十八
冬空を過った一つの鳥かげのように、自分の前をちらりと通りすぎただけでその儘消え去るかと見えた一人の旅びと、……その不安そうな姿が時の立つにつれていよいよ深くなる痕跡を菜穂子の上に印したのだった。その日、明が帰って行った後、彼女はいつまでも何かわけのわからない一種の後悔に似たものばかり感じ続けていた。最初、それは何か明に対して或感情を佯っているかのような漠然とした感じに過ぎなかった。彼が自分の前にいる間じゅう、彼女は相手に対してとも自分自身に対してともつかず始終苛ら立っていた。彼女は、昔、少年の頃の相手が彼女によくそうしたように、今も自分の痕を彼女の心にぎゅうぎゅう捺しつけようとしているような気がされて、そのために苛ら苛らしていたばかりではなかった。――それ以上にそれが彼女を困惑させていた。云って見れば、それが現在の彼女の、不為合せなりに、一先ず落ち著くところに落ち著いているような日々を脅かそうとしているのが漠然と感ぜられ出していたのだ。彼女よりももっと痛めつけられている身体でもって、傷いた翼でもっともっと翔けようとしている鳥のように、自分の生を最後まで試みようとしている、以前の彼女だったら眉をひそめただけであったかも知れないような相手の明が、その再会の間、屡々彼女の現在の絶望に近い生き方以上に真摯であるように感ぜられながら、その感じをどうしても相手の目の前では相手にどころか自分自身にさえはっきり肯定しようとはしなかったのだった。
菜穂子は自分のそう云う一種の瞞著を、それから二三日してから、はじめて自分に白状した。何故あんなに相手にすげなくして、旅の途中にわざわざ立寄って呉れたものを心からの言葉ひとつ掛けてやれずに帰らせてしまったのか、とその日の自分がいかにも大人気ないように思われたりした。――しかし、そう思う今でさえ、彼女の内には、若し自分がそのとき素直に明に頭を下げてしまって居たら、ひょっとしてもう一度彼と出逢うような事のあった場合、そのとき自分はどんなに惨めな思いをしなければならないだろうと考えて、一方では思わず何かほっとしているような気持ちもないわけではなかった。……
菜穂子が今の孤独な自分がいかに惨めであるかを切実な問題として考えるようになったのは、本当に此の時からだと云ってよかった。彼女は、丁度病人が自分の衰弱を調べるためにその痩せさらばえた頬へ最初はおずおずと手をやってそれを優しく撫で出すように、自分の惨めさを徐々に自分の考えに浮べはじめた。彼女には、まだしも愉しかった少女時代を除いては、その後彼女の母なんぞのように、一つの思出だけで後半生を充たすに足りるような精神上の出来事にも出逢わず、又、将来だっていまの儘では何等期待するほどのことは起りそうもないように思われる。現在をいえば、為合せなんぞと云うものからは遥かに遠く、とは云え此の世の誰よりも不為合せだと云うほどのことでもない。只、こんな孤独の奥で、一種の心の落ち著きに近いものは得ているものの、それとてこうして陰惨な冬の日々にも堪えていなければならない山の生活の無聊に比べればどんなに報いの少ないものか。殊に明があんなに前途に不安そうな様子をしながら、しかもなお自分の生のぎりぎりのところまで行って自分の夢の限界を突き止めて来ようとしているような真摯さの前では、どんなに自分のいまの生活はごまかしの多いものであるか。それでも自分はまだ此の先の日々に何か恃むものがあるように自分を説き伏せて此の儘こうした無為の日々を過していなければならないのか。それとも本当に其処に何か自分をよみ返らして呉れるようなものがあるのであろうか。……
菜穂子の考えはいつもそうやって自分の惨めさに突き当った儘、そこで空しい逡巡を重ねている事が多かった。
十九
それまで菜穂子は、圭介の母からいつも分厚い手紙を貰っても、枕もとに打ち棄てて置いた儘すぐそれを開こうとはせず、又、それを一度も嫌悪の情なしには開いた事はなかった。そして彼女はその次ぎには、それ以上の嫌悪に打ち勝って、心にもない言葉を一つ一つ工夫しながら、それに対する返事を認めなければならなかった。
菜穂子はしかし冬に近づく時分から、その姑の手紙の中に何かいままでの空しさとは違ったものを徐々に感じ出してはいた。彼女はその手紙の文句に一々これまでのように眉をひそめたりしないでもそれを読み過せるようになった。彼女は相変らず姑の手紙が来る毎に面倒そうにそれをすぐ開きもせず、長いこと枕もとに置いたきりにはしていたが、一度それを手にとるといつまでもそれを手放さないでいた。何故それが今までのような不愉快なものでなくなって来たか、彼女は別にそれを気にとめて考えて見ようともしなかったが、一手紙毎に、姑のたどたどしい筆つきを通して、ますます其処に描かれている圭介の此の頃のいかにも打ち沈んだような様子が彼女にも生き生きと感ぜられるようになって来た事を、菜穂子は自分に否もうとはしなかった。
明が訪れてから数日後の、或雪曇った夕方、菜穂子はいつも同じ灰色の封筒にはいった姑の手紙を受け取ると、矢っ張いつものように面倒そうに手にとらずにいたが、暫くしてからひょっとしたら何か変った事でも起きたのではないかしらと思い出し、そう思うとこんどは急いで封を切った。が、それには此の前の手紙と殆ど変らない事しか書いてはなくて、彼女の一瞬前に空想したように圭介も突然危篤にはなっていなかったので、彼女は何んだか失望したように見えた。それでもその手紙の走り書きのところが読みにくかったし、そんなところは急いで飛ばし飛ばし読んでいたので、もう一遍最初から丁寧に読み返して見た。それから彼女は暫く考え深そうに目をつぶっていたが、気がついて夕方の検温をし、相変らず七度二分なのを確かめると、寝台に横になった儘、紙と鉛筆をとって、いかにも書く事がなくて困ったような手つきで姑への返事を書き出した。――「きのうきょうのこちらのお寒いことと云ったらとても話になりません。しかし、療養所のお医者様たちはこちらで冬を辛抱すればすっかり元通りの身体にしてやるからと云って、お母様のおっしゃるようになかなか家へは帰してくれそうにもないのです。ほんとうにお母様のみならず、圭介様にもさぞ……」彼女はこう書き出して、それから暫く鉛筆の端で自分の窶れた頬を撫でながら、彼女の夫の打ち沈んだ様子を自分の前にさまざまに思い描いた。いつもそんな眼つきで彼女が見つめるとすぐ彼がそれから顔を外らせてしまう、あの見据えるような眼ざしを、つい今も知らず識らずにそれ等の夫の姿へ注ぎながら……
「そんな眼つきでおれを見ないでくれないか。」そう彼がとうとう堪らなくなったように彼女に向って云った、あの豪雨にとじこめられた日の不安そうだった彼の様子が、急に彼の他のさまざまな姿に立ち代って、彼女の心の全部を占め出した。彼女はそのうちにひとりでに目をつぶり、その嵐の中でのように、少し無気味な思い出し笑いのようなものを何んとはなしに浮べていた。
来る日も来る日も、雪曇りの曇った日が続いていた。ときどき何処かの山からちらちらとそれらしい白いものが風に吹き飛ばされて来たりすると、いよいよ雪だなと患者達の云い合っているのが聞えたが、それはそれきりになって、依然として空は曇ったままでいた。吸いつくような寒さだった。こんな陰気な冬空の下を、いま頃明はあの旅びとらしくもない憔悴した姿で、見知らない村から村へと、恐らく彼の求めて来たものは未だ得られもせずに(それが何か彼女にはわからなかったが)、どんな絶望の思いをして歩いているだろうと、菜穂子はそんな憑かれたような姿を考えれば考えるほど自分も何か人生に対する或決意をうながされながら、その幼馴染の上を心から思いやっているような事もあった。
「わたしには明さんのように自分でどうしてもしたいと思う事なんぞないんだわ。」そんなとき菜穂子はしみじみと考えるのだった。「それはわたしがもう結婚した女だからなのだろうか? そしてもうわたしにも、他の結婚した女のように自分でないものの中に生きるより外はないのだろうか? ……」
二十
或夕方、信州の奥から半病人の都築明を乗せた上り列車はだんだん上州との国境に近いO村に近づいて来た。
一週間ばかりの陰鬱な冬の旅に明はすっかり疲れ切っていた。ひどい咳をしつづけ、熱もかなりありそうだった。明は目をつぶった儘、窓枠にぐったりと体を靠らせながら、ときどき顔を上げ、窓の外に彼にとっては懐しい唐松や楢などの枯木林の多くなり出したのをぼんやりと感じていた。
明はせっかく一箇月の休暇を貰って今後の身の振り方を考えるために出て来た冬の旅をこの儘空しく終える気にはどうしてもなれなかった。それではあまり予期に反し過ぎた。彼はさしずめO村まで引き返し、其処で暫く休んで、それからまた元気を恢復し次第、自分の一生を決定的なものにしようとしている此の旅を続けたいという心組になった。早苗は結婚後、夫が松本に転任して、もうその村にはいない筈だった。それが明には、寂しくとも、何か心安らかにその村へ自分の病める身を托して行ける気持ちにさせた。それに、今自分を一番親身に看病してくれそうなのは、牡丹屋の人達の外にはあるまい……
深い林から林へと汽車は通り抜けて行った。すっかり葉の落ち尽した無数の唐松の間から、灰色に曇った空のなかに象嵌したような雪の浅間山が見えて来た。少しずつ噴き出している煙は風のためにちぎれちぎれになっていた。
先ほどから汽缶車が急に喘ぎ出しているので、明は漸っとO駅に近づいた事に気がついた。O村はこの山麓に家も畑も林もすべてが傾きながら立っているのだ。そしていま明の身体を急に熱でも出て来たようにがたがた震わせ出している此の汽缶車の喘ぎは、此の春から夏にかけて日の暮近くに林の中などで彼がそれを耳にしては、ああ夕方の上りが村の停車場に近づいて来たなと何とも云えず人懐しく思った、あの印象深い汽缶の音と同じものなのだ。
谷陰の、小さな停車場に汽車が著くと、明は咳き込みそうなのを漸っと耐えているような恰好で、外套の襟を立てながら降りた。彼の外には五六人の土地の者が下りただけだった。彼は下りた途端に身体がふらふらとした。彼はそれを昇降口の戸をあけるために暫く左手で提げていた小さな鞄のせいにするように、わざと邪慳そうにそれを右手に持ち変えた。改札口を出ると、彼の頭の上でぽつんとうす暗い電灯が点った。彼は待合室の汚れた硝子戸に自分の生気のない顔がちらっと映っただけで、すぐ何処かへ吸い込まれるように消えたのを認めた。
日の短い折なので、五時だというのにもう何処も暗くなり出していた。バスも何んにもない山の停車場なので、明は自分で小さな鞄を提げながら、村の途中の森までずっと上りになる坂道を難儀しいしい歩き出した。そして何度も足を休めては、ずんずん冷え込んで来る夕方の空気の中で、彼は自分の全身が急に悪寒がして来たり、すぐそのあとで又急に火のように熱くなって来たりするのを、ただもう空ろな気持ちで感じていた。
森が近づき出した。その森を控えて、一軒の廃屋に近い農家が相変らず立ち、その前に一匹の穢い犬がうずくまっていた。ここの家には、昔、菜穂子さんと遠乗りから帰って来ると、いつも自転車の輪に飛びついて菜穂子さんに悲鳴を立てさせた黒い犬がいたっけなあ、と明はなんということもなしに思い出した。犬は毛並が茶色で違っていた。
森の中はまだ割合にあかるかった。殆どすべての木々が葉を落ち尽していたからだった。それは彼には何んと云っても思い出の多い森だった。少年の頃、暑い野原を横切った後、此の森の中まで自転車で帰って来ると、快い冷気がさっと彼の火のような頬を掠めたものだった。明は今も不意と反射的に空いた手を自分の頬にあてがった。この底知れない夕冷えと、自分のひどい息切れと、この頬のほてりと、――こう云う異様な気分に包まれながら、背中を曲げて元気なく歩いている現在の自分が、そんな自転車なんぞに乗って頬をほてらせ息を切らしている少年の自分と、妙な具合に交錯しはじめた。
森の中程で、道が二叉になる。一方は真直に村へ、もう一方は、昔、明や菜穂子たちが夏を過しに来た別荘地へと分かれるのだった。後者の草深い道は、此処からずっとその別荘の裏側まで緩く屈折しながら心もち下りになっていた。その道へ折れると、麦桿帽子の下から、白い歯を光らせながら、自転車に乗った菜穂子がよく「見てて。ほら、両手を放している……」と背後から自転車で附いて来る明に向って叫んだ。……
そんな思いがけない少年の日の思い出が急によみ返って来て、道端に手にしていた小さな鞄を投げ出して、ただもう苦しそうに肩で息をしていた明の疲弊し切った心をちょっとの間生き生きとさせた。「おれは又どうしてこんどはこの村へやって来るなり、そんなとうの昔に忘れていたような事ばかりをこんなに鮮明に思い出すのだろうなあ。なんだかまだ次から次へと思い出せそうな事が胸一ぱい込み上げて来るようだ。熱なんぞがあると、こんな変な具合になってしまうのかしら。」
森の中はすっかり暗くなり出した。明は再び背中を曲げて小さな鞄を手にしながら、暫くは何もかもがこぐらかったような切ない気分で半ば夢中に足を運んでいるきりだった。が、そのうちに彼はひょいと森の梢を仰いだ。梢はまだ昏れずにいた。そして大きな樺の木の、枯れ枝と枯れ枝とがさし交しながら薄明るい空に生じさせている細かい網目が、不意とまた何か忘れていた昔の日の事を思い出させそうにした。なぜか彼にはわからなかったが、それはこの世ならぬ優しい歌の一節のように彼を一瞬慰めた。彼は暫くうっとりとした眼つきでその枝の網目を見上げていたが、再び背中を曲げて歩き出した時にはもうそれを忘れるともなく忘れていた。しかし彼の方でもうそれを考えなくなってしまってからも、その記憶は相変らず、殆ど肩でいきをしながら、喘ぎ喘ぎ歩いている彼を何かしら慰め通していた。「このまんま死んで行ったら、さぞ好い気持ちだろうな。」彼はふとそんな事を考えた。「しかし、お前はもっと生きなければならんぞ」と彼は半ば自分をいたわるように独り言ちた。「どうして生きなければならないんだ、こんなに孤独で? こんなに空しくって?」何者かの声が彼に問うた。「それがおれの運命だとしたらしょうがない」と彼は殆ど無心に答えた。「おれはとうとう自分の求めているものが一体何であるのかすら分らない内に、何もかも失ってしまった見たいだ。そうして恰も空っぽになった自分を見る事を怖れるかのように、暗黒に向って飛び立つ夕方の蝙蝠のように、とうとうこんな冬の旅に無我夢中になって飛び出して来てしまったおれは、一体何を此の旅であてにしていたのか? 今までの所では、おれは此の旅では只おれの永久に失ったものを確かめただけではないか。此の喪失に堪えるのがおれの使命だと云う事でもはっきり分かってさえ居れば、おれは一生懸命にそれに堪えて見せるのだが。――ああ、それにしても今此のおれの身体を気ちがいのようにさせている熱と悪感との繰り返しだけは、本当にやり切れないなあ。……」
そのとき漸く森が切れて、枯れ枯れな桑畑の向うに、火の山裾に半ば傾いた村の全体が見え出した。家々からは夕炊の煙が何事もなさそうに上がっていた。およう達の家からもそれが一すじ立ち昇っているのが見られた。明は何かほっとした気持ちになって、自分の身体中が異様に熱くなったり寒気がしたりし続けているのも暫く忘れながら、その静かな夕景色を眺めた。彼が急に思いがけず自分の穉い頃死んだ母のなんとなく老けた顔をぼんやりと思い浮べた。さっき森の中で一本の樺の枝の網目が彼にこっそりとその粗描をほのめかしただけで、それきり立ち消えてしまっていた何かの影が、そんな殆ど記憶にも残っていない位のとうの昔に死んだ母の顔らしかった事に明はそのときはじめて気がついた。
二十一
連日の旅の疲れに痛めつけられた身体を牡丹屋に托した日から、明は心の弛みが出たのか、どっと床に就ききりになった。村には医者がいなかったので、小諸の町からでも招ぼうかと云うのを固辞して、明はただ自分に残された力だけで病苦と闘っていた。苦しそうな熱にもよく耐えた。明はしかし自分では大したことはないと思い込んでいるらしかった。およう達もそういう彼の気力を落させまいとして、まめまめしく看病してやっていた。
明はそういう熱の中で、目をつぶってうつらうつらとしながら、旅中のさまざまな自分の姿を懐しそうによみ返らせていた。或村では彼は数匹の犬に追われて逃げ惑うた。或村では炭を焼いている人々を見た。又、或村では日ぐれどき煙にむせびながら宿屋を探して歩いていた。或時の彼は、或農家の前に、泣いている子供を背負った老けた顔の女がぼんやりと立っているのを何度もふり返っては見た。又、或時の彼は薄日のあたった村の白壁の上をたよりなげに過った自分の影を何か残り惜しげに見た。――そんな佗しい冬の旅を続けている自分のその折その折のいかにも空虚な姿が次から次へとふいと目の前に立ち現われて、しばらくその儘ためらっていた……。
暮がたになると、数日前そんな旅先きから自分を運んで来た上り列車が此の村の傾斜を喘ぎ喘ぎ上りながら、停車場に近づいて来る音が切ないほどはっきりと聞えて来た。その汽缶の音がそれまで彼の前にためらっていた旅中のさまざまな自分の姿を跡方もなく追い散らした。そしてその跡には、その夕方の汽車から下りて此の村へ辿り著こうとしているときの彼の疲れ切った姿、それから漸く森の中程まで来たとき、ふと何処かから優しい歌の一節でも聞えて来たかのように暫くうっとりとして自分の頭上の樺の枝の網目を見上げていた彼の姿だけが残った。それがその森を出た途端に突然穉い頃死に別れた母の顔らしいものを形づくったときの何とも云えない心のときめきまで伴って。……
明は此の数日、彼の世話を一切引き受けている若い主婦さんの手のふさがっている時など、娘の看病の合間に彼にも薬など進めに来てくれるおようの少し老けた顔などを見ながら、この四十過ぎの女にいままでとは全く違った親しさの湧くのを覚えた。おようがこうして傍に坐っていて呉れたりすると、彼の殆ど記憶にない母の優しい面ざしが、どうかした拍子にふいとあの枝の網目の向うにありありと浮いて来そうな気持ちになったりした。
「初枝さんはこの頃どうですか?」明は口数少く訊いた。
「相変らず手ばかり焼けて困ります。」おようは寂しそうに笑いながら答えた。
「なにしろ、もう足掛け八年にもなりますんでね。此の前東京へ連れて参りましたときなんぞでも、本当にこんな身体でよくこれまで保って来たと皆さんに不思議がられましたけれど、失っ張、此の土地の気候が好いのですわ。――明さんもこんどこそはこちらですっかり身体をおこしらえになって行くと好いと、皆で毎日申して居りますのよ。」
「ええ、若し僕にも生きられたら……」明はそう口の中で自分にだけ云って、おようにはただ同意するような人なつこい笑い方をして見せた。
あれほど旅の間じゅう明の切望していた雪が、十二月半過ぎの或夕方から突然降り出し、翌朝までに森から、畑から、農家から、すっかり蔽い尽してしまった後も、まだ猛烈に降り続いていた。明はもう今となっては、どうでも好い事のように、只ときどき寝床の上に起き上がった折など、硝子窓ごしに家の裏畑や向うの雑木林が何処もかしこも真白になったのを何んだか浮かない顔をして眺めていた。
暮がた近くになって一たん雪が歇むと、空はまだ雪曇りに曇った儘、徐かに風が吹き出した。木々の梢に積っていた雪がさあっとあたり一面に飛沫を散らしながら落ち出していた。明はそんな風の音を聞くと矢っ張じっとして居られないように、又寝床に起き上がって、窓の外へ目をやり出した。彼は裏一帯の畑を真白に蔽うた雪がその間絶えず一種の動揺を示すのを熱心に見守っていた。最初、雪煙がさあっと上がって、それが風と共にひとしきり冷い炎のように走りまわった。そして風の去ると共に、それも何処へともなく消え、その跡の毳立ちだけが一めんに残された。そのうちまた次ぎの風が吹いて来ると、新しい雪煙が上がって再び冷い炎のように走り、前の毳立ちをすっかり消しながら、その跡に又今のと殆ど同じような毳立ちを一めんに残していた……。
「おれの一生はあの冷い炎のようなものだ。――おれの過ぎて来た跡には、一すじ何かが残っているだろう。それも他の風が来ると跡方もなく消されてしまうようなものかも知れない。だが、その跡には又きっとおれに似たものがおれのに似た跡を残して行くにちがいない。或運命がそうやって一つのものから他のものへと絶えず受け継がれるのだ。……」
明はそんな考えを一人で逐いながら、外の雪明りに目をとられて部屋の中がもう薄暗くなっているのにも殆ど気づかずにいるように見えた。
二十二
雪は烈しく降り続いていた。
菜穂子は、とうとう矢も楯もたまらなくなって、オウヴア・シュウズを穿いた儘、何度も他の患者や看護婦に見つかりそうになっては自分の病室に引き返したりしていたが、漸っと誰にも見られずに露台づたいに療養所の裏口から抜け出した。
雑木林を抜けて、裏街道を停車場の方へ足を向けた菜穂子は、前方から吹きつける雪のために、ときどき身を捩じ曲げて立ち止まらなければならなかった。最初は、只そうやって頭から雪を浴びながら歩いて来て見たくて、裏道を抜ければ五丁ほどしかない停車場の前あたりまで行ってすぐ戻って来るつもりだった。そのつもりで、けさ圭介の母から風邪気味で一週間ほども寝ていると云って寄こしたので、それへ書いた返事を駅の郵便函にでも投げて来ようと思って、外套の衣嚢に入れて来た。
一丁ほど裏街道を行ったところで、傘を傾けながらこちらへやって来る一人の雪袴の女とすれちがった。
「まあ黒川さんじゃありませんか。」急にその若い女が言葉を掛けた。「何処へいらっしゃるの?」
菜穂子は驚いてふり返った。襟巻ですっかり顔を包み、いかにも土地っ子らしい雪袴姿をした相手は、彼女の病棟附きの看護婦だった。
「ちょっと其処まで……」彼女は間が悪そうに笑顔を上げたが、吹きつける雪のために思わず顔を伏せた。
「早くお帰りになってね。」相手は念を押すように云った。
菜穂子は顔を伏せたまま、黙って頷いて見せた。
それから又一丁ほど雪を頭から浴びながら歩いて、漸っと踏切のところまで来た時、菜穂子は余っ程この儘療養所へ引き返そうかと思った。彼女は暫く立ち止まって目の粗い毛糸の手袋をした手で髪の毛から雪を払い落していたが、ふとさっきこんな向う見ずの自分を掴まえても何んともうるさく云わなかったあの気さくな看護婦が露西亜の女のように襟巻でくるくると顔を包んでいたのを思い出すと、自分もそれを真似て襟巻を頭からすっぽりと被った。それから彼女は、出逢ったのが本当にあの看護婦でよかったと思いながら、再び雪を全身に浴びて停車場の方へ歩き出した。
北向きの吹きさらしな停車場は一方から猛烈に雪をふきつけられるので片側だけ真白になっていた。その建物の陰に駐まっている一台の古自動車も、やはり片側だけ雪に埋っていた。
その停車場で一休みして行こうと思った菜穂子は、自分もいつの間にか片側だけ雪で真白になっているのを認め、建物の外でその雪を丁寧に払い落した。それから彼女が顔をくるんでいた襟巻を外しながら、何気なしに中へはいって行くと、小さなストーヴを囲んでいた乗客達が揃って彼女の方をふり向き、それからまるで彼女を避けるかのように、皆して其処を離れ出した。彼女は思わず眉をひそめながら、顔をそむけた。丁度そのとき下りの列車が構内にはいって来かかっていると云う事が咄嗟に彼女には分からなかったのだ。
その列車はどの車もやはり同じように片側だけ雪を吹きつけられていた。十五六人ばかりの人が下車し、戸口の近くに外套をきて立っている菜穂子の方をじろじろ見ながら、雪の中へ一人一人何やら互いに云い交して出て行った。
「東京の方もひどい降りだってな。」誰かがそんな事を云っていた。
菜穂子にはそれだけがはっきりと聞えた。彼女は東京もこんな雪なのだろうかと思いながら、駅の外で雪に埋って身動きがとれなくなってしまっているような例の古自動車をぼんやり眺めていた。それから暫くたって、彼女は息切れも大ぶ鎮まって来たので、そろそろもう帰らなくてはと思って、駅の内を見廻わすと又いつの間にかストーヴのまわりには人だかりがしていた。その大部分土地の者らしい人達は口数少く話し合いながら、ときどき何か気になるように戸口近くに立っている彼女の方へ目をやっていた。
二つか三つ先きの駅で今の下りと入れちがいになって来る上り列車がやがて此の駅にはいって来るらしかった。
彼女はふとその上り列車も片側だけ雪で真白になっているだろうかしらと想像した。それから突然、何処かの村で明もそうやって片側だけ雪をあびながら有頂天になって歩いている姿が彷彿して来た。さっきから彼女が外套の衣嚢に突込んで温めていた自分の凍えそうな手が、手袋ごしに、まだ出さずにいた姑宛の手紙と革の紙入れとを代る代るに押さえ出しているのを彼女自身も感じていた。
それまでストーヴを囲んでいた十数人の人達が再び其処を離れ出した。菜穂子はそれに気がつくと、急に出札口に近寄って、紙入れを出しながら窓口の方へ身をかがめた。
「何処まで?」中から突慳貪な声がした。
「新宿。……」菜穂子はせき込むように答えた。
彼女の想像したとおりの、片側だけ真白に雪のふきつけた列車が彼女の前に横づけになったとき、菜穂子は眼に見ることの出来ない大きな力にでも押し上げられるようにして、その階段へ足をかけた。
彼女のはいって行った三等車の乗客達は、雪まみれの外套に身を包んだ彼女の只ならぬ様子を見ると、揃って彼女の方をじろじろ無遠慮に見出した。彼女は眉をひそめながら「私はきっと険しい顔つきでもしているのだろう」と考えた。が、一番端近かの、居睡りしつづけている鉄道局の制服をきた老人の傍に坐り、近い山や森さえなんにも分からないほど雪の深い高原の真ん中へ汽車がはいり出した時分には、皆はもう彼女の存在など忘れたように見向きもしなかった。
菜穂子は漸く自分自身に立ち返りながら、自分の今しようとしている事を考えかけようとした。彼女はそのとき急に、いつも自分のまわりに嗅ぎつけていた昇汞水やクレゾオルの匂の代りに、車内に漂っている人いきれや煙草のにおいを胸苦しい位に感じ出した。彼女にはそれが自分にこれから返されようとしかけている生の懐しい匂の前触れでもあるかのような気がされた。彼女はそう思うと、その胸苦しさも忘れ、何か不思議な身慄いを感じた。
窓の外には、いよいよ吹き募っている雪のあいだから、ごく近くの木立だとか、農家だとかが仄見えるきりだった。しかし、まだ彼女には汽車がいま大体どの辺を走っているのか見当がついた。其処から数丁離れた人気ない淋しい牧場には、あの自分によく似ているような気のした事のある例の立枯れた木が、矢っ張それも片側だけ真自になった儘、雪の中にぽつんと一本きり立っている悲劇的な姿を、彼女はふと胸に浮べた。彼女は急に胸さわぎを感じ出した。
「私はどうして雪を衝いてあの木を見に行こうとしなかったのかしら? 若しあっちへ向かっていたら、私はいまこんな汽車になんぞ乗っていなかったろうに。……」車内に漂った物のにおいはまだ菜穂子の胸をしめつけていた。「療養所ではいま頃どんなに騒いでいるだろう。東京でも、どんなにみんなが驚くだろう。そうして私はどうされるかしら? 今のうちならまだ引き返そうと思えば引き返せるのだ。なんだか私は少しこわくなって来た。……」
そんな事を考え考え、一方ではまだ汽車が少しでも早く国境の外へ出てしまえばいいと思いながら、漸くそれが過ぎり終えたらしい雪の高原の果ての、もう自分には殆ど見覚えのない最後の林らしいものが見る見る遠ざかって行くのを、菜穂子は半ば怖ろしいような、半ばもどかしいような気持ちで眺めていた。
二十三
雪は東京にも烈しく降っていた。
菜穂子は、銀座の裏のジャアマン・ベエカリの一隅で、もう一時間ばかり圭介の来るのを待ち続けていた。しかし少しも待ちあぐねているような様子でなく、何か物が匂ったりすると、急に目を細くしてそれを恰も自分に漸く返されようとしている生の匂ででもあるかのように胸深く吸い込んだりしながら、半ば曇った硝子戸ごしに、雪の中の人々の忙しそうな往来を、圭介でも傍にいたらすぐそんな目つきは止せと云われそうな、何か見据えるような眼つきで見続けていた。
店の中は、夕方だったけれど、大雪のせいか、彼女の外には三四組の客が疎らに居るきりだった。入口に近いストーヴに片足をかけた、一人の画家かなんぞらしい青年が、ときどき彼女の方を何か気になるように振り返っていた。
菜穂子はそれに気がつくと、ふいと自分の姿を吟味した。長いこと洗わないばさばさした髪、出張った頬骨、心もち大きい鼻、血の気のない脣――それらのものは今もまだ、彼女が若い時分によく年上の人達からもうすこし険がなければと惜しまれていた一種の美貌をすこしも崩さずに、それに只もう少し沈鬱な味を加えていた。山の中の小さな駅では人々の目を惹いた彼女の都会風な身なりは、今、此の町なかでは他の人々と殆ど変らないものだった。只、山の療養所からそっくりその儘持ち帰って来たような顔色の蒼さだけは、妙に他の人々と違っているように思え、それだけはどうにもならないように彼女はときどき自分の顔へ手をやっては何かごまかしでもするように撫でていた。……
突然自分の前に誰かが立ちはだかったような気がして、菜穂子は驚いて顔を上げた。
外で払って来たらしい雪がまだ一面に残っている外套を着た儘、圭介が彼女を見下ろしながら、其処に立っていた。
菜穂子はかすかなほほ笑みを浮べながら、会釈するともなく、圭介のために身じろいだ。
圭介は不機嫌そうに彼女の前に腰をかけたきり、暫くは何も云い出さずにいた。
「いきなり新宿駅から電話をかけて寄こすなんて驚くじゃないか。一体、どうしたんだ?」とうとう彼は口をきいた。
菜穂子はしかし、前と同じようなかすかなほほ笑みを浮べたきり、すぐには何んとも返事をしなかった。彼女の心の内には、一瞬、けさ吹雪の中を療養所から抜け出して来た小さな冒険、雪にうずもれた山の停車場での突然の決心、三等車の中に立ちこめていた生のにおいの彼女に与えた不思議な身慄い、――それらのものが一どきによみ返った。彼女はその間の何かに愚かれたような自分の行動を、第三者にもよく分かるように一々筋を立てて説明する事は、到底出来ないように感じた。
彼女はそれが返事の代りであるように、只大きい眼をして夫の方をじいっと見守った。何も云わなくとも、その眼の中を覗いて何もかも分かっで貰いたそうだった。
圭介にとっては、そういう妻の癖のある眼つきこそあれほど孤独の日々に空しく求めていたものだったのだ。が、今、それをこうしてまともに受け取ると、彼は持前の弱気から思わずそれから眼を外らせずにはいられなかった。
「母さんは病気なんだ。」圭介は彼女から眼を外らせた儘、はき出すように云った。「面倒な事は御免だよ。」
「そうね。私が悪かったわ。」菜穂子は自分が何か思い違いをしていた事に気がつきでもしたように、深い溜息をついた。そして思いのほか素直に云った。
「私、これからすぐ帰るわ。……」
「すぐ帰るったって、こんな雪で帰れるものか。何処かへ一晩泊ることにして、あした帰るようにしたらどうだ?――しかし、大森の家じゃ困るな。母さんの手前。……」
圭介は一人でやきもきしながら、何かしきりに考えていた。彼は急に顔を上げて、声を低くして云い出した。
「ホテルなんぞへ一人で泊るのは嫌か。麻布に小さな気持ちの好いホテルがあるが……」
菜穂子は熱心に夫の顔へ自分の顔を近づけていたが、それを聞き終わると急に顔を遠退けて、
「私はどうでもいいわ……」といかにも気がなさそうな返事をした。
彼女は今まで自分が何か非常な決心をしているつもりになっていたが、いま夫とこうして差向いになって話し出していると、何だって山の療養所からこんなに雪まみれになって抜け出して来たのか分からなくなり出していた。そんなにまでして夫の所に向う見ずに帰って来た彼女を見て、一番最初に夫がどんな顔をするか、それに自分の一生を賭けるようなつもりでさえいたのに、気がついた時にはもういつの間にか二人は以前の習慣どおりの夫婦になっていて、何もかもが有耶無耶になりそうになっている。ほんとうに人間の習慣には何か瞞著させるものがある。……
菜穂子はそう思いながら、しかしもうどうでも好いように、夫の方へ、何か見据えているような癖に何も見てはいないらしい、例の空虚な眼ざしを向け出した。
圭介はこんどは何か抜きさしならない気持ちで、それをじっと自分の小さな眼で受けとめていた。それから彼は突然顔を赧らめた。彼は今しがた自分の口にした麻布の小さなホテルと云うのが、実は此の間同僚と一しょに偶然その前を通りかかった時、相手が此処を覚えておけよ、いつも人けがなくてランデ・ヴウには持って来いだぞと冗談半分に教えてくれたばかりの事を、そのとき何という事もなしに思い出したからだった。
彼女にはなぜ彼が顔を赧らめたのだか分からなかった。が、彼女はこれを認めると、ふと自分が向う見ずに夫に逢いに来た突飛な行為の動機がもうちょっとで分かりかけて来そうな気がしだした。
が、菜穂子はその時夫に促されたので、その考えを中断させながら、卓から立ち上がった。そしてときどき何か好い匂を立たせている店の中をもう一度名残惜しそうに見廻して、それから夫に附いて店を出た。
雪は相変らず小止みなく降っていた。
人々は皆思い思いの雪支度をして、雪を浴びながら忙しそうに往来していた。山でしたように、襟巻ですっかり顔を包んだ菜穂子は、蝙蝠傘をさしかけて呉れる圭介には構わずに、ずんずん先に立って人込みの中へ紛れ込んで行った。
彼等は数寄屋橋の上でその人込みから抜けると、漸っとタクシイを見付け、麻布の奥にあるそのホテルへ向った。
虎の門からぐいと折れて、或急な坂をのぼり出すと、その中腹に一台の自動車が道端の溝へはまり込んで、雪をかぶった儘、立往生していた。菜穂子は曇った硝子の向うにそれを認めると、山の停車場のそとで片側だけにはげしく雪を吹きつけられていた古自動車を思い出した。それから急に、自分がその停車場で突然上京の決意をするまでの心の状態を今までよりかずっと鮮明によみ返らせた。彼女はあのとき心の底では、思い切って自分自身を何物かにすっかり投げ出す決心をしたのだ。それが何物であるかは一切分からなかったけれど、そうやってそれに自分を何もかも投げ出して見た上でなければ、それは永久に分からずにしまうような気がしたのだった。――彼女は今ふいと、それが自分と肩を並べている圭介であり、しかも同時にその圭介その儘でないもっと別な人のような気がして来た。……
何処かの領事館らしい邸の前で、外人の子供も雑じって、数人の少年少女が二組に分かれて雪を投げ合っていた。二人の乗った自動車がその側を徐行しながら通り過ぎようとした時、誰かの投げた雪球が丁度圭介の顔先の硝子に烈しくぶつかって飛沫を散らした。圭介は思わず自分の顔へ片手をかざしながら、こわい顔つきをして子供達の方を見た。が、夢中になってそんな事には何んにも気がつかずに雪投げを続けている子供達を見ると、急に一人で微笑をし出しながら、そちらをいつまでも面白そうにふり返っていた。「此の人はこんなに子供が好きなのかしら?」菜穂子はその傍で、今の圭介の態度にちょっと好意のようなものを感じながら、初めて自分の夫のそんな性質の一面に心を留めなどした。……
やがて車が道を曲がり、急に人けの絶えた木立の多い裏通りに出た。
「其処だ。」圭介は性急そうに腰を浮かしながら、運転手に声をかけた。
彼女はその裏通りに面して、すぐそれらしい、雪をかぶった数本の棕梠が道からそれを隔てているきりの、小さな洋館を認めた。
二十四
「菜穂子、一体お前はどうして又こんな日に急に帰って来たのだ?」
圭介はそう菜穂子に訊いてから、同じ事を二度も問うた事に気がついた。それから最初のときは、それに対して菜穂子が只かすかなほほ笑みを浮べながら、黙って自分を見守っただけだった事を思い出した。圭介はその同じ無言の答を怖れるかのように、急いで云い足した。
「何か療養所で面白くない事でもあったのかい?」
彼は菜穂子が何か返事をためらっているのを認めた。彼は彼女が再び自分の行為を説明できなくなって困っているのだなぞとは思いもしなかった。彼は其処に何かもっと自分を不安にさせる原因があるのではないかと怖れた。しかし同時に、彼は、たといそれがどんな不安に自分を突き落す結果になろうとも、今こそどうしても、それを訊かずにはいられないような、突きつめた気持ちになっている自分をも他方に見出さずにはいなかった。
「お前の事だから、よくよく考え抜いてした事だろうが……」圭介は再び追究した。
菜穂子はしばらく答に窮して、ホテルの北向きらしい窓から、小さな家の立て込んだ、一帯の浅い谷を見下ろしていた。雪はその谷間の町を真白に埋め尽していた。そしてその真白な谷の向うに、何処かの教会の尖った屋根らしいものが雪の間から幻かなんぞのように見え隠れしていた。
菜穂子はそのとき、自分が若し相手の立場にあったら何よりも先ず自分の心を占めたにちがいない疑問を、圭介はともかくもその事の解決を先につけておいてから今漸っとそれを本気になって考えはじめているらしい事を感じた。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思いながら、それでもとうとう自分の心に近づいて来かかっている夫をもっと自分へ引きつけようとした。彼女は目をつぶって、夫にもよく分からすことの出来そうな自分の行為の説明を再び考えて見ていたが、その沈黙が性急な相手には彼女の相変らず無言の答としか思えないらしかった。
「それにしてもあんまり出し抜けじゃないか。そんな事をしちゃ、人に何んと思われてもしようがない。」
圭介がもうその追究を詮めたように云うと、彼女には急に夫が自分の心から離れてしまいそうに感ぜられた。
「人になんか何んと思われたって、そんな事はどうでもいいじゃないの。」彼女は咄嗟に夫の言葉尻を捉えた。と同時に、彼女は夫に対する日頃の憤懣が思いがけずよみ返って来るのを覚えた。それはそのときの彼女には全く思いがけなかっただけ、自分でもそれを抑える暇がなかった。彼女は半ば怒気を帯びて、口から出まかせに云い出した。「雪があんまり面白いように降っているので、私はじっとしていられなくなったのよ。聞きわけのない子供のようになってしまって、自分のしたい事がどうしてもしたくなったの。それだけだわ。……」菜穂子はそう云い続けながら、ふと此の頃何かと気になってならない孤独そうな都築明の姿を思い浮べた。そして何んという事もなしに少し涙ぐんだ。「だから、私はあした帰るわ。療養所の人達にもそう云ってお詫びをして置くわ。それなら好いでしょう。」
菜穂子は半ば涙ぐみながら、そのときまで全然考えもしなかった説明を最初は只夫を困らせるためのように云い出しているうちに、不意といままで彼女自身にもよく分らずにいた自分の行為の動機も案外そんなところにあったのではないかと云うような気もされた。
そう云い終えたとき、菜穂子はそのせいか急に気持ちまでが何んとなく明るくなったように感ぜられ出した。
それから、しばらくの間、二人はどちらからも何んとも云い出さずに、無言の儘窓の外の雪景色を見下ろしていた。
「おれはこんどの事は母さんに黙っているよ。」やがて圭介が云った。「お前もそのつもりでいてくれ。」
そう云いながら、彼はふと此の頃めっきり老けた母の顔を眼に浮べ、まあこれでこんどの事はあたりさわりのないように一先ず落ち著きそうな事に思わずほっとしていたものの、一方此の儘では何か自分で自分が物足らないような気がした。一瞬、菜穂子が急に気の毒に思えた。「若しお前がそれほどおれの傍に帰って来たいなら、又話が別だ。」彼は余っ程妻に向かってそう云ってやろうかと躊躇していた。が、彼はふとこんな具合に此の儘そんな問題に立ち返って話し込んでしまっていたりすると、もう病人とは思えない位に見える菜穂子を再び山の療養所へ帰らせる事が不自然になりそうな事に気がついた。明日菜穂子が無条件で山へ帰ると云う二人の約束が、そんな質問を発して相手の心に探りを入れようとしかけているほど自分の気持ちに余裕を与えているだけだと云う事を認めると、圭介はもうそれ以上その問題に立ち入る事を控えるように決心した。彼はしかし心の底では、どんなにか今のこういう心の生き生きした瞬間、二人のまさに触れ合おうとしている心の戦慄のようなものの感ぜられる此の瞬間を、いつまでも自分と妻との間に引き止めて置きたかったろう。――が、彼は今、心の前面に、病床の中からも彼のする事を一つ一つ見守っているような彼の母の老けた顔をはっきりとよみ返らせた。そのめっきり老けたような母の顔も、それから又、その病気さえも、何か今こんな所でこんな事をしている自分達のせいのような気もされて、この気の小さな男は妙に今の自分が後めたいように感ぜられた。彼はその母が実はこの頃ひそかに菜穂子に手をさしのべていようなぞとは夢にも知らなかったのだ。そして彼自身はと云えば、最近漸っと一と頃のように菜穂子のことで何かはげしく悔いるような事も無くなり、再びまた以前の母子差し向いの面倒のない生活に一種の不精から来る安らかさを感じている矢先きでもあったのだ。――そう云った検討を心の中でしおえた圭介はもう少し全べてが何んとかなるまで、此の儘、菜穂子にも我慢していて貰わねばならぬと云う結論に達した。
菜穂子はもう何も考えずに、雪のふる窓外へ目をやって、暮がたの谷間の向うにさっきから見えたり消えたりしている、何んだかそれとすっかり同じものを子供の頃に見たような気のする、教会の尖った屋根をぼんやり眺め続けていた。
圭介は時計を出して見た。菜穂子は彼の方をちらっと見て、
「どうぞもうお帰りになって頂戴。あしたも、もう入らっしゃらなくともいいわ。一人で帰れるから」と云った。
圭介は時計を手にした儘、ふと彼女が明朝こんな雪の中を帰って行って、もっと雪の深い山の中でまた一人でもって暮らし出す様子を思い描いた。彼はこの頃忘れるともなく忘れていた強烈な消毒薬や病気や死の不安のにおいを心によみ返らせた。なにか魂をゆすぶるもののように。……
菜穂子はその間、うつけたようになり切った夫の顔を見守っていた。彼女は何んとはなしに無心なほほえみらしいものを浮べた。ひょっとしたら夫がいまにもその瞬間の彼女の心の内が分かって、「もう二三日此のホテルにこの儘居ないか。そうして誰にも分からないように二人でこっそり暮らそう。……」そんな事を云い出しそうな気がしたからであった。
が、夫は何か或考えを払いのけでもするように頭を振りながら、何も云わずに、それまで手にしていた時計を徐かに衣嚢にしまっただけだった。もう自分は帰らなければならないと云う事をそれで知らせるように。……
菜穂子は、圭介が雪を掻き分けながら帰えるのをうす暗い玄関に見送った後、その儘硝子戸に顔を押しあてるようにして、何か化け物じみて見える数本の真白な棕梠ごしに、ぼんやりと暮方の雪景色を眺めていた。雪はまだなかなか止みそうもなかった。彼女は暫くの間、今の自分の心の内と関係があるのだかないのだかも分からないような事をそれからそれへと思い出しては、又、それを傍からすぐ忘れてしまっているような、空虚な心もちを守っていた。それは何もかもが片側だけに雪を吹きつけられている山の駅の光景だったり、今しがたまで見ていたのにもうどうしてもそれを何時見たのだか思い出せない何処かの教会の尖塔だったり、明の何かをじっと堪えているような様子だったり、喚きながら雪投げをしている沢山の子供達だったりした。……
そのとき漸っと彼女が背を向けていた広間の電灯が点ったらしかった。そのために彼女が顔を押しつけていた硝子が光を反射し、外の景色が急に見にくくなった。彼女はそれを機会に、今夜この小さなホテル――さっきから外人が二三人ちらっと姿を見せたきりだった――に一人きりで過さなければならないのだと云う事をはじめて考え出した。しかしこの事は彼女に佗びしいとか、悔しいとか、そう云うような感情を生じさせる暇は殆どなかった。一つの想念が急に彼女の心に拡がり出していたからだった。それは自分がきょうのように何物かに魅せられたように夢中になって何か手あたりばったりの事をしつづけているうちに、一つ所にじっとしたきりでは到底考え及ばないような幾つかの人生の断面が自分の前に突然現われたり消えたりしながら、何か自分に新しい人生の道をそれとなく指し示していて呉れるように思われて来た事だった。
彼女はそんな考えに耽りながら、もうぼおっと白いもののほかは何も見えなくなり出した戸外の景色を、まだ何んという事もなしに、眺め続けていた。そうやって冷い硝子に自分の顔を押しつけるようにしているのが、彼女にはだんだん気持ちよく感ぜられて来ていた。広間のなかは彼女の顔がほてり出す程、暖かだったのだ。彼女はこう云う気持ちよさにも、自分が明日帰って行かなければならない山の療養所の吸いつくような寒さを思わずにはいられなかった。……
給仕が食事の用意の出来たことを知らせに来た。彼女は黙って頷き、急に空腹を感じ出しながら、その儘自分の部屋へは帰らずに、さっきから静かに皿の音のし出している奥の食堂の方へ向って歩き出した。
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