すみ子さん、こんにちは!
今日は湯浅さんとふたりで、珍しいところを見て来たから、忘れないうちにそのことを書きます。「子供の家」を見学して来たのです。
ソヴェト同盟には「子供の家」というものがあるのを、知っている? 親のない子供や、または親があってもいろいろわけがあって一緒に暮らせないような時、ソヴェト同盟には「子供の家」というのがあって、そこで食べさせて、着せて、十八になって一人前の働きてになるまで世話をしてくれる。それが「子供の家」です。
今から十四年前、ソヴェト同盟が新しい社会を建てた時、つまり革命をやった時、沢山の労働者・農民の闘士が赤色戦線でたおれた。間もなく、ひどいチブスが流行して、それでも大勢のものが死んだ。子供も死んだが大人も死んで、孤児がウンとできました。
そういう孤児をソヴェト同盟では立派な働きてとして育てるために多くの費用をかけて国家で「子供の家」を組織したのがそもそも「子供の家」のはじまりです。
今では、モスクワみたいに大きい都会だと各区に一つ以上の「子供の家」をもっている。だんだん「子供の家」にもいろんな種類ができて、日本でいう不良少年のような浮浪児を教育する「子供の家」と孤児の「子供の家」とは別になっている。
私たちの訪問したのは、親のないソヴェト同盟の子供たちの暮している「子供の家」の方です。
市の中心から東に向って電車にのる。
クレムリンの古めかしい壁の外をギーとまわって、菩提樹の下にベンチの並んでいる公園の横を通り、電車は次第に工場の多い区域に進みます。
少し先へ行くとモスクワ第一の大金属工場「鎌と鎚」の工場へ出る、その手前で電車を下りた。
町の名、番地を書いてある紙片を手にもって、曲り角を見上げては、右へ、また右へと静かな通りを進みました。(モスクワでは町の角々の家の壁にちゃんと町名札が出ているから、探すときにはそれを目あてに歩くのです)
暫く行くと左側に「母と子の健康相談所」のカンバンの出た建物がある。その二軒ばかり先が「五月一日の子供の家」です。
もとは誰かブルジョアの住居だったとみえて、正面には円柱が並んだりした大きな家です。横手に板塀がめぐらされていて、通用門はそこにある。
ずっと入って行くと、玄関のところで赤いネクタイをつけた可愛いピオニェールの少女と少年が声をそろえて嬉しそうに、
「あ、来た、来た!」
そして、こっちへかけ出してきました。
「こんにちは!」
「こんにちは! あなたがたでしょう? 日本からきた作家たちというのは――」
「電話で知っていたんです」
「さアこっちで外套ぬいで下さい」
われわれのまわりは忽ち珍らしそうにとりまいた十から十五六までの少年少女でいっぱいです。なかの一人が、
「じゃ私アンナ・ドミトリエーヴナにそう云ってくるわ」
奥の方へかけて行きます。
玄関から左手の奥の方は女先生、アンナ・ドミトリエーヴナの住居になっているらしい様子です。つき当りの窓に水栽培のヒヤシンスの瓶などがかざってある。
子供たちから見ると丁度お祖母さんぐらいの年恰好の女先生が、きれいな白髪で、しかし元気そうな顔つきで出て来ました。
「ようこそ! 子供たちはさっきから待っていましたよ。どうしておそかったんです?」
「モスクワは大きい市ですから、三年いたってまだ迷子になったんです」
ドッと子供たちは笑う。お祖母さん先生も笑いながら、
「おや、これから私どものところでは御飯ですから一緒にたべて下さい。それから……」
ぐるりと、かたまっているみんなを見廻して、
「今日は誰が文化委員です?」
と子供たちに訊きました。
「僕です」
「私も……」
「エレーナもそうです」
「では三人で、このお客さんがたによくいろいろ説明しておあげなさい。またあとで御質問がありましたら私がお答えしますから……じゃ、ごゆっくり、どうぞ」
ずいぶん日本のそういうところと様子が違うでしょう?
ソヴェト同盟では小学校からズッと生徒に自分たちの力で級の仕事をやってゆくように育てられています。
級長なんかというスマした優等生が、先生の小さい出店みたいなことをするのではない。級全体が選挙して、文化委員、衛生委員、学務委員というものを何人かずつきめる。
その委員たちが、みんなといろいろ相談し、学校の湯呑場、手洗場が清潔かどうかということから、先学期は、どの課目が級全体としておくれたから、今学期はそれをどうとりかえしてゆくかということまで、先生と相談してやって行く。
「子供の家」ももちろんいろんな委員で「子供の家」の中の日常の仕事がはこばれているのです。
さて、ゾロゾロと陽気な子供たちにまじって、食堂へ行きました。
長い木のテーブルに、何人もかけられるような床几がおいてある。みんなは学級順に年下の者を前にして腰をかける。大きい角テーブルがあって、そこにアルミニュームの鉢、サジなどがキレイにうんと積み重ねてある。
私たちは、一番年下の級の子供たちの間に挾って坐っている。子供たちがこっちをみる。私たちも子供たちをみる。そして互に笑い出す。――何のこだわりもない、実にいい心持です。
やがて食事当番の子供が二人がかりで大きいお鍋を運んで来て、角テーブルの上へおきました。ポーポー湯気がたって、美味そうな匂いがする。スープです。
別の当番の子供たちが、それを順ぐりにアルミの鉢に入れてくばる。
そこへ、
「子供たち!」
と、さっきの白髪の女先生が入って来ました。
「一寸しずかにして下さい。そして、私のいうことをきいて下さい」
大賑やかなガヤガヤがぴったりしずまった。
「誰か、きょう、地下室のガラス窓にボールをぶつけてこわした人があります」
さては、お小言か。こわした者は出ていらっしゃいと、わたしどもが小学校でやられた時の通りに進むかと思っていると、ソヴェト同盟では、ちがう。先生はしずかに言葉をつづけ、
「もちろんそそうでこわしたのはわかっています。私はそれを信じていますよ。けれどもね、子供たち! あの破れたガラスは非常に厚いいいガラスで、特別地下室のために製造されたものだったんです、残念なことにそれがこわれた。
わたしたちは新しいガラスを買わなければならないんですが、それは楽ではないんです。第一大変お金がかかる。それから、第二には、今ソヴェト同盟はみなさんの知っているとおり「五ヵ年計画」をやっています。モスクワに、いくつとなく新しい建物、工場が建って、そのどの建物にもガラスがどっさりいるんです。だからモスクワのガラスの生産力は、われわれの必要をやっと充しているので、一枚のああいう特別のガラスは今急に手に入らないのです。間にあわせに、わたし達はあすこへ普通のガラスを入れましょう。でもそれは薄いから、先よりもっとこわれ易いんです。どうぞみんなで気をつけて下さいね。地下室のガラスがこわれて雪や雨の水が入ると、家はひどくいたむんです。――わかりましたね?」
すると、口をそろえてみんなが、
「わかりました!」
「わかったです!」
「わかりました!」
またすぐ晴れ晴れとして、さア食事だ!
スープの次には、ひき肉を入れて煮たジャガ薯が出ました。
食べながらの話。――
「あなたがたピオニェールなの?」
「ええ。でもピオニェールでないのが一人いるわ」
「どうしたの?」
「ついこないだ『子供の家』へ来たばかりで、まだピオニェール分隊へ属さないんです」
「先生はアンナ・ドミトリエーヴナのほかに何人ですか?」
「もう一人です」
するとわきから、ミソッ歯で金髪の少年が、
「おや、あなたわたし達のドゥーシャに会わなかったんですか」
「ドゥーシャは、このひとたちの来る前にもうリョーリャの見舞いに行ったんですヨ」
「リョーリャって誰です」
「やっぱり子供の家に住んでいる子供です。病気で今病院にいるんです」
少し年上の、落着いた少年がつけ加えて説明しました。
「僕等は勉強は学校でするし、用事は委員会でやりますから、僅かの指導者だけで十分やって行けるんです」
食事がすむと、いよいよ「子供の家」の見学です。さっきの三人の当番とわたし達、それに用のない子供がつながって二階へのぼり、
「ここが女の子の寝室です」
ドアをあけられた室はカラリと広くて、日がさしている。窓のすぐそばに白樺の梢が見える。キチンと毛布でつつんだ寝台が四側に五つずつ並んでいる。
もう一つそれより小さい女の子の寝台があって、その先が大広間です。ブルジョアが住んでいた時分はここでダンスでもやったのでしょう。今はレーニンの肖像が飾ってある。寄木の床です。
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