「さあ口をお開きなさい。さあ口を。」助手はしずかに云ったのだが、豚は堅く歯を食いしばり、どうしても口をあかなかった。
「仕方ない。こいつを噛ましてやって呉れ。」短い鋼の管を出す。
助手はぎしぎしその管を豚の歯の間にねじ込んだ。豚はもうあらんかぎり、怒鳴ったり泣いたりしたが、とうとう管をはめられて、咽喉の底だけで泣いていた。助手はその鋼の管の間から、ズックの管を豚の咽喉まで押し込んだ。
「それでよろしい。ではやろう。」教師はバケツの中のものを、ズック管の端の漏斗に移して、それから変な螺旋を使い食物を豚の胃に送る。豚はいくら呑むまいとしても、どうしても咽喉で負けてしまい、その練ったものが胃の中に、入ってだんだん腹が重くなる。これが強制肥育だった。
豚の気持ちの悪いこと、まるで夢中で一日泣いた。
次の日教師が又来て見た。
「うまい、肥った。効果がある。これから毎日小使と、二人で二度ずつやって呉れ。」
こんな工合でそれから七日というものは、豚はまるきり外で日が照っているやら、風が吹いてるやら見当もつかず、ただ胃が無暗に重苦しくそれからいやに頬や肩が、ふくらんで来ておしまいは息をするのもつらいくらい、生徒も代る代る来て、何かいろいろ云っていた。
あるときは生徒が十人ほどやって来てがやがや斯う云った。
「ずいぶん大きくなったなあ、何貫ぐらいあるだろう。」
「さあ先生なら一目見て、何百目まで云うんだが、おれたちじゃちょっとわからない。」
「比重がわからないからなあ。」
「比重はわかるさ比重なら、大抵水と同じだろう。」
「どうしてそれがわかるんだい。」
「だって大抵そうだろう。もしもこいつを水に入れたら、きっと沈みも浮びもしない。」
「いいやたしかに沈まない、きっと浮ぶにきまってる。」
「それは脂肪のためだろう、けれど豚にも骨はある。それから肉もあるんだから、たぶん比重は一ぐらいだ。」
「比重をそんなら一として、こいつは何斗あるだろう。」
「五斗五升はあるだろう。」
「いいや五斗五升などじゃない。少く見ても八斗ある。」
「八斗なんかじゃきかないよ。たしかに九斗はあるだろう。」
「まあ、七斗としよう。七斗なら水一斗が五貫だから、こいつは丁度三十五貫。」
「三十五貫はあるな。」
こんなはなしを聞きながら、どんなに豚は泣いたろう。なんでもこれはあんまりひどい。ひとのからだを枡ではかる。七斗だの八斗だのという。
そうして丁度七日目に又あの教師が助手と二人、並んで豚の前に立つ。
「もういいようだ。丁度いい。この位まで肥ったらまあ極度だろう。この辺だ。あんまり肥育をやり過ぎて、一度病気にかかってもまたあとまわりになるだけだ。丁度あしたがいいだろう。今日はもう飼をやらんでくれ。それから小使と二人してからだをすっかり洗って呉れ。敷藁も新らしくしてね。いいか。」
「承知いたしました。」
豚はこれらの問答を、もう全身の勢力で耳をすまして聴いて居た。(いよいよ明日だ、それがあの、証書の死亡ということか。いよいよ明日だ、明日なんだ。一体どんな事だろう、つらいつらい。)あんまり豚はつらいので、頭をゴツゴツ板へぶっつけた。
そのひるすぎに又助手が、小使と二人やって来た。そしてあの二つの鉄環から、豚の足を解いて助手が云う。
「いかがです、今日は一つ、お風呂をお召しなさいませ。すっかりお仕度ができて居ます。」
豚がまだ承知とも、何とも云わないうちに、鞭がピシッとやって来た。豚は仕方なく歩き出したが、あんまり肥ってしまったので、もううごくことの大儀なこと、三足で息がはあはあした。
そこへ鞭がピシッと来た。豚はまるで潰れそうになり、それでもようよう畜舎の外まで出たら、そこに大きな木の鉢に湯が入ったのが置いてあった。
「さあ、この中にお入りなさい。」助手が又一つパチッとやる。豚はもうやっとのことで、ころげ込むようにしてその高い縁を越えて、鉢の中へ入ったのだ。
小使が大きなブラッシをかけて、豚のからだをきれいに洗う。そのブラッシをチラッと見て、豚は馬鹿のように叫んだ。というわけはそのブラッシが、やっぱり豚の毛でできた。豚がわめいているうちにからだがすっかり白くなる。
「さあ参りましょう。」助手が又、一つピシッと豚をやる。
豚は仕方なく外に出る。寒さがぞくぞくからだに浸みる。豚はとうとうくしゃみをする。
「風邪を引きますぜ、こいつは。」小使が眼を大きくして云った。
「いいだろうさ。腐りがたくて。」助手が苦笑して云った。
豚が又畜舎へ入ったら、敷藁がきれいに代えてあった。寒さはからだを刺すようだ。それに今朝からまだ何も食べないので、胃ももうからになったらしく、あらしのようにゴウゴウ鳴った。
豚はもう眼もあけず頭がしんしん鳴り出した。ヨークシャイヤの一生の間のいろいろな恐ろしい記憶が、まるきり廻り燈籠のように、明るくなったり暗くなったり、頭の中を過ぎて行く。さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからなくなった。そのうちもういつか朝になり教舎の方で鐘が鳴る。間もなくがやがや声がして、生徒が沢山やって来た。助手もやっぱりやって来た。
「外でやろうか。外の方がやはりいいようだ。連れ出して呉れ。おい。連れ出してあんまりギーギー云わせないようにね。まずくなるから。」
畜産の教師がいつの間にか、ふだんとちがった茶いろなガウンのようなものを着て入口の戸に立っていた。
助手がまじめに入って来る。
「いかがですか。天気も大変いいようです。今日少しご散歩なすっては。」又一つ鞭をピチッとあてた。豚は全く異議もなく、はあはあ頬をふくらせて、ぐたっぐたっと歩き出す。前や横を生徒たちの、二本ずつの黒い足が夢のように動いていた。
俄かにカッと明るくなった。外では雪に日が照って豚はまぶしさに眼を細くし、やっぱりぐたぐた歩いて行った。
全体どこへ行くのやら、向うに一本の杉がある、ちらっと頭をあげたとき、俄かに豚はピカッという、はげしい白光のようなものが花火のように眼の前でちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い火が水のように横に流れ出した。天上の方ではキーンという鋭い音が鳴っている。横の方ではごうごう水が湧いている。さあそれからあとのことならば、もう私は知らないのだ。とにかく豚のすぐよこにあの畜産の、教師が、大きな鉄槌を持ち、息をはあはあ吐きながら、少し青ざめて立っている。又豚はその足もとで、たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らしてじっとうごかなくなっていた。
生徒らはもう大活動、豚の身体を洗った桶に、も一度新らしく湯がくまれ、生徒らはみな上着の袖を、高くまくって待っていた。
助手が大きな小刀で豚の咽喉をザクッと刺しました。
一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬けられた。
さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴えたのだ。
●表記について
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