「兄※[#小書き平仮名な、255-15]。」かすかなかすかな声が遠くの遠くから聞えました。一郎はそっちへかけ出しました。そして泣きながら何べんも「楢夫ぉ、楢夫ぉ。」と叫びました。返事はかすかに聞えたり又返事したのかどうか聞えなかったりしました。
一郎の足はまるでまっ赤になってしまひました。そしてもう痛いかどうかもわからず血は気味悪く青く光ったのです。
一郎ははしってはしって走りました。
そして向ふに一人の子供が丁度風で消えようとする蝋燭の火のやうに光ったり又消えたりぺかぺかしてゐるのを見ました。
それが顔に両手をあてて泣いてゐる楢夫でした。一郎はそばへかけよりました。そしてにはかに足がぐらぐらして倒れました。それから力いっぱい起きあがって楢夫を抱かうとしました。楢夫は消えたりともったりしきりにしてゐましたがだんだんそれが早くなりたうとうその変りもわからないやうになって一郎はしっかりと楢夫を抱いてゐました。
「楢夫、僕たちどこへ来たらうね。」一郎はまるで夢の中のやうに泣いて楢夫の頭をなでてやりながら云ひました。その声も自分が云ってゐるのか誰かの声を夢で聞いてゐるのかわからないやうでした。
「死んだんだ。」と楢夫は云ってまたはげしく泣きました。
一郎は楢夫の足を見ました。やっぱりはだしでひどく傷がついて居りました。
「泣かなくってもいゝんだよ。」一郎は云ひながらあたりを見ました。ずうっと向ふにぼんやりした白びかりが見えるばかりしいんとしてなんにも聞えませんでした。
「あすこの明るいところまで行って見よう。きっとうちがあるから、お前あるけるかい。」
一郎が云ひました。
「うん。おっかさんがそこに居るだろうか。」
「居るとも。きっと居る。行かう。」
一郎はさきになってあるきました。そらが黄いろでぼんやりくらくていまにもそこから長い手が出て来さうでした。
足がたまらなく痛みました。
「早くあすこまで行かう。あすこまでさへ行けばいゝんだから。」一郎は自分の足があんまり痛くてバリバリ白く燃えてるやうなのをこらへて云ひました。けれども楢夫はもうとてもたまらないらしく泣いて地面に倒れてしまひました。
「さあ、兄さんにしっかりつかまるんだよ。走って行くから。」一郎は歯を喰ひしばって痛みをこらへながら楢夫を肩にかけました。そして向ふのぼんやりした白光をめがけてまるでからだもちぎれるばかり痛いのを堪へて走りました。それでももうとてもたまらなくなって何べんも倒れました。倒れてもまた一生懸命に起きあがりました。
ふと振りかへって見ますと来た方はいつかぼんやり灰色の霧のやうなものにかくれてその向ふを何かうす赤いやうなものがひらひらしながら一目散に走って行くらしいのです。
一郎はあんまりの怖さに息もつまるやうにおもひました。それでもこらへてむりに立ちあがってまた楢夫を肩にかけました。楢夫はぐったりとして気を失ってゐるやうでした。一郎は泣きながらその耳もとで、
「楢夫、しっかりおし、楢夫、兄さんがわからないかい。楢夫。」と一生けん命呼びました。
楢夫はかすかにかすかに眼をひらくやうにはしましたけれどもその眼には黒い色も見えなかったのです。一郎はもうあらんかぎりの力を出してそこら中いちめんちらちらちらちら白い火になって燃えるやうに思ひながら楢夫を肩にしてさっきめざした方へ走りました。足がうごいてゐるかどうかもわからずからだは何か重い巌に砕かれて青びかりの粉になってちらけるやう何べんも何べんも倒れては又楢夫を抱き起して泣きながらしっかりとかゝへ夢のやうに又走り出したのでした。それでもいつか一郎ははじめにめざしたうすあかるい処に来ては居ました。けれどもそこは決していゝ処ではありませんでした。却って一郎はからだ中凍ったやうに立ちすくんでしまひました。すぐ眼の前は谷のやうになった窪地でしたがその中を左から右の方へ何ともいへずいたましいなりをした子供らがぞろぞろ追はれて行くのでした。わづかばかりの灰いろのきれをからだにつけた子もあれば小さなマントばかりはだかに着た子もありました。瘠せて青ざめて眼ばかり大きな子、髪の赭い小さな子、骨の立った小さな膝を曲げるやうにして走って行く子、みんなからだを前にまげておどおど何かを恐れ横を見るひまもなくたゞふかくふかくため息をついたり声を立てないで泣いたり、ぞろぞろ追はれるやうに走って行くのでした。みんな一郎のやうに足が傷いてゐたのです。そして本たうに恐ろしいことはその子供らの間を顔のまっ赤な大きな人のかたちのものが灰いろの棘のぎざぎざ生えた鎧を着て、髪などはまるで火が燃えてゐるやう、たゞれたやうな赤い眼をして太い鞭を振りながら歩いて行くのでした。その足が地面にあたるときは地面はがりがり鳴りました。一郎はもう恐ろしさに声も出ませんでした。
楢夫ぐらゐの髪のちゞれた子が列の中に居ましたがあんまり足が痛むと見えてたうとうよろよろつまづきました。そして倒れさうになって思はず泣いて
「痛いよう。おっかさん。」と叫んだやうでした。するとすぐ前を歩いて行ったあの恐ろしいものは立ちどまってこっちを振り向きました。その子はよろよろして恐ろしさに手をあげながらうしろへ遁げようとしましたら忽ちその恐ろしいものの口がぴくっとうごきばっと鞭が鳴ってその子は声もなく倒れてもだえました。あとから来た子供らはそれを見てもたゞふらふらと避けて行くだけ一語も云ふものがありませんでした。倒れた子はしばらくもだえてゐましたがそれでもいつかさっきの足の痛みなどは忘れたやうに又よろよろと立ちあがるのでした。
一郎はもう行くにも戻るにも立ちすくんでしまひました。俄かに楢夫が眼を開いて
「お父さん。」と高く叫んで泣き出しました。すると丁度下を通りかかった一人のその恐ろしいものはそのゆがんだ赤い眼をこっちに向けました。一郎は息もつまるやうに思ひました。恐ろしいものはむちをあげて下から叫びました。
「そこらで何をしてるんだ。下りて来い。」
一郎はまるでその赤い眼に吸ひ込まれるやうな気がしてよろよろ二三歩そっちへ行きましたがやっとふみとまってしっかり楢夫を抱きました。その恐ろしいものは頬をぴくぴく動かし歯をむき出して咆えるやうに叫んで一郎の方に登って来ました。そしていつか一郎と楢夫とはつかまれて列の中に入ってゐたのです。ことに一郎のかなしかったことはどうしたのか楢夫が歩けるやうになってはだしでその痛い地面をふんで一郎の前をよろよろ歩いてゐることでした。一郎はみんなと一緒に追はれてあるきながら何べんも楢夫の名を低く呼びました。けれども楢夫はもう一郎のことなどは忘れたやうでした。たゞたびたびおびえるやうにうしろに手をあげながら足の痛さによろめきながら一生けん命歩いてゐるのでした。一郎はこの時はじめて自分たちを追ってゐるものは鬼といふものなこと、又楢夫などに何の悪いことがあってこんなつらい目にあふのかといふことを考へました。そのとき楢夫がたうとう一つの赤い稜のある石につまづいて倒れました。鬼のむちがその小さなからだを切るやうに落ちました。一郎はぐるぐるしながらその鬼の手にすがりました。
「私を代りに打って下さい。楢夫はなんにも悪いことがないのです。」
鬼はぎょっとしたやうに一郎を見てそれから口がしばらくぴくぴくしてゐましたが大きな声で斯う云ひました。その歯がギラギラ光ったのです。
「罪はこんどばかりではないぞ。歩け。」
一郎はせなかがシィンとしてまはりがくるくる青く見えました。それからからだ中からつめたい汗が湧きました。
こんなにして兄弟は追はれて行きました。けれどもだんだんなれて来たと見えて二人ともなんだか少し楽になったやうにも思ひました。ほかの人たちの傷ついた足や倒れるからだを夢のやうに横の方に見たのです。にはかにあたりがぼんやりくらくなりました。それから黒くなりました。追はれて行く子供らの青じろい列ばかりその中に浮いて見えました。
だんだん眼が闇になれて来た時一郎はその中のひろい野原にたくさんの黒いものがじっと座ってゐるのを見ました。微かな青びかりもありました。それらはみなからだ中黒い長い髪の毛で一杯に覆はれてまっ白な手足が少し見えるばかりでした。その中の一つがどういふわけか一寸動いたと思ひますと俄かにからだもちぎれるやうな叫び声をあげてもだえまはりました。そしてまもなくその声もなくなって一かけの泥のかたまりのやうになってころがるのを見ました。そしてだんだん眼がなれて来たときその闇の中のいきものは刀の刃のやうに鋭い髪の毛でからだを覆はれてゐること一寸でも動けばすぐからだを切ることがわかりました。
その中をしばらくしばらく行ってからまたあたりが少し明るくなりました。そして地面はまっ赤でした。前の方の子供らが突然烈しく泣いて叫びました。列もとまりました。鞭の音や鬼の怒り声が雹や雷のやうに聞えて来ました。一郎のすぐ前を楢夫がよろよろしてゐるのです。まったく野原のその辺は小さな瑪瑙のかけらのやうなものでできてゐて行くものの足を切るのでした。
鬼は大きな鉄の沓をはいてゐました。その歩くたびに瑪瑙はガリガリ砕けたのです。一郎のまはりからも叫び声が沢山起りました。楢夫も泣きました。
「私たちはどこへ行くんですか。どうしてこんなつらい目にあふんですか。」楢夫はとなりの子にたづねました。
「あたしは知らない。痛い。痛いなぁ。おっかさん。」その子はぐらぐら頭をふって泣き出しました。
「何を云ってるんだ。みんなきさまたちの出かしたこった。どこへ行くあてもあるもんか。」
うしろで鬼が咆えて又鞭をならしました。
野はらの草はだんだん荒くだんだん鋭くなりました。前の方の子供らは何べんも倒れては又力なく起きあがり足もからだも傷つき、叫び声や鞭の音はもうそれだけでも倒れさうだったのです。
楢夫がいきなり思ひ出したやうに一郎にすがりついて泣きました。
「歩け。」鬼が叫びました。鞭が楢夫を抱いた一郎の腕をうちました。一郎の腕はしびれてわからなくなってただびくびくうごきました。楢夫がまだすがりついてゐたので鬼が又鞭をあげました。
「楢夫は許して下さい。楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
「歩け。」鞭が又鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばひました。かばひながら一郎はどこからか
「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」といふやうな語がかすかな風のやうに又匂のやうに一郎に感じました。すると何だかまはりがほっと楽になったやうに思って
「にょらいじゅりゃうぼん。」と繰り返してつぶやいてみました。すると前の方を行く鬼が立ちどまって不思議さうに一郎をふりかへって見ました。列もとまりました。どう云ふわけか鞭の音も叫び声もやみました。しぃんとなってしまったのです。気がついて見るとそのうすくらい赤い瑪瑙の野原のはづれがぼうっと黄金いろになってその中を立派な大きな人がまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。どう云ふわけかみんなはほっとしたやうに思ったのです。
四、光のすあし
その人の足は白く光って見えました。実にはやく実にまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。まっ白な足さきが二度ばかり光りもうその人は一郎の近くへ来てゐました。
一郎はまぶしいやうな気がして顔をあげられませんでした。その人ははだしでした。まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあしでした。くびすのところの肉はかゞやいて地面まで垂れてゐました。大きなまっ白なすあしだったのです。けれどもその柔らかなすあしは鋭い鋭い瑪瑙のかけらをふみ燃えあがる赤い火をふんで少しも傷つかず又灼けませんでした。地面の棘さへ又折れませんでした。
「こはいことはないぞ。」微かに微かにわらひながらその人はみんなに云ひました。その大きな瞳は青い蓮のはなびらのやうにりんとみんなを見ました。みんなはどう云ふわけともなく一度に手を合わせました。
「こはいことはない。おまへたちの罪はこの世界を包む大きな徳の力にくらべれば太陽の光とあざみの棘のさきの小さな露のやうなもんだ。なんにもこはいことはない。」
いつの間にかみんなはその人のまはりに環になって集って居りました。さっきまであんなに恐ろしく見えた鬼どもがいまはみなすなほにその大きな手を合せ首を低く垂れてみんなのうしろに立ってゐたのです。
その人はしづかにみんなを見まはしました。
「みんなひどく傷を受けてゐる。それはおまへたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれも何でもない、」その人は大きなまっ白な手で楢夫の頭をなでました。楢夫も一郎もその手のかすかにほほの花のにほひのするのを聞きました。そしてみんなのからだの傷はすっかり癒ってゐたのです。
一人の鬼がいきなり泣いてその人の前にひざまづきました。それから頭をけはしい瑪瑙の地面に垂れその光る足を一寸手でいたゞきました。
その人は又微かに笑ひました。すると大きな黄金いろの光が円い輪になってその人の頭のまはりにかゝりました。その人は云ひました。
「こゝは地面が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ。さあご覧。」
その人は少しかゞんでそのまっ白な手で地面に一つ輪をかきました。みんなは眼を擦ったのです。又耳を疑がったのです。今までの赤い瑪瑙の棘ででき暗い火の舌を吐いてゐたかなしい地面が今は平らな平らな波一つ立たないまっ青な湖水の面に変りその湖水はどこまでつづくのかはては孔雀石の色に何条もの美しい縞になり、その上には蜃気楼のやうにそしてもっとはっきりと沢山の立派な木や建物がじっと浮んでゐたのです。それらの建物はずうっと遠くにあったのですけれども見上げるばかりに高く青や白びかりの屋根を持ったり虹のやうないろの幡が垂れたり、一つの建物から一つの建物へ空中に真珠のやうに光る欄干のついた橋廊がかかったり高い塔はたくさんの鈴や飾り網を掛けそのさきの棒はまっすぐに高くそらに立ちました。それらの建物はしんとして音なくそびえその影は実にはっきりと水面に落ちたのです。
またたくさんの樹が立ってゐました。それは全く宝石細工としか思はれませんでした。はんの木のやうなかたちでまっ青な樹もありました。楊に似た木で白金のやうな小さな実になってゐるのもありました。みんなその葉がチラチラ光ってゆすれ互いにぶっつかり合って微妙な音をたてるのでした。
それから空の方からはいろいろな楽器の音がさまざまのいろの光のこなと一所に微かに降ってくるのでした。もっともっと愕いたことはあんまり立派な人たちのそこにもこゝにも一杯なことでした。ある人人は鳥のやうに空中を翔けてゐましたがその銀いろの飾りのひもはまっすぐにうしろに引いて波一つたたないのでした。すべて夏の明方のやうないゝ匂で一杯でした。ところが一郎は俄かに自分たちも又そのまっ青な平らな平らな湖水の上に立ってゐることに気がつきました。けれどもそれは湖水だったのでせうか。いゝえ、水ぢゃなかったのです。硬かったのです。冷たかったのです、なめらかだったのです。それは実に青い宝石の板でした。板ぢゃない、やっぱり地面でした。あんまりそれがなめらかで光ってゐたので湖水のやうに見えたのです。
一郎はさっきの人を見ました。その人はさっきとは又まるで見ちがへるやうでした。立派な瓔珞をかけ黄金の円光を冠りかすかに笑ってみんなのうしろに立ってゐました。そこに見えるどの人よりも立派でした。金と紅宝石を組んだやうな美しい花皿を捧げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧や黄金のはなびらを落して行きました。
そのはなびらはしづかにしづかにそらを沈んでまゐりました。
さっきのうすくらい野原で一緒だった人たちはいまみな立派に変ってゐました。一郎は楢夫を見ました。楢夫がやはり黄金いろのきものを着、瓔珞も着けてゐたのです。それから自分を見ました。一郎の足の傷や何かはすっかりなほっていまはまっ白に光りその手はまばゆくいゝ匂だったのです。
みんなはしばらくたゞよろこびの声をあげるばかりでしたがそのうちに一人の子が云ひました。
「此処はまるでいゝんだなあ、向ふにあるのは博物館かしら。」
その巨きな光る人が微笑って答へました。
「うむ。博物館もあるぞ。あらゆる世界のできごとがみんな集まってゐる。」
そこで子供らは俄かにいろいろなことを尋ね出しました。一人が云ひました。
「こゝには図書館もあるの。僕アンデルゼンのおはなしやなんかもっと読みたいなあ。」
一人が云ひました。
「こゝの運動場なら何でも出来るなあ、ボールだって投げたってきっとどこまでも行くんだ。」
非常に小さな子は云ひました。
「僕はチョコレートがほしいなあ。」
その巨きな人はしづかに答へました。
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなものもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある、お前たちはよく読むがいゝ。運動場もある、そこでかけることを習ふものは火の中でも行くことができる。チョコレートもある。こゝのチョコレートは大へんにいゝのだ。あげよう。」その大きな人は一寸空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模様のついた立派な鉢を捧げてまっすぐに下りて参りました。そして青い地面に降りて虔しくその大きな人の前にひざまづき鉢を捧げました。
「さあたべてごらん。」その大きな人は一つを楢夫にやりながらみんなに云ひました。みんなはいつか一つづつその立派な菓子を持ってゐたのです。それは一寸嘗めたときからだ中すうっと涼しくなりました。舌のさきで青い蛍のやうな色や橙いろの火やらきれいな花の図案になってチラチラ見えるのでした。たべてしまったときからだがピンとなりました。しばらくたってからだ中から何とも云へないいゝ匂いがぼうっと立つのでした。
「僕たちのお母さんはどっちに居るだらう。」楢夫が俄かに思ひだしたやうに一郎にたづねました。
するとその大きな人がこっちを振り向いてやさしく楢夫の頭をなでながら云ひました。
「今にお前の前のお母さんを見せてあげよう。お前はもうこゝで学校に入らなければならない。それからお前はしばらく兄さんと別れなければならない。兄さんはもう一度お母さんの所へ帰るんだから。」
その人は一郎に云ひました。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなほないゝ子供だ。よくあの棘の野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ。」その人は一郎の頭を撫でました。一郎はたゞ手を合せ眼を伏せて立ってゐたのです。それから一郎は空の方で力一杯に歌ってゐるいゝ声の歌を聞きました。その歌の声はだんだん変りすべての景色はぼうっと霧の中のやうに遠くなりました。たゞその霧の向ふに一本の木が白くかゞやいて立ち楢夫がまるで光って立派になって立ちながら何か云ひたさうにかすかにわらってこっちへ一寸手を延ばしたのでした。
五、峠
「楢夫」と一郎は叫んだと思ひましたら俄かに新しいまっ白なものを見ました。それは雪でした。それから青空がまばゆく一郎の上にかかってゐるのを見ました。
「息吐だぞ。眼開ぃだぞ。」一郎のとなりの家の赤髯の人がすぐ一郎の頭のとこに曲んでゐてしきりに一郎を起さうとしてゐたのです。そして一郎ははっきり眼を開きました。楢夫を堅く抱いて雪に埋まってゐたのです。まばゆい青ぞらに村の人たちの顔や赤い毛布や黒の外套がくっきりと浮んで一郎を見下してゐるのでした。
「弟ぁなぢょだ。弟ぁ。」犬の毛皮を着た猟師が高く叫びました。となりの人は楢夫の腕をつかんで見ました。一郎も見ました。
「弟ぁわがなぃよだ。早ぐ火焚げ」となりの人が叫びました。
「火焚ぃでわがなぃ。雪さ寝せろ。寝せろ。」
猟師が叫びました。一郎は扶けられて起されながらも一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果のやうに赤くその唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまゝ、かすかに笑ってゐたのです。けれどもその眼はとぢその息は絶えそしてその手や胸は氷のやうに冷えてしまってゐたのです。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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小書き平仮名な |
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