「さあ、見附けたぞ。この足跡の尽きた所には、きっとこいつが倒れたまゝ化石してゐる。巨きな骨だぞ。まづ背骨なら二十米はあるだらう。巨きなもんだぞ。」
大学士はまるで雀躍して
その足あとをつけて行く。
足跡はずゐぶん続き
どこまで行くかわからない。
それに太陽の光線は赭く
たいへん足が疲れたのだ。
どうもをかしいと思ひながら
ふと気がついて立ちどまったら
なんだか足が柔らかな
泥に吸はれてゐるやうだ。
堅い頁岩の筈だったと思って
楢ノ木大学士はうしろを向いた。
そしたら全く愕いた。
さっきから一心に跡けて来た
巨きな、蟇の形の足あとは
なるほどずうっと大学士の
足もとまでつゞいてゐて
それから先ももっと続くらしかったが
も一つ、どうだ、大学士の
銀座でこさへた長靴の
あともぞろっとついてゐた。
「こいつはひどい。我輩の足跡までこんなに深く入るといふのは実際少し恐れ入った。けれどもそれでも探求の目的を達することは達するな。少し歩きにくいだけだ。さあもう斯うなったらどこまでだって追って行くぞ。」
学士はいよいよ大股に
その足跡をつけて行った。
どかどか鳴るものは心臓
ふいごのやうなものは呼吸、
そんなに一生けん命だったが
又そんなにあたりもしづかだった。
大学士はふと波打ぎはを見た。
濤がすっかりしづまってゐた。
たしかにさっきまで
寄せて吠えて砕けてゐた濤が
いつかすっかりしづまってゐた。
「こいつは変だ。おまけにずゐぶん暑いぢゃないか。」
大学士はあふむいて空を見る。
太陽はまるで熟した苹果のやうで
そこらも無暗に赤かった。
「ずゐぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり赤い。きっとどこかの火山が爆発をやった。その細かな火山灰が正しく上層の気流に混じて地球を包囲してゐるな。けれどもそれだからと云って我輩のこの追跡には害にならない。もうこの足あとの終るところにあの途方もない爬虫の骨がころがってるんだ。我輩はその地点を記録する。もう一足だぞ。」
大学士はいよいよ勢こんで
その足跡をつけて行く。
ところが間もなく泥浜は
岬のやうに突き出した。
「さあ、こゝを一つ曲って見ろ。すぐ向ふ側にその骨がある。けれども事によったらすぐ無いかも知れない。すぐなかったらも少し追って行けばいゝ。それだけのことだ。」
大学士はにこにこ笑ひ
立ちどまって巻煙草を出し
マッチを擦って煙を吐く。
それからわざと顔をしかめ
ごくおうやうに大股に
岬をまはって行ったのだ。
ところがどうだ名高い楢ノ木大学士が
釘付けにされたやうに立ちどまった。
その眼は空しく大きく開き
その膝は堅くなってやがてふるへ出し
煙草もいつか泥に落ちた。
青ぞらの下、向ふの泥の浜の上に
その足跡の持ち主の
途方もない途方もない雷竜氏が
いやに細長い頸をのばし
汀の水を呑んでゐる。
長さ十間、ざらざらの
鼠いろの皮の雷竜が
短い太い足をちゞめ
厭らしい長い頸をのたのたさせ
小さな赤い眼を光らせ
チュウチュウ水を呑んでゐる。
あまりのことに楢ノ木大学士は
頭がしいんとなってしまった。
「一体これはどうしたのだ。中生代に来てしまったのか。中生代がこっちの方へやって来たのか。ああ、どっちでもおんなじことだ。とにかくあすこに雷竜が居て、こっちさへ見ればかけて来る。大学士も魚も同じことだ。見るなよ、見るなよ。僕はいま、ごくこっそりと戻るから。どうかしばらく、こっちを向いちゃいけないよ。」
いまや楢ノ木大学士は
そろりそろりと後退りして
来た方へ遁げて戻る。
その眼はじっと雷竜を見
その手はそっと空気を押す。
そして雷竜の太い尾が
まづ見えなくなりその次に
山のやうな胴がかくれ
おしまひ黒い舌を出して
びちょびちょ水を呑んでゐる
蛇に似たその頭がかくれると
大学士はまづ助かったと
いきなり来た方へ向いた。
その足跡さへずんずんたどって
遁げてさへ行くならもう直きに
汀に濤も打って来るし
空も赤くはなくなるし
足あとももう泥に食ひ込まない
堅い頁岩の上を行く。
崖にはゆふべの洞もある
そこまで行けばもう大丈夫
こんなあぶない探険などは
今度かぎりでやめてしまひ
博物館へも断はらせて
東京のまちのまん中で
赤い鼻の連中などを
相手に法螺を吹いてればいゝ。
大体こんな計算だった。
それもまるきり電のやうな計算だ。
ところが楢ノ木大学士は
も一度ぎくっと立ちどまった。
その膝はもうがたがたと鳴り出した。
見たまへ、学士の来た方の
泥の岸はまるでいちめん
うじゃうじゃの雷竜どもなのだ。
まっ黒なほど居ったのだ。
長い頸を天に延ばすやつ
頸をゆっくり上下に振るやつ
急いで水にかけ込むやつ
実にまるでうじゃうじゃだった。
「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食はれるだけだ。大学士の号も一所になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居るしうしろにも居る。まあたゞ一つたよりになるのはこの岬の上だけだ。そこに登っておれは助かるか助からないか、事によったら新生代の沖積世が急いで助けに来るかも知れない。さあ、もうたったこの岬だけだぞ。」
学士はそっと岬にのぼる。
まるで蕈とあすなろとの
合の子みたいな変な木が
崖にもじゃもじゃ生えてゐた。
そして本当に幸なことは
そこには雷竜が居なかった。
けれども折角登っても
そこらの景色は
あんまりいゝといふでもない、
岬の右も左の方も
泥の渚は、もう一めんの雷竜だらけ
実にもじゃもじゃしてゐたのだ。
水の中でも黒い白鳥のやうに
頭をもたげて泳いだり
頸をくるっとまはしたり
その厭らしいこと恐いこと
大学士はもう眼をつぶった。
ところがいつか大学士は
自分の鼻さきがふっふっ鳴って
暖いのに気がついた。
「たうとう来たぞ、喰はれるぞ。」
大学士は観念をして眼をあいた。
大さ二尺の四っ角な
まっ黒な雷竜の顔が
すぐ眼の前までにゅうと突き出され
その眼は赤く熟したやう。
その頸は途方もない向ふの
鼠いろのがさがさした胴まで
まるで管のやうに続いてゐた。
大学士はカーンと鳴った。
もう喰はれたのだ、いやさめたのだ。
眼がさめたのだ、洞穴は
まだまっ暗で恐らくは
十二時にもならないらしかった。
そこで楢ノ木大学士は
一つ小さなせきばらひをし
まだ雷電が居るやうなので
つくづく闇をすかして見る。
外ではたしかに濤の音
「なあんだ。馬鹿にしてやがる。もう睡れんぞ。寒いなあ。」
又たばこを出す。火をつける。
楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。
その大学士の小さな家
「貝の火兄弟商会」の
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生お手紙でしたから早速とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上等のやつをお見あたりでございましたか、何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものぢゃなかなか承知しないんです。」
大学士は葉巻を横にくはへ
雲母紙を張った天井を
斜めに見ながらかう云った。
「うん探して来たよ、僕は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見附からんと云ふことは断じてない、けだしすべての宝石はみな僕をしたってあつまって来るんだね。いやそれだから、此度なんかもまったくひどく困ったよ。殊に君注文が割合に柔らかな蛋白石だらう。僕がその山へ入ったら蛋白石どもがみんなざらざら飛びついて来てもうどうしてもはなれないぢゃないか。それが君みんな貴蛋白石の火の燃えるやうなやつなんだ。望みのとほりみんな背嚢の中に納めてやりたいことはもちろんだったが、それでは僕も身動きもできなくなるのだから気の毒だったがその中からごくいゝやつだけ撰んださ。」
「ははあ、そいつはどうも、大へん結構でございました。しかし、そのお持ち帰りになりました分はいづれでございますか。一寸拝見をねがひたう存じます。」
「あゝ、見せるよ。たゞ僕はあんな立派なやつだから、事によったらもうすっかり曇ったぢゃないかと思ふんだ。実際蛋白石ぐらゐたよりのない宝石はないからね。今日虹のやうに光ってゐる。あしたは白いたゞの石になってしまふ。今日は円くて美しい。あしたは砕けてこなごなだ。そいつだね、こはいのは。しかしとにかく開いて見よう。この背嚢さ。」
「なるほど。」
貝の火兄弟商会の
鼻の赤いその支配人は
こくっと息を呑みながら
大学士の手もとを見つめてゐる。
大学士はごく無雑作に
背嚢をあけて逆さにした。
下等な玻璃蛋白石が
三十ばかりころげだす。
「先生、困るぢゃありませんか。先生、これでは、何でも、あんまりぢゃありませんか。」
楢ノ木大学士は怒り出した。
「何があんまりだ。僕の知ったこっちゃない。ひどい難儀をしてあるんだ。旅費さへ返せばそれでよからう。さあ持って行け。帰れ、帰れ。」
大学士は上着の衣嚢から
鼠いろの皺くちゃになった状袋を
出していきなり投げつけた。
「先生困ります。あんまりです。」
貝の火兄弟商会の
赤鼻の支配人は云ひながら
すばやく旅費の袋をさらひ
上着の内衣嚢に投げ込んだ。
「帰れ、帰れ、もう来るな。」
「先生、困ります。あんまりです。」
たうとう貝の火兄弟商会の
赤鼻の支配人は帰って行き
大学士は葉巻を横にくはへ
雲母紙を張った天井を
斜めに見ながらにやっと笑ふ。
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
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