時は移つて行く。今日の私はもう昨日の私ではない。脱殻をとゞめることは成長の喜びである。
その脱殻の一つを、今私はその頃の私に捧げようと思ふ。
いつの頃からともなしに私はさうなつて来た。どうした訳でなのかもわからない。寧ろわかることを避けて居る。面倒くさがつて居る。私はたゞ、此頃私はかうなんだと思つてみて居る。
「なんて腐つたやうな生活なんだ!」
かう言つてあの人は憤る。すると私もさう思ふ。
「まるで腐つてるんだ。蛆が湧くぜ今に!」
唾でも吐きかけたいやうな顔つきをして、あの人は私を見下して起つて行く。全くそれに違いない。適切な言葉だと思ふ。だけど、たゞさう思ふだけで、一向痛切にそれが響かない。私の腐つた心には、もう薬もなんの利き目がないのかも知れないなどゝ思ふ。
パラ/\と自棄に頁を繰る音がする。と、やつぱり相手を求める私の力でないやうな力に操られて、私はつと後を追つて行く。
「ね!」とぺたり坐つて、あの人の膝にしなだれかゝる。あの人は黙つて居る。
「ねつたら!」
「おい!」
いつもの慍つてる時に出る声の返辞。すると私は、無上に気に入らなくなつて、何がなんでもそれをどうかしなければならなくなる。
「いやあよ!」と鼻声になつて、膝の上にのしかゝつて、猫が自分の寝どこを工合よく作る時のやうに、ぐん/\と体の半分を机とあの人の体との間に割り入れてしまふ。
「よ! 厭だつてば、そんなに慍つたやうな顔をしてちやあ。」と仰向けになつて見上げながら、首に手をかけてぐい/\と搖らせる。その時に一寸、少し大き過ぎると思ひ/\したこの人の鼻が、此頃は一向気にならなくなつたことなどを思つたりする。
「ねえ! よう!」
それでも猶あの人の頬は引締つて、丁度内側から吸ひふくべでもかけたやうに、肉がこけて見える。そんな時には、頬骨がいやに高く目に立つて、角度の多い顔になる。そのいつまでもほぐれない顔色を見て居るうちに、それが女の資格を失ふことでゝもあるかのやうに、私の心は焦慮れて口惜しがつて来る。そして意地になつて男の心を随はせようとかゝる。
「ようつたらよう!」
「煩い!」
と、私の心は足場を失つてほろりとあの人から離れる。細胞といふ細胞に一ぱい含んで居たやうな体の味――さういつたやうなものをあの人に甘へてる時にいつも味はふ――が、汁を吸ひ取つた梨の滓のやうにぽろ/\したものになつてしまふ。私は恐い顔をして凝乎とあの人を見つめる。すると、自分で出した声の突拍子だつたのに少し慌て気味のあの人の顔に、それこそほんのすこうし和いだ影を見て取ると、私は如何にも萎らしく消気たやうに悲しさうな顔をして、黙つて凝乎と遠く障子の桟などを見つめて居る。
「何だい? ん?」
今度は私が黙つて居る。暫くしてそつと偸み見をすると、あの人は如何にもものを内に向いて考へるやうな眼付をして、ぢいつと一つところを見つめて居る。私はひとりで芝居をしてたやうな、間の抜けた感じを味はひながら、急にあの人に投げて居る体の遣り場に困つてしまふ。こんな時位、二人の間に粘り気を失ふことはないと思ふ。かうした時間の連続は、二人をして未練なく離れしめ得るであらうと思はれるほど、私の心も、私の体も、ひたとあの人に向つての流動を止めてしまふ。私はぷいと起つて行く。
暴風雨が私の体中を荒れ狂ふ。雷雲のやうに険悪に濁つた血が、迸り出る出口を探し求めてるやうに、脈管を走り廻つている。一寸した指の弾き方にも、歩き方にも、数の少くなる口の利きぶりにも、一つとしてその濁つた血の支配を受けないものはなくなる。手を一つ動かすと、それが返り戸をするほど力委せに戸を閉めてる。足を動かせば、それがまるで地踏鞴を踏むやうにしてゐる。あらゆるものを取つて投げ、壁を破り、家を壊したら、少しは慰むだらうと思はれるやうな慾望が、むら/\と肉を盛りあげるやうに私の体の中から湧いて来る。と、あゝ父の血だ! とちらり閃く考へが、何処ともなくすうと冷たく私の体のある部分を這つて過ぎる。凝乎と睨みつめた手近な器具に、心がぢり/\と焼きつけられて、私の手の影のやうなものがそれを掴むらしくみえる――割れる――響――その刹那のひやりとした気持なぞを、いつか私は想像して居る。さうして私は、前後も忘れて、大切なものでも取つて投げるといふやうな、すべてを忘却した朦朧な精神状態になれないのが腹だゝしくつて、われながら小憎らしくて、自分で自分を抓つてやりたくなる。と、何処かの隅にけろりとして居るやうな利益の観念と妙に取すました反省の力に束縛された濁血が、またむら/\と狂ひ出す。
私はばたりと畳に体を投げる。そこらを掻きる。あらゆる罵詈雑言の限りを胸のうちに叫ぶ。そしては、その醜い我姿に泣いて/\、熱い涙がぽろ/\と頬を伝はつて落ちる。そのうち塩辛さが、喰ひしばつた歯の間に流れ込むと、私はとう/\声をたてゝ泣くのである。
「なんといふ仕様のない女だらう!」
家の中がしいイんとして居る。襖のかげには息づかひの音もしない。
「なぜあの人は私を擲りに来てくれないのだらう! この! この! 仕様のない、あばずれの、わがまゝの、手のつけようのないこの女を、なぜあの人は打つて/\、ぶちのめして、その腕の力が萎えると共に、私を抱へて泣いて/\は呉れないのだらう!」
私の頬にはまた新しい涙が熱く冷たく流れる。どつかにぶつかつてつき破らなくては、自分で自分の肉を傷つけたいやうな物狂ほしさになつて、私はいきなり起き上つて行く。
「よ! どうかして、どうかして! 打つて、ぶつて!」と、一つの物体の様に我体をあの人の前に投げる。
「さ! 追ひ出すともどうとも勝手にしたらいゝぢやないか!」と、早く事の頂点に達したさに、あばずれた言葉で無茶に叫ぶ。
「馬鹿!」あの人は怒鳴つた。そして自分の声に激した。
「どうしたつていふんだ?……」
私は胸をせか/\させながら、負けない気になつてその顔を睨みかへす。二つの胸が高く不規則な呼吸を続ける。
暫くすると、あの人はなんにも言はずに、如何にも術なさゝうな溜息をして、私から目を外してしまふ。と、私の胸はかすかにおど/\として来る。どうにもかうにも仕様のないこの心のやり場は、やつぱりあの人の胸でなければならない。あの人といふ対象がなかつたなら、私はこんなに気違ひじみたことをしやしないんだと思つて来ると、あの人の心を惹きつけたさにするいろ/\な調子外れの行為が、却てあの人を悩ませたり、苦しませたりするのに気が引けて来て、すこうしづゝ静かな気分に恢復して行く。涙のあとを走るやうな冷たさが妙に佗びしい。
ふとみると、捨てかけて行つた私の手を先刻から握つたまゝ、身じろきもしずに居るあの人の顔に、一つどころを見つめた眼が、一ぱいの涙を溜めて居る。襲ふやうに私の全身に走つた悲しさが、
「リユウリチカ!」と思はず呼び馴れた隆三の愛称を呼ばせて、その首に手を巻かせる。と、搖られてぽとりと落ちた露が私の頬を打つ。
「堪忍して! 堪忍して!」
私は堪らなくなつて、心からおろ/\と泣けて来る。
「サアシヤがわるい、(さだ子)サアシヤがわるい。ね堪忍して、堪忍してえ!」
「サアシヤばかりが悪いんぢやないよ。僕も悪いんだ。僕が至らないんだ。僕がもつとすべてに於て強者だと、サアシヤにそんなヒステリーを起させないですむんだ。」
それを聞くと、私はまた無上に済まなくなつて、自分で自分が責められて来る。泣いて/\、すつかり泣き切つたあとの洗はれたやうな胸を大切さうに抱へて、私はいつまでも/\泣いじやくりをして居るなんといふその時の私は、柔順なそして健気な心を持つた女であるのだらう!
「私、貴方に手紙が書きたくなつたの。旅行をなさらない?」
「あゝ、金を作つてくれ。」あの人は苦もなく笑戯にしてしまつた。
私は急に夢がさめたやうになつて、生々とした表情が、水を引くやうに去つて行くのを覚える。なんの興味もない、針の先ほどの刺激もない一日々々の中に、その身が浸つて居ることを思ふと、体も精神もげんなりしてしまつて、何も彼もすつかり倦れきつてしまふ。さうして終日これといふ仕事もしずにぶら/\と過してしまふ。そこにだつて、決して面白いことも、気持の縮まるやうなこともないのだけれど、たゞ惰性になつて行つてゐる松枝さんの家から、思はず時を過したのに驚いて帰つてみると、意外にも早くあの人は帰つて居たりする。
「売れたかい?」あの人は妙に取すまして居る。
「えゝ。」私は自分で自分を瞞着すやうな、また祈るやうな悲しさを抱いて、何気なく平気で笑つてかう答へる。すると、「なんといふ図々しい女だらう!」と呆れかへるやうなあの人の心がひし/\と感じられて、そつと涙ぐましい佗びしい気持になる。それが堪へられないやうに、私があの人に喰ひ入つてしまはなければ此場が過せないやうに、突拍子もなく私はあの人に侵入してゆく。
「ね、サアシヤが可愛いの?」
「あゝ」あの人は厳かな態度を粧はうとする。その口付きから直ぐに、「だが……」と来るのを予覚しながら、私はぢいつとその顔に見入つて居る。
「お前が僕に忠実で、そして……。」
「解つてるわ、/\。」と私は慌てゝその口をとめる。
「ね、後生だからなんの前置もなしに、但し書きをしないで、たゞサアシヤが可愛いつて言つて頂戴!」
たゞ甘えることだけが、あの人の厳かな構へを破る方法でゝもあるかのやうに、私はひたすらあの人に纏はつて行く。
「よう、後生だから。」
「お前が僕と共鳴し、感激しあつて生きて行く限りは……」
「いや、いやあ! 知つてるの、知つてるの。だからたゞなんにも言はないで、サアシヤが可愛いつて言つて!」
私はたゞもう意地になつて言ひ張る。
「またそんな無茶をいふ……そんなお雛様ごつこのやうな時代はもう通り越してしまつてるぢやないか。考へてごらん、我々はもうかうしてぐづ/\してられる時ぢやないぢやないか。」
「居られるさあ。」
「居られる?」
「えゝ。」
「ぢや僕がなんにもしないで、このまゝつまらない人間で終つてしまつてもいゝのかい?」
「えゝ。」負け惜しみに、やつぱり躊躇もなく私はかう答へる。それに、あの人が豪くならうと、なるまいと、それが私に取つてたゞ一つの問題ではない。あの人の進退が私の運命に大なる影響は及ほしても[#「及ほしても」はママ]絶対は支配はしないであらう。「あの人がなければ私は生きられない。」「あの人によつて私は生きる。」といふことは、何も、たゞ/\もうあの人を頼り切つてるといふ謂ではない。あの人によつて慰められ、あの人によつて力づき、さうしてあの人によつて私の生活は保證されて行く。けれどもあの人の生命が私の生命ではない。あの人の心が私の心ではない。
「あゝ、それが寂しいんだ!」と、突差に私の心の奥が叫ぶ。
「ぢやもう仕様がない。解つてる/\つていひながら、やつぱりお前にはおれの心が解らないんだ!」
それが、いつも二人の心の別れ目に立つ言葉である。二つの心の交渉はそこにと絶えてしまふ。
私はぎち/\と、唇を噛み出す。「なぜあの人はまた、私のこの心を解つてくれない? すべてがわかつて居ながら、なんでも呑み込んで居ながら、猶かうして居る、自分でも苦しいこの心を、なぜ汲み取つてくれない? あゝやつぱり駄目だ?」
「私だつて、いつまでもかうぢやないでせうよ。そのうちに自然と私の心が持ち直して来る時が来るでせう。私はそれを信じてますわ。」と、いつか私が言つたことがある。真面目に、そして、芝居気なしに、自分で自分を瞞着かさない、しんみりとした心でさう言つた。すると、あの人は、
「そんな、来る時を待つなんていふやうな、消極的な心を持つてるから駄目なんだ。なぜ自分からその時を作つていかないんだ? すべてを肯定し、そして……」
「それが出来たら……」と、直ぐに私はその言葉も終らないうちに考へる。「出来ないといふことはないかも知れない、けれども私には出来ない。いくら内部の要求が強くても、外部の力の援けがなかつたならばそこに一つの仕事を形ち作ることは出来なくはないだらうか? その私の欲し求めて居る外部の力の一部分には、あの人も与らなければならない筈である。あの人のその力は弱い。希薄である。」
私は併しいつもそれといふのを憚る。傷みやすいあの人の心に、血がにじむのを見るやうな気がしさうなので。
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