夕方、私は八十四で少しぼけ始めた祖母と、八十二で、貧しく村のうわさ話し伝達掛のそのばあさんと小娘と四人で晩飯をたべていた。もう仕舞い頃、電燈の光がよく届かない台所から、
「お晩になりました」
と、耳なれた女の声がした。
「だあれ? おみささん? お上りなさい」
「さあ、お前もおいで」
ことこと音がし、おみささんが現われた。十一ばかりの末の娘をつれて。おみささんは、大きい四角なかさばった風呂敷包みを小脇にかかえ、眼のすわらないそわそわした顔付きであった。
「さあ、もう何もこわえことないわ」
「何なの、どうかしたの」
「御あいさつもしないで――隣の家でえらいけんかが始りましてね」
「吉太郎げでかえ?」
「そうよしか、お前、とても一通りのこってねえの」
「たれか来てけ?」
「いんや夫婦よ、あのおきみっ子と吉太郎がお前、吉太郎はおきみっ子を殺すって出刃磨いでんだもの、おらあもうおっかなくておっかなくて家にいたたまれないから逃げて来たのよ」
「何だべまあ、そげえな」
「朝っぱらから口争いはしていたのよ、おれも聞いていたから、すると、いきなりさっきおきみっ子が逃げて来て、吉さが殺すからかくまってくれっていうじゃないか、おれあなじょにしようと思ってね、本当に。追かけて来てこっちまで斬られたりしたならつまんねえと思って、こっそり裏から河崎屋んげさ逃してやってすぐこっちに上ったんだけんど……おらほんにやんだわ」
血相をかえて話すので、私はぞうっとし、すっかり家中明け放した庭の暗が気味わるく成って来た。私はけんかは嫌いだ。切ったはったは何より嫌いだ。実際今夜人殺しがあるというのだろうか。
私は、落ついたような調子で、少し笑いさえ浮べていった。
「――騒ぎばかりひどいのじゃあないの?」
「私も、おきみッ子が逃げて来てそういった時は、まさかと思いましたが、この子があなたそうっとのぞいて来て、母ちゃん、おっかねえ、本当に出刃磨いててよっていうもんだで、窓の外へ廻って見ると、ほんによ、暗い流しであっち向いてせっせ磨いでるだもん、おれ足がすくむようだてば……」
「女房は殺すかも知れないが、他人のあなたをどうするということはないでしょう?」
「それがね、あの河崎屋のじいさま、ほんにいやなおやじだよ、けさ吉さに、もうけんかはやめたらよかッぺ、隣の安田でも馬鹿だちゅうて笑ってるなんぞといいましたんだって。とんだ恨でも買ったらなじょにしてくれるんだか。――今晩だけお邪魔でもとめて下されますまいか」
四十を越した、神経質な寡婦が、子供をつれ、大切なものまで抱えておびえてあがるのに対して、私は、それは私もこわい、かかり合のかかり合になるのは迷惑だといえるだろうか。私は、男きれのない生活を始めて不安に感じた。しかし、私は弱音を吐くことは許されない。
「ここへ来るとたれかにいったの?」
「いいえ、こっそり畑から来ました」
「――何にもありはしまいが、じゃあこちらで泊っていらっしゃい」
十六の女中は、背後を見い見い、
「おらあ……雨戸しめべえかしら」
とにじり出た。
「ほんにやんだこと……出刃なんか磨ぐた何だんべえ」
祖母が、下を向き、変に喉にからんだようなせき払いをしながら強く煙管を炉ぶちでたたく音が、さびしい夜陰に響いた。
十二時過て、私はいつも通り一人奥に寝た。祖母と八十二のおばあさんは廊下越しに離れた仏間に、逃げて来た母子は女中と茶の間に。家には平穏な寝息、戸外には夜露にぬれた耕地、光の霧のような月光、蛙の声がある。――眠りつかないうちに、「かすかに風が出て来たらしいな」私は、雨戸に何か触るカサカサという音を聞いた。「そう風だ、風以外の何であろうはずはないではないか、そして、あの雨どいの下にシュロが生えている、シュロの葉は大きく強く広がっていたのを私は昼間見たではないか」
私は……確り眼と耳をつぶって寝返りを打った。
「しかし」
いつか、また自問自答が始まった。
「――もち論あれがシュロの葉の立てる音だということはわかってはいるが……しかし、万一、そう万万万ガ[#「ガ」は小書き]一、その吉さという男が、血迷って女房を殺し、おれを馬鹿だといって笑ったかかあはどこにいると暴れ込んで来たら、自分はどうそれを扱ったものであろう」
私は女だ。吉さが刃物をもって来ては一応かないそうもない。が、あそこにいる、命ばかりはお助けとはまたいえそうもない。ああ、昔の女侠客はそういう場合どうしたか、私も講談で知ってはいる。勇ましく体をつき出し、こうたんかを切るのだ。
「お前さんも恨があるというからには、頼んだところで、おいそれと聞いてはくれまい。けれども、私も一旦おうと引受て、かくまったからには、御存分にと出すことあ出来ない。たってというなら、先ずこの私を切るなりつくなりしてからにしておくんなさい」
ふむ。――侠客の女房で、逆を行ったのもあった。あくまでいないとしらを切り抜くのだ。――「古い! 古い!」私は、自分の考えかたを換た。私は、出来るだけ落つき、こういおう。
「なるほど、あのひとは宿っている。けれども、私はあなたがどんな恨を持っているかは知らなかった。――恨があるなら晴らすのもよかろうが、刃物三まいは馬鹿なことだ。今は法律があって、何方が悪いかは役所で調べてくれる。一人人を殺せば……」
お前も死ななければならないからと、頭の中でいいつづけようとし、私ははたと当惑した。吉さは既に女房を殺してい、「どうせその一人はやっちまったごんだ、こうなりゃ、うぬ!」と気張ったら、さてどうしよう。
考えては、寝返りし、寝返りしては考えているうちに、私は体じゅう熱が出たように熱く成った。
こんなことでどうなるものか、成るようにしか成らない。第一、吉さが家にちん入すれば真先に自分の処へ来るものと思うことから滑けいではないか。台所から来るか、二階から来るか、勇敢にばりりと雨戸を引破るか、知れたものではない。来るか来ないか分らないものを十中九分の九まで来ないとさえ知れながら――私は馬鹿女だ!
しかし、村でも到頭人殺しが出るようになったか。(私の頭は何という依估地頭だ!)こそこそ泥棒も滅多にはなかったのに――。村の中で、この夜、村始まって初めての殺人があるかも知れないという状態はせいそうだ。私の想像はいやに活々して来た。まるで天眼通を授かったように、血なまぐさい光景の細目まで、歴然と目の前にえがかれて来た。これでは、実際あると同じこわさだ。神よ、私に眠りを授け給え!
一晩じゅう、どんなに私が体を火照らせ、神経を鋭敏に働かせ通したか、あけ方の雀が昨日と同じく何事もなかった朝にさえずり出したその一声を、どんな歓喜をもって耳にしたか、私のひとみほど近しい者だって同感することは出来まい。七時から、十二時まで、私は石ころのようになって眠った。
夕方になって、おみささんが礼に来た。
「何事もなくてまあよかったわね、どうしていて? その吉さというのは……」
おみささんは、変に極りのわるいような、口惜しそうな、ぷりぷりした調子で素気なく答えた。
「ほんに、何ちゅう人たちだら……今朝ねあなた、お宅からかえって、そうっとまた裏の窓からのぞいて見たら……寝てるじゃあござせんか」
「へえ……それでそのおきみっ子は? 逃げているの、やっぱり」
「寝てますのよ! 一緒に寝てますのよあなた、吉さとさ!」
「ほほう!」
徐ろに、笑えて来た。笑いが辛抱し切れなくなり、私は、遂にはははと、腹からふき出した。
何という愉快なことだ! はははは、滅多にそれこそあることではない。当人同士は、けろりとけんかも忘れ、睦じく抱っこ寝んねしている間に、傍のおみささんは娘の手を引っぱって逃げ歩き、とばちりを受けて私まで(たれにもいいこそしないが)一晩中まんじりともしなかったとは! ははは、思えば思う程おかしく、私は人のいない自分の部屋に来、歩きながら腰を曲げて笑いこけた。笑いこけながら、私はしかつめらしく考えた――心理学者にいわせたら、昨夜のような出来ごとに、何という名をつけるだろうか、と。
〔一九二五年七月〕
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