たださへ夏は氣短になり勝なのに全身麻醉をかけられて、外科手術をした後の不愉快な心持は、病院を出てから一週間にもなるのに、未だに執念深く殘つて居る。
甚だ汚ならしい話だが、疾患は痔瘻なので、病院へ通ふのに、乘物に腰掛けて搖られるのが苦痛で、何時も電車の釣革につかまつて立つて居るのであるから、芝の端から築地迄小一時間もかかる道中は、たとへ囘復期にありとはいへ、衰弱した身體には隨分堪へるのである。病院で患部を洗はれ、火照る程沁みる藥を忌々しく思ひながら、又同じ道を立ちづめの電車で家に歸ると、全く疲れ切つて何をする氣力もなくなつてしまふ。本を讀む事も、新聞を讀む事も大儀で、今でもクロロホルムのさめ切らないやうな氣持で仰臥してゐるばかりで、苛立たしい心持を恥ぢながら、それを免れる事が出來ないのである。
ところへ兄が見舞に來てくれて、いろんな話の末に、歌舞伎座の「沈鐘」を見に行かうと思ふが身體に故障が起らなければ一緒に行かないかと誘つてくれた。自分も「沈鐘」は見度いと思つてゐたので喜んで同意したが、その實、心の中ではこの芝居を兄には見せ度くないと思ふ心持が強かつた。
自分は世に所謂新しい芝居を好んで見度がる一人であるが、それを嚴格に批判的に見る事はあまりに殘酷な氣がして堪へられない。殊に日本の俳優が泰西の名戲曲を演じる場合の如きは、その原作に對する尊敬と、出演者の努力を買ふ同情と、時には原作の偉大さと所演の貧弱さの餘りに極端な對比が惹起する憐愍から、やうやく一人立ちしてヨチヨチ歩く赤坊を見る親の心持で、いたはりいたはり見てゐる態度を取るのである。恐らくこれは自分一人でなく、世の劇評家諸氏といへども、歌舞伎劇に對するやうに、容赦なくうまいまづいを論ふのでなく、割引に割引をして見るのに違ひない。近頃流行の感激したがる一派といへども、子供の習字を極上々とほめはやす手なのだらうと推察される。ところが吾々と違つて新しい戲曲の發達に特別の關係の無い人、換言すれば所謂文壇の人でない人には、下手な芝居は單純に下手な芝居で、遠慮會釋もなければ強ひておだてたりほめたりする心持も起らない。坪内士行、東儀鐵笛、上山草人、松井須磨子よりも、市村羽左衞門、尾上菊五郎、河合武雄、喜多村緑郎の方が一見して比べものにならない程うまいと思はれるのは當然である。此點に於て、新しい戲曲の上演に同情を持つ自分は、すぐれて感覺の鋭い、藝術に對する理解力の深い、且つ新しい芝居をさへ割引しないで見るに違ひない兄に對して、自分の掌中の物をかばふ心地から、自分自身も文藝の事に携はる身の、一種職業的恐怖ともいふべき不思議な感情を抱いたのである。
最近に外國から歸つて來た兄は、長い間海外に生活した者の誰もが感じるやうに、まだ以前の生れ故郷の生活にしつくりあてはまらない心持から、何かしら新しい刺戟に興味を見出し度がつてゐるらしかつた。彼地に居る間に芝居を見てるのを爲事にして居た事實と、曾て本で讀んだ「沈鐘」の面白さを、そのまま舞臺の上に期待して居るらしい樣子が自分をして一層不安を抱かせたのである。
如何かしてうまく演つてくれればいい、新しい役者の新しい芝居も決して愚劣なものではないと思ひ知らせてくれればいいと、自分は他人事でない氣で心配した。
その日は朝のうちに病院に行つて、診察の濟んだのは正午近かつた。病院の近所で認めた食事の終つたのが一時で、それから家に歸つて又出直す時間は十分あるけれども、電車に乘つて立ちづめの不愉快を考へると歸宅する氣はなくなつた。しかし四時開場の時間迄をどうして暮さうかと暫時考へ惱んだ末、先頃入院してゐた間に度々見舞に來てくれた知人の家に行つて、お茶でも頂戴しながら遠慮なく横倒しにならして貰ふ事に決めた。
主人は留守だつたが、心置きない間柄なので、勸められるままに上つて、不自由な身體を氣隨に横にさせて貰ひながら主婦と話し込んで居たが、後から他にお客が來たので、主婦はその日の新聞を自分の目の前に揃へてくれて、そのまま座敷の方に行つてしまつた。
「やまと」新聞に連載されてゐる泉鏡花先生の「芍藥の歌」に感服した後で、「時事新報」の文藝欄に本間久雄氏の「新秋文壇の收穫」=技巧派と無技巧派の對比=といふ創作月評中に「新小説」九月號所載、拙作「新嘉坡の一夜」に對する批評のあるのを見出した。
由來雜誌新聞を精讀しない自分は、雜誌新聞の編輯者の爲めに最も調法な人の一人らしい本間氏の筆に成る文章――評論批評紹介飜譯等――を餘り拜見した事が無く、たまに拜見したのがあつても、全く拜見しなかつたと同じやうに、まるつきり忘れてしまつたのである。何れにしても同氏が現文壇の批評家として名のある人である事と、且つ非道い誤譯をする人だといふ以外には殆ど何も知る處が無かつた。
非道い誤譯者だといふ事は、飜譯物の嫌ひな自分の發見ではなく、友達の一人に物好きがあつて、誤譯指摘の興味に沒頭してゐて、本間氏の飜譯は頗る蕪雜拙劣である上に間違ひだらけだといふ事を、御叮嚀にも原書と對照して、いやといふ程並べ立ててきかされた事があるのである。その時自分は、どうせ外國語を日本語に譯すのだから、ちつとは間違ひもあるだらうと、自分だつて飜譯をすれば間違ひだらけに違ひないと思ふ心持から、本間氏に同情したが、同時に、そんな不自由な語學の力で飜譯なんかしなければいいのにと考へたのは事實である。
扨て「時事新報」に出てゐる本間氏の批評は前々から續いてゐるもので、その日のは第六囘目であつた。第一囘から讀んでゐない自分には「技巧派と無技巧派の對比」といふ標題の意味がよく解らなかつたが、恐らくは此批評の序論として新秋文壇なるものに於て、多少なりとも努力した作家を分つて、技巧派と無技巧派の二派とし、之を今日の文壇の二潮流と見て批評してゐるのであらうと思ふ。しかし自分が技巧派なのか無技巧派なのかは、凡そ器用と無器用はあつても無技巧と呼ぶ可き作家の存在を知らない自分には想像がつかなかつた。
本間氏は「新嘉坡の一夜」の梗概を記して「永らく英佛に遊んでゐた男が、日本への歸途、新嘉坡に立ちより色街に痛飮して、滯歐中の女難の追懐に耽るといふ一夜を描いたものである」と云つてゐるが、これを讀んだ自分は餘りの意外に喫驚した。これは頭腦が惡いなと思つた。
頭腦のいい作家、頭腦の惡い作家と云ふのは近頃の文壇の流行語ださうで、頭腦のいい派、頭腦の惡い派と對比すると、それが技巧派無技巧派と同意味なのではないかとも思はれる。頭腦の惡い派に云はせると、頭腦のいい方は兎角靈魂の存在を忘れ勝でいけないのださうである。どんな靈魂を持つてゐるのかしらないが、本間氏は明かに頭腦の惡い派の重鎭なのであらうと、その時の自分の苛々した心持は、人の惡い愚劣な皮肉を弄んだ。
別段勝れていい頭腦の所有者でなくても、誰が讀んでもわかる事だと思ふが、「新嘉坡の一夜」は滯歐中の女難の追懐に耽る事を主として描いた作品では無い。その形式から見れば、新嘉坡の一夜そのものを描いた作品である。詳しく言へば上月と呼ぶ旅客が其地の娼家で、想ひも掛けない女と、想ひも掛けない一夜を過した事を描き、主人公上月が、時につけ折にふれて、彼が荷へる運命の怖ろしさを次第に思ひ知つてゆく事を暗に示してゐる作品である。滯歐中の追懷は、彼の心に潛んで、その一生を暗くする女難の怖れを説明し、主人公をして單に紀行文の筆者、又は寫生的に描いた文章の主要人物よりも一歩進んだものとして浮ばせ度い爲めの背景なのである。
但し作者は近頃の文壇の流行に背馳して誇大な發想や、活動寫眞的小細工にみちた脚色を厭ふ傾向から、無理にも主觀的に説明的に流れるのを避け、強ひて平調な、殆ど紀行文に近い形式を擇んだ。その爲めには、「第一毒茶を勸めたといふのは眞實だらうか嘘だらうか」と上月は疑つたが、結局わからなかつたままにして、作者は此の一大事にさへ説明を加へずに稿を終つた。それを知つてゐるのは女一人で、上月の心には、それが眞實か嘘かを思ひ迷ふ暗い疑念さへ殘ればいいのだと思つたのである。お芝居になり度くない爲めの用意に外ならない。
若しも此の平調を心掛けた結果の作品が、單に平調である丈で、暗示に富んでゐないと云つて責めるのならば、作者は此點に於て我が力及ばずと自分自身嘆いて居るのであるから、謹んで評者の眼識の高いのに服したであらう。不幸にして本間氏は作品の骨子をさへ正しくは捉へてくれなかつた。しかも自分では滿足した態度で洒々として批評の筆を進めてゐる。
本間氏は、上月が支那苦力を見て「人類に對する親しい感情を起させるやうな人間には見えない」と感じたのをつかまへて「此作者は恐らく美醜の感覺の強い人であらう。しかしそれは決して常識の範圍を出でない。此作者には大部分、外形が美醜判斷の標準となつてゐる。作者の西洋崇拜もそこから來てゐる。作者の貴族趣味もそこから來てゐる。」と斷じ、更に進んで、西洋崇拜貴族趣味もいいけれど、それは「その人の熱度乃至信念を裏づけたものでなければならない」といつて、最後に「此の作者のやうに美醜判斷の標準を、對象の『外形』に置いてなされたものである時、私はそれらを排斥する。さういふ外形的美醜判斷を捨てて今少し事象の内部に透入することが必要ではないか。今少し『人類に對する親しい感情』を胸に抱いて一切の事象に對することが必要ではないか。私はこのことについて特にこの作者の反省を望む」と結んだ。
自分は批評の怖ろしさ、批評家といふものの怖ろしさを痛感した。若しも自分が「新嘉坡の一夜」の作者でなく、且つその作品を讀んだ事が無くて、此の批評を見たらば、恐らく自分は本間氏のもつともらし書振りから判斷して、その批評の正確さを疑はなかつたであらう。僞物を憎む自分の性質は、かかる際どうしても本間氏に對して好感を持つ事が出來なかつた。
自分は明かに「美醜の感覺」の鋭い人間に違ひ無い。且つ健全な二個の目を所有してゐる限り、その鋭い感覺は目に觸れる對象の外形の美醜を強く感じる事は當然である。「新嘉坡の一夜」の主人公上月は、長い間の航海に、青空と青海に圍まれて塵埃を浴びず、帆綱に鳴る潮風と船側を打つ波の音を聽く丈で、濁つた雜音には遠ざかつてゐた。親しい交りを續けて來た同船の客に置いて行かれて、孤獨の哀感に惱んでゐる時に、先づ耳を襲ふわめき聲、石炭の山の崩れる音に平靜を奪はれ、先づ目に觸れるむさくるしい苦力の群を見て、直ちに苛立たしい心から、それを嫌惡する念の起るのは當然である。若しその苦力の悲慘なる存在の原因を考へなければならないといふならば、作者は評者の「感覺の鈍さ」を輕蔑するより外に爲方が無い。「新嘉坡の一夜」は、社會問題を取扱つた論文では無い。「新嘉坡の一夜」は支那苦力の存在を問題として論じる傾向小説でもない。若し強ひて近時流行の人道がる傾向におもねつて、長々と苦力の状態を嘆き悲しむならば、それこそ「藝術的色調」の稀薄なものになるであらう。何れにしても本間氏の如く自分自身の感覺を通して感じる事の無いらしい人、自分自身の頭腦で考へる事の無いらしい人、換言すれば、無闇に他人の書いた本と、その時々の雜誌新聞がつくる流行を頼りにして生きてゐる傾向の人が考へてゐるやうに、生きた人間は單純なものではない。自然主義の流行する時は、人間を獸扱ひにしなくては淺薄だと考へ、人道主義の力説される時は、一切のものに對して無責任無反省に目をつぶつて愛を感じなければならないのだと、座右の銘にして忘れない種類の人間程馬鹿々々しいものはない。或作品に「人類に對する親しい感情」が滲み出して居るかどうかといふ事は、その作品の中に憎惡怨恨の言葉のありなしに關係はしないのである。生きた此の世の中では、相手の横面を張飛す事さへ「人類に對する親しい感情」を伴つて起る事もある。愛だ愛だと下宿の二階で叫んでゐるのは、それは單に根底の無い覺悟に過ぎない。自分の平調枯淡な作品の場合に引合ひに出しては相濟まない氣がするけれど、日本ではお手輕な愛のかたまりのやうに誤解されてしまつた大トルストイの作品中に、いかに憎惡の念の熾烈に現れてゐるかは頭腦の惡い派にはわからないのであらうか。
評者は又作者を目して「西洋崇拜であり、貴族趣味」だと呼んでゐるが、「新嘉坡の一夜」の何處から推斷して作者を西洋崇拜の貴族趣味だといふのであるか。自分は殘念ながら今日の日本人が歐米人に勝つてゐるものと自惚れて安んじてはゐられないが、さりとて外の今日の日本人、殊に文壇の人々に比べては、あまりに西洋崇拜の度の低過ぎる一人だとさへ考へてゐる。自分などから見ると、本間氏その他同傾向の人々、もつと明確に云へばヂヤアナリズム信奉者程盲目的の西洋崇拜者は無いやうに思はれる。取捨選擇も無く西洋人の所説を紹介し、西洋人の作品を誤譯する事など、自分などには、思ひも及ばない事である。新嘉坡の町を歩いてゐる上月が、汚ない町を過ぎた後で、大きな旅館の前に立つて、憧憬の念を抱きながら西洋を想ふのは、別れて來た土地に對する愛着から自然と起る感情以外の何ものでもない。さういふあたりまへの温情さへ感じ得ない程の木像的思索家に「人類に對する親しい感情」がほんとに起るとは想像されない。彼等は先づ西洋の本を捨てて――彼等自身の言葉を借りていへば――街に出づる必要がある。
今日の文明の形成者として、東洋人よりも西洋人の方が偉かつた事は疑ひが無い。しかしそれは單に「外形の美醜の判斷」がもたらした結果では無い。その文明を生み出した彼等を尊敬するのである。甚だ面白くない例だが、之を文壇に見ても、本間氏の如き見當違ひの批評家さへ、大きな顏をしてゐられる我文壇の貧弱さは、いかに贔負目に見ても崇拜の對象にはなり兼るのである。
貴族趣味についても自分は「新嘉坡の一夜」の何處から推斷された非難なのか飮み込めない。あの作品の何處に貴族趣味が説いてあるか。しかし若し貴族趣味といふものが、平俗凡庸卑劣淺薄を憎み、よりよき人の世を憧憬する事を指すのならば、自分は確かに貴族趣味だ。「人類に對する親しい感情」を多分に持ち、且人類の醜惡なる事實の力強さに壓迫を感じて惱む自分は、どうかしてよりよき人の世の出現を希望すると同時に、醜惡なる人間の影を潛める事を熱望してゐる。小説の月評にさへ、流行の民衆がる機會を捉へんとする人間の心の「内部に透入して」、自分はその醜惡を憎むので、その人間の面つきのまづい爲めに嫌惡するのではない。
自分の貴族趣味は、頭腦の惡い人間よりもより多く無反省な人間を憎み、良心を所有しない人間を唾棄する。換言すれば、わけもわからない癖にわかつた顏をし、もつともらしい風をして出たらめを云ふ人間を嫌ふのである。さういふ人間の集團が存在する限り、人類の幸福は阻まれるからである。
自分は長火鉢の側に不自由な身體を横にしたまま、珍しく眞面目に腹が立つて、暫時の間、喧嘩をしたい心持に苦しんだが、頭の上の柱に掛かつてゐる時計が三時をうつたので驚いて起きかへつた。さうして冷くなつた茶を飮んだ時は、自分の弱點だと平生から思ふのだが、又しても、憤慨したつて自分なんかの力では多數者にはかなはないといふ若隱居根性が起きて來て、苦い笑が浮んで來た。
冷靜になつた自分は續いて本間氏の芥川龍之介氏の小説「奉教人の死」に對する批評を讀んだ。さうしてあの小説を「此作は作者が長崎耶蘇會出版の『れげんだ・おれあ』と題する書の中の傳説に文飾を施したものに過ぎないと云つてゐるのによつても解る通り、全體としてやはり在來の童話の味はひである、傳説の味はひである」と云ひ「童話以上、傳説以上――作者獨自の解釋なり、創意なりを加へたものを求めたい」とあるのを見ると氣の毒になつて、「人類に對する憐愍さ」をさへ本間氏に對して感じたのである。
[1] [2] 下一页 尾页