスロットを主人公とした長い物語がある。その中に美しい孤独のシャロットの姫君が登場する。テニスンが物語っているとおり古い城の塔の中に孤独な生活をしているシャロットの姫はというとその古い蔦のからんだ塔の中で一面の大きな鏡の前で機を織って暮している。もしシャロットの姫を愛し、その孤独から救ってくれる騎士があらわれれば、その騎士の姿は必ずこの大鏡の上にうつる、という予言がある。
シャロットの姫はもう何年も鏡の面をみつめながら、古城の塔で機を織りつづけたろう。今日もきのうも、そしてあしたも、シャロットの姫のものうい梭の音は塔に響いた。ところがある日シャロット姫がいつものように鏡を見ながら機を織っていたら、鏡の面をチラリと真白い馬に跨った騎士の影が掠めた。シャロットの姫がはっとしてその雄々しい騎士の影に眼を見張った途端に鏡はこなごなにくだけ、もう決してその騎士に会うことはなくなった。哀れな運命であったシャロットの姫の物語は、今日、私たちに何を告げているだろう。
ヨーロッパの封建時代である中世に女の人の生活は、どんなに運命に対して受動的であり、その受動的な日々の営みは、あてのない幸福を待ちながら城に閉じ籠って、字を書くこともなく、本を読むこともなく、朝に夕に機を織ったり刺繍したりしているばかりであったという現実が現われていると思う。日本でも太古の社会で既に紡織の仕事をしていた。天照大神の物語は日本の古代社会には女酋長があったという事実を示しているとともに、その氏族の共同社会での女酋長の仕事の一つとして彼女は織りものをしたということが語られている。天照という女酋長が、出来上ることをたのしみにして織っていた機の上に弟でありまた良人であって乱暴もののスサノオが馬の生皮をぶっつけて、それを台なしにしてしまったのを怒って、天の岩戸――洞窟にかくれた話がつたえられている。天照大神の岩戸がくれは日蝕の物語だともいわれる。けれども、私たちに興味があるのはあのままの物語――太古の女酋長の日常の姿ではないだろうか。
ずっと後世になりヨーロッパの中世にあたる日本の藤原時代、女の人はどんなふうに縫ったり織ったりしていたのだろう。源氏物語の中には貴族の婦人たちが、自分で縫物をやっている描写はないと思う。優婉な紫の上が光君と一緒に、周囲の女性たちにおくる反物を選んでいるところはあるけれど、落窪物語はやはり王朝時代に書かれた物語ではあるけれども、ここに描かれている人たちは源氏物語のように時代にときめく藤原の大貴族たちではない。貴族でも貧乏貴族のような立場の人の生活だと思う。落窪の姫は、昔から日本にある悲劇女主人公、継娘であった。自分の娘を引立てて、まま娘である姫は、建物の中で日もよく当らないような粗末な部屋だか廊下だかわからないような一段おちくぼんだ部屋に住まわせた。物語の終りは、そのようにいじめられた落窪の姫に思いもかけない立派な愛人が出来て、堂々とした生活をするようになる、一種の「シンデレラ物語」であるけれども、ここでまた私たちの目をひくのはこの落窪の姫が非常に縫物が上手で家中の者の縫物をやらせられるという点である。大貴族の婦人達は勿論自分で縫物などはしなかったけれども、貧乏貴族ぐらしの藤原の末流の人達になれば姫といっても自分で縫物をしたし、家中の縫物もさせられるような哀れな状態であった。王朝時代の文化と文学との中に美しい綾や錦を縫いつづけて、その細い指先が血を流した落窪の物語があることは注目に価する。
藤原時代の経済は荘園制の上に立っていた。京都にいる貴族の所有地である荘園とそこの住民は荘園の主にまかされて、すべての生活必需品を現物で京都の貴族たちに収めなければならなかった。あらゆる貴重な織物もこうして荘園の女の努力からつくられた。藤原時代というと十二単衣ばかりを思いおこすけれども当時一般の女ははだしか又は藁草履でさらさない麻を着るような生活をしていた。綿というものは貴重品だった。徳川時代になって服装は、一層複雑に当時の封建社会の矛盾をてらし出すようになった。
擡頭しはじめた町人が、金の力にまかせて、贅沢な服装をし、妻女に競争でキラをきそわせたことは西鶴の風俗描写のうちにまざまざとあげられている。幕府はどんなに気をもんで、政治的な意味でぜいたく禁止令を出したろう。それは、町人たちによって、きかれたようで実は決して服従されていなかった。江戸趣味といわれる、着物や羽織の裏に莫大な金をかける粋ごのみ、一見木綿のようでひどく質のいい絹織である結城紬、こういうこのみは、政治上の身分制に属しながら、経済の実力では自分を主張した町人階級の反抗の形としてあらわれたのであった。
徳川時代にももちろん紡ぐこと、織ることは一般の婦人、特に町人の婦人たち以外の仕事で、全く手工業として行われているのだが、興味あることは日本の織物として特色のある絣、それに縞、これらが女の人によって発明され織られていったことである。思いつきのいい或る女の人、感覚のいい人が独創性を発揮してそういう絣や縞を作り出した。それだのに、こういう独創性や能力は社会的に日本の生産に現れた婦人の地位を高める条件としては、ちっとも蓄積されていない。
例えば今日ではもう昔の物語になってしまった琉球のあの美しい絣織物にしても染めの技術にしても今はみんな壊れてしまってなくなったが、あれも土地の女の人の労作であった。ジャワ更紗など高い価値をもっていて大変美しい芸術的な香りをもっているものだが、あの更紗の製作者は誰だろう。ジャワの婦人たちである。写真でみると、極めて原始的な方法で染め、織っている。彼女たちの方法は幾百年来の方法である。
日本の軍人が、トランクや荷物の底に、価でない価で「買った」ジャワ更紗を日本に流行させたことを、わたしたちは決して忘れないだろうと思う。
インド更紗の美しさも世界にしられている。この立派な技術をもち美しい芸術的な生産をするインド婦人の生活はどうだろう。回教徒とバラモン教徒との対立は、一人一人の婦人の運命に重大に関係している状態である。
李白が「万戸砧をうつ声」と詩にうたったその日夜の砧は、宋[#「宋」はママ]国のどんな男がうっただろう。それはみんな婦人たちのうつ砧の音であって、数千年の間、人類の女性は、誰がために、何を、どういう事情のもとに紡ぎ、織り、染め、そして縫って来たのだろう。今日こそ私たちは、はっきり自分に向ってこのことを質ねるべきだと思う。何故なら、今日の発達した資本主義の国の生産の中でも紡織、裁縫の中で最も苦労しなければならないのは、婦人たちであるのだから。紡織は、イギリスで蒸気の力で紡績機械を運転することを発見して産業革命があって後、繊維産業というものが世界中ですっかり変ってしまった。
今日の紡績工場は耳が聾になるほどうるさい。何千という錘が絶え間なく廻っている。そこに十四五から、七八くらいの娘さんが一人か二人で働いている。平均一日五里以上を歩く。そこに働いている若い少女労働者は、殆んどみんな国民学校を出ただけの娘さんである。紡績業は明治の初め日本の資本主義発展の基礎になって、少女の安い労働でもって作った紡績生産量を、世界市場へ最も安く売り出し、イギリスのように紡績業が発達していると同時に一般の社会生活が進んでいて労働賃金の高いところの生産品と競争した。近代日本の資本主義は実に少女労働者の血と汗との上に立てられた。
明治維新は本当のブルジョア革命でなく、昔の殿様である封建領主、下級武士たちの権力に未熟な産業資本が結合したもので、土地小作の関係は実に古い封建制度のままもちこされた。そのために日本の農村の貧困は甚しく農家から貧乏のために一年幾ら、二年幾らと前借金して工場に集められた小さな娘たちの生き血が搾られた。そして工場に二年ぐらい働いていると悪い労働条件のために肺病となるものの率が多く、その娘たちは田舎の家へかえって不幸のうちに死んでしまう。工場ではそれに対して責任を負わない。工場の衛生問題、早期発見などということは関心をもたれなかった。紡績工場の生活がその労働や懲罰の方法、寄宿舎生活の内容において、どんなに非人道なものであったかということは、「日本の紡績女工のひどさは実に言語道断です」と、明治四十年代に、桑田熊蔵工学博士が議会でアッピールして満場水をうったようになった、と記録されているのをみても分る。また細井和喜蔵の「女工哀史」は日本の悲劇的記録である。第一次ヨーロッパ大戦後に出来た国際連盟の世界労働問題の専門部では、日本の労働者のおかれている条件は全く植民地労働の条件だと定義された。つまり世界労働賃金平均の半分から、三分の一の賃金で日本の労働者は働いていた。しかもその世界的にみると植民地的労働賃金である男子労働賃金に対して女はさらにその三分の一から半分で働かされた。今だって決してすべての婦人労働者の賃金は男と同じにはなっていない。日本の紡績女工の賃金の低さは世界の注目をひいているわけであった。
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