二人の關係の眞相が、どんなものであつたかは誰も知らない。恐らくは彼女自身にもわからなかつたことであらう。彼女は見事に誘惑の甘い毒氣に盲ひたのである。
三ヶ月ばかり過ぎると、彼女は國許に歸つて開業するといふので、新しい若い夫と共に、この土地を去るべくさま/″\な用意に取りかゝつた。彼女は持つてゐるものを皆捧げた。いよ/\といふ日が來た。荷物といふ荷物は、すつかり送られた。まづ男が一足先きに出發して先方の都合を整へ、それから電報を打つて彼女と子供を招ぶといふ手筈であつた。彼女は樂んで後に殘つた。さうして新生涯を夢みながら彼からのたよりを待ち暮した。一日、一日と經つて行く。けれどもその後彼からは何の端書一本の音信もなかつた。――さうしてそれは永久にさうであつた。
不幸な彼女は拭ふことの出來ない汚點をその生涯にとゞめた。さうしてその汚點に對する悔は、彼女の是までを、さうしてまた此先をも、かくて彼女の一生をいろ/\に綴つて行くであらう。
恐ろしい絶望の夜を呪ひと怒りに泣きあかした時、彼女はまだ自分を悔ゐてはゐなかつた。たゞ男を怨んで呪ひ、自分を嘲ひ、自分を憐み、殊に人の物笑ひの的となる自分を思つては口惜しさに堪へられなかつた。彼女に若しもその時子供がなかつたならば、呪ひや果敢なみや、たゞ世間をのみ對象にして考へた汚辱のために、如何にも簡單に死んでしまつたかも知れない。
人の噂さと共に彼女の傷はだん/\その生々しさを失ふことが出來たけれど、猶幾度となくその疼みは復活した。彼女は靜かに悔ゐることを知つた。それでも猶その悔には負惜しみがあつた。彼女はその時自分の境遇をふりかへつて、再婚に心の動くのは無理もないことだと自ら裁いた。それを非難する人があつたならば、彼女は反對にその人を責めたかもしれない。それからまた彼女は、自分自身のことよりも、子供の行末を計つたのだつたといふ犧牲的な(自ら思ふ)心のために、自ら亡夫の立場になつて自分の處置を許した。結極男の不徳な行爲が責められた。さうしてたゞ欺かれた自分の不明に就いてばかり彼女は耻ぢたのである。
しかしその後、彼女は前にも増して一層謹嚴な生活を送つた。人々は彼女に同情を寄せて、そして二人の孝行な子供を褒め者にした。誰も今はもう彼女の過去に就いて語るのを忘れた。彼女の奮鬪と努力は、十分に昔の不名譽を償ふことが出來た。時にはまた、あの恐るべき打撃のために、却て獨立の意志が鞏固になつたといふことのために、彼女の悔は再び假面をかぶつて自ら安んじようと試みることもあつた。彼女の悔はいつも反省を忘れてゐたのである。
月日と共に傷の疼痛は薄らぎ、又傷痕も癒えて行く。しかしそれと共に悔も亦消え去るものゝやうに思つたのは間違ひであつた。彼女は今初めて誠の悔を味はつたやうな氣がした。さうしてそれは何といふ恐ろしいものであつたらう。[#「あつたらう。」は底本では「あつたらう」]
――彼女が勉の成長を樂しみ過した空想は、圖らずも恐ろしい不安を彼女の胸に暴露て行つた。無垢な若者の前に洪水のやうに展ける世の中は、どんなに甘い多くの誘惑や、美しい蠱惑に充ちて押し寄せることだらう! 外れるな、濁るな、踏み迷ふなと、一々手でも取りたいほどに氣遣はれる母心が、忌はしい汚點の回想によつて、その口を縫はれてしまふのである。さうしてそれよりも猶彼女にとつて恐ろしいことは、一人前になつた子供が、どんな風に母親のその祕密を解釋し、そしてどんな裁きをそれに與へるだらうかといふことであつた。
憐れむだらうか? 厭ふだらうか? それともまた淺猿しがるだらうか? さうしてあの可憐しくも感謝に滿ちた忠實な愛情を、猶その愚かな母に對してそゝぎ得るだらうか? あゝ若しもさうだとしたならば――? 彼女はたゞ子供のために無慾無反省な愛情のために、自分は着るものも着ずにこれまでにして來たのであるものを。[#「あるものを。」は底本では「あるものを」]
彼女の恐怖は、今までそこに思ひ到らなかつたといふことのために、餘計大きく影を伸して行くやうであつた。彼女は新たなる悔を覺えた。赤裸々に、眞面目に、謙遜に悔ゐることの、悲痛な悲しみと、しかしながらまた不思議な安かさとをも併せて經驗した。彼女が今までの悔は、ともすれば言ひ譯の楯に隱れて、正面な非難を拒いでゐたのを知つた。彼女は今自分の假面を引剥ぎ、その醜さに驚かなければならなかつた。今こそ彼女は、亡き夫の靈と純潔な子供の前に、たとへ一時でもその魂を汚した悔の證のために、死ぬことが出來るやうにさへ思つた。
天にでもいゝ、地にでもいゝ、縋らうとする心、祈らうとする希ひが、不純な沙を透して清くとろ/\と彼女の胸に流れ出て來た。
君子が不審しさに母親の容子に目をとゞめた時、彼女は亡夫の寫眞の前に首を垂れて、靜かに、顏色青褪めて、身じろぎもせず目をつぶつてゐた。
雨はます/\小降りになつて、そして風が出た。木の葉の露が忙しく搖り落される。(をはり)
●表記について
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- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
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