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赤い貨車(あかいかしゃ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-2 10:30:02  点击:  切换到繁體中文


        八

 細い肱を蟹のように張って、ナースチャは火のしをかけた。二人寝台用の大敷布はたたむにも、伸すにもナースチャ一人の手にあまった。アンナ・リヴォーヴナが新聞の上へ出して行った木炭は少しだから、火の気の強いうちに、急いでかけてしまわねばならぬ。力がいるのと木炭のガスとでナースチャの顔はほてり、頭痛がした。しかしナースチャは、肱を蟹のように曲げ一生懸命火のしをかける。
 ジジーン!
 呼鈴がクワルチーラじゅうに響いた。火のしを平ったい金びしゃくにのせ、ナースチャは入口へ行った。
「どなた?」
 いきなり開けるなと、ナースチャはきびしく云いつけられているのであった。
「開けて下さい。部屋を見に来たんですから」
 それは全然聞きおぼえのない男の声であった。ナースチャは、戸に手をかけたなり怒った声で、
「誰です、そこにいるの?」
と云った。部屋を見る人間がいるなんて、ナースチャは聞かされていなかった。
「心配なさるな、アンナ・リヴォーヴナのクワルチーラでしょう?」
「ええ」
「部屋を拝見に来たんです。開けてくれればいいんです」
 午後二時半で、家はナースチャひとりであった。そればかりか建物全体が一日じゅうで一番しんとして人気のない時刻だ。ナースチャはだんだん気味悪くなり、戸の外の気配をきき澄した。
 外の男は足をふみかえたり、もそもそしていたが、こんどは拳でトントン戸をたたいた。ナースチャは、内から前垂の端をつかんで叫んだ。
「行って下さい。知らない人に戸を開けることなんて出来ないんだから。アンナ・リヴォーヴナはお留守ですよ」
「強情ぱり」
 そう云う声がし、つづいてコンクリートの階段を降りる足音がした。――悪魔奴チヨルト、どいつを連れていったんだ!――ナースチャは台所へ戻り、火のしに木炭を足し、サモワール用の小煙筒をしかけた。ナースチャは、満足を感じながら、ふつふつと小さいおきの落ちたのを一枚の仕上った敷布の上から吹きはらった。アンナ・リヴォーヴナは、ナースチャが洗濯上手だと云って、ひどくほめた。ナースチャもほめられれば嬉しかった。ナースチャが来たては中国人の洗濯屋に出していたこの大敷布までいつか彼女が洗うようなことになった。洗濯屋に負けず綺麗だと云われるために、若いナースチャは過分に労力を費すのであった。
 十五分もたったころ、アンナ・リヴォーヴナの声が入口でした。
「さあさあ、どうぞこちらへ」
 ナースチャは台所の戸からのぞいた。アンナ・リヴォーヴナのうしろから、バンドつきの外套を着て書類入ポルトフェリを抱えた山羊髯の小男が、すべるような足どりで入って来た。男はナースチャを見つけると、ちょっと鳥打帽子のひさしに指をかけ、いやに丁寧に、
「こんにちは」
と云った。さっきの男だろうか。ナースチャがまごついていると、その山羊髯の男は唇だけで薄く笑いながら、
「アンナ・リヴォーヴナ、あの娘さんがさっきわたしを入れませんでしたよ」
と云った。
「まあ、どうしたのさお前、御挨拶をおし。田舎のお嬢さんですが、それはよく働きますの」
 アンナ・リヴォーヴナは愛嬌よくナースチャに近よって肩をたたいた。
「お互に仲よし、ね。親子のようにやっています」
 ナースチャは、つっ立ったまま二人が食堂に入るのを見送り、肩をしゃくり、台所へ戻った。男の水のように冷たくて、ねばっこい瞳がナースチャを不快にした。男は唇で笑ってアンナ・リヴォーヴナに話しながら、眼でじっと睨んだのであった。
 男は本当に部屋を借りるらしかった。パーヴェル・パヴロヴィッチが書斎のようにしていた小室へ、先週大工が来て棚を作った。その室をアンナ・リヴォーヴナは男に見せた。壁をとおしてナースチャのところへ話が聞えた。
「ちょっと失礼、この寝台はこっちの壁へつけた方が勝手なように思われますな」
「それはどうぞ御勝手に、わたしどもあなたが居心地よくていらっしゃればなによりなんですから」
 床の上をすべるような気ぜわしい靴の音。
「ごめん下さい、こっちは台所ですか」
「ええ、ですけれど」
 アンナ・リヴォーヴナがいそいで答えた。
「決しておじゃまはさせません。朝はどうせあなたと御一緒時分ですし、わたしども夜だって早いんですから」
それは結構ラードノ。……もう一分間どうぞおじゃまさせて下さい。あなたんところに大きな絨毯はありませんか」
 男を送り出すとアンナ・リヴォーヴナは頭をふりふり食堂へ戻った。夜、リザ・セミョンノヴナのところへ茶を運んだ時、ナースチャは、
「聞いて下さい。リザ・セミョンノヴナ」
 例の、もう散らかりかけている小机の隅へ膝をついた。
「今日、なんて男が室を借りに来たか! なにか云うたんびに一々ちょっと失礼だの、ごめんなさいだのくっつけるんですよ、そのくせ、机が二寸長すぎてもいけないんだって!」
 肌の綺麗な顔を少し反らせ、湿っぽくて臭そうなナースチャの綿繻子の前垂を眺めながら、リザ・セミョンノヴナはきいた。
「もうきまったの」
 ナースチャは田舎女らしく目まぜをしてささやいた。
「アンナ・リヴォーヴナはちっともその男を好いちゃいないんです。ちゃんとわかってる。――でもお金があるんですよ、半年分払うんですって」
「ふうん」
「あの山羊髯!」
 リザ・セミョンノヴナは無頓着に云った。
「いいさ、そんな男の細君になる女だってあるんだから」
 出がけにナースチャが戸を開けると、廊下で鋸の音がした。
「なにがはじまったの」
「ごらんなさい、パーヴェル・パヴロヴィッチが机を二寸ちぢめているんですよ」

 男は越して来た。台所に引っこんでいたナースチャが風呂場へ行って見たら、風呂場の壁へ特別彼用のニッケル製手拭掛と、歯磨ブラシ、コップなどのせるやはりニッケルの道具が取りつけられていた。男は自分用の茶碗を持って台所へ行こうとして小熊の剥製や帽子掛のある廊下でリザ・セミョンノヴナに出喰わした。猫背ですべるように歩いていた彼は、素早く歩を横に移して壁ぎわにより、ぴったり脚をそろえて立った。
「こんにちは」
「こんにちは」
 行きすぎようとするリザ・セミョンノヴナを遮って、
一分間ミヌートノおじゃまさせていただきます。あなたもここにお住いですか」
「ええ」
それは結構ラードノ。どうぞあなたの美しいお手を――わたしはオルロフ、経済をやっています」
 リザ・セミョンノヴナは手の甲を接吻させ、自分の名は云わず室に入って勢よく戸を閉めた。
 オルロフはこれまでアンナ・リヴォーヴナの食堂にあった家で一番いいスタンドも借りて自分の部屋へ据えた。彼は二つの葡萄酒コップを持っていた。葡萄酒コップは茶がかった緑色で台にグリグリ飾のついた玻璃はりであった。朝ナースチャが、彼の茶碗に茶を入れて運んで行くと、「バルザック」とレッテルの貼ってある白葡萄酒の瓶の横にそのコップがあって、オルロフ自身は山羊髯をなで、布張の椅子にいる。彼は目を離さずナースチャの顔を見て云った。
「ナースチャ、コップを洗ってくれるね」
よろしいハラショー
「もしお前がこわしたら、くびり殺すからそのつもりでいなさい」
「…………」
「わかったか」
「わかりました」
 ナースチャは、ぷりぷりしてコップを盆にのせるのであったが、心のうちでは恐怖を感じた。それを洗って元に戻すまで、オルロフの水のように冷たいねばっこい眼付がつけて来るような気がした。
 リザ・セミョンノヴナとオルロフはすべてに正反対であった。例えばリザ・セミョンノヴナは室掃除のことでいつか小言を云ったことがあるだろうか。南京虫がくった朝だけ、リザ・セミョンノヴナは、
「ごらん、ナースチャ」
 柔らかなあしでも手でも、赤くふくれたところをナースチャにつきつけて云うのであった。
恥しくないかいニエ・ストィドノ
 アンナ・リヴォーヴナが寝室の戸棚へしまっておくミヤソニツカヤ通のおそろしい臭いの南京虫退治薬をまけと云うだけのことなのであった。
 オルロフのいるうちに、なるたけ彼の部屋は掃除しなければならない。オルロフは室を去らず、ナースチャが机の上をいじっている時に、椅子の上から、椅子の下をはくときは衣裳棚の前に立って監視した。
「どうぞ御親切に、ナースチャ、その暦はインキ壺の右の肩のところへおいて下さい」
 または、
「あれが見えないかね、可愛いナースチャ」
 猫背のオルロフが水のような眼で見ているところは寝台の下で、鞄の端に一条の糸屑が引っかかっているのであった。

        九

 十二月になった。日が短くなって、モスクワには毎日雪が降った。
 頭からショールをかぶったナースチャは脚の間に石油罐をおき、歩道に立っていた。石油販売所はまだ売りはじめない。雪の積った燈柱の下にトラックが一台いた。そのトラックと石油販売所の入口にかけて歩道を横切り階子はしごのようなものがかけられていた。トラックの上の男が石油の大きな樽をその階子にのせた。歩道にいる男がそれをころがして店へ運びこむ。石油販売所の内部は暗くがらんとしている。陰気な石の壁の上にも石の床にも石油のしみと臭いがある。トラックからおろす石油の樽も油じみて黒い。その樽に雪がついていた。
 雪は細かく、しきりに降る。
 石油販売所の石段から、買いての列は町角のタバコ売店キオスクの前まで連った。女ばかりであった。ナースチャの後には石油焜炉プリムスを下げた婆さんが立っていた。ナースチャの前には、若い娘が繩でつるしたガラス壜を歩道において、壁にもたれ、一心に本を読んでいる。ショールからはみ出した娘の前髪に雪がちらちらついた。粉雪をとおして遠くに、アルバート街の赤と白で塗った大教会の塔が美しく眺められる。
 ナースチャはバタも買わなければならなかった。彼女は四十分も待っているのだ。ナースチャは、うしろの婆さんに、
「わたしちょっと買物をしてくるから、番おぼえてて下さいね」
と頼んだ。
「罐おいてくから、どうぞ見てて下さい、お婆さん」
 石油焜炉プリムスを片手に下げながら婆さんは、往来から拾った吸いのこりのタバコをふかしていた。
「よしよし、見ててやるよ」
 バタとジャガいもを籠に入れ、籠は腕にひっかけ、外套のかくしから向日葵の種を出して食べ食べナースチャが戻って来ると、石油販売所の人だかりは一そうひどくなっていた。ただの通行人は、そこまで来ると、車道へおりて行った。ナースチャが自分の番の場所へ立とうとすると、さっきはいなかった太った紫のプラトークの女がそばにいて、
女市民グラジュダンチカ! どうぞ順にならんどくれ、わたしはお前さんより前に来ているんだよ」
と叫んだ。
「なぜさ。わたしはさっきからここにいたんですよ」
 石油焜炉を下げてタバコをのんでいた婆さんもどこかへ行って見えなかった。ナースチャはもう一つうしろの女を証人にしようとした。
「ね、お前さんだって知ってるねえ」
 茶色の帽子をかぶった女は、外套の高い襟の間から鼻先だけ出し、つまらなそうに答えた。
「知らない」
「うしろへおいで。ごまかしたって駄目だよ、女市民さんグラジュダンチカ
「お前ここへ立っといで、いいから」
 そう云ったのは、ナースチャの前で本を読んでいた娘であった。
「この人は、はじめっからここにいたんです。わたしが知ってる。罐もある――ごらん」
 ナースチャは再び罐を足にはさんで立った。娘も本を読みつづけた。
 ナースチャは、向日葵の種を前歯で破って殻を唇の間からほき出しつつ、娘の本をのぞいた。読んでいるページの上に、どこか図書館の紫のゴム印がおしてあった。ナースチャはしばらく眺めていて、きいた。
「面白い、その本」
「うん」
 ナースチャは、吐息をつくように云った。
「わたしんとこにはなにもない」
 指をページの間にはさんで本をとじ、娘はナースチャを見た。
「なぜ?」
「なぜだかそうなんです」
 ナースチャは規則正しく、速く向日葵の種の殻をほき出しつづけた。娘は、石油販売所の入口の群集を見た。
「どうしたんだろう、今日は」
 往来を映画の広告車が五台つづいて通った。赤塗のゴム輪の上に、赤坊を抱いた女の顔の大写しと、火事場の焔のなかに働いている消防夫の写真が掲げてある。車を押す男たちは、降る雪にさからって首を下げ、ならんで電車路を横切った。
 娘が、
「あれは面白いよ」
と云った。
「みた? お前」
「いいえ。……わたし映画キノ大好きだけれど高くって――それにわたしいつも独りで行かなけりゃならないんです。みな友達づれだのに、はじめっからおしまいまでわたし黙って坐ってるんです」
「どこかに働いてるの」
「ええ」
組合ソユーズに入ってないの、お前」
 ナースチャは、拇指のつけ根みたいなところで口のはたをふきながら娘を見た。ナースチャはきかれたことを理解しなかった。
組合ソユーズ……どんな」
「ナルピット」
「そこへ入ると映画がやすくなるんですか」
「わたしいつだって十五カペイキか二十カペイキでみている」
 やっと石油が売り出され、列は少しずつ前進しはじめた。娘は繩で壜をつるし上げながら云った。
「わたしもう二年組合に入って、夜は勉強しているし、朝九時から夕方五時ぐらいまでの働きだし、満足してるわ」
 壜へ石油をつめてもらうと、娘は、外套に雪をつけたまま、ナースチャの横を通りぬけて先へ出て行った。

 村での話とはちがって、ナースチャがいつくと、直ぐ二人も借室人クワルチラントが入った。その一人が、直接の主人よりナースチャになんだかおっかぶさって(悪魔チヨルトさらわれろヴァジミー)泣きたい気持にさせるのも仕方がないとする。洗濯物のふえたことも、このごろは食物ごしらえをほとんど一人でしなければならなくなったこともまあいいとする。ナースチャを苦しめるのは、この森の樹より人間の多いモスクワで自分が、まるっきりの独りぼっちだという事実であった。
 アンナ・リヴォーヴナは不親切ではなかった。しかしそれはアンナ・リヴォーヴナが、親切にしようと思っている間だけのことであった。もし自分が病気になって働けなくなったらどうなるか、ナースチャは感じていた。アンナ・リヴォーヴナは自分を彼女の借室クワルチーラの台所の隅においてはおかないであろう。頭のなかにはるかに小さくソフィヤ村のひろい原っぱや、原っぱのかなたに動かぬ赤い貨車の景色などが浮んだ。白樺の生えたあの二階家で、伯母がよくも自分を養っていてくれたといまは思われた。働きがなくなったと云ってそこは帰れるところではない。ナースチャは仲間がほしかった。その仲間のほしい心持を話す友達さえないということが、このモスクワであり得るだろうか。
 モスクワだから、それはあり得た。ナースチャがたまに夜映画から帰ると、アルバートの広場で通りすがりの若い男が耳のそばで、
行こうよパイディヨム
とささやいた。ナースチャがその若ものの顔を見定めずに通りすぎるように、その男もナースチャの顔をはっきり見もせず、麦酒屋ピブナーヤの窓から片明りのさす歩道でささやくのであった。

        十

 入ったばかりのところは、がらんとした室だ。木の床の上に大机が一脚あった。その机の上に数冊パンフレットがおかれている。赤い布で飾ったレーニンの肖像が左側の壁にかかり、その下に壁新聞がはってあった。壁新聞に赤いプラトークをかぶって手を振っている若い女の笑い顔の插画がある。
 上靴ガローシをぬぐのか脱がないのか、ナースチャは、迷って、誰もいぬその室に立ち、見まわした。室の境に戸がなく、奥が見えた。上靴をはいたまま、女がある机の前に立っている。ナースチャは腕にかけた買物籠がゆれぬように片手で押え、そろそろ奥へ歩いた。
 暗い室だ。大机が三つあって、三人の女が働いていた。白タイルがところどころ欠けて、燃き口のくすぶったペチカが室の隅にある。
 入口に立っていると、ナースチャに一番近い机の前に坐っている女が、
「お前さんはなに用」
ときいた。藍縞の男ものシャツを着て、紺と黄色のさっぱりしたネクタイを胸の上にたらしている女であった。
「わたし組合ソユーズに入れましょうか」
「なぜいけない? まあ掛けなさい」
 アンナ・リヴォーヴナの台所にあると同じ腰かけにナースチャは坐った。他の机の前では、さきに来た女が小さい帳面を出して、なにか計算してもらっていた。「お前さんは、いままでに二十二ルーブリ五十カペイキしか受けとっていないことになるね」「ええ」――「あまりがいくらあることになる?」女は二十六ルーブリ近くだと答えた。――「よく見といで、二十五ルーブリと五十カペイキだよ」好奇心と不安とをもってナースチャはその問答をきいた。
「デリ」と赤地に金文字つきの平ったい箱から巻タバコを出し、吸いつけながら、紺と黄色のネクタイの女が云った。
「さて、と……お前さんどこで働いている?」
「アンナ・リヴォーヴナのところです」
「番地は」
 ナースチャのそばかすのある顔がだんだんひどく赤くなった。
「知りません」
「じゃいい。いままでいっぺんも、どこでも組合員だったことはない?」
「いいえ」
「そのアンナ・なんとかさんの家へ来るまで勤めていたかい」
「いいえ、はじめてです」
「いく日もう勤めた?」
「去年の八月からです」
「八、九、十、十一、十二、一、二――と。月給はいくら」
「十三ルーブリ」
 ナースチャは正直に金額を答えてから、心配になって女の顔をじっと見た。女はしかしあたり前な顔で、机の引出しから二枚、大きい紙を出した。
「さ、これを持って帰ってすっかり書きこんでもらっといで」
 ナースチャは、きき間違え、また赤くなった。
「わたし、書けません」
「お前さんは主人じゃないだろう」
 タバコの煙をふっと口のすみからふきながら、陽気に云って、笑った。
「ごらん、すっかりこの項目に、主人の名、職業、お前さんの名、パスポルトの番号、月給、働く条件、休日まで書きこんでもらって、それから組合に入るんだ、わかったろう?」
「ありがとう」
「主人が書いてくれたら、住宅管理人に裏書きしてもらって、またここへおいで」
 ナースチャが、紙を手にもって立ちかけた時、女がきいた。
「クラブへ行ったのかい、お前さん」
「いいえ」
「誰にこのメストコムをきいた?」
「リザ・セミョンノヴナが教えました」
 椅子の背にタバコを持った手を廻してかけ、女は立っているナースチャを見上げた。
「誰だい……それは」
「家にいるお嬢さんバーリシュニャーです」
「ふむ……よしよし」
「さよなら」
 女はうなずいて、こむらで椅子を押しながら自分の場所から立ち上った。

 凍って白い並木道ブリワールでは大勢の子供がスキーで遊んでいる。母親や子守のいるベンチの前を中国の女が、ゴムでつるした色つきまりを売って歩いた。雪の長い並木道を纏足てんそくで中国の女は黒く、よちよち動いた。並木道の外れの電車路に、婆さんと男の子供がいた。転轍手と遊んでいた。
おくれよダワイおじいちゃんデードシュカ
 転轍に使う金棒を男の子はほしがった。白い髯で山羊なめし外套の転轍手は笑いながら、金棒をうしろにかくした。
いけないよニエ・ナードいけないよニエ・ナードおくれよダワイ
「ワロージャ!」
 婆さんが叱った。転轍手は男の子に金棒を渡した。男の子はたちまちその金棒にまたがって、雪の上を駈け、あっちへ行った。転轍手は子供の方と、かなたの電車線路の上とをかわるがわる眺めた。電車が見えはじめた。転轍手はいそいで子供のところへ走って行った。
 ナースチャは自分の村にあった鉄橋の景色を思い出した。鉄橋の両端には見張所があった。銃を肩から逆さにつった平服の番人が橋桁にならべた板の上をいつもぶらぶら歩いていた。ナースチャの死んだ親父も赤いルバシカを着て番人したことがある。鉄橋から見下す河水のひろやかな大きさ……。汽車が通る時は鉄橋じゅうがふるえた。
 欄干らんかんにしがみついて、顔にかかるあつい息や、頭がしびれそうに轟然とたくさんの輪が重って目の前をころがり通るのを見送ってしまうと、子供らは一せいに橋桁の上へ躍り出して、手をたたき笑った。ナースチャもほかの子供も裸足はだしであった。鉄橋のかなたは原で、村の共同物干場があった。いろんな色のぼろが、原のおっぴらいたなかに見えた。

 メストコムからもらって来た紙をもって、ナースチャは食堂へ入って行った。夕食後であった。パーヴェル・パヴロヴィッチがシャツだけで長椅子の上に長くなって、パイプをふかしている。アンナ・リヴォーヴナは第二回工業化インダスリザーチア株券のことを話していた。
「なんだい、ナースチャ」
 ナースチャはアンナ・リヴォーヴナが肱をついているテーブルのそばに立った。
「これに書きこんでいただきたいんです」
 アンナ・リヴォーヴナは自分の腕越しにナースチャの差し出している紙を見下し、けげんそうにのっそり二つの肱をテーブルからおろした。
「……なんなのさ、一たい」
「わたし、組合ソユーズに入りたいんですけれど、組合へはこの書付ドクメントがないと駄目だって云われたんです」
組合ソユーズってお前……神よボージェ・モイ! なにを考え出したのさ、急に」
 ナースチャを見上げ、それから夫をアンナ・リヴォーヴナは眺めた。パーヴェル・パヴロヴィッチは故意としか思われぬ無邪気な眉のひらきようをして、窓の外に見とれている。アンナ・リヴォーヴナは、頭をふり、紙をひろげて、項目に眼をとおしはじめた。
 その場の空気から、ナースチャは変に不安な居心地のわるい心持になり、立ちつづけた。これはそんななにごとかなのであろうか。
 待ち遠しくなったほど丁寧に読み終って手を紙の上におき、アンナ・リヴォーヴナは、
じゃヌーよろしいハラショ
とおだやかに云った。
「書いたげよう。――だがいそぎゃしないんだろう? ナースチャ」
 ナースチャはいそぐと云えなくなって、
「ええ」
と答えた。
「じゃ、紙おいときますから」
 はっきりしない気持でナースチャが去ろうとすると、アンナ・リヴォーヴナが彼女をよびとめた。
「ちょっと、ナースチャ、この紙、たしかに書いたげるには書いたげるが、お前、組合ってどんなもんだか、よく知ってるかい」
 食堂の戸口のカーテンのところに立ち止って、ナースチャはまごつきを感じ、むっつり答えた。
「知ってると思います」
「そりゃ素敵だ! 説明してごらん」
 ナースチャは、前垂をひっぱりながら、野性なきつい眼付で主人たち夫婦をみた。ナースチャは主人たちの前で長い文句で自分の考えを述べることなどに、てんからなれていない。アンナ・リヴォーヴナはからかうように、
「きまりわるがることはないじゃないか」
と笑った。
「お前の組合のことをお前が話すんじゃないか」
 腹が立って来て、ナースチャは云った。
「組合へ入れば、映画がやすくなるんです」
 爆発するような口をあけてあおむきに寝ころんだパーヴェル・パヴロヴィッチが笑った。
上出来ブラボ! 上出来ブラボ!」
「父さん! たら……それから? ナースチャ」
 ちっとも云いたくない心持をこらえて、ナースチャは、
「クラブもあります」
と云った。
「夜ひまなとき、わたし、クラブのクルジョークで勉強したいと思ったのです。わたし、ここでほんの一人ぼっちだけど、そこへいけば沢山仲間タワーリシチがあります」
 だんだん自由に話せるようになり、ナースチャはいつか再びテーブルのそばまで戻って力づよく云った。
「ごらんなさい。アンナ・リヴォーヴナ、もし明日でも、いらなくなれば、あなたはわたしを出すことが出来ます。でも、わたしはどうしたらいいでしょう?――それはわたしの苦しみです。あなたの苦しみではない」
「……そりゃ本当だ。……でも、ナースチャ。お前、どのくらい沢山組合ソユーズに入ってる娘たちが失業で淫売婦になってアルバートをうろついているか知ってるかい」
 ナースチャは知らなかった。アンナ・リヴォーヴナは、舌を鳴らした。
「ごらん!」
 人さし指を立て、ナースチャの顔の前でふった。
「自分の胡瓜を売ろうとする人間は、それが苦いとは云わないものさ。第一、組合ソユーズへ入ればお金とられるんだよ」
「それは知ってます」
「いくら払わなけりゃならないって云ったい」
「…………」
 確かな歩合をナースチャは知らなかった。
 アンナ・リヴォーヴナはしばらく頑固に黙っているナースチャの顔を見まもり、やがて捨てるように云った。
「わたしのことじゃないから、どうでもいいけれどね。つまらないようなもんじゃないか。沢山お金とったって、とっただけの割で組合へとられてさ、おまけに失業積立金まで出して、ひとを食べさせてやるなんて」
 ナースチャの頭が、ゆっくり、農民らしくこんがらかりはじめた。アンナ・リヴォーヴナに云われてみると、自分がはっきり知らぬいろいろのことのどこかに、なにか自分に損の行きそうなことが隠れているように感じられ出した。ナースチャは、アンナ・リヴォーヴナを信用はしなかった。同時に、組合も全部信用出来ない心持になって来たのであった。陰気な眼付をして、ナースチャはテーブルの上の紙を眺めた。
「心配おしでない、いいようにして上げるから」
 アンナ・リヴォーヴナは、しょげたナースチャの肩を押し出してやりながら云った。

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