病める枕辺に巻紙状袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林黒竜江などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱なり。
枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも
(一月十六日)
一月七日の会に
麓のもて
来しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の
籠の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に
亀野座といふ札あるは
菫の
如き草なり。こは
仏の
座とあるべきを
縁喜物なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に
五行とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには
田平子の札あり。はこべらの事か。
真後に
芹と
薺とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや
蕾のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて
鈴菜とあるは
丈三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に
鈴白の札立てたるは葉五、六寸ばかりの
赤蕪にて
紅の根を半ば土の上にあらはしたるさま
殊にきはだちて目もさめなん心地する。『
源語』『
枕草子』などにもあるべき
趣なりかし。
あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため
(一月十七日)
この頃根岸
倶楽部より出版せられたる根岸の地図は
大槻博士の製作に
係り、地理の
細精に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今
鶯横町といへど昔は
狸横町といへりとぞ。
田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、
抱一が句に「
山茶花や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の
風趣ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん
竹の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石
煉瓦の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ
古への
奥州路の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ
水の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり
云々と博士は
記せり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて
空しく帰る俗客もあるべしかし。
(一月十八日)
蕪村は
天明三年十二月二十四日に歿したれば
節季の混雑の中にこの世を去りたるなり。しかるにこの
忌日を太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。即ち翌年の始に歿したる事となるなり。
(一月二十日)
伊勢山田の
商人勾玉より小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。
祈平癒呈
御両宮之真境(古版) 二
御神楽之図(地紙) 五
五十鈴川口のはぜ(薬といふ丑の日に釣る) 六
高倉山のしだ 一
いたつきのいゆといふなる高倉の御山のしだぞ箸としたまへ
辛丑のはじめ
大内人匂玉
まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。
(一月二十二日)
病床苦痛に堪へずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。
傍らに二、三の人あり。その内の一人、人の耳ばかり見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑ふ。我は
健かなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。
(一月二十三日)
年頃苦しみつる局部の
痛の外に左横腹の痛
去年より強くなりて今ははや筆取りて物書く
能はざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。かくては生けるかひもなし。はた
如何にして病の
牀のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて
終に
墨汁一滴といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を
限とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の
間をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に
見えんとにはあらず、
朝々病の牀にありて新聞紙を
披きし時我書ける小文章に対して
聊か自ら慰むのみ。
筆禿びて返り咲くべき花もなし
(一月二十四日)
去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて
鉄幹子規と並記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾
以為へらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹
是ならば子規
非なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。
乃ち書を鉄幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は『
明星』
所載の短歌を評せん事を約す。けだし両者を混じて同一趣味の如く思へる者のために
妄を弁ぜんとなり。
爾後病牀
寧日少く自ら筆を取らざる事数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝へられ鉄幹子規
不可並称の説を以て
尊卑軽重に
因ると為すに至る。しかれどもこれらの事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、
甲論乙駁喧擾を極めたるは世人をしてやや歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益
加はり殊に筆を取るに悩む。
終に前約を果す能はざるを
憾む。もし墨汁一滴の許す限において時に批評を試むるの機を得んかなほ
幸なり。
(一月二十五日)
俳句界は一般に一昨年の暮より昨年の前半に及びて勢を
逞うし後半はいたく衰へたり。
我短歌会は昨年の夏より秋にかけていちじるく進みたるが冬以後一
頓挫したるが如し。こは
固より
伎倆の
退きたるにあらず、されど進まざるなり。
吾見る所にては短歌会諸子は今に至りて一の工夫もなく変化もなくただ半年前に作りたる歌の言葉をあそこここ取り集めて
僅かに新作と
為しつつあるには
非るか。かくいふわれもその中の一人なり。さはれ我は諸子に向つて強ひて反省せよとはいはず。反省する者は反省せよ。立つ者は立て。行く者は行け。もし心
労れ
眼眠たき者は
永き夜の
眠を
貪るに
如かず。眠さめたる時
浦島の玉くしげくやしくも世は既に次の世と代りあるべきか
如何。
(一月二十七日)
人に物を贈るとて実用的の物を贈るは
賄賂に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ。今年の年玉とて
鼠骨のもたらせしは何々ぞ。三寸の地球儀、
大黒のはがきさし、
夷子の絵はがき、千人児童の図、
八幡太郎一代記の
絵草紙など。いとめづらし。
此を取り彼をひろげて
暫くは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味は
自らこの取り合せの中にあらはれて
興尽くる事を知らず。
年玉を並べて置くや枕もと
(一月二十八日)
一本の扇子を以て自在に人を笑はしむるを
業とせる落語家の楽屋は存外厳格にして窮屈なる者なりとか聞きぬ。
芳菲山人の
滑稽家たるは人の知る所にして、狂歌に狂文に
諧謔百出尽くる所を知らず。しかもその人極めてまじめにしていつも腹立てて居るかと思はるるほどなり。我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は
漱石なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。
紫影の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人また
甚だまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて
為し
能ふ者にやあるべき。
古の
蜀山一九は果して
如何なる人なりしか知らず。俳句界第一の滑稽家として世に知られたる
一茶は必ずまじめくさりたる人にてありしなるべし。
(一月三十日)
人の希望は初め漠然として大きく後
漸く小さく確実になるならひなり。我
病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く
歩行き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば
嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき
望かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに
臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。
最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の
零となる時期なり。希望の零となる時期、
釈迦はこれを
涅槃といひ
耶蘇はこれを救ひとやいふらん。
(一月三十一日)
『
大鏡』に
花山天皇の絵かき給ふ事を記して
さは走り車の輪には薄墨にぬらせ給ひて大さのほどやなどしるしには墨をにほはせ給へりし。げにかくこそかくべかりけれ。あまりに走る車はいつかは黒さのほどやは見え侍る。また筍の皮を男のおよびごとに入れてめかかうして児をおどせば顔赤めてゆゆしうおぢたるかた云々
などあり。また
俊頼の歌の
詞書にも
大殿より歌絵とおぼしく書たる絵をこれ歌によみなして奉れと仰ありければ、屋のつまに女をとこに逢ひたる前に梅花風に従ひて男の直衣の上に散りかかりたるに、をさなき児むかひ居て散りかかりたる花を拾ひとるかたある所をよめる
などあるを見るに
古の人は皆実地を写さんとつとめたるからに趣向にも画法にもさまざま工夫して新しき
画を作りにけん。土佐派
狩野派などいふ流派
盛になりゆき古の画を学び師の筆を
摸するに至りて
復画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌もしかなり。
(二月一日)
われ筆を執る事が不自由になりしより後は誰か代りて書く人もがなと常に思へりしがこの頃
馬琴が『八犬伝』の某巻に附記せる文を見るに、初めに自己が失明の事、草稿を書くに困難なる事など述べ、次に
文渓堂及貸本屋などいふ者さへ聞知りて皆うれはしく思はぬはなく、ために代写すべき人を索るに意に称ふさる者のあるべくもあらず云々
とあるを見れば当時における馬琴の名望位地を以てしてもなほ思ふままにはならずと見えたり。なほその次に
吾孫興邦はなほ乳臭机心失せず。かつ武芸を好める本性なれば恁る幇助になるべくもあらず。他が母は人並ににじり書もすれば教へて代写させばやとやうやうに思ひかへしつ、第百七十七回の中音音が大茂林浜にて再生の段より代筆させて一字ごとに字を教へ一句ごとに仮名使を誨るに、婦人は普通の俗字だも知るは稀にて漢字雅言を知らず仮名使てにをはだにも弁へず扁旁すらこころ得ざるに、ただ言語をのみもて教へて写するわが苦心はいふべうもあらず。況て教を承て写く者は夢路を辿る心地して困じて果はうち泣くめり云々
など書ける、この文昔はただ
余所のあはれとのみ見しが今は一々身にしみて
我上の事となり了んぬ。されど馬琴は年老い功成り今まさに『八犬伝』の完結を急ぎつつあるなり。我身のいまだ発端をも書きあへず早く
已に大団円に近づかんとすると
固より同日に論ずべくもあらず。
(二月二日)
○伊藤圭助歿す九十余歳。英国女皇
崩ず八十余歳。
李鴻章逝く七十余歳。
○
星亨訴へられ、
鳩山和夫訴へられ、
島田三郎訴へらる。
○
朝汐負け、
荒岩負け、
源氏山負く。
○神田の
歳の市に死傷あり。大阪の
十日夷に死傷あり。大学第二医院の火事に死傷あり。
○背痛み、
臀痛み、横腹痛む。
(二月三日)
節分に豆を
撒くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなほをかしき事多かり。その日になれば
男女の
乞食ども、女はお
多福の面を
被り、男は顔手足
総て真赤に塗り額に縄の角を結び手には竹のささらを持ちて鬼にいでたちたり。お多福先づ屋敷の
門の内に入り、手に持てる
升の豆を撒くまねしながら、
御繁昌様には福は内鬼は外、といふ。この時鬼は門外にありてささらにて地を打ち、鬼にもくれねば
這入らうか、と叫ぶ。そのいでたちの異様なるにその声さへ荒々しければ子供心にひたすら恐ろしく、もし門の内に這入り
来なばいかがはせんと思ひ惑へりし事今も記憶に残れり。鬼外にありてかくおびやかす時、お多福内より、福が一しよにもろてやろ、といふ。かくして彼らは餅、米、銭など
貰ひ
歩行くなり。やがてその日も
夕になれば主人は
肩衣を掛け豆の入りたる升を持ち、先づ
恵方に向きて豆を撒き、福は内鬼は外と呼ぶ。それより四方に向ひ豆を撒き福は内を呼ぶ。これと同時に
厨にては
田楽を焼き初む。味噌の
臭に鬼は逃ぐとぞいふなる。撒きたる豆はそを
蒲団の下に敷きて
寐れば腫物出づとて必ず拾ふ事なり。豆を家族の年の数ほど紙に包みてそれを
厄払にやるはいづこも同じ事ならん。たらの木に
鰯の頭さしたるを戸口々々に
挿むが多けれど
柊ばかりさしたるもなきにあらず。それも今はた行はるるやいかに。
(二月四日)
節分の夜に宝船の絵を敷寐して初夢をうらなふ事我郷里のみならず関西一般に同様なるべし。東京にては一月二日の夜に宝船を売りありくこそ心得ね。しかしこれも古き風俗と見え、『
滑稽太平記』といふ
書に
回禄以後鹿相成家居に越年して
去年たちて家居もあらた丸太かな 卜養
宝の船も浮ぶ泉水 玄札
この宝の船は種々の宝を船に積たる処を画に書回文の歌を書添へ元日か二日の夜しき寐して悪しき夢は川へ流す呪事なりとぞ、また年越の夜も敷事ある故に冬季ともいひたり、しかるに二つある物は前の季に用る行年をとらんためなればこの理近かるべしといへるもあり、されども玄札老功たり既にする時は如何とも春たるべしといふもありけり
と記せり。「元日か二日の夜」とあれば昔は二日の夜と限りたるにも
非るか。
(二月五日)
節分にはなほさまざまの事あり。
我昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが星を祭るとて
燭あまたともし
大般若の転読とかをなす。本堂の
檐の下には板を掲げて白星黒星半黒星などを
画き各人来年の吉凶を示す。我も立ち寄りて珍しげに見るを常とす。一人の幼き友が我は白星なり、とて喜べば他の一人が、白星は
善過ぎてかへつて悪きなり半黒こそよけれ、などいふ。我もそを聞きて半黒を善きもののやうに思ひし事あり。またこの夜四辻にきたなき
犢鼻褌、
炮烙、
火吹竹など捨つるもあり。犢鼻褌の
類を捨つるは厄年の男女その厄を脱ぎ落すの意とかや。それも手に持ち
袂に入れなどして往きたるは
効なし、腰につけたるままにて往き、懐より手を入れて解き落すものぞ、などいふも聞きぬ。炮烙を捨つるは頭痛を直す
呪、火吹竹は
瘧の呪とかいへどたしかならず。
四十二の古ふんどしや厄落し
(二月六日)
我国語の字書は『
言海』の著述以後やうやうに進みつつあれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず。我友竹村
黄塔(
鍛)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。その字書は普通の国語の外に各専門語を網羅しかつ各語の歴史即ちその起原及び意義の変遷をも記さんとする者なり。されど資力なくしてはこの種の大事業を
成就し得ざるを以て彼は字書
編纂の約束を以て一時
書肆冨山房に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能はず。終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。
尋で九月始めて肺患に
罹り後赤十字社病院に入り療養を
尽し
効もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の
交一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。
我旧師
河東静渓先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏を
嗣ぐ。第四子は
可全。第五子は
碧梧桐。黄塔三子あり皆幼。
(二月七日)
雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物
月旦、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は
圏点の多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。
(二月八日)
近日我
貧厨をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺
蕪、函館の
赤蕪、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び
柑類、
越後の
鮭の
粕漬、
足柄の
唐黍餅、
五十鈴川の
沙魚、山形ののし梅、青森の
林檎羊羹、
越中の
干柿、伊予の
柚柑、
備前の沙魚、伊予の
緋の蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の
八橋煎餅、
上州の
干饂飩、
野州の
葱、
三河の魚煎餅、
石見の
鮎の卵、大阪の奈良漬、
駿州の
蜜柑、仙台の
鯛の粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、
下総の
雉、甲州の
月の
雫、伊勢の
蛤、大阪の白味噌、
大徳寺の法論味噌、
薩摩の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の
飴、横須賀の水飴、北海道の
、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。
(二月九日)
十返舎一九の『
金草鞋』といふ絵草子二十四冊ほどあり。こは三都をはじめ六十余州の名所霊蹟巡覧記ともいふべき仕組なれど作者の知らぬ処を善きほどに書きなしたる者なれば実際を写し出さぬは
勿論、驚くべき誤も多かるが
如し。試みに四国八十八ヶ所
廻りの部を見るに岩屋山海岸寺といふ札所の図あり、その図
断崖の上に
伽藍聳えその
傍は海にして船舶を多く
画けり。こは海岸寺といふ名より想像して画きたりと思はるれど、その実この寺は海浜より十里余も隔りたる山の奥の奥にあるなり。寺の称をかくいふ故は
此処を
詠みし歌に、松の風を波の音と聞きまがへて海辺にある思ひす、といふやうなる意の歌あるに
因るとか聞きたれど歌は忘れたり。
この寺の建築は小き者なれど此処の地形は深山の中にありてあるいは
千仞の
危巌突兀として奈落を
踏み九天を支ふるが如きもあり、あるいは絶壁、
屏風なす立ちつづきて一水
潺々と流るる処もあり、とにかくこの辺無双の奇勝として
好事家の杖を
曳く者少からず。
(二月十日)
朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空はなほ曇れり。余もおくれじと高等中学の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そこここに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを
翻し、祝憲法発布、帝国万歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは
殊にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に
鳳輦を拝みて万歳を三呼したる後余は
復学校の行列に加はらず、芝の
某の
館の園遊会に参らんとて行く途にて得たるは『日本』第一号なり。その附録にしたる憲法の表紙に三種の神器を画きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、その時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて
仮店太神楽などの催しに興の尽くる時もなく
夜深けて泥の氷りたる上を踏みつつ帰りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月は
甚だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。その時生れ出でたる憲法は果して
能く歩行し得るや否や。
(二月十一日)
『日本』へ俳句寄稿に
相成候諸君へ
申上候。
筆硯益
御清適の結果として小生の
枕辺に
玉稿の山を築きこの冬も大約一万句に達し
候事誠に
御出精の次第とかつ喜びかつ
賀し
奉り候。しかるところ玉稿拝読
致候に
御句の多き割合に佳句の少きは小生の遺憾とする所にして『日本』の俳句欄も投句のみを以て
填め
兼候場合も
不少候。選抜の比例を
申候はんに十分の一以上の比例を取り候は
格堂寒楼ら諸氏の作に候。その他は百分の一に当らざる者すら
有之候。多作第一とも称すべき
八重桜氏は毎季数千句を寄せられ一題の句数大方二十句より四、五十句に及び候。されどその句を見るに
徒に多きを
貪る者の如く平凡陳腐の句も
剽窃の句も
構はずやたらに
排列せられたるはやや厭はしく感じ申候。また一題百句など
数多寄せらるる人も有之候。一題百句は第一期の修行として極めて善き事なれどその中より佳句を抜き出す事は甚だ困難なるべく、ましてその題が
火燵、
頭巾、
火鉢、
蒲団の
類なるにおいては読まずしてその句の陳腐なること知れ申候。故に
箇様なる場合においては初めの十句ほどを読みその中に佳句なくば全体に佳句なき者として没書致すべく候。小生も追々衰弱に赴き候に
付二十句の
佳什を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。
何卒御自身
御選択の上御寄稿
被下候様希望候。以上。
(二月十二日)
毎朝
繃帯の取換をするに多少の痛みを感ずるのが
厭でならんから必ず新聞か雑誌か何かを読んで痛さを
紛らかして居る。痛みが烈しい時は新聞を
睨んで居るけれど何を読んで居るのか少しも分らないといふやうな事もあるがまた新聞の方が面白い時はいつの間にか時間が経過して居る事もある。それで思ひ出したが昔
関羽の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであらうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであつた。ナアニ今考へて見ると関羽もやはり読書でもつて痛さをごまかして居たのに違ひない。
(二月十三日)
徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて
最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者
賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ
平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と
躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を
模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に
備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に
羲之を尊敬せざる書家なく、
杜甫を尊敬せざる詩家なく、
芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして
稀有なり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に
甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し
人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも
毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には
非るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は
卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を
顧ざりしはけだし心に
大に信ずる所なくんばあらざるなり。
(二月十四日)
天下の歌人
挙つて
古今調を学ぶ、元義笑つて
顧ざるなり。天下の歌人挙つて『新古今』を崇拝す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義独り万葉を
宗とす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。かくの如くして元義の名はその万葉調の歌と共に当時衆愚の嘲笑の
裏に葬られ今は全く世人に忘られ了らんとす。
忘られ了らんとする時、平賀元義なる名は昨年の夏
羽生某によりて岡山の新聞紙上に現されぬ、しかれどもこの時世に紹介せられしは「恋の平賀元義」なる題号の下に
奇矯なる歌人、潔癖ある国学者、恋の奴隷としての平賀元義にして、万葉以来唯一の歌人としての平賀元義には
非りき。幸にして備前
児島に
赤木格堂あり。元義かつてその地某家に寄寓せし縁故を以て元義の歌の散逸せる者を集めて一巻となしその
真筆十数枚とかの羽生某の文をも
併せて余に示す。
是において余は始めて平賀元義の名を知ると共にその歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪しみぬ。けだし余は幾多の歌集を見、幾多の歌人につきて研究したる結果、
真箇の万葉崇拝者をただ一人だに見出だす能はざるに失望し、歌人のふがひなく無見識なるは
殆ど
罵詈にも値せずと見くびり居る時に当りて始めて平賀元義の歌を得たるを以て余はむしろ不思議の感を起したるなり。まぬけのそろひともいふべき歌人らの中に万葉の趣味を解する者は半人もなきはずなるにそも元義は何に感じてかかく万葉には接近したる。ここ殆ど解すべからず。
(二月十五日)
元義の歌は
醇乎たる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景に
非れば歌に詠みし事なし。故にその歌
真摯にして古雅
毫も後世
繊巧媚の弊に染まず。今数首を抄して一斑を示さん。
天保八年三月十八日自彦崎至長尾村途中
うしかひの子らにくはせと天地の神の盛りおける麦飯の山
五月三日望逢崎
柞葉の母を念へば児島の海逢崎の磯浪立ちさわぐ
五月九日過藤戸浦
あらたへの藤戸の浦に若和布売るおとひをとめは見れど飽かぬかも
逢崎賞月
まそかゞみ清き月夜に児島の海逢崎山に梅の散る見ゆ
望父峰
父の峰雪ふりつみて浜風の寒けく吹けば母をしぞ思ふ
小田渡口
古のますらたけをが渡りけん小田の渡りを吾も渡りつ
神崎博之宅小飲二首
こゝにして紅葉を見つゝ酒のめば昔の秋し思ほゆるかも
盃に散り来もみぢ葉みやびをの飲む盃に散り来もみぢ葉
(二月十六日)
元義の歌
児島備後三郎大人の詩の心を
吾大君ものなおもほし大君の御楯とならん我なけなくに
失題
大君の御門国守まなり坂月面白しあれ独り行く(御門国守まなり坂は皆地名)
高島の神島山を見に来れば磯まの浦に鶴さはに鳴く
妻ごみに籠りし神の神代より清の熊野に立てる雲かも
うへ山は山風寒しちゝの実の父の命の足冷ゆらしも
三家郷八幡大神の大御行幸を拝み奉りて
掛まくも文に恐き、いはまくも穴に尊き、広幡の八幡の御神、此浦の行幸の宮に、八百日日はありといへども、八月の今日を足日と、行幸して遊び坐せば、神主は御前に立ちて、幣帛を捧げ仕ふれ、真子なす御神の子等は、木綿あさね髪結ひ垂らし、胸乳をしあらはし出だし、裳緒をばほとに押し垂れ、歌ひ舞ひ仕へまつらふ、今日の尊さ
十一月三日芳野村看梅作歌
板倉と撫川の郷の、中を行く芳野の川の、川岸に幾許所開は、誰栽し梅にかあるらん、十一月の月の始を、早も咲有流
(二月十七日)
元義の歌
送大西景枝
真金吹く吉備の海に、朝なぎに来依る深海松、夕なぎに来依る○みる、深みるのよせて来し君、○みるのよせて来し君、いかなれや国へかへらす、ちゝのみの父を思へか、いとこやの妹を思へか、剣太刀腰に取佩き、古の本を手にぎり、国へかへらす
十二月五日御野郡の路上にて伊予の山を見てよめる歌并短歌
百足らず伊予路を見れば、山の末島の崎々、真白にぞみ雪ふりたれ、並立の山のこと/″\、見渡の島のこと/″\、冬といへど雪だに見えぬ、山陽の吉備の御国は、住よくありけり
反歌
吹風ものどに吹なり冬といへど雪だにふらぬ吉備の国内は
(二月十八日)
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