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「しようがないから、ひとつこの岸を歩けるだけ歩いて往って見ようよ。Y・W・C・Aのところまで往けるかな?」
「そんなにお歩きになっても大丈夫?」
私達は、そんな事を云いながら、こんどは外人部落とは反対に、Y・W・C・Aの寮のある方へ湖岸づたいに歩き出した。
湖に沿うて上ったり下ったりしている径で、ときどき急に湖と並行したり、それから又林のなかへはいったりしていた。木の幹と幹の間から湖水の面が鈍く光っていた。いつか斑尾が私達から見えなくなり、妙高と黒姫とが二つ並んで真正面に見えて来た。
「感心に歩けるわね。」
「うん、きょうみたいに曇っていた方が歩くには好いよ。」
だんだん林が長くなって来た。そんな林の中には、この夏キャンプでもした者があると見え、ところどころに荒らされた跡があった。木の枝などが無残に折られたままになっていたりした。そういう場所の傍を通るときは、私達はどちらからともなく少し足早に通り過ぎた。
急に私達の前が明るくなって、其処には山寄りに一軒、ちょっとした小屋が閉されたまま立っていた。それがY・W・C・Aの寮にちがいなかった。そして其処から湖寄りには、柵をめぐらした砂地があり、そこにも小さな掘立小屋があった。私達は柵を押しあけて、構わずにそっちの方へはいって往った。
其処は湖水が何処よりもぐっと深く入り込んでいた。そのせいか、湖水もここいらあたりが一番奥まった感じだった。一体、斑尾と黒姫の太古の噴火のため、その間の谷が殆ど埋まって、ただ一つ昔のままの姿をとどめているのが、この野尻湖だという事だった。此処の入江に立っていると、こんもりと茂った木々の間に、いかにも伝説のありげな黒姫山が何か遠いような感じで見えた。斑尾山はいま丁度私達の背後から迫っているのだろう。
私達が其処で山だの湖だのを眺めながら、その岸の砂地をぶらぶらしていると到る処に焚火の燃え残りのようなものが残っていた。
「これはボンファイアをした跡だわ……」妻はしきりに自分の女学生時代の事を思い出しているらしく、いくぶん上ずったような声で私に云った。
「ボンファイアって何だい?」私はそういう妻から努めて話を引き出すように訊いた。
「まあ、ボンファイアを知っていらっしゃらなかったの? 呆れたわね。」妻は少しはしゃいでいた。「夕方になってから、みんなで焚火をしてね、そのまわりで最初はお祈りをしたり、讃美歌を唄ったりして、礼拝をするのよ。――それが終ると、ソオセエジを串焼きにして麺麭にはさんで食べたりしながら、その焚火のまわりで踊ったりなんかして遊ぶんだわ。素敵だわよ。……」
私は少してれ臭そうに聞きながら、最後に言った。「ふん、ソオセエジをその焚火で串焼きにして食べるのかい? それは好いなあ。」
が、私の心の裡に、こういう山に囲まれた湖畔で、そんな焚火を背景にして、大勢の若い娘たちが生の悦びに充ち溢れながら遊び戯れる光景を、殆ど眼底にしみつくように、鮮かに浮ばせた。
妻はそこに落ちていた燃え残りの薪を拾って、湖水の方へほうった。それは水まで届かないで砂地に落ちた、引汐時だったので、水はずっと向うまで引いていたのだった。
私もその真似をしようとした。自分なら湖水まで楽に届かせて見せると思ったが、途中で急に気がついて薪を棄てた。そんな事をして胸でも痛み出したら、それこそ取り返しのつかない身体だった。
妻はそういう私にすぐ気がつくと、寂しそうに顔を伏せていた。
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湖の水がずっと向うまで引いているのをいい事に、私達は渚づたいに宿の方へ帰って往った。
葭がところどころに群生している外には、私達の邪魔になるようなものは何物もなかった。一箇処、岸の崩れたところがあって、其処に生えていた水楢の若木が根こそぎ湖水へ横倒しにされながら、いまだに青い葉を簇がらせていた。私達はその木を避けるために、殆ど水とすれすれのところを歩かなければならなかった。が、その時でさえ、湖の水は私達の足もとで波ひとつ立てず、又、何のにおいさえもさせなかった。それでいて、湖全体が何処か奥深いところで呼吸づいているらしいのが、何か異様に感ぜられた。
「Zweisamkeit! ……」そんな独逸語が本当に何年ぶりかで私の口を衝いて出た。――孤独の淋しさとはちがう、が殆どそれと同種の、いわば差し向いの淋しさと云ったようなもの、そんなものだって此の人生にはあろうじゃあないか?
「そうだろう、ねえ、お前……」私は口の中でそんな事をつぶやくように言って見た。
「何あに?」と、ひょっとしたら妻が私に追いついて訊き返しはしないかしらと思った。しかし妻にはそれが聞えよう筈もなく、私の少しあとから黙ってついて来るだけだった。
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夕方、食堂でまた例の外人の娘達と一しょになった。いつも同じように食堂へはいって来て、いつも同じように卓に向い、そして食事の間はいつも同じように言葉少なに話し合っている。向うでもこっちの事をそれと同じように考えているかも知れない。
こんやはセロリが皿の上に姿を見せないと思ったら、スウプの中にはいっていやあがった。食事中、いつまでもその匂が口に残っていた。
私達は二階の部屋へ、その外人の娘達はそのまま外へ出て往った。
私はこんや中にはどうしても「猶太びとの」を読み了えてしまうつもりだった。妻を先きに寝かせて、夜遅くまで一人でそれを読んでいた。――フリイドリッヒとヨハンが村から姿を消してしまってから、三十年近い月日が立つ。(その間にフリイドリッヒの母親も死に、村の人々もすっかり変ってしまうが、猶太人がその下で殺されたの木だけは昔のままに残っている。近在の猶太人等がそれを買いとって、その幹には呪詛の詞が銘せられてあった。)或る雪のクリスマスの夜、その村に一人の浮浪人がやって来る。それはヨハンのなれの果てらしかった。しばらく村の人達からいたわられて暮らしていたが、或る日、又ゆくえ知れずになってしまう。森のなかの例のの木に彼が縊死体となって発見せられたのはそれから間もなくの事だった。彼は実はフリイドリッヒだったという噂が立ちはじめる。――そのの木に猶太人等の銘した次の詞がその物語の最後を結んでいる。――「此処に汝の近づく時は、嘗て汝が我に為せし事を汝は汝自身に為さん。」
漸っと十一時近くにそれを読み了えて、手水をしに下りて往くと、丁度例の娘達が外から帰って来たところだった。いま時分まで何処をうろついていたのだろうと、訝しそうに二人が靴を脱ごうとしているところをちらりと見た。二人はそういう私に気づいたようだったが、ポロシャツの方はさあらぬ顔をして靴を脱いでいた。が、もう一人の薔薇色の方は私をなんだかこわい目つきをして見上げた。
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翌朝はとうとう霧雨になり出していた。山々も見えず、湖水は一めんに白く霧らっていた。丁度好い引上げ時だと思って、帰りの自動車を帳場にいた男に頼んだ。なんでも例の娘達もその晩の夜行で一人は神戸へ、一人は横浜へ立つ事になっているので、いよいよあすから此のホテルも冬まで閉じるそうだった。
此のホテルには電話が無いので、ちょっと自動車を頼んで来るといって、その男は霧雨のなかを自転車で出かけて往った。
私達はそれから又二階に上っていって、例のラケット入れに身のまわりの品を入れてしまうと、私はもうなす事もないので、ぼんやりと机に頬杖をついていた。妻は母親のところへ此処へ来てから初めての便りを絵葉書に書き出していた。
私は窓から見るともなしに霧雨のふっている裏山を見やっていた。蓑をきた男に手綱をとられながら、一ぱい背中に湿った草を積んだ馬が、その道をとぼとぼと登って往った。その馬の傍には、かわいらしい仔馬が一匹ついていく。ときどき親馬に体をすりつけたり、足でじゃれついたりしていた。馬子も、親馬も、仔馬のする事にはとりあわずにさっさと登ってゆく。仔馬は、しまいには親馬の背中から草をすこしばかりりとって、何という事もなしにそれを横に銜えている。その中には、草の花のようなものまで雑じっているのが見える。……
●表記について
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