――(櫻田本郷町のHさんへ)――
今日はほんとうにお珍しいおいでゝ、お歸りになつてから「お前は今日よつぽどどうかしてゐたね。」といはれましたほど、私の調子が狂ひました。ほんとうにあなたはめつたにお出ましにならないので、私どものやうに引越してばかりゐますと、ついあなたが御存じない家も出來てまゐります、今日はほんとうに嬉しうございました。
けれど、これといつて何一つ取りとめたお話もいたしませんでしたのねえ、狹い私の家中を驅け廻つてゐるまあちやんとせつちやんの遊びは、二人[#ルビの「ふたり」は底本では「わたし」]のやりかけた話をたび/\さらつて行きました、私はたゞ、あなたが(このあなたがは、とても字では表はせないけれど、語氣を強めて言つているのですよ)兎角まあちやんの聲に母親らしい注意をひかれがちなのを、不思議さうに珍らしさうに眺めてゐました。ほんとにまあちやんの大きくおなんなさいましたこと、今更らしく思つてみれば、あなたもK子さんも立派な母親なんですわね。K[#底本では「K」が欠落]子さんとこのせつちやんたら、この頃では私の家へひとりで遊びになど來るやうになりました。門の戸が開いたと思ふと小さな足音がして、いきなりお縁側のところで「さいなら!」などゝ言つてゐます。
あなた方はほんとうに、愛すまいとしても愛せずには居られないやうなものを持つていらつしやいます。深く、強く、眞摯にものを愛することが出來るといふのは、なんといふまあ仕合せなことでせう! それだのにあなた方は、いつも自分一人が子持ちになどなつて割がわるいのだといふやうな顏をしていらつしやるほんたうに罰があたりますよ。だけど、子供なんか要らないなどゝ仰言るのは、要するに空虚な言葉にちがひありません。何故といつて、今まあ假にある禍ひが來て、あなたのその要らない子供を奪つて行くとしませう、その時あなたは必と、身も世もあげてそのお子さんを救はうとなさるにちがひありませんもの。心の心は、要らないどころか、大事で大事でならないものを、煩いなどゝあんまり世間並みなことを仰言るな、あなたの惠まれた母の愛を、猶この上とも眞面目にお大切になさいまし。
あなたにお別れしてからの電車の中で、私は今夜はじめて乘越しといふ失敗をしました。晝のうち復習が出來なかつたものだから、せめて電車の中でゝもと思つて、動詞の語尾の變化に夢中になつてゐるうちに、いつか水道橋は過ぎてしまひ、ふと氣がついてみると、もうお茶の水まで來てゐるのです。あまりの間拔けさに自分で自分にきまりわるく、すぐ引返さうかと思つたけれど、どうせもう後れたのだから、いつそ文法の時間をすましてからにしようと、そのままぶら/\と電車通りへ歩き出しました。
駿河臺の少しものさびれたところに、活動の廣告の赤い行燈が、ぽつかりとついてゐたのが妙に頭に殘りました[#「ました」は底本では「しまた」]。なんだかそれが如何にもかう、初冬の一夜といふやうな感じを起させました。晝のうちはあんなにほか/\と暖かくしてゐながら、なんとなく袂をふく風がうそ寒く、去年のシヨールの藏ひ場所なぞを考へさせられたりしました。時候の變り目といふものは、妙に心細いやうな氣のするものですね、これはあながち不自由に暮してゐるばかりではないでせうよ。
私の手はいつの間にか腋の下に潛つてゐました。私は東明館前から右に折れて、譯もなく明るく賑かな街の片側を、店々に添うて神保町の方へと歩いて行きました。ある唐物屋の中からは、私の嫌ひなものゝ一つである蓄音機の浪花節が、いやに不自然な聲を出して人足をとめようとしてゐましたが、誰もちよいと振りかへつたまゝでそゝくさ行き過ぎるのが、「もうぢきに冬が來るぞ、ぐづ/\してはゐられやしない。」とでもいつてるやうに思へて、なんとなくものわびしい氣持がするのでした。
ふと繪葉書屋の表につり出した硝子張りの額の中に見るともない眼をとめると、それはみんななにがし劇場の女優の繪葉書で、どれもこれもかね/″\見馴れた素顏のでした。今初めてつく/″\とそれを見れば、長い顏、丸い顏、眼のつツたのや口の大きいのと、さまざまなうちにも、おしなべてみんなが年を取りましたこと。私は暫くたちどまつてぢいとそれらの顏々を見まもりました。なんとなくあさましいやうな、情けないやうな氣がしみ/″\として來て、思はず知らず顏がそむけられました。あゝ、さま/″\な批評に弄ばれながら、繪葉書の上に老いて行く女優達の顏!これらがやがて色もなく香もなくなつていつた時には一體どうなるのでせう? それはたとひ、虚榮に誤られたその不明が、その人々それ自身の罪であるとはいへ、所謂新時代の最初の犧牲だと思ひます。さうしてこれはただ人事ではないのでした。私達はよく自ら顧み、自らよく考へなければなりませぬ。
私は歩きながらいろ/\なことを考へさせられました。「不良少女の沒落」といふ標題の下に、私達が前後しての結婚を×誌あたりに落書されてから、みなもう丸三年を過しました。Kさんがまづ母となり、あなたも間もなく母となりました。私は私で相變らず貧乏世帶の切り盛りに惱まされてゐます。けれど私達は決してそれを悔いることはなかつたと思ひます。それはある場合、ある心の状態の時には、さういふことも考へないではなかつたけれど、離婚をもつてその悔を償ふものだとは決[#ルビの「けつ」は底本では「けし」]して思はなかつたらうと思ひます。
自然主義の風潮に漂はされた年若い少女が(尤もこの自然主義は、新聞の三面記事に術語化されたものを指してゐません。その頃の生眞面目な[#「な」は底本では「は」]文壇の運動を言つてゐます。)從來の習慣の束縛を逃れながらも、猶何かを求め探してゐる時に、誰も一人としてその生命の綱を與へてくれるものはありませんでした。その光明のある方向さへも、誰も指さしてくれるものはなかつた。私達はどんなにその爲めに悶えたでせう!その頃の風潮からは、たゞ破壞をのみ會得して、建設については一部一厘だにも學ぶことが出來なかつたのです。悶えて悶えて悶えてゐる心を、うはべの賑かさに紛はしてゐる寂しさを、人々はただ嘲笑の眼をもつて見ました。Kさんのその時分の歌に、わがはしやぎし心は晩秋の蔓草の如くから/\と空鳴りするといふやうな意があつたやうに覺えてゐます。
多少私達に好意を持つてくれる人達は、日に/\氣遣ひの眼をもつて私達に臨みました。それは私達の眞意を汲み取り得なかつたからなのでした。「君達の娯樂ともならばし給へと美しき身を魂を投ぐ」といふあなたの歌をS誌上に見たその時の、なんともいふことの出來ないその心持を、私はまだまざ/\とおぼえてゐます。自ら不良少女と名乘ることによつて僅かに慰んでゐる心の底に、良心と貞操とを大切にいたわつているのを、人々は(殊に男子に於て)見ぬく[#「見ぬく」は底本では「見ねく」]ことが出來ませんでした。
私達はたゞ/\解放されるのをばかり望んだのではなかつた。何ものかを心にしつかとつかまなければならないのでした。さうしてつかまう/\とする要求が烈しくなればなるほど強くなつて來るのは、それに對する失望の心でした。私達は暗の中に手探りで何かを探し廻つてゐました。何を探すのかも知らずにたゞ探しました。今になつて思つてみれば、それは生きようとする要求に外なりませんでした。
女は弱いもの故にたやすく失望をし、そしてたやすく自棄にもなります。やがて私達にもそれがやつて來ました。殆ど危かつたその時、私達は自ら救ふために、十分にその力に疑ひを殘しながらも、愛とその結婚に隱れ家を求めようとしました。
その頃雜誌「青鞜」は生れ、新しい女といふことが大分やかましくなつてまゐりました。けれど私達は初めからそれを白眼でみました。なぜならば、少しもそれらの運動や宣言[#ルビの「せんこく」はママ]に共鳴を感ずることが出來ませんでしたから。ひそかに自分達の考へはもう舊いのだろうと肯きました。さうしてその舊さに滿足を感じ、光榮を感じました。吾々は覺醒せりと叫ぶひまに、私達はなほ暗の中をわが生命の渇きのために、泉に近い濕りをさぐる愚かさを繰りかへすのでした。私達はとてもあの人達のやうな自信と誇りを持つことが出來なかつた。決して現在の自らの心の状態を是認することが出來なかつた。
さて私の結婚後の生活は、渦のやうにぐる/\と私どもを弄ばうとしました、今猶多少の渦はこの身邊を取り圍みつゝあるけれども、貧と心の惱みとに鍛へぬかれた今(まだ全くはぬけ切らぬけれども)やうやくある落着きが私の心に芽を出しかけました。その芽をはぐゝむものは、私の廣い深い愛でなければならないのです。私はまづ第一に夫を愛しなければなりません。けれども情けないほど私の愛はまだ淺いものです。私は自分の愛のいと小さく、淺く、狹いのを、恥ぢ、恐れ、嘆きます。私の今の苦しみは、私ん[#「ん」はママ]自分に希んでゐる愛の足りなさを、悲しむ心に外ならないのです。
また私の胸に和ぎの芽を植ゑそめたものは、一頻り私の膓を噛み刻んでゐたところの苦惱が生んだ、ある犧牲的な心でした。その心持は今、私をだん/\と宗教的な方面に導かうとし、反動のやうに起つて來た道徳的な心は、日光となつて私の胸に平和の芽を育てます。けれども勿論穩かな日和ばかりは續きません、ある時は烏が來て折角生えかけたその芽をついばみ、ある時は恐ろしい嵐があれて、根柢から何も彼もを覆してしまひます。恐らくその爭鬪は一生續きませう。けれども秋々の實りは、必ず何ものかを私に齎してくれるものと信じてゐます。
私達はもと、道徳の形骸や、強ひられた犧牲やらを拒みましたけれども、今わが内心に新しく湧き起つて來た道徳的な感情をもつて、初めて闇の中に探り求めてゐたあるものをつかんだやうな氣がするのです。それは全く私の心の要求から掘り起された泉でありました。自らを進んで犧牲にすることは、決して自らを殺すことではなかつた!と私はこの頃さう思つて安んじてゐます。
ふと氣がついてみると、私は今馬鹿に固くなつてこれを書いてゐました。若しや[#「しや」は底本では「のや」]私の言ひ方があなたを説得するやうな調子になりはしなかつたかと思つて、私は今思はず面を赤らめてゐます。どうぞ、あなたに贈る手紙にことよせて、私がくづれ易い自分の努力を誡めているものと、失禮をお許し下さい。
くれ/″\もゝう、境遇に向つて不平の呟きを洩らす時は過ぎ去りました。「私や子供のために、こんなに痩せながら働かなければならないのだなんて、恩にばつかり被せてゐるのよ。」[#「よ。」」は底本では「よ」。」]と仰言つたあなたの美しい寂しい笑顏を、私は今思ひ浮べてゐます。ねえ、私達は潔くその恩を被ようではありませんか! さうして愛を豐かに持つことに努め、それをすべてに捧げることに、決して自分の利益を考へないやうにと心掛けませう。
私はこれから一生懸命勉強をしようと思つてゐます。私がこんど六十の手習ひのやうな語學を初め出しましたのは、その第一歩のつもりなんです。私達は決して今のまゝで死んではなりません。その貧しさには決して堪へられません。私達はもう少し人間らしく生きなければなりません。今にもうすぐ私達の一生にも冬がまゐります。私達はこの若さの秋に於て、出來るだけの働きをしなければなりません。
今夜はどうも思ひがけない手紙を書いてしまひました。どうぞ御主人樣によろしくお傳へ下さい。そして、またお近いうちに是非お遊びにいらしつて下さいまし。[#底本では「。」が欠落]ではさよなら!
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。