七たび歌よみに与ふる書
前便に言ひ残し候事今少し申上候。宗匠的俳句と言へば、直ちに俗気を聯想するが如く、和歌といへば、直ちに陳腐を聯想致候が年来の習慣にて、はては和歌といふ字は陳腐といふ意味の字の如く思はれ申候。かく感ずる者和歌社会には無之と存候へど、歌人ならぬ人は大方箇様の感を抱き候やに承り候。をりをりは和歌を誹る人に向ひて、さて和歌は如何様に改良すべきかと尋ね候へば、その人が首をふつて、いやとよ和歌は腐敗し尽したるに、いかでか改良の手だてあるべき、置きね置きねなど言ひはなし候様は、あたかも名医が匙を投げたる死際の病人に対するが如き感を持ちをり候者と相見え申候。実にも歌は色青ざめ呼吸絶えんとする病人の如くにも有之候よ。さりながら愚考はいたく異なり、和歌の精神こそ衰へたれ、形骸はなほ保つべし、今にして精神を入れ替へなば、再び健全なる和歌となりて文壇に馳駆するを得べき事を保証致候。こはいはでもの事なるを或人が、はやこと切れたる病人と一般に見做し候は、如何にも和歌の腐敗の甚しきに呆れて、一見して抛棄したる者にや候べき。和歌の腐敗の甚しさもこれにて大方知れ可申候。
この腐敗と申すは趣向の変化せざるが原因にて、また趣向の変化せざるは用語の少きが原因と被存候。故に趣向の変化を望まば、是非とも用語の区域を広くせざるべからず、用語多くなれば従つて趣向も変化可致候。ある人が生を目して、和歌の区域を狭くする者と申し候は誤解にて、少しにても広くするが生の目的に御座候。とはいへ如何に区域を広くするとも非文学的思想は容れ不申、非文学的思想とは理窟の事に有之候。
外国の語も用ゐよ、外国に行はるる文学思想も取れよと申す事につきて、日本文学を破壊する者と思惟する人も有之げに候へども、それは既に根本において誤りをり候。たとひ漢語の詩を作るとも、洋語の詩を作るとも、将たサンスクリツトの詩を作るとも、日本人が作りたる上は日本の文学に相違無之候。唐制に模して位階も定め、服色も定め、年号も定め置き、唐ぶりたる冠衣を著け候とも、日本人が組織したる政府は日本政府と可申候。英国の軍艦を買ひ、独国の大砲を買ひ、それで戦に勝ちたりとも、運用したる人にして日本人ならば日本の勝と可申候。しかし外国の物を用うるは、如何にも残念なれば日本固有の物を用ゐんとの考ならば、その志には賛成致候へども、とても日本の物ばかりでは物の用に立つまじく候。文学にても馬、梅、蝶、菊、文等の語をはじめ、一切の漢語を除き候はば、如何なる者が出来候べき。『源氏物語』、『枕草子』以下漢語を用ゐたる物を排斥致し候はば、日本文学はいくばくか残り候べき。それでも痩我慢に、歌ばかりは日本固有の語にて作らんと決心したる人あらば、そは御勝手次第ながら、それを以て他人を律するは無用の事に候。日本人が皆日本固有の語を用うるに至らば日本は成り立つまじく、日本文学者が皆日本固有の語を用ゐたらば、日本文学は破滅可致候。
あるいは姑息にも馬、梅、蝶、菊、文等の語はいと古き代より用ゐ来りたれば、日本語と見做すべしなどいふ人も可有之候へど、いと古き代の人は、その頃新しく輸入したる語を用ゐたる者にて、この姑息論者が当時に生れをらば、それをも排斥致し候ひけん。いと笑ふべき撞著に御座候。仮に姑息論者に一歩を借して、古き世に使ひし語をのみ用うるとして、もし王朝時代に用ゐし漢語だけにても十分にこれを用ゐなば、なほ和歌の変化すべき余地は多少可有之候。されど歌の詞と物語の詞とは自ら別なり、物語などにある詞にて歌には用ゐられぬが多きなど例の歌よみは可申候。何たる笑ふべき事には候ぞや。如何なる詞にても美の意を運ぶに足るべき者は皆歌の詞と可申、これを外にして歌の詞といふ者は無之候。漢語にても洋語にても、文学的に用ゐられなば皆歌の詞と可申候。
(明治三十一年二月二十八日)
[#改ページ] 八たび歌よみに与ふる書
悪き歌の例を前に挙げたれば善き歌の例をここに挙げ可申候。悪き歌といひ善き歌といふも、四つや五つばかりを挙げたりとて、愚意を尽すべくも候はねど、なきには
勝りてんと
聊か
列ね申候。先づ『
金槐和歌集』などより始め申さんか。
武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原
といふ歌は
万口一斉に
歎賞するやうに聞き候へば、今更取り出でていはでもの事ながら、なほ御気のつかれざる事もやと存候まま一応申上候。この歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく、またかくの如き趣向が和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく、またこの歌が強き歌なる事も分りをり候へども、この種の句法が
殆どこの歌に限るほどの特色を
為しをるとは知らぬ人ぞ多く候べき。普通に歌はなり、けり、らん、かな、けれ
抔の如き助辞を以て
斡旋せらるるにて名詞の少きが常なるに、この歌に限りては名詞極めて多く「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の
最短き形)をり候。かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。新古今の中には材料の充実したる、句法の緊密なる、ややこの歌に似たる者あれど、なほこの歌の如くは語々活動せざるを覚え候。万葉の歌は材料極めて少く簡単を以て
勝る者、実朝一方にはこの万葉を擬し、一方にはかくの如く
破天荒の歌を為す、その力量実に測るべからざる者有之候。また晴を祈る歌に
時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ
といふがあり、恐らくは世人の好まざる所と存候へども、こは生の好きで好きでたまらぬ歌に御座候。かくの如く勢強き恐ろしき歌はまたと
有之間敷、八大竜王を
叱
する処、竜王も
懾伏致すべき
勢相現れ申候。八大竜王と八字の漢語を用ゐたる処、雨やめたまへと四三の調を用ゐたる処、皆この歌の勢を強めたる所にて候。初三句は極めて
拙き句なれども、その一直線に言ひ下して拙き処、かへつてその
真率偽りなきを示して、
祈晴の歌などには最も適当致しをり候。実朝は固より善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出でたらんが、なかなかに善き歌とは相成り候ひしやらん。ここらは手のさきの器用を
弄し、言葉のあやつりにのみ
拘る歌よみどもの思ひ至らぬ所に候。
三句切の事はなほ他日
詳に可申候へども、三句切の歌にぶつつかり候故一言
致置候。三句切の歌詠むべからずなどいふは
守株の論にて論ずるに足らず候へども、三句切の歌は尻軽くなるの
弊有之候。この弊を救ふために、下二句の内を字余りにする事しばしば有之、この歌もその一にて(前に挙げたる
大江千里の月見ればの歌もこの例、なほその外にも数へ尽すべからず)候。この歌の如く下を字余りにする時は、三句切にしたる方かへつて勢強く相成申候。取りも直さずこの歌は三句切の必要を示したる者に有之候。また
物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
の如き何も別にめづらしき趣向もなく候へども、一気呵成の処かへつて真心を現して余りあり候。ついでに字余りの事ちよつと申候。この歌は第五句字余り故に面白く候。
或人は字余りとは余儀なくする者と心得候へども、さにあらず、字余りには
凡三種あり、第一、字余りにしたるがために面白き者、第二、字余りにしたるがため
悪き者、第三、字余りにするともせずとも可なる者と相分れ申候。その中にもこの歌は字余りにしたるがため面白き者に有之候。もし「思ふ」といふをつめて「もふ」など吟じ候はんには興味
索然と致し候。ここは必ず八字に読むべきにて候。またこの歌の最後の句にのみ力を入れて「親の子を思ふ」とつめしは情の切なるを現す者にて、もし「親の」の語を第四句に入れ、最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」など致し候はば、例のやさしき調となりて切なる情は現れ不申、従つて平凡なる歌と相成可申候。歌よみは古来助辞を
濫用致し候様、宋人の虚字を用ゐて弱き詩を作ると一般に御座候。実朝の如きは実に千古の一人と存候。
前日来生は客観詩をのみ取る者と誤解被致候ひしも、そのしからざるは右の例にて相分り可申、那須の歌は純客観、後の二首は純主観にて、共に
愛誦する所に有之候。しかしこの三首ばかりにては、強き方に偏しをり候へば、あるいはまた強き歌をのみ好むかと
被考候はん。なほ多少の例歌を挙ぐるを
御待可被下候。
(明治三十一年三月一日)
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