三
それから暫く經つて、何かかこひの食物を小だしした蓋物を持つて、お園が倉から出て來て見ると、二人は金時のやうにまつ赤な顏をして、話の調子もひどくはづんてゐた。
『大分きいて來たやうだ。』と、お園はちらりとお盆の上に目を走らして、それからまた臺所に姿を隱しながら、幸吉が無性に力味返つて話してゐる醉どれらしい調子に厭でも耳を持つて行かれた。
『いゝかえ、なえ本家、いゝがえ……』と、幸吉は一語一語に力を入れて、その度に恰も何かを抑へつけでもするやうに、腕に力を入れて手を上から下へと振り下すのであつた。
『おれは虱の中から身を起した……虱と一所に育つて來たおれが……全くだぞ、え、本家、あんたはまあその頃のおれ家を知るまいが、嘘だと思ふならお園さに聞いて見なんしよ、こつちのお父さお母さはよく知つてた筈だから、お園さだつてきつと話に聞いてたに違ねから……炬燵の上でも何でも、虱が行列をして歩いてたもんです。着物だつて蒲團だつて洗濯するにはかはりがいるつていふやうなわけで、まあ汚い話だげつと、こぼれる程ゐやしたな……おれは子供心にもこつちのお母さなとが御年始に來てくれる時なぞ、何が何つていふわけもなく恥しくつて仕樣がなかつたもんだ。盲目の親父は青い顏をして小さくなつて爐端に坐つてゐる……酒さへ飮まなけりやあ意氣地がね程、まあ確に意氣地がなかつたんだが、大きな聲も立てれぬ程おとなしかつたもんです……おふくろは茶を入れようつて、生の木をやたらにくべるもんだから、喘息持のをばさはよくむせたもんた。おふくろの背中では三郎がじくね出す、なにお客に來たつてゐたやうでも何でもねえんだげつと、それでもをばさはお茶だけでも飮んで行がねと惡いと思つて、我慢してゐられたのが、おれあ子供心にもよくわかつた……「よし、おれが大きくなつたら一所懸命稼いで金持になつて……」と、おれは恥しさのあまりに、よくかう決心したんもんだつた……』
彼は忘れてゐた盃を取り上げて、無意識に飮み干した。正兵衞はそれを見て早速徳利を取り上げた。
『そこでだ、なえ本家。』と、彼はまたこぼれかけた盃を、首を屈めて一口吸つて、『おれはこつちのお父さから六十錢の資本を貰つた、正しく金六十錢也の資本だ……いやおれはそれを決して少いと思つて言ふんではないぞえ、全くのところおれは有り難かつたんだ、誰も親父に愛想をつかして構つてくれなくなつた時に、おんつあ(叔父)はその時まだ子供のおれを見込んで、たとへ六十錢でもとにかく資本を下してくれたんだ。おんつあは言つた……「金つてものは、幾らあつても同じもんだ、無ければ儲けようつていふ氣が出るし、あれば使ひたくなる。お前の親父は、あつた爲に使ひ果して家も體も飮み潰してしまつたんだ、そしてたうとう働くつて事はどんな事だか知らないで死んでしまふんだ……さあ、こゝに六十錢ある、これを一兩にしたら、毎日毎日この六貫を一兩にする事が出來たら、お前の家のくらしは立つて行くぞ.小さくとも大きくとも商法の心はおんなしだ。いゝが、お前が病氣か何かで仕事を休んで資本をすつた時でない限は、二度とおんなじ資本を貰ひに來るやうでは駄目だぞ。お前が大きくなつて、また違つた相談をおれに持ちかける時は、それはまた別だ。」……叔父はかう言つて、おれを勵してくれたんだ……それからおれは降つても照つてもかゝさず出かけて行つた。おんつあは六貫を一兩にしろつて言つたが、おれは六貫を倍にして一兩二貫にして見せる、いや二兩にして見せる、子供心にもおれはさう覺悟したんだ……ところでだ、本家。』
彼はまた殘の盃を傾けてやつと手を空けると、急に嬉しさうに相好を崩して手の平をこすつた。目尻のあたりに寄る皺や、廣いけれども間がぬけてゐない額など、彼の顏は決して上品な部類ではなかつたけれども、それでもどこやらに――多分耳から頬にかけての餘裕ある線であらう――どこやら福相な感じのする顏であつた。しかも今はその顏に、何ともいへぬ人の好ささうな心の漂さへ見られるのは、彼の日常にくらべて誠に奇異な事であつた。
それは恰も人間の、個々に言へば彼の、生れたまゝに備へてゐたある善良さが、少しも伸び寛ぐ機會がなくて、彼自身から常に虐げられ虐げられしてゐたものが、今彼の甘き醉の開放に遇つて、知らず識らず覗き出したとでも言へるやうなものであつた。
『親父はおれを蓆の上で、虱と一緒に育てはしたが、全くやくざな親父ではあつたが、親は親だ、なえ、親は親だと、おれはさう思つて孝行をして來た。酒も買つたし、魚もお父さとお母さだけにはと、二週間に一度、一週間に一度は買つて上げた……親父が死ぬ時には、ともかく疊の上で、絹布の蒲團とまでば行かずとも、垢のつかない虱のつかないだ、とにかく新綿の入つた蒲團の上で送つてやつた……なえ、本家、おれは決してこんな事を自慢するのではあツりやせんぞ! 決して自慢するのではない、たゞおれに取つては嬉しい事だからさういふのだ。なえ、そらあしてやりたい事はどれ程あつたか知れない、また今だつて、生き殘つてゐるお母に、思ふ百分の一もしてやられないのは殘念だ、けれどもまだまだ[#「まだまだ」は底本では「まだだま」]、まだまだこれからなんだ……「今に見ろ、今に見ろ。」……』
彼はいかにも、この今に見ろといふ言葉の心を具體化するやうに、急に調子を低めて、恰もむくむくと何かゞ首を擡げようとしてゐるかのやうに、重々しく、そして徐に言葉尻の調子を揚げるのであつた。
『おれは自分に言ふんだ、「まだまだ、まだまだ!」……それから、「今に見ろ、今に見ろ!」……』
彼は首を振つたり、又は首を縮めて眉を聳てたりした。彼の言葉はひどく途絶えがちになつた。けれどもその間に却つて彼の實感が迸つた。
『おれは親父に思ふだけの事は出來なかつたけれども、しかし親父はおれに不足を言ふ事は出來まいとおれは思ふんだが、どうだんべなえ本家……おれは思ふんだ……親父はおれを生したつきり何もしてくれなかつたが、おれはともかくも立派に……まあ出來るだけはだが……とにかく綿屋の暖簾の下から、親父が外してしまつて、息子が裸一貫で掛けたその暖簾の下から葬式を出してやつたんだ……これで親父も冥土に行つて先祖達に顏向も出來るつてわけだと俺は思ふんだが、どうだんべなえ本家……そこでだ、おれが今かうして、「まだまだ。」「今に見ろ、今に見ろ。」を一所懸命に繰り返してゐるのを知つたら、草葉の蔭から親父が見て、生きてた時の埋め合せにつて、佛の力でおれを援けてくれんべとおれはさう思つてたんが、どうだんべなえ本家、そこでおれは毎朝神棚の次に佛壇を拜む時には、「南無阿彌陀佛、お父さ、どうかこの家を守つておくれ、家内息災で、商法が繁昌するやうに[#「するやうに」は底本では「すやるうに」]、ようく守つておくれよ。」……おれはかう言つて拜むんだ、なえ……』
彼は話しながら、實際合掌して、數珠を揉む時のやうに掌を摺り合した。
と、このとき不思議な印象がぱつと彼の心に映つて、彼の注意の全部は、一齋にその方向にむかつて突進して行つた。お園が、何かあらたに出來た煮物のお初を盛つて、佛壇に晝の食事を供へてゐた。かあんと尾を引いた小さな鉦の音が、眞晝らしい頃の明るい茶の間に、強い酒の匂の間を漂つて消えた。その小さなものさびた鉦の響が、急に轉じた彼の思念の方向を眞直に導いて行つた。
『南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。』と、彼は突如として大きな聲をあげて念佛を稱へた。
彼は佛壇に線香をあげて來たいといふ衝動をしきりに感じた、そしてそれは是非さうしなければならないやうに、眞面目に彼を動した。
『どれ、佛樣に線香を一つあげて來つかな!』
彼は立ち上つた。そして思はずよろよろとなつたので、
『おゝ、危いぞえ!』と、正兵衞は慌てゝお膳の上に兩手を翳した。
幸吉は眞面目くさつた顏をして、二本の線香に長火鉢から火をつけると、ほそぼそと白くたち騰る烟を香立にたてゝ、羽織の裾を捌いて几帳面に畏り、佛壇を見上げながら靜に合掌した。
『南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛……』
正兵衞とお園とは、後から顏を見合して、彼のものものしさをほゝゑんで見てゐた。
彼は暫く瞑目し、それからまた目を上げて、大小の位牌の納めてある扉の中に眺め入つた。新しい位牌には、彼にもよく覺のある、こゝの先代の戒名が書かれてあつた。下り藤の定紋をつけた左右の花立の草花の間を、線香の匂がほのぼのと分けていつた。彼は合掌した手を疊について、ぽつくりと恭しくお時儀をしてから座に戻つて來た。彼の顏はその赤さにも曇らず晴々として、相變らず嬉しさうであつた。
『時になえお園さ、おれはこつちのおんつあの事を思ひ出しつちまつて、その話がしたいんだげつとも、いゝがえ?』
『何だか知らないけれど、いゝの位あツりやせんともえ。』
『いゝがえ本家、おれはおんつあの事を話してんだが、いゝがえ?』と、彼は猶もくどく繰り返した。恰も何か一大事でも、殊には正兵衞夫婦にとつてあまり思はしくない事でも言ひ出すのを躊躇してるかのやうに念を押した。
けれども、彼には今決して少しばかりも成心があるのではなかつた。たゞ胸に浮ぶがまゝのことを言ひたい爲ばかりに一所懸命で、あまり人の言葉などは耳に入らず、自分がどんな風にしやべつてゐるかも忘れがちなのであつた。彼はたゞひとりで、五體に行き亙つて行く情緒の快さのうちに、その心の手綱を暫し切り放したのであつた。
『いゝがえ? よし、そんぢやら話すげつともなえ…』と、彼はなほ言葉を重ねるのを止めないで、『こつちの叔父は全く豪い叔父だつた……さう言つては何だけれど、おれは全く感心してるんだ、なえ……おれは忘れね、どうしても忘れね、一生涯おれは忘れる事が出來ね……叔父が亡くなるその前の晩だつた、心配になるので店の用をそこそこにして來て見るとみんなが叔父の座敷に集つてゐた。叔父は注射してから暫く眠つてるやうだつて事だつたので、おれはその晩はお伽をするつもりだつたから、炬燵の方に行つて少し横になつてゐた……一時間ばかりすると叔父は眼を覺した風で、「山太(屋號)で來てゐつかえ?」「は、來て居ツりやす。」おれは急いで叔父の枕許に寄つて行つた。「どうでごす? ちつとは樂になりやしたか?」「あゝ、ちつと樂にはなつたやうだげつと、少しばかり脚の方を擦つてくれろ。」そこでおれは叔父の脚の方に廻つて、靜に足を撫でて上げた。
「これでようごすか、もちつとそつとやツりやすか?」つて聞くと、「あゝそれでいゝともえ。」と、叔父は言つた。「なえ幸さ、いろいろ世話になつたが、おれは今度は駄目なんだから、おれが死んだらばな……」「叔父そんな事は決してあツりやせんぞ。」と、おれが言ひかけると、叔父は「いやいや、今度こそおれは死ぬのだぞよ、したがおれが死んだつても、誰も何も心配したり嘆いたりする事はないぞよ。年を取つた者が、命數が盡きて若い者達の先に死んで行くのは、これはあたり前な事で、ものゝ順當といふものだからな……おれはお前の一方ならぬ働で、だんだんお前の家が繁昌して行くのを、死んでからも草葉の蔭から喜んで見てゐるぞ!……この町の中でも、綿屋といふ屋號の家は、お前の家とおれの家とこの二軒だけで、昔は近しい親類でもあつた間柄なのだから、おれが死んでも兩家は仲善くして、正兵衞と二人でお互に援け援けられ、なあ、心を合せて家業に精を出してくれろよ……頼むぞよ……」……お、叔父はかう言つたんだあ!……』
彼は突然言葉を切つて、お、お、お! と咽び入つた。『叔父は、お、おれに足を擦らせながらさう言つたんだ――いや、それを言ふ爲に、わざとおれに足を擦らせたんだ……「おれは死、ぬ、ぞ、よ、後を宜しく、た、の、むぞ、よ!」……』
彼はどうにかしてその時の嚴肅な氣分を現さうと苦心するかのやうに、一語一語に力を入れて、そして子供のやうに兩手の指を目にあてゝ涙を拭つた。
『頼むぞよつて、叔父はこんなものの數でもないおれのやうな者にさう言つたんだ……お、お!』
鼻を啜る音が障子のかげから聞えた。お園が何となしに引き入れられて、わけもなく悲しかつた父親の臨終の有樣をまざまざと思ひ出しながら、前掛でそつと涙を拭いてゐるのであつた。それを聞きつけると、正兵衞も思はず目をしばたゝいた。自若として近親の誰彼に向つてこの世の暇乞をのべた老父の面影は、正兵衞に取つても親しく、悲しく、そして印象の強いものであつた。
何か不思議なものがそこにあつた。座は白けたけれども、併しそれは皆に取つて思惑のわるいものではなく、ある共通したものが三人の暫くの沈默の間を綴つてゐた。それは心と心とであつた。やがては又まちまちに分れて働く心ではあるけれども、そしてその一つの心が、また更に他の刺戟や場合に遇つていろいろに分れ働くのであるけれども、一人の老人が、その死期に臨んで、その子や縁者の間に蒔いて行つたやはらぎや、むつみや、勤勉の種が、たまたま善良なものを慕ふ人間の心の鋤に掘り返されて、その芽を露したやうな瞬間であつた。
幸吉はまた續けた。
『……死ぬつていふ事は、容易な事でない、決して容易な事でない、それだのに叔父は、「おれは死ぬぞ!」つてかういふんだ……「おれは死ぬぞ、あとは宜しく、た、の、む、ぞよ!」死ぬつて事は、なかなか自分が死ぬつていふやうな事は、自分で考へられるものでも言はれるものでもない……それだのに叔父は言つたんだ……「お互に援け、援けられ、仲善く暮してくれろよ、宜しく頼むぞよ!」……お、叔父はおれにさう言つたんだ、このおれに、このやくざなおれに、叔父は昔から力瘤を入れてくれた……それだのに、その力を入れて貰つたおれは、四十にもなるのに今だに素寒貧で、愚圖で、馬鹿で、やくざ者で……意氣地なしの大へつぽこ!……』
彼は感傷的に、自分に向つてあらゆる惡口を並べたてた。しかも彼は決してそれを誇張だとは思はなかつた。彼は心から自分を足らぬ者、不肖な者だと思ひ込んで、自分を鞭ち、責めるのであつた。彼が間もなく家に歸つて、一睡した後には、また緊縛されて、めつたに機會がなければ省られないであらう彼の心の善良な部分が、今は心ゆくまでにその翼をのばして、彼を支配し彼を温めてゐるのであつた。
『おれはやくざ者だ、おれは惡者だ、おれは能なしだ……』
彼は飽くまでも自分を陷れ、また謙る事によつて、しんめりと潤つて行く心の中を覗き込むやうに、猫背の背を丸くして、胸元に首をうづめながらさめざめと泣き出した……
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