先頃の『葯房漫艸』に美の事を論じて独りぎめになつては困るといふやうな事を書いてあつたと思ふ。余の考では美の判断は二人ぎめでも三人ぎめでもない、やはり独りぎめより外はない、ただ独りぎめに善いのと悪いのといろいろある。
(六月十九日)
『俳星』に
虚明の「お水取」といふ文があつて奈良の二月堂の水取の事が
細しく書いてある。余はこれを読んでうれしくてたまらぬ。京阪地方にはこのやうな儀式や祭が沢山にあるのだから京阪の人は今の内になるべく細しくその様を写して見せてもらひたい。その地の人は見馴れて面白くもなからうがまだ見ぬ者にはそれがどれほど面白いか知れぬ。殊に
箇様な事は年々すたれて行くから今写して置いた文は後にはその地の人にも珍しくなるであらう。京都の
壬生念仏や牛祭の記は見た事もあるがそれも我々の如き実地見ぬ者にはまだ分らぬことが多い。
葵祭祇園祭などは陳腐な故でもあらうがかへつて細しく書いた者を見ぬ。大阪にも
十日夷、住吉の田植などいふ事がある。奈良に
薪能が今でもあるなら是非見て来て書いてもらひたい。
御忌、
御影供、
十夜、お取越、
御命講のやうな事でも各地方のを写して比較したら面白いばかりでなく有益であらうと思はれる。
(六月二十日)
ある人諸官省の門番の
横着なるを説く。
鳴雪翁
曰く彼をして勝手に
驕らしめよ、彼はこの場合におけるより外に人に向つて驕るべき場合を持たざるなり、この心を以て我は帽を脱いで丁寧に
辞誼すれば
則ち可なり、と。けだし有道者の言。
(六月二十一日)
学校で歴史の試験に年月日を問ふやうな問題が出る。こんな事は必要があればだんだんに覚えて行く。学校時代に無理に覚えさせようとするのは愚な事だ。
(六月二十二日)
刺客はなくなるものであらうかなくならぬものであらうか。
(六月二十三日)
板垣伯岐阜遭難の際は名言を吐いて生き残られたので少し
間の悪い所があつた。星氏の最期は一言もないので甚だ淋しい。願はくは「ブルタス、汝もまた」といふやうな一句があると
大に振ふ所があつたらう。
(六月二十四日)
中村
不折君は来る二十九日を以て出発し西航の途に上らんとす。余は横浜の
埠頭場まで見送つてハンケチを振つて
別を惜む事も出来ず、はた一人前五十銭位の西洋料理を食ひながら送別の意を表する訳にもゆかず、やむをえず紙上に悪口を述べて
聊かその行を壮にする事とせり。
余の始めて不折君と相見しは明治二十七年三月頃の事にしてその場所は神田淡路町小日本新聞社の
楼上にてありき。初め余の新聞『小日本』に従事するや適当なる画家を得る事において最も困難を感ぜり。当時の美術学校の生徒の如きは余らの要求を充たす能はず、そのほか浮世画工を除けば善くも悪くも画工らしき者殆ど世になかりしなり。この時に際して不折君を紹介せられしは浅井氏なり。始めて君を見し時の事を今より考ふれば殆ど夢の如き感ありて、後来余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の変遷を来し、君の生涯もまたこの時以後、前日と異なる逕路を取りしを思へばこの会合は無趣味なるが如くにしてその実前後の
大関鍵たりしなり。その時の有様をいへば、不折氏は先づ四、五枚の下画を示されたるを見るに
水戸弘道館等の画にて二寸位の小き物なれど筆力
勁健にして凡ならざる所あり、而してその人を見れば目つぶらにして顔おそろしく服装は普通の書生の
著たるよりも
遥かにきたなき者を著たり、この顔この衣にしてこの筆力ある所を思へばこの人は尋常の画家にあらずとまでは即座に判断し、その画はもらひ受けて新聞に載する事とせり。これ君の画が新聞にあらはれたる始なり。
その頃新聞に
骸骨物語とかいふ続き物ありしがある時これに画を
挿まんとてその文の大意を書きこの文にはまるやうな画をかいてもらひたしと君に頼みやりしに君は
直にその画をかいて送りこしたり。この時の骸骨雨宿りの画は意匠の妙といひ筆力の壮といひ社中の同人を
駭かしたる者なり。余がこれまでの経験によるに画工に向つて注文する所往々にしてその主意を誤られ、よし誤られざるも十ヶ条の注文の中僅かに三、四ヶ条の条件を充たさるるを以て満足せざるべからざる有様なりき。しかるに不折君に向つての注文は大主意だに説明し置けば
些末の事は言はずとも
痒き処に手の届くやうに出来るなり、
否余ら素人の考の及ばざる処まで一々巧妙の意匠を
尽せり。
是において余は
漸く不折君を信ずるの深きと共に君を見るの遅きを
歎じたり。これより後また新聞の画に不自由を感ずる事なかりき。
(六月二十五日)
されどなほ余は不折君に対して満たざる所あり、そは不折君が西洋画家なる事なり。当時余は頑固なる日本画崇拝者の一人にして、まさかに不折君がかける新聞の挿画をまでも排斥するほどにはあらざりしも、油画につきては絶対に反対しその没趣味なるを主張してやまざりき。故に不折君に逢ふごとにその画談を聴きながら時に弁難攻撃をこころみそのたびごとに発明する事少からず。遂には君の説く所を以て今まで自分の専攻したる俳句の上に比較してその一致を見るに及んでいよいよ悟る所多く、半年を経過したる後はやや画を観るの眼を
具へたりと
自ら思ふほどになりぬ。この時は最早日本画崇拝にもあらず油画排斥にもあらず、画は
此の如き者画家は此の如き者と大方に知りて見れば今までただ漠然と善しといひ悪しといひし我判断は十中八、九までその誤れるを発見し、
併せて今まで画家に対する待遇の無礼なりしを悔ゆるに至れり。
固より初より画家なりとて
毫も軽蔑したるにはあらねど画家の職分に対しては誤解し居たり。余は画家に向ひて注文すべき権利を有し画家は余の注文に応じてかくべき義務を有すと思へりしは甚だしき誤解なり。これけだし当時の浮世画工をのみ知りたる余には無理ならぬ誤解なりしなるべく、今もなほ一般の人はこの誤解に陥り居る者の如し。
明治二十七年の秋上野に例の美術協会の絵画展覧会あり、不折君と共に往きて観る。その時参考品
御物の部に
雪舟の
屏風一双(
琴棋書画を
画きたりと覚ゆ)あり。
素人眼には誠につまらぬ画にて、雪舟崇拝と称せし当時の美術学校派さへこれを凡作と評したるほどなりしが、不折君はやや
暫し見て後
頻りに
讃歎して
已まず、これほどの大作雪舟ならばこそ為し得たれ到底凡人の及ぶ所に非ずといへり。かくて不折君は余に向ひて
詳にこの画の
結構布置を説きこれだけの画に統一ありて少しも
抜目なき処さすがに日本一の腕前なりとて説明詳細なりき。余この時始めて画の結構布置といふ事につきて悟る所あり、独りうれしくてたまらず。
二十八年の春
金州に行きし時は不折君を見しより一年の後なれば少しは美といふ事も分る心地せしにぞ新たに得たる審美眼を以て支那の建築器具などを見しは如何に愉快なりしぞ。金州より帰りて後同年秋奈良に遊び西大寺に行く。この寺にて余の坐り居たる傍に二枚折の屏風ありて墨画あり。つくづく見て居るにその趣向は極めて平凡なれどその結構布置善く整ひ
崖樹と
遠山との組合せの具合など凡筆にあらず。
無落款なりければ誰が筆にやと問ひしに小僧答へて
元信の筆といひ伝へたりといふ。さすがに余の眼識は誤らざりけりと独り心に誇りてやまず。余が不折君のために美術の大意を教へられし事は余の生涯にいくばくの愉快を添へたりしぞ、もしこれなくば数年間病牀に
横はる身のいかに
無聊なりけん。
(六月二十六日)
余が知るより前の不折君は不忍池畔に一間の部屋を借りそこにて自炊しながら勉強したりといふ。その間の困窮はたとふるにものなく一粒の米、一銭の
貯だになくて食はず飲まずに一日を送りしことも一、二度はありきとぞ。その他は推して知るべし。『小日本』と関係深くなりて後君は
淡路町に下宿せしかば余は社よりの帰りがけに君の下宿を訪ひ画談を聞くを
楽とせり。君いふ、今は食ふ事に困らぬ身となりしかば十分に勉強すべしと。
乃ち毎日
草鞋弁当にて
綾瀬あたりへ油画の写生に出かけ、夜間は新聞の
挿画など画く時間となり居たり。君が生活の状態はこの時以後
漸く固定して
終に今日の繁栄を致しし者なり。
君が服装のきたなきと耳の遠きとは君が常職を求むる能はずして非常の困窮に陥りし
所以なるが、余ら相識るの後も一般の人は君を厭ひあるいは君を軽蔑し、余ら
傍にありて不折君に対し甚だ気の毒に思ひし事も少からず。されど君が画における
伎倆は次第にあらはれ来り何人もこれに対しての賞賛を
首肯せざる能はざるほどになりぬ。
達磨百題、犬百題、その他何十題、何五十題といふが如き、あるいは
瓦当その他の模様の意匠の如き、いよいよ出でていよいよ奇に、
滾々としてその趣向の
尽きざるを見て、素人も
玄人も舌を
捲いて驚かざるはなし。
君の犬百題などを画くや、意匠に変化多く、材料の豊富なるは言ふまでもなけれど、中にも歴史上の事実多きを見て、世人は余らの
窃かに材料を供給するに
非るかを疑へり。しかしこは誤りたる推測なり。余は毫も君に材料を与へざるのみかかへつて君の説明によりて歴史上の事実を教へられし事少からず。とはいへ君は決して博学の人にあらず、読書の分量は余り多からざるを信ず。而して
此の如く多方面にわたりて材料を得る者は平素万事に対して注意の深きに
因らずばあらず。君の如く注意の綿密にしてかつ範囲の広きはけだし稀なり。
画く者は論ぜず、論ずる者は画かず。君の如く画家にしてかつ論客なるは世に少し。もし不折君の説を聞かんと欲せば一たび君を
藤寺横丁の画室に訪へ。質問いまだ終らざるに早く既に不折君の
滔々として弁じ初むるを見ん、もし傍より妨げざる限りは君の答弁は一時間も二時間も続くべく、しかもその言ふ所条理
井然として乱れず、実例ある者は実例(絵画の類)につきて一々に指示す。通例画家が言ふ所の漠然として要領を得ざるの比に非ず。余が君のために教へられて何となく悟りたるやうに思ふも
畢竟君の教へやうのうまきに因る。
(六月二十七日)
各自専門の学芸技術に熱心なる人は少くもあらねど不折君の画におけるほど熱心なるは少かるべし。いつ逢ふてもいつまで語つてもいやしくも人に逢ひてこれと語らば終始画談をなして
倦まず、筆あらば直に筆を取つて戯画を画きあるいは説明のために種々の画をかく。時を嫌はず処を択ばず宴会の席にても衆人の中にても人は酒を飲み
妓をひやかしつつある際にても不折君は独り画を画き画を談ず。その熱心実に感ずるに
余ありといへどももし一般の人より見れば余り熱心過ぎてかへつてうるさしと思はるる所多からん。しかれども不折君はそれほど人にうるさがらるるとは知らであるべし。これ君の
聾なるがためのみ。
君が勉強は信州人の特性に出づ、されど信州人といへども君の如く勉強するは多からざるべし。君は自分のためにも勉強し人に頼まれても勉強す。一枚
方二尺位の油画を画くために毎日郊外二、三里の処に行きて一ヶ月も費したる事しばしばあり。一昨年の初夏なりけん君カンヴアスを負ふて渋川に行き赤城山を写す。二十余日を経て五尺ばかりの
大幅見事に出来上りたるつもりにて得々として帰り
直に浅井氏に示す。浅井氏
曰く場所広くして遠近さだかならず
子もしこの画を画とせんとならば更に一週の
日子を費して再び渋川に往けと。君は浅井氏よりの帰途余の病牀を
訪はれしがその時君の顔色ただならず声ふるひ耳遠く非常に
激昂の様見えしかば余は君が旅の
労れと今日の激昂とのために熱病にでもかかりはせずやと憂ひたるほどなり。何ぞ
計らんその翌日君は再びカンヴアスを抱へて渋川に到り十分に画き直して一週間の後帰京せり。余は今更に君が不屈
不撓の勇気に驚かざるを得ざりき。この画は「
淡煙」と題して展覧会に出でたる者なり。(
宮内省御用品となる)これらは皆自分のために勉強したる例なり。
画家は多くはその性
疎懶にして人に頼まれたる事も期日までに出来るは甚だ少きが常なり。しかるに不折君は人に頼まれたるほどの事
尽くこれに応ずるのみならず、その期日さへ誤る事少ければ
書肆などは甚だ君を重宝がりまたなきものに思ひて教科書の
挿画、その他書籍雑誌の挿画及び表紙を依頼する者絶えず。想ひ起す今より七、八年前
桂舟の画天下に行はれ桂舟のほかに画家なしとまで思はれたる頃なりき。
博文館にても何かの挿画を桂舟に頼みしに期に及んで出来ず、館主自ら車を飛ばして桂舟を訪ひ頭を下げ辞を
卑うし再三繰返して懇々に頼み居たる事あり。それを思へば期日を延すべからざる雑誌などの挿画かきとして敏腕にしてかつ規則的なる不折君を得たる博文館の喜び察すべきなり。そのほか君の前に書画帖を置いて画を
乞ふ者あれば君は直に筆を
揮ふて
咄嗟画を成す。
為山氏の深思熟考する者と全く異なり。ただ君が容易に依頼者を満足するの弊として往々粗末なる
杜撰なる陳腐なる
拙劣なる無趣味なる画を成す事あり。しかれども依頼者は多く君の
雷名を聞いて来る者画の
巧拙はこれを鑑別するの識なし。容易に君の
揮毫を得たるを喜んで皆ホクホクとして帰る。これらは君が人に頼まれて勉強する一例なり。
(六月二十八日)
不折君と為山氏は同じ小山門下の人で互に相識る仲なるが、いづれも一家の見識を
具へ立派なる腕を持ちたる事とて、
自ら競争者の地位にあるが如く思はる。よし当人は競争するつもりに
非るも傍にある余ら常に両者を比較して評する傾向あり。しかも二人の画も性質も挙動も容貌も一々正反対を示したるは殊に比較上興味を感ずる
所以なり。二人の優劣は固より容易に言ふべからざるも互に一長一短ありて
甲越対陣的の好敵手たるは疑ふべきにあらず。先づその容貌をいはんに為山氏は丈高く
面長く全体にすやりとしたるに反し、不折君は丈低く面鬼の如く
髯ぼうぼうとして全体に強き方なり。為山氏は善き衣善き駒下駄を
著け金が
儲かれば
直に費しはたすに反して不折君は粗衣粗食の極端にも耐へなるべく質素を旨として少しにても臨時の収入あればこれを貯蓄し置くなり。君が
赤貧洗ふが如き中より身を起して独力を以て住屋と画室とを建築し、それより後二年ならずして洋行を思ひ立ちしかも他人の力を借らざるに至ては君が勤倹の結果に驚かざるを得ず。為山氏は余り議論を好まず普通の談話すら声低くして聞き取りがたきほどなるに反して不折君は議論は勿論、普通の談話も声高く明瞭なり。為山氏は感情の人にして不折君は理窟の人なり。為山氏は無精なる方にて不折君は勉強家の随一なり。為山氏は酒も飲み煙草も飲む、不折君は酒も飲まず煙草も飲まず。
凡そこれらの性質嗜好の相違はさる事ながらその相異が
尽く画の上にあらはるるに至つて益
興味を感ずるなり。
為山氏の画は
巧緻精微、不折君の画は
雅樸雄健。為山氏は熟慮して後に始めて筆を下し不折君はいきなりに筆を下して縦横に画きまはす。為山氏は一草一木を画きて画となす事も少からねど不折君は寸大の紙にもなほ山水村落の大景を描く癖あり。同一の物を写生するに為山氏のは実物よりもやや丈高く画き不折君のは実物よりもやや丈低く画く。為山氏は何か画いても自分の気に入らねば直に捨てて顧みず、不折君は一旦画き初めし者はどうでもかうでも仕上げてしまふ。為山氏は調子に乗つて画く、調子乗らざればいつまでも画かず、不折君は初より終まで
孜々として怠らずに画く。これらの相異枚挙に
遑あらず。(二人相似の点もなきに非ず)
余はなほ多くを言はんと思ひしも不折君出発後敵なきに矢を放つもいかがなれば要求質問注意の箇条を節略して左に記し以て長々しき文章の終となし置くべし。
剛慢なるは善し。弱者後輩を軽蔑する
莫れ。
君は耳遠きがために人の話を誤解する事多し。注意を要す。(少しほめたるを
大にほめたるが如く思ふ誤即ち程度の誤最も普通なり)
人二人互に話し居る最中に突然横合から口を出さぬやう注意ありたし。
余りうかれぬやうありたし。
画の事につきてとかうの注意がましき事をいふなどは余り生意気の次第なれど余は
予てより君に向つていひたく思ひながらもこの頃の容態にては君に聞ゆるほどの声を出す能はず、
因つてここに一言するなり。そは君の嗜好が余りに大、壮などいふ方に傾き過ぎて小にして精、軽にして新などいふ方の画を軽蔑し過ぎはせずやといふ事なり。近年君の画を見るにややその嗜好を変じ今日にては必ずしもパノラマ的全景をのみ喜ぶ者には非るべけれどなほややもすれば
広袤の大なる場所を貴ぶの癖なきに非ず。油画にてはなけれど小き書画帖に大きなる景色を画いて独り得々たるが如きも余は久しき前より心にこれを厭はしく思へり。大景必ずしも悪からずといへども大景(少くとも家屋と樹木と道路位は完備せる)でありさへすれば画になる如く思へるは如何にしても君が大景に偏するを証すべきなり。しかし余は大景を捨てて小景を画けといふに非ず、ただ君の嗜好の偏するにつきて平生意見の衝突すれども直に言はれざりし不平をここに
僅かに漏らすのみ。
西洋へ往きて勉強せずとも見物して来れば沢山なり。その上に御馳走を食ふて肥えて戻ればそれに上こす土産はなかるべし。余り
齷齪と勉強して上手になり過ぎ給ふな。
(六月二十九日)
羯翁の催しにて我枕辺に集まる人々、
正客不折を初として
鳴雪、
湖村、
虚子、
豹軒、及び滝氏ら、蔵六も折から
来合されたり。草庵ために光を生ず。
虚子後に残りて謡曲「
舟弁慶」一番
謡ひ去る。
(六月三十日)
健康な人は蚊が少し出たばかりの事で大騒ぎやつてうるさがつて居る。病人は
蒲団の上に寐たきり腹や腰の痛さに堪へかねて時々わめく、熱が出
盛ると全体が苦しいから絶えずうなる、蚊なんどは四方八方から全軍をこぞつて刺しに来る。手は天井からぶらさがつた
力紐にすがつて居るので蚊を打つ事は出来ぬ。仕方がないので
蚊帳をつると今度は力紐に離れるので病人は勢力の
半を失ふてしまふ。その上にもし夜が眠られぬと来るとやるせも何もあつたものぢやない。
(七月一日)
鮓の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓
圧す」などいふ人多し。昔の鮓は
鮎鮓などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。
鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里にて
小鯛、
鰺、
鯔など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは
雑なるべし。
(七月二日)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
「麾-毛」 |
|
42-8 |
「麾」の「毛」に代えて「手」」 |
|
42-8 |
「麾」の「毛」に代えて「石」」 |
|
42-8 |
「麾」の「毛」に代えて「鬼」」 |
|
42-8 |
「兎」の「儿」を「兔」のそれのように |
|
42-10 |
「免」の「儿」を「兔」のそれのように |
|
42-10 |
「わかんむり/一/豕」 |
|
42-12、42-13 |
「塚のつくりのわかんむりと豕の間に一」 |
|
42-12、42-13 |
「入/王」 |
|
42-14、63-12 |
「兪/心」 |
|
42-14 |
「示+氏」 |
|
43-1、43-1 |
「内」の「人」に代えて「入」 |
|
47-7、63-12 |
「聖」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの |
|
47-8、52-5 |
「門<壬」 |
|
47-8、63-11 |
「女+」 |
|
49-15 |
「刀/貝」 |
|
52-4 |
「壬」の下の横棒が長いもの |
|
52-5 |
「呈」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの |
|
52-6 |
「望」の「王」に代えて「壬」の下の横棒が長いもの |
|
52-6 |
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