「お茶いれましょうね」
湯のわく間、友子は内職の編物をまた膝にとりあげている。この夫婦も、もう久しく家をさがしていた。家が古くなりすぎて、風のきつい夜なんかはおちおち眠っていられない。でも、ここで探しているのはただ家だけであった。家の見つかるまでは、つい足をふみはずして準助が二階からパイプをくわえたままころがり落ちて、ひどく腹を立てたりしながらも二人でやって行っている。自分がこうやって時々瞳の中に小さい火をもやしたような顔つきになってさがしまわるのは何だろう。家ばかりのことでない。それはサヨも知っている。
友子の編棒からは、一段一段と可愛い桃色の毛糸の赤坊ケープがつくり出されていた。それを眺めながらサヨは、ふとある婦人作家の小説の中に描かれていた一つの情景を思い出した。それは、何年も一緒に暮した良人と愛の破綻からわかれなければならないことになった若い女が、女友達とつれだって、秋の西日のさす丘の上の町を家さがしに歩きまわっている場面であった。一つ角を曲って新しい道へ出たと思うと、やっぱりそこには西日の照る前のつづきの通りがある。散々歩いても一人の若い女が子供をつれて新しい生活を営むべき貸家は見つからないで、夕暮木犀の花の下をくたびれて歩いているとき、その若い女が覚えず洩らした深い歎息は、ああ、こんな思いまでしなくちゃならないものなのかしらという謙遜なひとことであった。しかしそのひとことには、女が生活の中で負ってゆかなければならないすべての意味がこめられているようで、その情景からはサヨの心に刻まれたものが深くあった。女が自分から自分の生活への態度として一軒の家をも持ってゆくようになるその過程で女は実にどれほどのことを学ばなければならないだろう。
友子が、
「ああそうそう、乙女さん、あなたのところへよりましたか」
ときいた。
「いつ?」
「ゆうべ」
「来なかったわ」
「――あのひと、田舎へ行って来たって、本当かしら……」
サヨは不安げな表情になった。
「何とか云ってた?」
「云わなさすぎるんですよ、行って来たにしては。勉さんの三周忌だったのに。ひょっとしたら、うっかり忘れてしまったんじゃないのかしら」
みんなの友達であった勉が、真面目で辛酸な若い生涯を終ったとき、あとにのこされた乙女と小さい娘の生活に対しては、親しかった何人かの友達が、誰からも求められてはいないがぼんやりした責任のようなものを感じて来ていた。
勉の年とった親たちは、亡くなった息子の代りに、嫁の乙女を一家の稼ぎ手として離すまいとしていた。乙女はそれが重荷で、娘をつれてマージャン倶楽部へ住込みでつとめたりしていた。気のいいコックの男がいて、それが乙女を散歩にさそっては、一緒になりたいと云っているということが乙女の口から友達たちに話されたりした。亡くなった勉は詩人になろうとしていた。だけれども、気のいい男だというのなら、乙女にとってコックという商売はそんな困った職業だったろうか。
ところがその話はそれなりになって、サヨが今度の家をもったとき、乙女も来て暮したらどうだろうかという案が友子から出された。そのとき乙女は、相変らず小柄な体に派手ななりをして、長い両方の眉毛をつりあげるようにして下唇をなめる昔の癖を出しながら、そりゃ一緒に暮して行ければ、あたいもいいと思う、と云った。そして、もう一度上唇と下唇とを丁寧になめると、けんどね、と力をこめて目を据えるように、もしあたい一人になったりしちゃって、困らないだろうか。サヨ子さんたちは、そういうときでもちゃんと成長してゆけるけど、あたいはやっぱり普通の女で、そうやっていたっていつまでたっても、普通の女としてのこるばっかしだろう。
野兎のおどろいた時のような素朴な美しい感じの顔をしていた乙女が、いつ友達の女たちと自分の一身との間にそんな区別をおいて身をしさらすことを覚えたのだろう。そう思ってサヨはその時大変悲しかった。
その時分に、勉が生前知り合いだった画家との間がどうこうという話があった。
「勉さんがあんまりストイックだったから、乙女さんの気持もわかるようなところもあるけれど……でもね」
その画家を勉がしんからすいていたとはいろいろな事情から考えられなかった。勉が善意に生きて死んだ熱心さが、妻である乙女の躯でどうでもいいものとされているとすれば、それは、死んだひとにとっても生きている自分らにとっても一つのむごたらしいことだとサヨには思えるのであった。
初夏が来て、新緑の雑木林は、夜も昼も捲きひろがろうとする若葉の勢で幹も黒く軟くひきのばされて揺れているような眺めとなった。
その夏は、原っぱのトンボ釣りの子供らがずーっと活躍の範囲をせばめられた。飛行公園になるとか云われていた原っぱに梅雨があがると、トタン葺きの大きな作業場が拵えられ、土工の飯場が出来た。一日じゅう掘りかえされたり、木材を満載したトラックがひどい音でエンジンをふかしたりした。
サヨはもう原っぱを抜けるのはやめた。そこばかりでなく、原っぱへ入る針金のやぶれのそばでも、地割りをしたところに地鎮祭の御幣が白い紙を風にひるがえしていた。釘がない。材木がない。そういう世間をよそに原っぱでは同時にいくつもの建築が着手された。遠くの自動車練習場の日の丸の旗は見えなくなっていた。ガソリンが払底だった。
秋がすすむにつれて、原っぱの工事場のごったがえした堆積の人間の動きの中から、徐々に建てられているものの輪廓がせり出して来て、きょう作業場の小屋掛けがとり払われたかと思うと、いつか飯場の露天竈も見えなくなって、後に長いコンクリート塀に囲まれた幾棟かの建物が完成した。そこには造幣局が出来たのであった。
そうなると、改正道路から見る原っぱの眺望も初めの頃とはすっかりちがって来た。左手にあの桜の並木の側に四角く建ったのは小学校である。それから、そのすこし奥に真新しい造幣局が出来て、それは以前そこまであとしさりして行ったもっと長いコンクリートの高塀と、黒い道一筋をへだてているだけである。草っ原は今やひろびろとした一帯の印象を失って、途切れ途切れの空地にすぎないものとなった。それでもそこから秋の更けるまで頻りに虫がすだいた。
もう一つ夏がめぐって来たとき、界隈の様子はまたこまかくうつりかわっていて、そこの小さな女の児が背負って遊ぶ赤い人形が、おから桶の上に転がっていたりする豆腐屋のガラス戸に、原料不足につき月二回休業のすり紙がはり出された。
棒鱈屋のさきの米屋に、米の御註文は現金で願いますと刷ったビラと並んだ黒板に、内地米二割、外米八割と書かれていた。マッチ配給イタシマス。そういう貼紙が荒物屋にあった。そして、短い町すじの共同水道をはさんだこっちとあっちとに、町会が建てた二本の建札があって、それにはその前に建札の立った家からの戦死者の名が記されているのであった。
パッカードとかハドソンとかいう高級車が時々その長い高塀に開いている門の横にとまっていることがあるようになった。
その年の春ごろから、世の中が愈々鋭い角度で推移しはじめていることがそんな光景にも語られているようであった。
幾度か苦しい気持になりながら、それでもサヨは一つ住居に住みとおして、時間のゆとりのあるつとめの傍ら少しずつ洋画の修業をやり直しはじめていた。
重吉に対するサヨの妻としての感情は、云ってみれば純粋でしかあり得ないような条件で、サヨはその感情の純粋な単一さとでもいうようなものにこりかたまることを、重吉の心の成長のためにも自分のゆたかさのためにも警戒した。自分でも気づかないでいたような様々の感情を、自分に向って表現する手だてがあるとすれば、サヨとしては好きな画を描くことによるしかなかった。サヨが自分で自分のいろんな到らなさや鬱屈や感情の上すべりした所を絵のなかでは割合発見してゆけるように、重吉もサヨのそういう実際を、サヨの下手なスケッチ絵ハガキからつかむだろうし、そのことから、重吉自身が自分の心の明暗を濃やかに活々とさせ得ることがあったとしたら、うれしいにちがいなかった。
絵に表現されてあるものについては、ともかくぐるりの友達が遠慮なく感想を云ってくれる。それもサヨにはよろこびであった。絵をやりはじめてから、いつかの春、雑司ケ谷の墓地のあたりを切なさいっぱいでふらついて歩いた。ああいう衝動も、サヨは情熱の潜勢力のようなものにかえて暮せるようにもなった。
八月はじめの或る夕方、サヨは妹夫婦の家に行った。ゆき子が初産で、予定の日が来ていた。母親が早くなくなっている姉妹で、そういうときゆき子は姉を心だよりにするのであった。
重々しく充実した体にちょいと可愛くサロン前かけをつけて、上瞼に薄く雀斑のある顔を傾けながら、ゆき子はいやに断定するように、
「今夜あたり、どうもあぶなっかしいわよ」
と云い出した。進一は縁側にねころんで食後の煙草をつけている。
「またおどかしだろう」
「ずるいわ、御自分はこわいもんだから」
サヨがあわてたように二人を見くらべながら、
「ねえ、ちょっと。自動車大丈夫なの? 私いやよ」
と云った。
病院へはサヨがついて行く約束になっているのであった。
ほんとに夜なかの二時すぎたころ、サヨはひどく甲高な声で何か云っているゆき子の声と格子のあく音とではっと目がさめた。茶の間へおりて行ってみると、ゆき子は煌々とした灯の下で、もうさっぱりした浴衣にきかえて、立ちながら手くびにつけた時計を柱時計と合わせている。
「ああ、めをさまして下すって、よかった!」
幾分ふだんと変った声で云って、腕時計の面を見守りながらねじをまいている。
サヨはいそいで着物をきかえ、進一が運転台にのって来た自動車にゆき子をのせた。ゆき子はサヨの手を握っていて、痛みがよせて来るたびに握っている手に力をこめて息をつめるのであった。
「大丈夫? もつ?」
そう云いながらサヨも我知らず人気ない街を疾走している自動車の中で草履の爪先に力をこめた。痛みの間がだんだん短くなって、サヨの心配が絶頂になった時、車はやっと病院に着いて、ゆき子はすぐ産室につれられた。
二階の室で、閉めてあった窓をすっかり開け、サヨはそこにあった籐椅子を二つ並べてその上へ脚をのばした。生れるのは早くて朝になるということであった。風のない蒸し暑い夜で、廊下の向い側のドアをあけたままの部屋部屋にぼんやりした灯かげと産婦たちの寝息がみちている。その人達の目をさまさせないように椅子のきしみにも気をかねて、落つかない窮屈な気持でサヨは団扇をつかっていた。
やっぱり籐で作った円テーブルがその室の隅にあって、下の棚に何か雑誌のようなものがおいてある。サヨは片脚ずつ椅子からおろして、立って行ってそれをもって来た。一冊は映画雑誌であった。もう一冊は大阪の方から出ている半社交娯楽の雑誌で、カットなどに力をいれた編輯がされていた。知っている婦人画家の描いたのもあったりするので、暇つぶしに頁をくってゆくうち、サヨは我が目を信じかねる表情になって一つのカットを見直した。そこに描かれている女は乙女であった。乙女でなくて、ほかの誰が、こんなに特徴のある弓形の眉だの、黒子があってすこし尖ったような上唇の表情だのをもっていよう。二字の頭文字は、昔乙女の良人が知りあいだった例の画家の姓と名とを示していた。絵の乙女は、その体に何一つつけていないはだかであった。粗い墨の線で、やせて小さくそびえた肩が描かれていて、その肩つきはまぎれもなく乙女の肩であった。はだかの乙女は生真面目に真正面を向いて、骨ばった片膝を立てた姿勢で坐り、両腕はそのまんまだらりと垂して、二つの眉をつりあげて今にも唇をなめたいところをやっと堪えていると云いたげな表情であった。そのまるむきな小さい女を画家は荒い筆触で、二つの目の見開かれた大の腕のつけ根や腹の暗翳だのを誇張して表現しているのである。
乙女。乙女。サヨは計らず再会したこのいじらしい昔馴染の名を心で切なく呼んだ。はだかになったところをこの画家が描いている。いかにも乙女らしく媚びることも知らず描かれているが、そこに語られている意味が何をあらわしているか、乙女は思って見たのだろうか。画家が何を現わそうとしているにしろ、乙女がそこにそうやっているそのことに、切ないものがある。それを知っているのだろうか。
雑誌をとじて、サヨは椅子の背に頭をよせかけていた。
蒸し暑いまま夜が明けはなれて来た。窓のすぐ外のプラタナスの街路樹がだんだん緑の葉色を鮮やかに見せて、朝日の条がその上に燦き出した。
突然どこか階下の方で、一声高く赤坊のなき声がした。サヨは反射的に椅子から立ち上ったが、割合しっかりした男の子の声だったように思えて躊躇していると、看護婦が廊下を走って二階の階段をこっちへのぼって来たのがわかった。急に動悸しはじめたのを感じながら、サヨは丁度看護婦が階段をのぼり切ったところへ出会い頭に出て行った。
「生れました?」
「おめでとうございます。立派なお嬢ちゃんです」
サヨは膝の力が抜けてゆくようなよろこびの感じを、初めてこの時経験した。階下へおりるまでに、こんどは続けて赤坊のなき声がして、それはまだ見ない自分たちの赤坊の精一杯の生への呼びかけで、サヨは可愛さがほとばしって喉へこみあげた。
傍の電話室へ入って、進一を呼び出した。サヨは興奮した声で、
「いま、安産よ」
と告げた。
「女の児よ。盛にないているの、きこえますか?」
進一は曖昧な返事をした。サヨは、
「ちょっとお待ちなさい、きかしてあげるから」
そう云って電話室のガラス戸をあけて、受話器を紐の長さいっぱいに廊下へ向けて引っぱった。
「ほら! ないている。いい声でしょう?」
しかし、電話でいま生れたばかりの赤坊の声をきかせるのは無理なことだった。すぐ進一が来るということで、切った。
そこは産室につづいた廊下の端れで、二枚のドアが市内らしく狭い内庭に向ってあいていた。朝露に濡れた平石の上に石菖の大きな鉢がおいてあって、細く茂りあった葉もまだ露を含んでいる。綺麗にしめりけを帯びた青い細葉の色が夜じゅう眠らなかったサヨの瞳にしみ入った。
非常に深い安らかなよろこびがサヨの心を満していた。そんなよろこびと安心の感情は予想していなかった。それほど大きかった。そのうれしさや安心とはまた別に、さっき雑誌の頁の中に見た乙女の姿がサヨの心の裡にある。
雀の囀りが活々と塀のところに聞えたと思うとやがて、ラジオ体操のレコードがどこかで鳴り出した。ピアノの単純なメロディにつれて「ヨオーイ、始メッ」というあの在り来りのレコードだが、擡げた顔に朝日をうけて凝っとそのピアノのメロディを聴いているうちに、サヨの体は小刻みに震えて、忍びやかな嗚咽がこみあげて来た。
このメロディは、重吉とサヨが結婚して間もなかったころの初々しい朝の目覚めの中へ、どこか遠くから響いて来た単純なメロディであった。
メロディとともにその部屋をふきぬけて、二人の体の上をわたった夏の朝の風の思い出で、サヨは泣けて来るのであった。
今のよろこびに通じるまじりけのないよろこびの思い出のため、サヨは涙をおとした。
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