それは、今の今まで信じてゐたものをぎ取られて行く驚愕のきはみであつた。彼は――印半纏の男は、顏色を失くして、爲すべき事を知らぬもののやうに、手をもぢもぢとさせて、こくりと唾を呑んだ。
「どうも、どうしても脈が出ないもんですものね。」
それでも猶もう一度醫員は手を出して、青ざめた赤兒の心臟部のあたりを揉みはじめた。その運動につれて、赤兒の首はぐなりぐなりと搖れて動くのを、看護婦がそつと手で押へた。
それはしかし一二分間、僅な期待をつないだに過ぎなかつた。
「だめだ! お氣の毒だがどうも仕樣がありませんね。」と、きつぱり今度は醫員もほんたうに寢臺の傍を離れた。
「なんとも仕樣がないでせうか?」
「えゝ、何とも仕樣がありませんね、脈があるもんなら注射つてこともありますけれど、連れて來た時には既にもう脈がなかつたんですからね……ただまだ温いだけです。」
さう言つて醫員はさつさと手を洗ひに立つて行つた。
一人の看護婦はその後について行つた。さうして醫員がタオルで手を拭つてゐるところへ、昇汞水に浸した脱脂綿を持つて來た。
「先生一寸。」と言ひながら、その上着の袖口を摘んだ。
「何だい? 大便かい? ひやあ!」
醫員は苦笑して一寸寢臺の方に眼をやつた。
それまで男はさも途方に暮れたやうに同じ所につつ立つてゐたが、
「困つた!」と呟くと、漸く諦めたやうに死骸の側に寄つて、無器用な手付ではだけた襁褓などを始末にかかつた。
「まだこんなに温いんですが……」と、肌に障つて見て、彼はやつぱり思切わるさうに醫員の方を振り返つた。
「あたたかくともだめです。」
醫員は再びきつぱりと言つた。それでもあまりに取りつき場のないのに氣がついたやうに、やがて言葉をやはらげて、
「どうもお氣の毒な事をしましたね……あなたのお子さんですか?」
「いいえ、私の妹の子なんですて……」
「とにかく所と名前とを聞いて置きませう。」
醫員は椅子について、腕を伸してペンを取つた。
「名前は私の名でいいでせうか、また……」
「いいえ、その子供の名前です。」
「苗字は若林つていふんですが、はて名前はなんていふのかなあ……」
男は困つたやうな顏をして頭を掻いた。
「名前がわからないんですか?」と、醫員は驚いたやうに顏をあげた。
「はあ、何ていふんだか、私もつい忙しいもんですから、その自分の子供でねえもんだから、うつかりして聞きもしなかつたんで……」
「それではあなたの家の人ぢやないんですね。」
「いえ、私の家にゐる事はゐるんです。その、ただみんな赤兒赤兒つてばかり言つてるもんですからな、ついその……それに私は大工で、毎日仕事に出て行くもんですから……」
「困つたなあそいつあ、だがまあ分らないもんなら仕方がない……女の子でしたね、幾つです?」
「舊正月うまれだとか言ひやすから、さうしつと新の二月でごすな。」
「するとまだ六十日ばかりにしかならないんですね……どうです、今朝までほんたうになんともなかつたんですか?」
「は、私が今朝仕事に出て行く時分までは、たしかになんでもなかつたやうです。これやまづ、今年八つになる私の女の子がおぶつててこんな事になつちまつたんですが……どうも困つた事が出來つちまつた……これ一人つきり妹には子供がねいんだが……」
彼はいかにも靜さうに轉ばされてゐる赤兒を振り返つて、同情を求める樣に人々の顏を見廻した。
「實は何です。この子供の親父は今此地にゐねえんです、東京さ稼ぎに行つてるんで、妹はこの子供を連れて、ひと月ばかり前に私を頼つて來たんです。今煙草工場さ働きに行つてやすがな、先刻晝やすみに乳飮ませに連れてつて、歸つて來たばつかりなさうですから……」
「ほう、その時まで何でもなかつたんですね。」
「はあ、いつも私のお母――この子供の祖母ですな、それが守してるんすが、その今年八つになる私の娘が、おぶいたがつて泣くもんだから、ちよつくら背負はせてやつたんだつていひやす。私もいきなり仕事場さ迎へに來られて、びつくりして飛んで歸つて、それからすぐにここさ連れて來たんでごすがな……なんでも唄なんてうたつて錢貰つて歩く女の後にくつついてゐたのを、隣のをばさんが見つけて知らしてくれたんだつていひやす、ぐたりとなつてゐたんですな、その時にやあ。」
「その時、脈があつたかどうか分らないんだね。」
「すぐにおろして氣付なんて飮ませた時にや、息ふつかへしたつていふんでごすが……」
「やうな氣がしたんぢやないのかね。とにかくもうかうなつては仕方がない。」
醫員はペンを置いて、立ち上りざま、ズボンのかくしに兩手を差し込んだ。
「とにかく連れて歸つてくれたまへ! さうなつたものを、いつまでも置いたつて仕樣がないんだから……」
「は。」
氣がついたやうに彼はぽくりと頭を一つ下げた。
「さあ、飯にしよう!」
當事者以外四人の人々の胸に、多少づつの引つかかりを作つてゐた情實を、ここに截然とたち切つて、醫員は強い足取で勢よく扉を排し去つた。
「いや、どうもお世話樣になりやした!」と、朴訥な挨拶を背後に投げて、男は溜息をつきながら自分の兵兒帶を解きにかかつた。さうして浮腫のあるやうな青ぶくれた赤兒の死骸をその肌に抱いた。
「こいつあまづ、おつ母がまだなんにも知らねえんでゐるんだんべのに……」
看護婦はそのよれよれの帶を拾ひ取つてやつた。彼はそれを腰に廻し、貧しい子供の上着をもつて、生ける子にするが如くその背を蔽うてやつた。
「いや、お世話になりやした。」
再び看護婦に挨拶を殘して、彼は遂にすごすごと診察室を出て行く……今は私も、もはやここに何の用もなくなつたやうな氣がした。
「かはいさうにねえ!」
「私もう、死んでゆく人を取り扱ふたんびに、つくづくこんな職業はいやになつちまふわ!」
こんな事を言ひ合つてゐる二人の聲を後に殘して、私もまた打ち伏せられたやうな心持になつて廊下に出た。
すべてのものの結末は寂しい! たとへそれが善い事であれ、凶い事であれ、最後には必ず溜息が伴はれるではないか?
私はふと、今の先自分が何の目的をもつて、またどのやうに心を樂しませて、この診察室の扉を開いたかを思ひ起した。それは人をかつぐために、嘘をつくために、さうしてその事によつて遊戲をするためにであつた。
ところが、私が數日前から計畫し、心ひそかにその遂行を樂しんでゐた遊戲の興味は、風の前に置かれたものの匂ほどの脆さもなく、どこかへ消え去つてしまつてゐた。今はそのなごりを心の内のどこかに潜んでゐる羞恥の念に求めるより外はなかつた。
たとへ一歳に足らぬ小さな赤兒であるからといつて、その死もまた些細なものであるとなす事はできない。その何物をも顧慮せず、何物にもわづらひされないで、靜におごそかに行はれて行く人の死の絶對な靜肅さの前に、何といふ生きたるものの遊戲はあはれに無意味なものであつたらう!
四月一日、私は以後この日のあそびを永久に葬らう! それは私にとつてもはや無意義であり、無興味である。もしも今、彼の死兒を抱いて行く兄弟を呼びとめて、
「もしもしあなた! 何もそんなに氣を落しなさるには及ばないぢやありませんか、それは嘘ですよ、笑談ですよ、御覽なさい、赤んぼはあなたの懷の中で笑つてるぢやありませんか! あなた、今日は四月一日ですよ!」といふことができないかぎりに於ては!
(大正七年二月「文章世界」)
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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