二
十月十八日、奈良ホテルにて
きょうは雨だ。一日中、雨の荒池をながめながら、折口博士の「古代研究」などを読んでいた。
そのなかに人妻となって子を生んだ
葛の
葉という狐の話をとり上げられた一篇があって、そこにこういう挿話が語られている。或る秋の日、その葛の葉が童子をあやしながら大好きな乱菊の花の咲きみだれているのに見とれているうちに、ふいと本性に立ち返って、狐の顔になる。それに童子が気がつき急にこわがって泣き出すと、その狐はそれっきり姿を消してしまう、ということになるのだが、その乱菊の花に見入っているその狐のうっとりとした顔つきが、何んとも云えず美しくおもえた。それもほんの一とおりの美しさなんぞではなくて、何かその奥ぶかくに、もっともっと思いがけないものを潜めているようにさえ思われてならなかった。
僕も、その狐のやつに化かされ出しているのでないといいが……
十月十九日、戒壇院の松林にて
きょうはまたすばらしい
秋日和だ。午前中、クロオデルの「マリアへのお告げ」を読んだ。
数年まえの冬、雪に埋もれた信濃の山小屋で、孤独な気もちで読んだものを、もう一遍、こんどは秋の大和路の、何処かあかるい空の下で、読んでみたくて携えてきた本だが、やっとそれを読むのにいい日が来たわけだ。
雪の中で、いまよりかずっと若かった僕は、この戯曲を手にしながら、そこに描かれている一つの主題――神的なるものの人間性のなかへの突然の訪れといったようなもの――を、何か一枚の中世風な受胎告知図を愛するように、素朴に愛していることができた。いまも、この戯曲のそういう抒情的な美しさはすこしも減じていない。だが、こんどは読んでいるうちにいつのまにか、その女主人公ヴィオレエヌの惜しげもなく自分を与える余りの純真さ、そうしているうちに自分でも
知らず
識らず神にまで引き上げられてゆく驚き、その心の
葛藤、――そういったものに何か胸をいっぱいにさせ出していた。
三時ごろ読了。そのまま、僕は何かじっとしていられなくなって、外に出た。博物館の前も素どおりして、どこへ往くということもなしに、なるべく人けのない方へ方へと歩いていた。こういうときには鹿なんぞもまっぴらだ。
戒壇院をとり囲んだ松林の中に、誰もいないのを見すますと、
漸っと其処に落ちついて、僕は歩きながらいま読んできたクロオデルの戯曲のことを再び心に浮かべた。そうしてこのカトリックの詩人には、ああいう
無垢な処女を神へのいけにえにするために、ああも彼女を孤独にし、ああも完全に人間性から超絶せしめ、それまで彼女をとりまいていた平和な田園生活から引き離すことがどうあっても必然だったのであろうかと考えて見た。そうしてこの戯曲の根本思想をなしているカトリック的なもの、ことにその結末における神への讃美のようなものが、この静かな松林の中で、僕にはだんだん何か
異様なものにおもえて来てならなかった。
三月堂の金堂にて
月光菩薩像。そのまえにじっと立っていると、いましがたまで木の葉のように散らばっていたさまざまな思念ごとそっくり、その白みがかった光の中に吸いこまれてゆくような気もちがせられてくる。何んという
慈しみの深さ。だが、この目をほそめて合掌をしている無心そうな菩薩の像には、どこか
一抹の哀愁のようなものが漂っており、それがこんなにも素直にわれわれを此の像に親しませるのだという気のするのは、僕だけの感じであろうか。……
一日じゅう、たえず人間性への神性のいどみのようなものに苦しませられていただけ、いま、この柔かな感じの像のまえにこうして立っていると、そういうことがますます痛切に感ぜられてくるのだ。
十月二十日夜
きょうははじめて生駒山を越えて、河内の国
高安の里のあたりを歩いてみた。
山の斜面に立った、なんとなく寒ざむとした村で、西の方にはずっと河内の野が果てしなく拡がっている。
ここから二つ三つ向うの村には名だかい古墳群などもあるそうだが、そこまでは往って見なかった。そうして僕はなんの取りとめもないその村のほとりを、いまは山の向う側になって全く見えなくなった大和の小さな村々をなつかしそうに思い浮かべながら、ほんの一時間ばかりさまよっただけで、帰ってきた。
こないだ秋篠の里からゆうがた眺めたその山の姿になにか物語めいたものを感じていたので、ふと気まぐれに、そこまで往ってその昔の物語の匂いをかいできただけのこと。(そうだ、まだお前には書かなかったけれど、僕はこのごろはね、伊勢物語なんぞの中にもこっそりと探りを入れているのだよ。……)
夕方、すこし
草臥れてホテルに帰ってきたら、廊下でばったり小説家のA君に出逢った。ゆうべ遅く大阪からこちらに
著き、きょうは法隆寺へいって壁画の模写などを見てきたが、あすはまた京都へ往くのだといっている。連れがふたりいた。ひとりはその壁画の模写にたずさわっている奈良在住の画家で、もうひとりは京都から同道の若き哲学者である。みんなと一しょに僕も、自分の仕事はあきらめて、夜おそくまで酒場で
駄弁っていた。
十月二十一日夕
きょうはA君と若き哲学者のO君とに誘われるがままに、僕も朝から仕事を
打棄って、一しょに博物館や東大寺をみてまわった。
午後からはO君の知っている僧侶の案内で、ときおり僕が仕事のことなど考えながら歩いた、あの小さな林の奥にある
戒壇院の中にもはじめてはいることができた。
がらんとした堂のなかは思ったより真っ暗である。案内の僧があけ放してくれた四方の扉からも僅かしか光がさしこんでこない。壇上の四隅に立ちはだかった四天王の像は、それぞれ一すじの逆光線をうけながら、いよいよ神々しさを加えているようだ。
僕は一人きりいつまでも
広目天の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している
貌を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて
烈しい。……
「そうだ、これはきっと誰か天平時代の一流人物の貌をそっくりそのまま模してあるにちがいない。そうでなくては、こんなに人格的に出来あがるはずはない。……」そうおもいながら、こんな立派な貌に似つかわしい天平びとは誰だろうかなあと想像してみたりしていた。
そうやって僕がいつまでもそれから目を放さずにいると、北方の
多聞天の像を先刻から見ていたA君がこちらに近づいてきて、一しょにそれを見だしたので、
「古代の彫刻で、これくらい、こう血の温かみのあるのは少いような気がするね。」と僕は低い声で言った。
A君もA君で、何か感動したようにそれに見入っていた。が、そのうち突然ひとりごとのように言った。「この
天邪鬼というのかな、こいつもこうやって千年も踏みつけられてきたのかとおもうと、ちょっと同情するなあ。」
僕はそう言われて、はじめてその足の下に踏みつけられて苦しそうに
悶えている天邪鬼に気がつき、A君らしいヒュウマニズムに頬笑みながら、そのほうへもしばらく目を落した。……
数分後、戒壇院の重い扉が音を立てながら、僕たちの背後に
鎖された。再びあの真っ暗な堂のなかは四天王の像だけになり、其処には千年前の夢が急にいきいきと
蘇り出していそうなのに、僕は何んだか身の
緊るような気がした。
それから僕たちは僧侶の案内で、東大寺の裏へ抜け道をし、正倉院がその奥にあるという、もの寂びた森のそばを過ぎて、畑などもある、人けのない裏町のほうへ歩いていった。
と、突然、僕たちの行く手には、一匹の鹿が畑の中から犬に追い出されながらもの凄い速さで逃げていった。そんな小さな
葛藤までが、なにか皮肉な現代史の一場面のように、僕たちの目に映った。
十月二十三日、法隆寺に向う車窓で
きのうは朝から一しょう懸命になって、新規に小説の構想を立ててみたが、どうしても駄目だ。きょうは一つ、すべての局面転換のため、最後のとっておきにしていた法隆寺へ往って、こないだホテルで一しょに話した画家のSさんに壁画の模写をしているところでも見せてもらって、大いに自分を発奮させ、それから
夢殿の門のまえにある、あの虚子の「
斑鳩物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋に上がって、そこで半日ほど小説を考えてくるつもりだ。
十月二十四日、夕方
きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど
剥落しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――それがこんど、
金堂の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえず
愉しげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、
天衣だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた
菩薩の、手にしている
蓮華に見入っていると、それがなんだか
薔薇の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。
僕は模写の仕事の邪魔をしないように、できるだけ小さくなって四壁の絵を一つ一つ見てまわっていたが、とうとうしまいに僕もSさんの
櫓の上にあがりこんで、いま描いている部分をちかぢかと見せて貰った。そこなどは色もすっかり
剥げている上、大きな亀裂が稲妻形にできている部分で、そういうところもそっくりその
儘に模写しているのだ。なにしろ、こんな狭苦しい櫓の上で、絵道具のいっぱい散らばった中に、身じろぎもならず坐ったぎり、一日じゅう仕事をして、一寸平方位の模写しかできないそうだ。どうかすると何んにもない傷痕ばかりを描いているうちに一と月ぐらいはいつのまにか立ってしまうこともあるという。――そんな話を僕にしながら、その間も絶えずSさんは絵筆を動かしている。僕はSさんの仕事の邪魔をするのを怖れ、お礼をいって、ひとりで櫓を下りてゆきながら、いまにも此の世から消えてゆこうとしている古代の痕をこうやって必死になってその儘に残そうとしている人たちの仕事に切ないほどの感動をおぼえた。……
それから金堂を出て、新しくできた宝蔵の方へゆく途中、子規の茶屋の前で、僕はおもいがけず詩人のH君にひょっくりと出逢った。ずっと新薬師寺に泊っていたが、あす帰京するのだそうだ。そうして僕がホテルにいるということをきいて、その朝訪ねてくれたが、もう出かけたあとだったので、こちらに僕も来ているとは知らずに、ひとりで法隆寺へやって来た由。――そこで子規の茶屋に立ちより、柿など食べながらしばらく話しあい、それから一しょに宝蔵を見にゆくことにした。
僕の一番好きな
百済観音は、中央の、小ぢんまりとした明かるい一室に、ただ一体だけ安置せられている。こんどはひどく優遇されたものである。が、そんなことにも無関心そうに、この美しい像は相変らずあどけなく頬笑まれながら、静かにお立ちになっていられる。……
しかしながら、此のうら若い少女の細っそりとしたすがたをなすっていられる
菩薩像は、おもえば、ずいぶん
数奇なる運命をもたれたもうたものだ。――「百済観音」というお名称も、いつ、誰がとなえだしたものやら。が、それの示すごとく古朝鮮などから将来せられたという伝説もそのまま素直に信じたいほど、すべてが遠くからきたものの異常さで、そのうっとりと
下脹れした頬のあたりや、胸のまえで何をそうして持っていたのだかも忘れてしまっているような手つきの神々しいほどのうつつなさ。もう一方の手の先きで、ちょいと軽くつまんでいるきりの
水瓶などはいまにも取り落しはすまいかとおもわれる。
この像はそういう異国のものであるというばかりではない。この寺にこうして
漸っと落ちつくようになったのは中古の頃で、それまでは末寺の
橘寺あたりにあったのが、その寺が荒廃した後、此処に移されてきたのだろうといわれている。その前はどこにあったのか、それはだれにも分からないらしい。ともかくも、流離というものを彼女たちの哀しい運命としなければならなかった、古代の気だかくも美しい女たちのように、此の像も、その女身の美しさのゆえに、国から国へ、寺から寺へとさすらわれたかと想像すると、この像のまだうら若い少女のような魅力もその底に一種の犯し難い品を帯びてくる。……そんな想像にふけりながら、僕はいつまでも一人でその像をためつすがめつして見ていた。どうかすると、ときどき揺らいでいる
瓔珞のかげのせいか、その口もとの無心そうな頬笑みが、いま、そこに漂ったばかりかのように見えたりすることもある。そういう工合なども僕にはなかなかありがたかった。……
それから次ぎの室で
伎楽面などを見ながら待っていてくれたH君に追いついて、一しょに宝蔵を出て、夢殿のそばを通りすぎ、その南門のまえにある、大黒屋という、古い宿屋に往って、昼食をともにした。
その宿の見はらしのいい中二階になった部屋で、田舎らしい鳥料理など食べながら、新薬師寺での暮らしぶりなどをきいて、僕も少々うらやましくなった。が、もうすこし人並みのからだにしてからでなくては、そういう
精進三昧はつづけられそうもない。それからH君はこちらに滞在中に、ちか頃になく詩がたくさん書けたといって、いよいよ僕をうらやましがらせた。
四時ごろ、一足さきに帰るというH君を
郡山行きのバスのところまで見送り、それから僕は漸っとひとりになった。が、もう小説を考えるような気分にもなれず、日の暮れるまで、ぼんやりと
斑鳩の里をぶらついていた。
しかし、夢殿の門のまえの、古い宿屋はなかなか哀れ深かった。これが虚子の「斑鳩物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまえの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構えのようだ。もう半分家が傾いてしまっていて、中二階の廊下など歩くのもあぶない位になっている。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも悪くない。大和の平野が手にとるように見える。向うのこんもりした森が
三輪山あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立っている梨の木も花ざかりといった春さきなどは、さぞ綺麗だろう。と、何んということなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描いた物語の書き出しのところなどが、いい気もちになって思い出されてくる。――しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすっかり荒れてしまっている。夜になったって、
筬を打つ音で旅びとの心を慰めてくれるような若い娘などひとりもいまい。だが、きいてみると、ずっと一人きりでこの宿屋に泊り込んで、毎日、壁画の模写にかよっている画家がいるそうだ。それをきいて、僕もちょっと心を動かされた。一週間ばかりこの宿屋で暮らして、僕も仕事をしてみたら、もうすこしぴんとした気もちで仕事ができるかも知れない。
どのみち、きょうは夢殿や中宮寺なんぞも見損ったから、またあすかあさって、もう一遍出なおして来よう。そのときまでに決心がついたら、ホテルなんぞはもう引き払って来てもいい。……
そんな工合で、結局、なんにも構想をまとめずに、暗くなってからホテルに帰ってくると、僕は、夜おそくまで机に向って最後の努力を試みてみたが、それも空しかった。そうして一時ちかくなってから、半分泣き顔をしながら、寝床にはいった。が、昼間あれだけ気もちよげに歩いてくるせいか、よく眠れるので、愛想がつきる位だ。――
けさはすこし寝坊をして八時起床。しかし、お昼もきょうはホテルでして、一日じゅう新らしいものに取りかかっていた。――こないだ折口博士の論文のなかでもって綺麗だなあとおもった
葛の
葉という狐の話。あれをよんでから、もっといろんな狐の話をよみたくなって、
霊異記や今昔物語などを捜して買ってきてあったが、けさ起きしなにその本を手にとってみているうちに、そんな狐の話ではないが、そのなかの或る物語がふいと僕の目にとまった。
それは一人のふしあわせな女の物語。――自分を与え与えしているうちにいつしか自分を神にしていたようなクロオデル好みの聖女とは反対に、自分を与えれば与えるほどいよいよはかない境涯に
堕ちてゆかなければならなかった一人の女の、世にもさみしい身の上話。――そういう物語の女を見いだすと、僕はなんだか急に身のしまるような気もちになった。これならば
幸先きがよい。そういう中世のなんでもない女を描くのなら、僕も無理に背のびをしなくともいいだろう。こんやもう一晩、この物語をとっくりと考えてみる。
ジャケット届いた。本当にいいものを送ってくれた。けさなどすこうし寒かったので、一枚ぐらいジャケットを用意してくればよかったとおもっていたところだ。こんやから早速
著てやろう。
十月二十四日夜
ゆうがた、
浅茅が
原のあたりだの、ついじのくずれから菜畑などの見えたりしている
高畑の裏の
小径だのをさまよいながら、きのうから念頭を去らなくなった物語の女のうえを考えつづけていた。こうして
築土のくずれた小径を、ときどき
尾花などをかき分けるようにして歩いていると、ふいと自分のまえに女を捜している
狩衣すがたの男が立ちあらわれそうな気がしたり、そうかとおもうとまた、何処かから女のかなしげにすすり泣く音がきこえて来るような気がして、おもわずぞっとしたりした。これならば好い。僕はいつなん時でも、このまますうっとその物語の中にはいってゆけそうな気がする。……
この分なら、このままホテルにいて、ときどきここいらを散歩しながら、一週間ぐらいで書いてしまえそうだ。
十月二十五日夜
けさちょっと博物館にいっただけで、あとは殆ど部屋とヴェランダとで暮らしながら、小説の構想をまとめた。構想だけはすっかり出来た。いま細部の工夫などを
愉しんでやっている。日暮れごろ、また高畑のほうへ往って、ついじの崩れのあるあたりを歩いてきた。尾花が一めんに咲きみだれ、もう葉の黄ばみだした柿の木の間から、夕月がちらりと見えたり、三笠山の落ちついた姿が渋い色をして見えたりするのが、何んともいえずに好い。晩秋から初冬へかけての、大和路はさぞいいだろうなあと、つい小説のほうから心を
外らして、そんな事を考え出しているうちに、僕は突然或る決心をした。――僕はやはり二三日うちに、荷物はこのまま預けておいて、ホテルを引き上げよう。しかし、いかるがの宿に
籠もるのではない。東京へ帰る。そうしておまえの傍で、心しずかにこの仕事に向い、それを書き上げてから、もう一度、十一月のなかば過ぎにこちらに来ようというのだ。そうして大和路のどこかで、秋が過ぎて、冬の来るのを見まもっていたい。都合がついたら、おまえも一しょにつれて来よう、どうもいまこうして奈良にいると、一日じゅう仕事に没頭しているのが何んだかもったいなくなって、つい何処かへ出かけてみたくなる。何処へいっても、すぐもうそこには自分の心を豊かにするものがあるのだからなあ。しかし、昼間はそうやって歩きまわり、夜は夜で、落ちついてゆうべの仕事をつづけるなんという真似のできない僕のことだから、いっそこのまま出来かけの仕事をもって東京へ帰った方がいいのではないか、とまあそんな事も一とおりは考えに入れたうえの決心なのだ。
僕はホテルに帰ってくると、また気のかわらないうちにとおもって、すぐ帳場にそのことを話し、しあさっての汽車の切符を買っておいて貰うことにした。
十月二十六日、斑鳩の里にて
きょうはめずらしくのんびりした気もちで、汽車に乗り、大和平をはすに横ぎって、佐保川に沿ったり、西の京のあたりの森だの、その中ほどにくっきりと見える薬師寺の塔だのをなつかしげに眺めたがら、法隆寺駅についた。僕は法隆寺へゆく松並木の途中から、村のほうへはいって、道に迷ったように、わざと民家の裏などを抜けたりしているうちに、夢殿の南門のところへ出た。そこでちょっと立ち止まって、まんまえの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿のほうへ向った。
夢殿を中心として、いくつかの古代の建物がある。ここいらは
厩戸皇子の御住居のあとであり、向うの
金堂や塔などが立ち並んでおのずから厳粛な感じのするあたりとは打って変って、大いになごやかな雰囲気を漂わせていてしかるべき
一廓。――だが、この二三年、いつ来てみても、何処か修理中であって、まだ一度もこのあたりを落ちついた気もちになって立ちもとおったことがない。
いまだにそのまわりの伝法堂などは板がこいがされているが、このまえ来たとき
無慙にも解体されていた夢殿だけは、もうすっかり修理ができあがっていた。……
そこで僕はときどきその品のいい八角形をした屋根を見あげ見あげ、そこの小ぢんまりとした庭を往ったり来たりしながら、
ゆめどのはしづかなるかなものもひにこもりていまもましますがごと
義疏のふでたまたまおきてゆふかげにおりたたしけむこれのふるには
そんな「鹿鳴集」の歌などを口ずさんでは、自分の心のうちに、そういった古代びとの物静かな生活を
蘇らせてみたりしていた。
僕は
漸く心がしずかになってから夢殿のなかへはいり、秘仏を拝し、そこを出ると、再び板がこいの傍をとおって、いかにも
虔ましげに、中宮寺の観音を拝しにいった。――
それから約三十分後には、僕は何か
赫かしい目つきをしながら、村を北のほうに抜け出し、
平群の山のふもと、
法輪寺や
法起寺のある森のほうへぶらぶらと歩き出していた。
ここいら、古くはいかるがの里と呼ばれていたあたりは、その四囲の風物にしても、又、その寺や古塔にしても、推古時代の遺物がおおいせいか、一種蒼古な気分をもっているようにおもわれる。或いは厩戸皇子のお住まいになられていたのがこのあたりで、そうしてその中心に夢殿があり、そこにおける
真摯な御思索がそのあたりのすべてのものにまで
知らず
識らずのうちに深い感化を与え出していたようなことがあるかも知れない。そうしてこのあたりの山や森などはもっとも早く未開状態から目覚めて、そこに無数に巣くっていた小さな神々を追い出し、それらの山や森を朝夕うちながめながら暮らす里人たちは次第に心がなごやかになり、生きていることのよろこびをも深く感ずるようになりはじめていた。……
そうだ、僕はもうこれから二三年勉強した上でのことだが、日本に仏教が渡来してきて、その新らしい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の
佗びしいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの
流謫の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新らしい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。なかなか好いものになりそうではないか。
行く手の森の上に次ぎ次ぎに立ちあらわれてくる法輪寺や法起寺の小さな古塔を目にしながら、そんな小説を考え考え、そこいらの
田圃の中を歩いていると、僕はなんともいえず心なごやかな、いわばパストラアルな気分にさえなり出していた。
十月二十七日、琵琶湖にて
けさ奈良を立って、ちょっと京都にたちより、往きあたりばったりにはいった或る古本屋で、リルケが「ぽるとがる文」などと共に愛していた十六世紀のリヨンびとルイズ・ラベという薄倖の女詩人のかわいらしい詩集を見つけて、飛びあがるようになって喜んで、途中、そのなかで、
「ゆふべわが臥床に入りて、いましも甘き睡りに入らんとすれば、わが魂はわが身より君が方にとあくがれ出づ。しかるときは、われはわが胸に君を掻きいだきゐるがごとき心ちす、ひねもす心も切に恋ひわたりゐし君を。ああ、甘き睡りよ、われを欺りてなりとも慰めよ。うつつにては君に逢ひがたきわれに、せめて恋ひしき幻をだにひと夜与へよ。」という哀婉な一章などを拾い読みしたりしつつ、午過ぎ、やっと近江の湖にきた。
ここで、こんどの物語の結末――あの不しあわせな女がこの湖のほとりでむかしの男と再会する最後の場面――を考えてから、あすは東京に帰るつもりだ。
いま、ちょっと近所の小さな村を二つ三つ歩いてきてみた。どこの人家の垣根にも、茶の花がしろじろと咲いていた。これで、昼の月でもほのかに空に浮かんでいたら満点だが。――
古墳
J兄
この秋はずっと奈良に滞在していましたが、どうも思うように仕事がはかどらず、とうとうその仕事をかたづけるためにしばらく東京に舞いもどっていました。それからすぐまたこちらに来るつもりでいましたが、すこし無理をして仕事をしたため、そのあとがひどく疲れて一週間ばかり寐たり何かしているうちに、つい出そびれて、やっと十二月になってこちらに来たような始末です。この七日にはどうしても帰京しなければならない用事がある上、こんどはどうしても倉敷の美術館にいってエル・グレコの「受胎告知」を見てきたいので、奈良には三四日しかいられないことになりました。まるでこの秋ホテルに預けておいた荷物をとりにだけきたような恰好です。
でも、そんな三四日だって、こちらでもって自分の好きなように過ごすことができるのだとおもうと、たいへん幸福でした。僕は一日の夜おそくホテルに著いてから、さあ、あすからどうやって過ごそうかと考え出すと、どうも往ってみたいところが沢山ありすぎて困ってしまいました。そこで僕はそれを二つの「方」に分けて見ました。一つの「方」には、まだ往ったことのない室生寺や聖林寺、それから浄瑠璃寺などがあります。もう一つの「方」は、飛鳥の村々や山の辺の道のあたり、それから瓶原のふるさとなどで、そんないまは何んでもなくなっているようなところをぼんやり歩いてみたいとも思いました。こんどはそのどちらか一つの「方」だけで我慢することにして、その選択はあすの朝の気分にまかせることにして寐床にはいりました。……
翌朝、食堂の窓から、いかにも冬らしくすっきりした青空を見ていますと、なんだかもう此処にこうしているだけでいい、何処にも出かけなくったっていいと、そんな欲のない気もちにさえなり出した位ですから、勿論、めんどうくさい室生寺ゆきなどは断念しました。そうして十時ごろやっとホテルを出て、きょうはさしあたり山の辺の道ぐらいということにしてしまいました。三輪山の麓をすこし歩きまわってから、柿本人麻呂の若いころ住んでいたといわれる穴師の村を見に纏向山のほうへも往ってみたりしました。このあたり一帯の山麓には名もないような古墳が群らがっているということを聞いていたので、それでも見ようとおもっていたのだけれど、どちらに向って歩いてみても、丘という丘が蜜柑畑で、若い娘たちが快活そうに唄い唄い、鋏の音をさせながら蜜柑を採っているのでした。何か南国的といいたいほど、明るい生活気分にみちみちているようなのが、僕にはまったくおもいがけなく思われました。――が、そういう蜜柑山の殆どすべてが、ことによったら古代の古墳群のあとなのかも知れません。そんな想像が僕の好奇心を少しくそそのかしました。
次ぎの日――きのうは、恭仁京の址をたずねて、瓶原にいって一日じゅうぶらぶらしていました。ここの山々もおおく南を向き、その上のほうが蜜柑畑になっていると見え、静かな林のなかなどを、しばらく誰にも逢わずに山のほうに歩いていると、突然、上のほうから蜜柑をいっぱい詰めた大きな籠を背負った娘たちがきゃっきゃっといいながら下りてくるのに驚かされたりしました。ながいこと山国の寒く痩せさらぼうたような冬にばかりなじんで来たせいか、どうしても僕には此処はもう南国に近いように思われてなりませんでした。だが、また山の林の中にひとりきりにされて、急にちかぢかと見えだした鹿背山などに向っていると、やはり山べの冬らしい気もちにもなりました。……
きょうは、朝のうちはなんだか曇っていて、急に雪でもふり出しそうな空合いでしたが、最後の日なので、おもいきって飛鳥ゆきを決行しました。が、畝傍山のふもとまで来たら、急に日がさしてきて、きのうのように気もちのいい冬日和になりました。三年まえの五月、ちょうど桐の花の咲いていたころ、君といっしょにこのあたりを二日つづけて歩きまわった折のことを思い出しながら、大体そのときと同じ村々をこんどは一人きりで、さも自分のよく知っている村かなんぞのような気やすさで、歩きまわって来ました。が、帰りみち、途中で日がとっぷりと昏れ、五条野あたりで道に迷ったりして、やっと月あかりのなかを岡寺の駅にたどりつきました……
あすは朝はやく奈良を立って、一気に倉敷を目ざして往くつもりです。よほど決心をしてかからないことには、このままこちらでぶらぶらしてしまいそうです。見たいものはそれは一ぱいあるのですから。だが、こんどはどうあっても僕はエル・グレコの絵を見て来なければなりません。なぜ、そんなに見て来なければならないような気もちになってしまったのか、自分でもよく分かりません。僕のうちの何物かがそれを僕に強く命ずるのです。それにどういうものか、こんどそれを見損ったら、一生見られないでしまうような焦躁のようなものさえ感ぜられるのです。――で、僕は朝おきぬけにホテルを立てるようにすっかり荷物をまとめ、それからやっと落ちついた気もちになって、君にこの手紙を書き出しているのです。こんどこちらにちょっと来ているうちにいろいろ考えたこと――というより、三年まえに君と同道してこの古い国をさまよい歩いたときから僕のうちに萌しだした幾つかの考えのうちでも、まあどうやらこうやら恰好のつきだしているものを、ともかくも一応君にだけでも報告しておきたいと思うのです。
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