『あなたは、あなたの旦那樣の御容子をすつかりお氣に召してゐらつしやる?』と、いきなりよしのさんの言葉が私に向いて來た。
『え?』
私はたいへんどぎまぎした。そんな質問が私の上にまで、利口な聽手になつて、默つてばかりゐた私にまで及んで來ようとは、ちつとも豫期しなかつたのである。
それは先刻から隨分いろんな話が出だ。さうして今度結婚することになつた君島さんの大切な人の話から、男の風采つてものが暫く話題の花形になつた。男の仲間でいふ謂はゆる好男子と、女の眼から見た好男子とは形が違ふなんてことも大分言はれてゐた。
私は話の切れめにふと顏をあげたのだつた。するといきなり『あなたは…‥』とよしのさんに水を向けられたので、ほんとに困つてしまつて、一寸の間下をむいてゐた。
『あゝ、さうださうだ、さうだ私は今、たつた今それを思ひ出した!』と、よしのさんは續いて調子はづれな聲を出して言つた。
またふいと顏をあげてみると、やつぱりその目はちよいと私にそゝがれたけれど、どんなにその事を言ひ表したらいゝかにわくわくしてゐるやうな顏のうごきを見ると、私はすつかり安心してしまつた。
私の話をひき出すやうに言ひかけたのは、よしのさん自身の話の冒頭だつたのだ。ふいと顏をあげたはづみがきつかけになつたゞけのことなんだ。
で、私はまた安心して靜な聽手になつた。
『私は良人を崇拜してゐてよ、また愛してもゐるわ。(聲笑起る)まあ、笑ちつやいけないわ、おのろけのつもりぢやないんだから。仰しやるまでもありませんて? まあ、なんとでも仰しやい……でね、私は良人に對してこれつていふもの足りなさも持つてゐないけど、そりあ御馳走を喰べたがつたり、時々疳癪を起して――あれでて隨分疳癪もちよ、私を擲つたりするけれど、でも自分が惡いと思つた時にはあとですぐ謝るわ。でね、柄もあのとほり大きいし、さういつちやなんだけれど、風采だつてさう見すぼらしいことはないと思つてゐるのよ。
それだのにたつた一つ私に滿足されないあるものがあるやうなの。それはあの人の性質でもなければ、顏でもなく、姿でもなく……さうね、それでゝやつぱり風采に關してゐることのやうなんだけれども、さうでもないやうなんだわ。なんていつたらいいでせうね、威嚴が缺けてる――いやいやさうぢやない、十分あの人には威嚴だつて備つてゐると私思つてるんだから。だのに、なぜかもつともつとどうかしてなけりあならないやうな氣がして仕樣がないのよ。
それはそもそも私があの人を見はじめた時から、私の心はすつかりあの人の持つてゐるもので滿足してしまひながら、それでもなほどつかに、あるもの足らなさが潛んでゐたんです。
ね、一體それはなんだと思し召して?
だけど、それは良人にばかし懷く私の心持ぢやないんですの。世の中のありとあらゆる――少くも私の見たかぎりの男に、私はいつもその物足らなさを味はゝされてゐるわ。あ、この人だと一目で思はれるやうな男に、私はまだ一度だつて半度だつて出つくわしたことがないんだもの。恐らくこれから先だつて、そんなことはないだらうと私自分でも思つてゐるわ。その癖私は曾て一度、確にさういふ人に出逢つたことがあるやうにも思はれるほど、さういふ男がなければならないやうに信じられてならないのよ。
私は夢でもみてるんでせうか? とんでもない空想にたぶらかされてるんでせうか? ねえ、さうしたら私はいつどこで、そんな夢を見たんでせう? どうしてそんな空想に耽るやうになつたんでせう? いゝえ、それは物語や小説でみた男の顏でも威嚴でもないことはたしかだわ。
それがね、(と、よしのさんは種あかしをするまでの時間をなるべく長くしようとするやうに言葉を切つて)つい今のこと、たつた今のこと、ふつと思ひがけなくそれが思ひつけてよ。なんだと思ひなすつて? それはほんとに馬鹿馬鹿しいことなのよ。
まあ聞いて頂戴! それは犬なんですよ。犬の威嚴だつたのよ!
なんだかちんぷんかんなことを言つてるでせう、わたし。ね、それはかういふことなの。もう隨分前のことだわ、いつか私が、戸山が原……ぢやなかつたかしら、だけどなんでも原にはちがひなかつたと思ふわ、その原をどうかして私が通りかゝつた時のことなの。
一面に枯芝を纏うたほのかな起伏が、波を打つて續いた野のはてに、それはそれは大きくまつ赤な入日が、まるで血のやうに燃えて輝いてゐました。夕日を浴びた樹立は、尖つたその頂上を空に向けて靜止してゐました。だのにそこらをうろうろと散歩してる人間どもが、その時どんなに見すぼらしく貧弱に私の目に見えたことでせう!
折も折、ふと出逢つたのは、それはそれは大きな犬な[#底本は「な」が脱字]んです。二十ばかりの書生らしい男に連れられて、その鎖つていつたら、こんな太さ! 全身が熊のやうにまつ黒で、さうして胸から腹の方にかけて少し白いところがあるの。
まあその犬のおごそかな風采といつたら!
ちようど外の人達に連れられてゐた小さな犬達が、二三匹集つて臆病さうに吠えたてゝゐるのを、立ち止つて足を揃へて、睨めるやうにぢつと見つめてゐるその容子の立派だつたことつたら……威風あたりを拂ふとでもいふのでせうね、凜とした、さうしておほきな感じのするあの威嚴を、私はとてもとても人間には見ることができないとその時思つてよ。私はさういふ犬を持つてゐる主人が羨ましくなつて、その犬を連れてゐる書生さんまでが羨ましくつてたまらなかつたの。私は暫くの間ぢつと立つてその犬を見つめてゐてよ。
それぢやありませんか。その犬の威嚴を、私は再び人間の上に見ようと搜してゐたんぢあありませんか。今まで、長あい間。馬鹿ねえ私も隨分。
あゝ、解つてみりあばかばかしい、ほんとにばかばかしいつたらありやしない!』
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