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かげろうの日記(かげろうのにっき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 15:40:07  点击:  切换到繁體中文

なほ物はかなきを思へば、あるかなきかの心地する
かげろふの日記といふべし。
                    蜻蛉日記

   その一

 半生も既に過ぎてしまって、もはやこの世に何んのなす事もなく生きながらえている自分だが、――一たい顔かたちだって人並でないし、これと云った才能もあるわけではないのだから、こんな風にはかない暮しをしているのももっともの事だとは思うものの、只こうやってぼんやりと明し暮しているがままに、世の中に多い物語などをおりおり取り上げて、そのはしなどを読んで見ると、ずいぶん有り触れた空言そらごとさえ書いてあるようだから、自分の並々ならぬ身の上を日記につけて見たら、そんなものよりも反って珍らしがってくれる人もあるかも知れない。それにまた、世間の人々が、私のようにこんなに不為合ふしあわせになったのは、あまりにも女として思い上っていたためであろうかどうか、そのためしにもするが好いと思うのだ。

 何分にももうすべて一昔も前の事なので、さて、何から書き出したら好いのだろうか知ら。まあ、それ以前の取るに足らない程の、ごとなんぞは、それはそれとして、――今からもう十何年か前の、そう、たしか夏の初めだったと思う、その頃はまだ柏木かしわぎと呼ばれていたあの方が始めて私に御文をよこされたのである。その最初の時からして、あの方と云ったら外のお方とは変ったなされ方で、普通だったらしもじもの女にでもその御文を届けさせようものを、あの方は役所で私の父に先ず真面目とも常談ともつかずにほのめかされて置いて、こちらでそれをどう思おうなんぞという事には少しもお構いなさらずに、或日、馬に乗った男に御文を持って来させられた。その使いの者がまた使いの者で、「どなた様から」とかせることも出来ない程、はしゃぎ切っていたので、こちらの方ではしかたがなしにその御文を受取ってしまってから、はじめてそれが柏木様からのものである事を知ったのだった。が、見れば、御料紙なんぞもこういう折のにかなったものではなかったし、大層御立派だとお聞きしていた御手跡もこれはあの方のではないのではあるまいかと思われる程のものだったし、どうもすべてが疑わしいので、御返事はどうしたものだろうかと迷っていると、昔気質むかしかたぎの父はしきりに恐縮がって、「やはりお出しなさい」と私に無理やりにそれを書かせた。それをきっかけにして、それからもあの方はしばしば私に同じような御文をおよこしになったけれど、最初のうちは私の方ではそれほど熱心になれず、返事も出したり、出さなかったりしていた位だった。
 そう云ったごく通り一遍な消息をやりとりしているうちに、その夏も過ぎて、秋近くなった頃、どうした事からだったろうか、とうとう私はあの方をおかよわせするようになった。そうしてその頃はといえば、あの方は何をかれても、殆ど毎夜のように私のもとにお通いになって入らしったが、そのうちにやがて十月になった。

 その月半ば、私の父は陸奥守むつのかみに任ぜられて奥州へ御下りにならねばならなかった。――それはまだ、私があんまりあの方にもお馴れしても居らず、お会いしている時だって、ただもうさしぐんでいるばかりだったのを、反ってあの方はいとしがられ、一生お前の事は忘れまいなどと御誓いなすったりせられはしたものの、果して人の心なんぞは頼みになれるものやら、なんとも言えず不安で、自分の悲しい行末ばかりが思われてならないような日頃であった。――ところで、いよいよ父たちが出立すべき日になった。みんなが別れを惜しんでいる間に、父はふいと私のもとに入らしって、御形見のすずりに何かお文のようなものを押し巻いて入れて、それからまた黙って出て往かれたようだったが、私はそれをすら見ようともせずにいた。とうとう皆が出立した跡になって、私は少しためらいながら、それにいざり寄って、何だろうと開けて見ると、「君をのみたのむ旅なる心には行末とほく思ほゆるかな」としたためられてあった。見るべき人が見るようにと書き残されたのだろうと思って、私は、それをそのまま元のように収めて置いた。それからしばらくして、あの方がおいでになったけれど、目も見合わさずに、私がじっと思い詰めたようにしていると、あの方は「こんな事は世に有りがちな事だのに、そんなに歎いてばかりおられるのは、わたしの事をちっとも頼みに思っていてくれないからなのだろう」と私を反って恨むように言われるのだった。が、そのうちに、ふと硯にあった御文を見つけられ、それを御手に取られてお読み出しになったかと思うと、しばらくの間それから御目をも放さずに、さもお気の毒なと言いたげなお顔をなすっていらしった。……
 その後、日の立つにつれて、そんな遠い旅空にある父の事を思いやるだけでさえ気がかりでならないのに、私がこうしてもういよいよあの方お一人にお頼りするより外はないようになればなるほど、何だかだんだんあの方の御深切がお口ほどでもないように思われてくる一方で、その心細いことといったらないのだった。

 その明くる年の春から夏にかけて、私はずっと悩み暮らし、八月の末になって道綱みちつなを生んだが、いまから思えば、まあその頃があの方も私を一番何くれとなく深切になすって下すっていた頃だったようだ。
 ところが、その九月になって、あの方がお出かけになられた跡に手筥てばこが置いてあったので、何の気なしに開けて見たら、どこかの女のもとへ送るおつもりだったらしい御文がしのばせられてあった。私は驚いてどうしたら好いかもわからない位だったが、せめて自分がそれを見たと云う事だけでもあの方に知らせてやりたいと、わざとそれをそのまま放って置いた。しかし、あの方はそんな事には少しも気をお留めにならぬらしかった。――そんな事があってから、私はとても気になってそれとはなしにあの方の御様子をうかがっていると、或夕方、急に「どうしても往かなければならない所があるから」とおっしゃって出て往かれた御様子がどうも不審だったので、人を付けさせて見たら、果してまちの小路のこれこれの所へおはいりになったと云う事だった。――矢っ張そうだったのかと、胸もつぶれるような思いで、それからの数夜と云うもの、私はられず、しかしどうしようもなく一人きりで歎き明かしていた。そんな或夜の明け方だった。誰か訪れて来たものがあるらしく、しきりに門を叩いているようだった。すぐあの方がいらしったのだとは分かったものの、私も少し意地になって、いつまでも戸を明けさせずにいた。やがて私の知らない間に、あの方はすごすごお帰りになってしまわれたらしかった。おおかた小路の女の所へでも入らしったのだろうと思った。が、朝になって、何だかそのままにして置いても気になるし、それかと云って戸をちょっとお明けしなかった間ぐらいはとも思うものだから、私は「歎きつつひとりぬる夜の明くるまはいかにひさしきものとかは知る」と、いつもよりか少しひきつくろった字で書いて、しおれかけた菊に挿してやった。すぐ御返事があったが、「私だってお前が戸を明けてくれるのを、夜の明けるまでだって待って見ようとしたのだ。が、折悪しく急ぎの使が来てしまったものだから――」と書いてあるぎりだった。いつもに変らず、こちらがこれほどまでに切ない心もちをお訴えしているものを、あの方はさも事もなげにあしらわれようとしかなさらないのだ。どうしてそんな女の事なんぞを私にもっと出来るだけお隠しなすって、いま暫くなりと、「内裏うちへ」――などと仰ゃってでも、私をおだましになっていて呉れられなかったものなのだろうか。

 それからだっても、あの方はいかにも何気ないような御顔をなすって、おりおりお見えにはなったが、それすらだんだん途絶えがちになり、そのうちにその堪え難いほどだった冬も過ぎ、っと春が立ち返って、三月になった。三日の節句にも、桃の花なんぞを飾りつけてお待ちしていたのにとうとうお見えにならなかった。近頃姉のもとへしげしげとお通いになって来るいまひと方も、いつもはそんな事など一度もなかったのに、その日だけはどうしたわけか、お見えにならずにしまった。が、その翌日、御ふた方とも打揃ってお見えになった。ゆうべから待ちびていた女房どもが、そのままにしてしまうのも何だからと云って、きのう飾ってあった桃の花を再び取り出してきたので、その花の一と枝を折って手にすると、それはもう少し萎れかかっていた。私はそれを見るとつい胸が一ぱいになって、それに手習でもするような気で「待つほどのきのふ過ぎにし花の枝はけふ折ることぞかひなかりける」などと書き散らしていると、それをいきなりあの方が奪いとられ、その枝をかざしながらお読みになって、「何だ、この歌は。お前とは一生をかけて誓っているのじゃあないか。こんな一年毎に咲く花なんぞとはお前が違っているのを知らないのか」などと、いつもの真面目とも常談ともっかないような調子で、私をおいじめなさるのだった。
 その事がいつか姉のもとに来て入らしったいまひと方の御耳にもはいったと見え、「私もゆうべはわざと余所よそで過して来ました。花があるので好んでこちらへ来ただけなのだろうなどと言われそうでしたから」などと、そのお方までがしたり顔にそんな事を言ってよこされた小憎らしさ。

 それからまだ二た月とは立たないうちに、私はいつのまにやら只一人で起き臥しする事の多いような身の上になりながら、姉の方へばかり絶えずいまひと方が出這入ではいりなすっていられるのを、胸のしめつけられるような気もちで見て暮していたところ、五月になると、そのお方さえも、まるでそう云う私をお避けなさりでもするかのように、余所へ私の姉をお連れして往ってしまった。それからは私はほんとうの一人ぎりになってしまったのだった。――が、こう云うはかない身の上になったのは、私ばかりではなく、私なんぞよりもずっと前からあの方がお通いになって、お子様などもたんとおありなさると云うお方のもとへも、この頃は全くあの方は絶えられているとお聞きして、ましてどんなにお心細い事だろうかと、おりおり消息などをさし上げては自分でもわずかに気をまぎらわせようとしていた。が、おとなしそうなそのお方は、なぜか知ら(或は私だけが別して人の苦しみというものを過当に見るようなところがあるのだろうかしら)、いつも私の相手になるのをお避けになるような素気すげない御返事しかおよこしにならなかった。誰もかもみんなそういう私をお避けになったと見える。

 そのうちに六月になった。月初めからずっと長雨ながさめが続き、此頃はとりわけてあの方もお見えにならなかった。
 これまでだったらこんなことは無かったのに、どうしたのか、私はまるで心が空虚うつろになって、そこいらに置いてあるものさえ静かに見られない癖がついてしまっていた。「こんな風にしてあの方は私とお絶えなさるおつもりなのかしら。そうだとすれば、何かあの方の事を自分に思い出させてくれるようなものは残っていないかしら」なんぞと、そんな事まで考え出しながら、あの方がこうしておれになればなるほど、あの方に対してついぞいままで覚えのなかった位にお慕わしさのつのって来るような自分をば、自分でどうしようもなくていた。すると十日ばかり立って、あの方から珍らしく御消息のあったのを読んでいると、何くれとお書きになって、最後に「とばりの柱に結わえて置いた小弓の矢を取ってくれ」と言われるので、まあ、あの方のこんなものが残っていたのにと、やっと気がつき、それを取り下ろして持たせてやるような、悔やしい事さえもあった。
 そんな風に、あの方がますます私からおれがちになっていられる間も、私の家は丁度あの方が内裏うちから御退出になる道すじにあたっていたので、夜更けなどにしばしばあの方が私の家の前をお通りすぎなさるらしいのが、折から秋の長い夜々のこととて、ともすれば私は目覚めがちなものだから、いくら聞くまいと思っていても、手にとるように耳にはいってくる事がある。そんな時などには「何とかしてあれだけは聞かずにいたいものだが――」と思いながら、しかもその一方では、いましがた私の家の前をつづけさまにしわぶきをなさりながらお通りすぎになったあの方が、だんだんその咳と共に遠のいて往かれるのを、何処までも追うようにして、私は我知らず耳を側立そばだてているのだった。……

   その二

 それから十年ばかりと云うもの、私の父はずっと受領ずりょうとして遠近おちこちの国々へお下りになっていた。たまさかに京へお上りになっても、四五条のほとりにお住いになるので、一条のほとりにあった私の家とは大へん離れていた。それで、こうやって私たちが人少なに住んでいた家は、誰もつくろってくれるような者なんぞ居なかったので、次第次第に荒れまさって来るのを、私はただぼんやりと眺めながら、ようやく成長して来る道綱一人を頼みにして、その日その日をはかなげに暮しているばかりだった。
 そのうちにやっとその幼い道綱が片言まじりに物が言えるようになって来たが、それも、いつ聞き覚えたのか、あの方がいつもお帰りの時に、「そのうちに又――」などとおっしゃって出て往かれるのを、「又ね……又ね……」などと口真似をして歩きまわったりしているのだった。――そのようなわが子のあどけない姿を見て覚えずほほ笑まされながらも、どうしてまあこうも自分はこんな幼な子の無心の振舞の中にすら、それに写る自分の悲しみをしか見出せないのだろうと歎かずにはいられないのだった。
 こういう私たちの日頃の有様を御覧になっても、あの方は一向無頓著むとんじゃくそうに、たまにおいでになったかと思うと、又すぐお帰りになって往かれた。大かた私たちが心細がっているだろうとさえもお思いにはならないものと見える。いつも云いわけがましく「この頃は為事しごとが多いので――」などと仰ゃっては入らっしゃるけれど、まあちょっとでもこれに目をお留めなすったら、この数知れぬほどなよもぎよりもまさかお為事が多いとは仰ゃれまいにと、私はわが家の荒れ放題になった庭をいまさらのように見やっては、少し自嘲的な気持にもなって、それがますます荒れ果てるがままに任せておいた位だった。
 そんな私に向って、「まだお若い身空ですのに、どうしてそのようにばかりして入らっしゃるのですか」と気づかっては、熱心に再婚などを勧めてくれる人もあった。それだのに、あの方はまたあの方で、「おれの何処が気に入らないのだ」と云った顔つきをなすって、少しも悪びれずにいらっしゃるので、本当にどうしていいのやら、私は思いあぐねるばかりだった。何んとかしてこの胸に余る思いをつぶさにこの人にも分からせようがものはないかと思えば思うほど、私はあの方に向っては一ことも物を言うことが出来ずにしまうのだった。
「今のようにときどき思い出されたように入らっしゃるよりか、いっその事もうすっかりお絶えになって下すった方がどんなに好いか知れやしない」などとまで私はその日頃考え出していたものだった。又意地の悪い事にはそんな時にかぎってあの方がひょっくりお見えになったりする。「どうして私のところへなぞ入らしったのですか」と云った顔をしたぎり、私が何も言わずにいるものだから、あの方も何だかひどく工合悪そうにしていらっしゃる。まあ、折角こうしてお出になっていられるのだから、こうばかりしていてもと、つい弱気になろうとする自分を、私は一生懸命に抑えつけて、あの方がいかにも物足らなそうにお帰りになるがままにさせている。……
 そんな事ばかり繰り返しているうちに、とうとう或日などはあの方もすっかり気を悪くされたと見え、つとはしの方へ歩み出されてから、幼い道綱をお呼び出しになって何か耳打ちをなすっていらしったが、そのままいつにないうらがおをなされて出て往かれてしまった。あの子ははいって来るなり、私の前でしくしく泣いている。「どうしたの」と尋ねて見ても返事もせずにいた。あの方にきっとおれはもう来ないぞ、とでも言われたのだろうと思って、それ以上尋ねるのは止めて、いろいろなだめたりすかしたりしていたが、それから何日たっても、あの方からは音信おとずれさえもなかった。「まさかと思っていたのに、本当にこのままお絶えなさる気なのかしらん」と不安そうに思いながら、それでもまだそれを半ば疑うような気もちで暮らしていると、或日の事、こないだあの方の出て往かれる時にびんをお洗いになった※(「さんずい+甘」、第3水準1-86-60)ゆするつきの水がそっくりそのままになっているのにふと気がついた。よく見ると、その水の上にはもう一面にちりまっていた。「まあ、こんなになるまで――」と私は胸をしめつけられるような心もちで、それに何時までもじっと見入っていた。――そんな事さえも、その日頃にはとかく有りがちなのであった。

 そういう一方に、あのまちの小路の女のところでは子供が生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへはおいでにならなくなったとか云う噂だった。その女の事を憎い憎いと思いつめていた時分に「いつまでも死なせずに置いて私の苦しみをそっくりそのまま味わせてやりたいものだ」と思っていた通りに、すべての事がなって往きそうだった上、その生れたばかりの子供までが突然死んだと聞いた時には、「まあ何んていい気味だろう。急にそんなになってしまわれて、どんな心もちがしているかしら。私の苦しみよりかいま少し余計に苦しんでいる事だろう」などと考えて、本当に私は胸のうちがすっぱりとした位だった。――こんな人らしくもない心の中まで此処に書きつけるのは、ちょっとためらわれもしたけれど、こう云うところに反って生き生きとした人の心の姿が現われているかとも思えるので、この私と云うものをすっかり分って貰うためには、やはりそう云うものまで何もかも私はこの日記につけて置きたいのである。

 さて、そんな事のうちに数年と云うものは空しく過ぎ去ってしまったが、そう、何でも五月の二つあった或年の事である。そのうるう五月には雨が殆ど絶え間もなしに降り続いていた。そうしてその月末から、どうしたのか、私は何処と云うこともなしに苦しくってまらなかった。もうどうなったって好いと思っている自分の事ではあるし、そんな命をさも惜しがってでもいるようにあの方に見られたくはないと思って、私は我慢がまんをしていたが、側の者たちがいろいろと気づかって、しきりに芥子焼からしやきなんぞという護摩ごまなども試みさせるのだけれど、一向その効力はないのだった。――そうやって私がひどく苦しみ続けている間も、あの方は謹慎中だからと言われて一度だって御見舞には来て下さらなかった。何でも新しい御邸おやしきをおつくりなさるとかで、そちらへ毎日のようにおいでになるついでに、ちょっとお立寄りになっては、「どうだ」などと車からもお下りなさらずに御言葉だけかけていらっしゃるきりだった。そんなような或物悲しく曇った夕暮に、私がすっかり気力も衰え切っているところへ、そちらからお帰りの途中だといわれて、あの方は蓮の実を一本人に持たせて、「もう暗くなったので寄らないけれど、これは彼処のだから御覧」とことづけて寄こされた。私は只「生きているのかどうかも分かりません程なので――」とだけ返事をやって、そんな蓮の実なんぞは見る気にもなれずに、そのまま苦しそうに臥したきりでいたが、そのような大そうお見事らしい御邸だって、そのうち見せてやろうなどとおっしゃって下すってはいるものの、こうやって自分の命のほども分からず、それにまたあの方のお心の中だって少しも分からないしするので、どうせ自分はそれをも見ずにしまう事だろうなどと考え続けていると、その心細い事といったら何んともかとも言いようのない程であった。
 そんな工合に何時までたっても同じような容態だったので、名高い僧なども呼んでいろいろと加持を加えさせて見たけれど、一向はかばかしくはならずにいた。そこでしまいには、事によるとこのまま自分もはかなくなってしまうのかも知れない、そうなったって自分の身なぞは露ほども惜しくはないけれど、只あとに一人きり残される道綱がどうなることか知らん、と私は急にそれが気がかりになって、或日、いかにも心もとないあの人だけれど、まあそれでもと、苦しいのを我慢しいしい、脇息きょうそくによりかかりながら、やっと筆を手にして、遺書と云うほどのものではないが、ともかくもあの方に道綱の事をくれぐれもお頼みし、それからその端に「他の人には言われないようなおかしな事までいろいろ申し上げましたけれど、どうぞそんな事をもお忘れなさらずにいて下さいませ」などと書き添えていた。がそのうち、らずらずのうちに、あの方に対する自分の気もちがいつもほど苦くはなくなっているのに気がついた。そうしてあの方との事で今の自分に残っているものと云ったら、不思議に心もちのいい、殆ど静かな感じのものばかりであった。恐らく、私の身の極度の衰えがそういう静けさを自分の心に与えていたのでもあろうか。

 そうこうしているうちに、六月の末頃からいくぶん物心地がついて来たようで、秋も過ぎ、冬になった時分にはもう大ぶ私も人心地がしてきた。その間に、あの方たちは新築した御邸の方へお移りなって往かれたが、私だけはやはり思ったとおり、このまま此処にこうしておれば好いと云う事になったらしかった。
 が、そうなったらそうなったで、別にどうと云うこともありはしないのに、やっと恢復かいふくし出した私はその頃になって反って何だか気もちが落着かずにばかりいたけれど、十一月になってから雪がたいへん降った。そんな雪のふりつづいた頃、どうしたのか、まだ充分にっていなかったらしい身うちにめっきりと衰えが感ぜられ、世のさまざまな事、ことにあの方の事なぞが言いようもなく辛く思われた一日があった。私はその日は日ぐらしそんな雪を眺めたり、又、いつぞやの殆ど死ぬばかりだったような日々の事だの思い出したりしながら、「ああ、雪なんぞだったら、いくらこんなに積ったって、やがてまた消えて往ってしまえるのだ。それだのに、私は一生のうちにたった一度の死期をも失ってしまったような……」などとさえ悔やみ出していた。……

   その三

 そのうちに道綱もようやく成人して来た。が、その頃の事になると、まだついこの間の事のように何もかも自分に一どきに思い出されてしまうものだから、さてそれを書こうとすると、反って何だか書かずともよいような事までも書いてしまいそうな気がしてならない。……
 先ず思い出すのは、これも書かずともよい事かも知れないが、まあ、思い出すがままに書いて見ると、或年の丁度若苗わかなえの生い立つ頃、――そう、若苗といえば、そんな事のあった数日前、私はあんまり所在がないので草などの手入れをさせていたら、たくさん若苗が生えていたので、それを取り集めて母屋の軒端にそっくり植えさせて水なども気をつけてやらせていたのだった。が、その日私が見に往ってみると、それはもう残らず色が変って葉なんぞもすっかりしおれかえってしまっていた。――この頃まるっきりあの方のお見えにならない私の家のものといったら、まあ、こんな軒端の苗までも私の真似をして物思いをする見たいだなどと、又してもそんな事を考え出していると、そこへあの方から珍らしく御文があった。「いくらこちらから文をやっても返事がないので、はしたなく思われそうだから遠慮をしていた。今日でも伺いたいと思うが――」などと書いてある。御返事は上げまいと思ったが、側の者たちにかれこれ言われて、私はやっとそれを書いて持たせてやった。それからすぐ日が暮れた。まだそれが往きつかないだろうと思う時分に、あの方が往きちがいにお出になってしまった。皆に「何かわけがあおりなのかも知れません。何気ないようにして御様子をごらんなさいませ」などと言われて、私も少し気をつけていた。が、あの方は「物忌ものいみばかり続いていたのだ。もう来まいなどとおれが思うものか。どうもお前がすぐそうひがむのが、おれにはおかしい位だ」などといかにも裏もなさそうに仰ゃるので、こちらも何だか気の抜けてしまう位だった。「明日は用事があるから、又明後日でも――」などと仰ゃって帰って往かれたけれど、私もそれを本気にはしないものの、しかしたらと思い返えしているうちに、だんだん日数が過ぎて往くばかりだった。
 やはりそうだったのかと気がつくにつけ、前よりも一そう心憂く思われて、相変らず自分の思いつづけている事といったら、仏にお祈りしてでも何とかして死にたいものだと云うような事ばかりだったが、あとに一人残る道綱のことを考えると、それも出来そうもないのだった。「お前が早く成人して、安心の往けるような妻などに預けてしまえたら、どんなに好いだろうに。いま、わたしが死んだら、どんな思いをしてお前が一人でさすらう事だろうと思えば、ほんとうに死ぬのも死ににくい。まあ、かたちでもかえて、世を離れたらと思うのだけれど――」と私が独言でも言うように言っていると、まだ深くは何もわからぬらしいが、あの子も悲しそうに「そうおなりになったら、まろも法師になりとうございます。この世に交わって居りましても、何になるでしょう」と言いながら、目に涙を一ぱい溜めている。私はそれを見ると、やっと気を取りなおしながら、いまの話を常談にしてしまおうとして、「そうなって鷹も飼えなくなられたら、どうしますか」と言うと、道綱はいきなり立ち上って往って、自分の飼っていた鷹をかごから出して矢のように放してしまった。それを傍で見ていたもので泣き出さないものはなかった。
 丁度その暮がたに、あの方から御文が来た。また天下の空言そらごとだろうと思えるので、気強く「只今は心もちが悪うございますので、いずれ後ほど――」とそのまま使いの者を返させた。そんな事もあった。

 七月、――お盆が近いので何かと世間では騒ぎ出していた。毎年母の盆供ぼにの事だけはあの方が几帳面きちょうめんになさって下すっていたのに、今年はどうなるのやら。もうあの方も私からおれになったのかと、亡き母も地下で悲しくお思いになるかも知れない、しかしまあ、もうすこし待って見ようと思っていたところへ、何時ものようにちゃんと盆供を調えて下すった上、御文まで添えてあった。私はそこで「亡くなった人の事はお忘れでないと見えます。しかしわたくしの事などは――いいえ、こんな果敢はかない身の事などは、本当に自分でも忘れられたら忘れてしまいたい位なのですものを」と例によって少しひねくれて書いてやった。
 やがて相撲すまいの頃になった。もう十六になった道綱がしきりにそれへ往きたそうにしているので、装束をつけさせて、先ず殿のもとへと言いつけて出してやった。その夕方、あの方が車のしりへでも乗せて送って来て下さるかと思っていると、他の人に送られて来た。その次の日も道綱は出かけて往ったが、夕方、また雑色ぞうしきなどに送られて来た。子供心にも、いつもなら御一緒に送って下さるものをと、そうやって一人ぼっちで帰って来るのがどんな思いであろうに。……
 ところが、八月にはいって、或日の夕方、突然あの方がお見えになった。「明日は物忌ものいみだから門を強くとざしておけ」などとお言いつけになって入らっしゃるらしかった。私はもう物も言われない位、胸が沸き立つような気もちがしていると、あの方は道綱をお側に引きよせられて、そんな私の方をちらっと見やっては、何かひそひそと耳打ちしていらしっていた。「我慢をしておいで」なぞとささやいているのが、ふと私の耳にも入ったりする。しかし私はどうにもしようがなしに、黙ったまま向き合っていた。翌日も、一日中あの子をお側に置かれて、「おれの心もちはちっとも変らないのに、それを悪くばかりとるのだ」などとお聞かせになって入らっしゃるらしかった。
 それから、どうした事やら、不思議なほどあの方はしばしばお見えになるようになった。この頃急に大人寂おとなさびてきたような道綱があの方のお心をもいたものと見える。それはあの方が何時になくいろいろとあの子の御面倒を見て下さって、今度の大嘗会だいじょうえには何かろくを給わらせよう、それから元服もさせようなどと、おっしゃり出しているのでも分かるのだった。私までも一と頃はいささか昔に返ったような気もちになりかけていた位だった。
 が、道綱の元服もとどこおりなく果てたかと思うと、またしばらく例の御物忌とやらでお見えにならないようになった。毎日のように、道綱は内裏うちに一人で出て往っては、また一人で淋しそうに帰ってくる。そんな或日の事、あの方が「きょうは往けたら往こう」などと御消息を下すったので、もしやと思ってお待ちしていたが、その夜も空しく更けて往くばかりだった。やがて気づかっていた道綱だけが、ただ一人で浮かない顔をして帰ってきた。そうして「殿も只今御退出になりました」などと語るのを聞いて、いくら夜が更けていたって昔ながらのお心さえおありだったならばこんな事はなさるまいに、と私は胸がつぶれるような思いがした。それから、また、以前のように、音沙汰がなくなってしまっていた。

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