私が自分の生い立ちの一伍一什をこと細かに聞いたのは、それからずっと夕方になるまでで、雪の下の咲いたやつがその間じゅう私の目さきにちらちらしていた。おばさんが殆んどひとりで話し手になっていたが、無口なおじさんもときどきそれへ短い言葉を さんだ。……
私はそれまで、誰れにもはっきりそうと聞かせられていたわけではなかったが、いつからともなく自分勝手に、自分が上条のうちの一人息子だのに小さいときから堀の跡目をついでいるのは、何か私の生れたころの事情でそうされたのだろう位にしか考えていなかった。十七八の頃になってからは、それまでひとりでに自分の耳にはいっていたいろんな事から推測して、自分の生れた頃、父が一時母と分かれて横浜かなんぞにいて他の女と同棲していたような小さなドラマがあって、そのとき隣りに住んでいた老夫婦がたいへん母に同情し、丁度自分たちのところに跡とりがなかったので私を生れるとすぐその跡とりにした、――その位の小さいドラマはそこにあったのにちがいないと段々考えるようになっていた。そんな事のあったあとで、父は再び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果の木のある家に母と幼い私とをむかえたのではあるまいか。ともかくも、その小梅の父なる人は、幼い私のまえに、最初からいた人ではなくって、どうも途中からひょっくり、私のまえに立ち現れてきたような気のする人なのである。
しかし、その突然自分のまえに現れた小梅の父が、自分の本当の父でないかも知れないなんぞというようなことは、私はずっと大きくなって、ことによると自分の生い立ちには、何かの秘密が匿されていそうだ位のことは気のつきそうな年頃になっても、私はいっこう疑わなかった。そして先きに母だけが死んで、父と二人きりで暮らさなければならなくなってからも、私はそれをすこしも疑うことをしなかった。
私が去年結婚して信州に出立した後、おばさんが或日向島の家にたずねてゆくと、父はたいへん上機嫌で、二人の間にはいろいろ私の小さいときからの話などがとりかわされたそうであるが、その折にも、真実の父がほかにあることをこの年になるまで知らずにいる私のことを、「あいつもかわいそうといえば、かわいそうだが、まあ自分にはこんなにうれしいことはない。……」といって、それから「どうか自分の死ぬまで何んにも知らせないでおいて下さい。」と何度もおばさんに頼んだそうだった。父の病に仆れたのは、それから数日立つか立たないうちだったのである。……
私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜之助というのが、私の生みの親だったのである。
広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたらしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。しかし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋しい夫婦なかだった。
そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるようになり、そしてそこにどういう縁が結ばれて私というものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなんにも知らないのである。――ともかくも、私は生れるとすぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育てられることになり、私が母の懐を離れられるようになるまで、母も一しょにその家に同居していた。しかし、私がだんだん母の懐を離れられるようになって来てからも、母はどうしても私を手放す気にはなれなかった。それかといって、いつまでも母子してその家にいることはなおさら出来にくかった。
とうとう母はひとり意を決して、誰にも知らさずに、私をつれてその家を飛び出した。私が三つのときのことである。丁度その頃堀の家には親類の娘で薫さんという人が世話になっていた。その薫さんが私の母贔屓で、すべての事情を知っていて、そのときも母の荷物をもって一しょについて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、ひと先ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に家を持っていたいもうと夫婦――それがいまの田端のおじさんとおばさんで――のところだった。漸っとその家に落ちついて、まあこれでいいと思っていると、突然薫さんが癪をおこして苦しみだした。それがなかなか快くならず、いつ一人で帰れるようになるか分からなかったので、とうとう役所に電話をしてすべてを浜之助に告げた。浜之助はすぐ役所から飛んできた。それが小梅のおばさんの家に浜之助のきた最初であり、また最後であった。夕方、ようやく薫さんの癪もおさまり、浜之助が連れもどることになって、皆して水戸さまの前まで送っていった。そして土手のうえで、母と私とは、薫さんを伴った父と分かれた。
なんでも私はたいへん智慧づくのが遅くって、三つぐらいになってもまだ「うま、うま……」ということしか言えなかったのに、その夕方、おばさんの家で父に逢うと、私はとてもよろこんでしまって、そのとき生れてはじめて「お父うちゃん……お父うちゃん……」と言えるようになった。よっぽどそんなところで思いがけず父に逢えたのがうれしかったものと見える。しかし、それが私のその父に逢うことの出来た最後であったそうだ。
それからまもなく、その父浜之助は、脳をわずらって、もう再び世に立たない人となってしまったのである。
私の母は、それまで弟たちのところにいたおばあさんに来てもらって、土手下の、水戸さまの裏に小さなたばこやの店をひらいた。
いままで私たちのいた麹町の堀の家は、立派な門構えの、玄関先きに飛石などの打ってあるような屋敷だった。それだものだから、そうやって土手下なんぞの小さな借家ずまいをするようになってからも、三つ四つの私は母やおばあさんに手をひかれて漸っとよちよちと歩きながら、そのへんなどに、ちょっと飛石でも打ってあるような、門構えの家でも見かけると、急に「あたいのうち……あたいのうち……」といい出して、その中へちょこちょこと駈けこんでいってしまって、みんなをよく困らせたそうだ。
それからもう一つ。――その頃よく町の辻などに仁丹の大きな看板が出ていて、それには白い羽のふさふさとした大礼帽をかぶって、美しい髭を生やした人の胸像が描かれてあった、――それを見つけると、私はきまってそのほうを指して、「お父うちゃん……」といってきかなかった、漸っとそのお父うちゃんというのが言えるようになったばかりの幼い私は。……それはおそらく自分の父がそういう美しい髭を生やした人であったのをよく覚えていたからでもあったろう。それにひょっとしたら私の父が何かの折にそんな文官の礼装でもしていたところを見たことでもあって、それをまだどこかで覚えていたのかも知れない。……
長いこと脳をわずらっていた、父浜之助が遂に亡くなったときは、私ももう七八つになっていたろう。私は三つのとき、母の手にひかれたまま、あの土手の上で父とわかれてからは、ただの一度もその父には逢わなかったらしい。その父の死んだときにも、私にはもう新しい父が出来ていたので、その手前もあったのだろう、何んにも知らされなかった。継母のほうは、私が十二三になるまで存命していたようだが、その死んだのも私は知らないで過ごした。
その継母という人は、全然私には記憶がないが、病身で、いつも青い顔をした、陰気な婦人だったらしい。しかし、不しあわせといえば不しあわせな人だった。晩年は藤森とかいう自分の血すじの甥を近づけていたが、その甥は鉱山かなんかに手を出し、失敗して、それきり失踪してしまったそうである。
四
私は或る一枚の母の若いころの写真を覚えている。それも震災のとき焼いてしまったが、私は亡くなった母のことをいろいろ考えていると、ときどきそのごく若いころの母の写真を思い浮べることがある。まだどことなく娘々していて、ちっとも私の母らしくないものだが、それだけにかえって私の心をそそるものと見える。
いまから数年ほどまえに、或る雑誌から私の一番美しいと思った女性という題でもって何か書いてくれと乞われるままに、ふとその古い写真のことを思いついて、小さな随筆を一つ書いたことがある。ほんの素描のようなものに過ぎないが、ひと頃の私の母に対する心もちがよく出ていると思うので、此処にそれを んでおきたいと思う。
花を持てる女
私がまだ子供の時である。
私はよく手文庫の中から私の家族の写真を取り出しては、これはお父さんの、これはお母さんの、これは押上の伯父さんのなどと、皆の前で一つずつ得意そうに説明をする。そのうち私はいつも一人の見知らぬ若い女の人の写真を手にしてすっかり当惑してしまう。
いくらそれはお前のお母さんの若い時分の写真だよと云われても、私にはどうしてもそれが信じられない。だって私のお母さんはあんなによく肥えているのに、この写真の人はこんなに痩せていて、それにこの人の方が私のお母さんよりずっと綺麗だもの……と、私は不審そうにその写真と私の母とを見くらべる。
其処には、その見知らぬ女の人が生花をしているところが撮られてある。花瓶を膝近く置いて、梅の花かなんか手にしている。私はその女の人が大へん好きだった。私の母などよりもっと余計に。――
それから数年経った。私にもだんだん物事が分かるようになって来た。私の母は前よりも一そう肥えられた。それは一つは、私をどうかして中学の入学試験に合格させたいと、浅草の観音さまへ願掛けをされて、平生嗜まれていた酒と煙草を断たれたためでもあった。そして私の母は、それ等の代りに急に思い立たれて生花を習われ出した。私はときおり、そういう生花を習われている母の姿を見かけるようになった。そんな事から私はまたひょっくり、何時の間にか忘れるともなく忘れていた例の花を持った女の人の写真のことを思い出した。その写真は私の心の中にそっくり元のままみずみずしい美しさで残っていた。私はその頃は頭ではそれが私の母の若い時分の写真であることを充分に認めることは出来ても、まだ心の底ではどうしてもその写真の人と私の母とを一緒にしたくないような気がしていた。
それから更らに数年が経った。私の母は地震のために死んだ。その写真も共に失われた。――そういう今となって、不思議なことには、漸くその二つのものが私の心の中で一つに溶け合いだしている。そしてどういうものか、よく見なれた晩年の母の俤よりも、その写真の中の見なれない若い母の俤の方が、私にはずっと懐しい。私はこの頃では、子供のときその写真の人がどうしても私の母だと信じられなかったのは、その人を自分の母と信ずるにはその人があまりに美し過ぎたからではなかったかと解している。その人がただ美しいと云うばかりでなしに、その容姿に何処ということなく妙になまめいた媚態のあったのを子供心に私は感づいていて、その人を自分の母だと思うことが何んとなく気恥しかったのであろう。そう云えば、その写真のなかで母のつけていた服装は、決して人妻らしいものでもなければ、また素人娘のそれでもなかったようだ。今の私には、それがどうもその頃の芸者の服装だったようにも思われる。そんな事からして私はこの頃では私の母は父のところへ嫁入る前は芸者をしていたのではないかと一人でひそかに空想をしているのである。――私の母の実家が随分貧しかったらしいことや、私の母の妹とか、弟とか云う人達が大抵寄席芸人だの茶屋奉公だのをしていたことや、私の父が昔は相当道楽者だったらしいことなどを考え合せてみれば、そんな私の空想が全然根も葉もないものであるとは断言できないだろう。
私はしかし芸者と云うものを今でも殆んど知っていないと言っていい。ただ少年の頃から鏡花などの小説を愛読しているし、そういう小説の女主人公などに一種の淡い愛着のようなものさえ感じているところから、或はそんなことが私をしてかかる夢を私の亡き母にまで托させているのかも知れぬ。
私は一枚の母の若いころの写真からそんな小説的空想さえもほしいままにしながら、しかしそれ以上に突込んで、そういう母の若いころのことや、自分自身の生い立ちなどについて、人に訊いてまでも、それを強いて知ろうとはしなかった。私は小さいときからの性分で、ひとりでに自分に分かって来ていることだけでもって十分に満足して、その自分の知っている範囲のなかだけで、自分の幼年時代を好きなように形づくって、それを愉しんでいることが出来たのだった。
五
おばさんはまた私に母の実家のことを仔細に話してくれた。しかし、そのときも私の期待を裏切って、母の若い頃のことは殆んどなんにも話して貰えなかった。そのうち、何かの折にでも自然に聞き出せるかも知れないから、いまはまあそう無理には聞かないことにする。……
母の実家は西村氏である。父は米次郎といった人で、維新前までは、霊岸島に店を構えて、諸大名がたのお金御用達を勤めていた。市人でも、苗字帯刀を許されていたほどの家がらだったそうである。母は茅野氏で、玉といい、これも神田の古い大きな箪笥屋の娘であった。玉は十六の年から本郷の加賀さまの奥へ仕えていた。そうして十九のときに米次郎のところに嫁いだが、そのときの婚礼はまだ随分はでなものだったらしい。いくつも高張提灯をかかげて、花嫁の一行が神田から霊岸島をさして練ってゆくと、丁度途中にめ組の喧嘩があった。そこで一行は迂回をしなければならぬかとためらっていると、それをどこかの大名の行列かとまちがえて、喧嘩をしていた鳶の者たちが急にさあっと途を開いたので、そのままその前を通ってゆくことが出来た。――そのことを又、皆はたいへん縁起がいいといって喜んだものだった。
だが、新郎新婦の運命はそれほどしあわせなものではなかった。やがて瓦解になった。それはたちまち若い夫婦に決定的な打撃を与えた。諸侯に貸し付けてあった金子も当分は取り立てる見込みもつかず、そこで米次郎は窮余の一策として、麻布の飯倉片町に居を移して、大黒屋という刀屋をひらいた。それがうまく当って、一時は店も繁昌した。私の母しげが長女として生れたのはその飯倉であった。
しかし、その母の生れた明治六年は、また、廃刀令の出た年である。米次郎は再び窮地に立った。丁度そのとき質屋の株を売ろうとするものがあったので、よほど米次郎の心はそちらのほうに動いたが、それには玉がどこまでも反対した。質屋という商売を嫌ったのである。そこで米次郎もやむを得ずに芝の烏森に移って、小さな骨董屋をはじめた。が、それも年々思わしくなくなる一方で、もう米次郎には挽回の策のほどこしようもなく、とうとう愛宕下の裏店に退いて、余生を佗びしく過ごす人になってしまった。
米次郎がその愛宕下の陋居で、脳卒中で亡くなったのは、明治二十八九年ごろだった。……
そのとき私の母は二十四五になっていた。死んだ米次郎と玉との間には、長女である私の母をはじめ、四人の女とまだ小さな二人の弟たちがいた。
それから私の生れるまでの、十年ちかい年月を、私の母はそれらの若い妹や小さな弟をかかえて、気の弱い、内気な人だったらしいおばあさんを扶けながら、どんなにけなげに働いたか、そしてどんなに人に知れぬような苦労をしたか、いま私にはその想像すらも出来ない。私の母を知っていた人達は、母のことを随分しっかりした人で、あんなに負けず嫌いで、勝気な人はなかったと一様に言う。なんでもおじいさんが死んでからまもなく、若い母は夜店などを出して何かをひさいだりしたこともあったという話を、まだ私の小さかったとき母自身の口から何かの折にきいたことのあったのを、私はうっすらと覚えている。
母のいもうとの中には、茶屋奉公に出ていたものもいる。芸者になって、きん朝さんという落語家に嫁いだものもいる。それから一番末の弟はとうとう自分から好きで落語家になってしまった。しかし、それらの人達はみんな早世してしまって、いまは亡い。……
私はそういう母の一家の消長のなかに、江戸の古い町家のあわれな末路の一つを見いだし、何か自分の生い立ちにも一抹の云いしれず暗い翳のかかっているのを感ずるが、しかしそれはそれだけのことである、――もしそういうものが私の心をすこしでも傷ましむるとすれば、それは私の母をなつかしむ情の一つのあらわれに過ぎないであろう。
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