その頃の風穂の野はらは、ほんたうに立派でした。
青い萱や光る茨やけむりのやうな穂を出す草で一ぱい、それにあちこちには栗の木やはんの木の小さな林もありました。
野原は今は練兵場や粟の畑や苗圃などになってそれでも騎兵の馬が光ったり、白いシャツの人が働いたり、汽車で通ってもなかなか奇麗ですけれども、前はまだまだ立派でした。
九月になると私どもは毎日野原に出掛けました。殊に私は藤原慶次郎といっしょに出て行きました。町の方の子供らが出て来るのは日曜日に限ってゐましたから私どもはどんな日でも初蕈や栗をたくさんとりました。ずゐぶん遠くまでも行ったのでしたが日曜には一層遠くまで出掛けました。
ところが、九月の末のある日曜でしたが、朝早く私が慶次郎をさそっていつものやうに野原の入口にかゝりましたら、一本の白い立札がみちばたの栗の木の前に出てゐました。私どもはもう尋常五年生でしたからすらすら読みました。
「本日は東北長官一行の出遊につきこれより中には入るべからず。東北庁」
私はがっかりしてしまひました。慶次郎も顔を赤くして何べんも読み直してゐました。
「困ったねえ、えらい人が来るんだよ。叱られるといけないからもう帰らうか。」私が云ひましたら慶次郎は少し怒って答へました。
「構ふもんか、入らう、入らう。こゝは天子さんのとこでそんな警部や何かのとこぢゃないんだい。ずうっと奥へ行かうよ。」
私もにはかに面白くなりました。
「おい、東北長官といふものを見たいな。どんな顔だらう。」
「鬚もめがねもあるのさ。先頃来た大臣だってさうだ。」
「どこかにかくれて見てようか。」
「見てよう。寺林のとこはどうだい。」
寺林といふのは今は練兵場の北のはじになってゐますが野原の中でいちばん奇麗な所でした。はんのきの林がぐるっと輪になってゐて中にはみじかいやはらかな草がいちめん生えてまるで一つの公園地のやうでした。
私どもはそのはんのきの中にかくれてゐようと思ったのです。
「さうしよう。早く行かないと見つかるぜ。」
「さあ走ってかう。」
私どもはそこでまるで一目散にその野原の一本みちを走りました。あんまり苦しくて息がつけなくなるととまって空を向いてあるき又うしろを見てはかけ出し、走って走ってたうとう寺林についたのです。そこでみちからはなれてはんのきの中にかくれました。けれども虫がしんしん鳴き時々鳥が百匹も一かたまりになってざあと通るばかり、一向人も来ないやうでしたからだんだん私たちは恐くなくなってはんのきの下の萱をがさがさわけて初茸[#「初茸」はママ]をさがしはじめました。いつものやうにたくさん見附かりましたから私はいつか長官のことも忘れてしきりにとって居りました。
すると俄かに慶次郎が私のところにやって来てしがみつきました。まるで私の耳のそばでそっと云ったのです。
「来たよ、来たよ。たうとう来たよ。そらね。」
私は萱の間からすかすやうにして私どもの来た方を見ました。向ふから二人の役人が大急ぎで路をやって来るのです。それも何だかみちから外れて私どもの林へやって来るらしいのです。さあ、私どもはもう息もつまるやうに思ひました。ずんずん近づいて来たのです。
「この林だらう。たしかにこれだな。」
一人の顔の赤い体格のいゝ紺の詰えりを着た方の役人が云ひました。
「うん、さうだ。間違ひないよ。」も一人の黒い服の役人が答へました。さあ、もう私たちはきっと殺されるにちがひないと思ひました。まさかこんな林には気も付かずに通り過ぎるだらうと思ってゐたら二人の役人がどこかで番をして見てゐたのです、万一殺されないにしてももう縛られると私どもは覚悟しました。慶次郎の顔を見ましたらやっぱりまっ青で唇まで乾いて白くなってゐました。私は役人に縛られたときとった蕈を持たせられて町を歩きたくないと考へました。そこでそっと慶次郎に云ひました。
「縛られるよ。きっと縛られる。きのこをすてよう。きのこをさ。」
慶次郎はなんにも云はないでだまってきのこをはきごのまゝ棄てました。私も籠のひもからそっと手をはなしました。ところが二人の役人はべつに私どもをつかまへに来たのでもないやうでした。
うろうろ木の高いところを見てゐましたしそれに林の前でぴたっと立ちどまったらしいのでした。そしてしばらく何かしてゐました。私は萱の葉の混んだ所から無理にのぞいて見ましたら二人ともメリケン粉の袋のやうなものを小わきにかゝへてその口の結び目を立ったまゝ解いてゐるのでした。
「この辺でよからうな。」一人が云ひました。
「うん、いゝだらう。」も一人が答へたと思ふとバラッバラッと音がしました。たしかに何か撒いたのです。私は何を撒いたか見たくて命もいらないやうに思ひました。こはいことはやっぱりこはかったのですけれども。
役人どもはだんだん向ふの方へはんの木の間を歩きながらずゐぶんしばらく撒いてゐましたが俄かに一人が云ひました。
「おい、失敗だよ。失敗だ。ひどくしくじった。君の袋にはまだ沢山あるか。」
「どうして? 林がちがったかい。」も一人が愕いてたづねました。
「だって君、これは何といふ木かしらんが栗の木ぢゃないぜ、途方もないとこに栗の実が落ちてちゃ、ばれるよ。」
も一人が落ちついた声で答へました。
「ふん、そんなことは心配ないよ、はじめから僕は気がついてるんだ。そんなことまで何のかんの云ふもんか。どっちから来たらうって云ったら風で飛ばされて参りましたでせうて云やいゝや。」
「そんなわけにも行くまいぜ。困ったな、どこか栗の木の下へまかう。あ、うまい、こいつはうまい。栗の木だ。こいつから落ちたといふことにすりゃいゝな。あゝ助かった。おい、こゝへ沢山まいて置かう。」
「もちろんだよ。」
それからばらっばらっと栗の実が栗の木の幹にぶっつかったりはね落ちたりする音がしばらくしました。私どもは思はず顔を見合せました。もう大丈夫役人どもは私たちを殺しに来たのでもなく、私どもの居ることさへも知らないことがわかったのです。まるで世界が明るくなったやうに思ひました。
遁げるならいまのうちだと私たちは二人一緒に思ったのです。その証拠には私たちは一寸眼を見合せましたらもう立ちあがってゐました。それからそおっと萱をわけて林のうしろの方へ出ようとしました。すると早くも役人の一人が叫んだのです。
「誰か居るぞ。入るなって云ったのに。」
「誰だ。」も一人が叫びました。私たちはすっかり失策ってしまったのです。ほんたうにばかなことをしたと私どもは思ひました。
役人はもうがさがさと向ふの萱の中から出て来ました。そのとき林の中は黄金いろの日光で点々になってゐました。
「おい、誰だ、お前たちはどこから入って来た。」紺服の方の人が私どもに云ひました。
私どもははじめまるで死んだやうになってゐましたがだんだん近くなって見ますとその役人の顔はまっ赤でまるで湯気が出るばかり殊に鼻からはぷつぷつ油汗が出てゐましたので何だか急にこはくなくなりました。
「あっちからです。」私はみちの方を指しました。するとその役人はまじめな風で云ひました。
「あゝ、あっちにもみちがあるのか。そっちへも制札をして置かなかったのは失敗だった。ねえ、君。」と云ひながらあとからしなびたメリケン粉の袋をかついで来た黒服に云ひました。
「うん、やっぱり子供らは入ってるねえ、しかし構はんさ。この林からさへ追ひ出しとけぁいゝんだ。おい。お前たちね、今日はここへ非常なえらいお方が入らっしゃるんだから此処に居てはいけないよ。野原に居たかったら居てもいゝからずうっと向ふの方へ行ってしまってここから見えないやうにするんだぞ。声をたててもいけないぞ。」
私たちは顔を見合せました。そしてだまって籠を提げて向ふへ行かうとしました。
慶次郎はぽいっとおじぎをしましたから私もしました。紺服の役人はメリケン粉のからふくろを手に団子のやうに捲きつけてゐましたが少し屈むやうにしました。
私たちは行かうとしました。すると黒服の役人がうしろからいきなり云ひました。
「おいおい。おまへたちはこゝでその蕈をとったのか。」
又かと私はぎくっとしました。けれどもこの時もどうしても「いゝえ。」と云へませんでした。慶次郎がかすれたやうな声で「はあ。」と答へたのです。すると役人は二人とも近くへ来て籠の中をのぞきました。
「まだあるだらうな。どこかこゝらで、沢山ある所をさがして呉れないか。ごほうびをあげるから。」
私たちはすっかり面白くなりました。
「まだ沢山ありますよ。さがしてあげませう。」私が云ひましたら紺服の役人があわてて手をふって叫びました。
「いやいや、とってしまっちゃいけない、たゞある場所をさがして教へてさへ呉れればいゝんだ。さがしてごらん。」
私と慶次郎とはまるで電気にかかったやうに萱をわけてあるきました。そして私はすぐ初蕈の三つならんでる所を見附けました。
「ありました。」叫んだのです。
「さうか。」役人たちは来てのぞきました。
「何だ、ただ三つぢゃないか。長官は六人もご家族をつれていらっしゃるんだ。三つぢゃ仕方ない、お一人十づつとしても六十無くちゃだめだ。」
「六十ぐらゐ大丈夫あります。」慶次郎が向ふで袖で汗を拭きながら云ひました。
「いや、あちこちちらばったんぢゃさがし出せない。二とこぐらゐに集まってなくちゃ。」
「初蕈はそんなに集まってないんです。」私も勢がついて言ひました。
「ふうん、そんならかまはないからおまへたちのとった蕈をそこらへ立てて置かうかな。」
「それでいゝさ。」黒服の方が薄いひげをひねりながら答へました。
「おい、お前たちの籠の蕈をみんなよこせ。あとでごほうびはやるからな。」紺服は笑って云ひました。私たちはだまって籠を出したのです。二人はしゃがんで籠を倒にして数を数へてから小さいのはみんな又籠に戻しました。
「丁度いゝよ、七十ある。こいつをこゝらへ立ててかう。」
紺服の人はきのこを草の間に立てようとしましたがすぐ傾いてしまひました。
「あゝ、萱で串にしておけばいゝよ。そら、こんな工合に。」黒服は云ひながら萱の穂を一寸ばかりにちぎって地面に刺してその上にきのこの脚をまっすぐに刺して立てました。
「うまい、うまい、丁度いゝ、おい、おまへたち、萱の穂をこれ位の長さにちぎって呉れ。」
私たちはたうとう笑ひました。役人も笑ってゐました。間もなく役人たちは私たちのやった萱の穂をすっかりその辺に植ゑて上にみんな蕈をつき刺しました。実に見事にはなりましたが又をかしかったのです。第一萱が倒れてゐましたしきのこのちぎれた脚も見えてゐました。私どもは笑って見てゐますと黒服の役人がむづかしい顔をして云ひました。
「さあ、お前たちもう行って呉れ、この袋はやるよ。」
「うん、さうだ、そら、ごほうびだよ。」二人はメリケン粉の袋を私たちに投げました。
そんなもの要らないと私たちは思ひましたが役人が又まじめになって恐くなりましたからだまって受け取りました。そして林を出ました。林を出るときちょっとふりかへって見ましたら二人がまっすぐに立ってしきりにそのこしらへた蕈の公園をながめてゐるやうでしたが間もなく
「だめだよ、きのこの方はやっぱりだめだ。もし知れたら大へんだ。」
「うん、どうもあぶないと僕も思った。こっちは止さう。とってしまはう。その辺へかくして置いてあとで我われがとったといふことにしてお嬢さんにでも上げればいゝぢゃないか。その方が安全だよ。」といふのがはっきり聞えました。私たちは又顔を見合せました。
そして思はずふき出してしまひました。
それから一目散に遁げました。
けれどももう役人は追って来ませんでした。その日の晩方おそく私たちはひどくまはりみちをしてうちへ帰りましたが東北長官はひるころ野原へ着いて夕方まで家族と一緒に大へん面白く遊んで帰ったといふことを聞きました。その次の年私どもは町の中学校に入りましたがあの二人の役人にも時々あひました。二人はステッキをふったり包みをかゝへたり又競馬などで酔って顔を赤くして叫んだりしてゐました。私たちはちゃんとおぼえてゐたのです。けれども向ふではいつも、どうも見たことのある子供だが思ひ出せないといふやうな顔をするのでした。
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