第一部
彼はすやすやと眠っているように見えた。――それは夜ふけの寝台車のなかであった。……
突然、そういう彼が片目だけを無気味に開けた。
そうして自分の枕もとの懐中時計を取ろうとして、しきりにその手を動かしている。しかしその手は鉄のように重いのだ。まだその片目を除いた他の器官には数時間前に飲んだ眠り薬が作用しているらしいのである。そこで彼はあきらめたようにその片目を閉じてしまう。
が、しばらくすると、彼の手がひとりでに動き出した。さっきの命令がやっといまそれに達したかのように。そうしてそれがひとりで枕もとの懐中時計を手捜りしている。その動作が今度は逆に、彼自身ほとんど忘れかけていたさっきの命令を彼に思い出させる。
「まだ三時半だな……」
彼はそうつぶやくと、一つ咳をする。するとまた咳が出る。そうしてその咳はなかなか止みそうもなくなる。まだ一時間ばかり早いけれども仕方がない。もう起きてしまおうと彼は思った。――彼は上衣に手をとおすために身もだえするような恰好をする。やっとそれを着てしまうと、半年近くも寝間着でばかり生活していた彼には、どうもそれが身体にうまく合わない。ネクタイの結び方がなんだかとても難かしい。靴を穿こうとすると、他人のと間違えたのではないかと思う位だぶだぶだ。――そういう動作をしながら、彼はたえず咳をしている。そのうちにそれへ自分のでない咳がまじっているのに気がつく。どうも彼の真上の寝台の中でするらしい。おれの咳が伝染ったのかな。彼は何気なさそうに自分の足もとに揃えてある一組の婦人靴を目に入れる。
彼はやっと立上る。そうしてオキシフルの壜を手にしたまま、スティムで蒸されている息苦しい廊下のなかを歩きだす。鞄につまずいたり、靴をふんづけそうになる。一つの寝台からはスコッチの靴下をした義足らしいのが出ていて彼の邪魔をする。そんなごった返しのなかを、彼はよろよろ歩きながら、まるで狂人かなんぞのように眼を大きく見ひらいている。……
そのときふと彼は、そういう彼自身の痛ましい後姿を、さっきから片目だけ開けたまんま、じっと睨みつけている別の彼自身に気がついた。その彼はまだ寝台の中にあって、ごたごたに積まれた上衣やネクタイや靴のなかに埋まりながら、そしてたえず咳をしつづけているのであった。
夜の明ける前、彼はS湖で下車した。
其処からまた、彼の目的地であるところの療養所のある高原までは自動車に乗らなければならなかった。途中で彼は、その湖畔にある一つのみすぼらしいバラック小屋の前に車を止めさせた。そこには、もと彼の家で下男をしていたことのある一人の老人が住んでいた。その老人はもう七十位になっていた。そうしてもう十何年というもの、この湖畔の小屋にまったく一人きりで暮しているのだった。ときどき神経痛のために半身不随になるということを聞いていたが、そんな時は一人でどうするのだろうと、その老衰した様子を見ながら彼は思った。「それにしても、何故こんなにまでなりながら生きていなければならないのかしら?」そういう今の自分にはよく解らないような疑問がふと彼の心を曇らせた。
そのバラック小屋の窓からは、古画のなかの聖母の青衣のような色をした、明けがたの湖水が、ほんのりと浮んで見えた。――老人はいつか彼の前に古びた聖書を開いていた。そうして彼のために熱心な祈祷をしだした。だが彼はそれには別に耳を貸そうともしないで、ただ不思議そうに、老人の手にしていた聖書の背革が傷んでいると見えて一面に膏薬のようなものが貼ってあるのや、その老人のぶるぶる顫えている手つきが何となく鶏の足に似ているのを眺めていた。そしてその二つのものは聖書の文句よりも彼の心に触れた。まるで執拗な「生」そのものの象徴ででもあるように。
療養所はS湖から数里離れたところのY岳の麓にあった。
そうしてその麓のなだらかな勾配に沿うて、その赤い屋根をもった大きな建物は互に並行した三つの病棟に分れていた。それにはそれぞれに「白樺」とか「竜胆」とか「石楠花」などと云う名前がついていた。彼の入った「白樺」の病棟はY岳の麓にもっとも近く、そこには他の患者もあまり居ないらしく、そしてその裏側はすぐ一面の雑木林になっていた。彼の病室からはベッドに寝たままで、開け放した窓を丁度よい額縁にして、南アルプスのまだ雪に掩われているロマンチックな山頂が眺められた。
彼の病室には南向きの露台が一つついていた。其処からならばS湖も見えるかも知れないと思って、そこまで出て行った彼はそれらしい方向には一帯の松林をしか見出さなかった。が、その代りに彼は其処から、下の方の病棟のあちらこちらの露台に裸かの患者たちが日光浴をしている有様を一目に見ることが出来た。みんな樹皮のような色の肌をしながら、海岸でのように愉しそうに腹這いになっていた。
彼の想像はそういう人達と同じように日光浴をしている裸かの彼自身の姿を描いた。そして「わが骨はことごとく数うるばかりになりぬ」そんな文句を彼はふとつぶやいた。それはかの老人が彼のために読んでくれた聖書の中の一句だった。いちばん何でもないような文句を覚えていたものと見える。「わが骨はことごとくか……」それはいつの間にか話し相手のない彼の口癖になってしまった。
夕方になると、彼はひどい疲労から小石のように眠りに落ちた。
それから何時間たったのか覚えはなかったけれど、彼が目をさまして便所に行ったのは、だいぶ深夜らしかった。彼は便所から帰って、一種の臭いのただよっている病院の廊下を、同じような病室を NO.1 から一つずつ丁寧に数えて歩いて来ながら、さて彼の病室である四番目のやつのドアを開けようとして、ひょいと部屋の番号を見たら、それは NO.5 だった。彼は部屋の勘定を間違えたのだと思って、すぐ廊下を引き返した。が、ひとつ手前の部屋に来て見るとそれは NO.3 になっていた。おれは何と寝呆けているのだろう。自分の部屋の前を何遍も素通りする。そう思ってまた踵を返した。が次の部屋まで来て見るとやっぱりさっきの NO.5 であった。まさかお伽噺じゃあるまいし、おれが夜中に起きて便所へ行っている間におれの部屋が何処かへ消えて無くなってしまっているなんて!……そうは思ったものの、彼はしばらくの間、電燈ばかりこうこうと燿いている深夜の廊下のまん中に愚かそうに立ちすくんでいたが、ふと其処にただよっている臭いが過酸化水素の臭いだと気づくが早いか、彼は彼の部屋のドアの外側の把手には、何故だか知らないけれど、ガアゼの繃帯が巻いてあったことを突然思い出した。そうして彼は、彼が何遍もその前を往復した NO.5 の部屋のドアの把手がその通りであるのを認めた。おれはこのおれの手でさっきそれを握りながら今までこいつに気がつかなかったとは何事だい!(そこで彼は思いきってそのドアを押し開けた。)やっぱりおれの部屋だ。空っぽのおれがおれを待っている。夕方、おれがそこら中に脱ぎ棄てておいた外套や上衣や襯衣や、それから手袋や靴下のようなものまでが、みんなそれぞれにおれの姿を髣髴させている。……
彼はやっとこさ自身のベッドにもぐり込みながら、今しがたの変な錯誤をゆっくりと考え直した。――つまり、病院には NO.4 なんて部屋は始めから無いのだ。4は不吉にも死と暗合するから。で、おれの部屋は四番目であるのだけれど、しかも5という番号がつけられている。ただそれきりなのだ。……だが待てよ、その厄介な番号をもった部屋をすっかり持て余してしまったこの病院の建築師は、ひょっとしたら一種の魔法のようなもので、この隣りのおれの部屋にそれをすぽっと嵌めておいたかも知れないぞ。そうしてその二重の部屋(つまりこのおれの部屋だが)、それは夢と現実とをくっつけたように、何処かですこしずつ喰い違いを生じている。そうだ、こんな夜ふけなどあの露台に出てこっそり窓の外からこっちを覗いて見ると、丁度あの重屈折をする方解石のようなものを通して見たかのように、この部屋の中のものがすべて、そしておれ自身までがぼんやり二重になって見えそうな気がする。
そのとき不意に前夜の寝台車の中のごたごたとした光景が彼に思い出された。いつまでも奇妙な半睡状態を続けている自分の身体からすうっと別の自分自身が抜け出して列車の廊下をうろうろと歩いている――そういう前夜の錯覚と、それから今しがたの変な錯誤とが何時しかごっちゃになって、なんだかウイリアム・ブレイクの絵の或る複雑な構図と同じような不可解さをもって彼に迫りながら、ますます彼を眠りがたくさせた。
(二三日後の夜、彼は彼の部屋のドアの把手に人間の手みたいに巻いてあるガアゼの繃帯に内部から血のにじみ出ているのを認めた。しかし翌日になって見ると、彼の知らない間にそれは新しいガアゼに取換えられてあった。)
そういう神経質な最初の一夜を例外にすると、そこへ入院してからの彼の病状はずっと順調であった。高原の春先きの気候とともに。
彼の病室の窓から眺められる南アルプスの山頂には雪が日毎にまばらになって行った。そしてそれらは遂に何かしら地球の歯のようなものを剥き出しながら、彼の窓に向って次第に前進してくるように見えた。病人はそれを飽かずに眺めた。
だが、或る朝から急に雪が降りだした。そして一日じゅう小止みなく降っていた。もう四月下旬だというのに何と云うことであろう。そしてそれはその翌日になっても、翌翌日になっても止まなかった。
そんな或る夜ふけのこと、あたりがあまりに騒騒しくなったのでそれまでうとうとと眠っていた彼は思わず目をさました。眠る前にいくらか小降りになったかと思われた雪はいつしか吹雪になっていた。その上に突風がそれに加っているらしい。――そんな夜も露台に向いているドアや窓は医師の命令で細目に開けておく習慣だったので、それらの隙間からは無数の細かい雪が突風そのものと一しょに吹き込んできて、そこら中に手あたり次第に汚点をつけながら、彼の病室の中をくるくると舞っていた。……彼はそっと眼だけを毛布のそとに出しながら夢心地にそれを見入っていたが、やがてそれらの活溌に運動している微粒子の群はただ一様に白色のものばかりでなく、それらのなかには赤だの青だの黄だの紫だのがまじっていて、それらが全体として虹色になって見えることに気がついた。その瞬間、彼はちょっと軽い眩暈を感じはしたが、それでもなおその回転する虹に見入っていると、それがいつしか彼に子供の頃の或る記憶を喚び起させた。……
人が子供の彼のために幻燈を映してくれようとしている。彼は闇の中をじっと見つめている。レンズがなかなか合わない。その間、たださまざまな色彩の塊りがぼんやり白い布の上にさまよっているばかりである。けれども或る期待のために子供は胸を躍らせている。うっとりするような瞬間が過ぎる。やっとレンズが合い、絵がはっきり見えだす。そこには雪のなかに一人の死んだ支那兵が倒れている。子供はその凄惨な光景に思わず目を掩ってしまう。……
その子供のおれを、一瞬間うっとりさせていたのと同じような現実の罠が今のおれを落し入れようとしているのだろうか? おれは何かに瞞されているのではないか?――そう思いながら彼はなおも魅せられたようにその虚空に回転する虹に見入っていたが、そのうち突然、何処かでガチャリ! と硝子の破れる音がした。と同時にあちらでもこちらでもそれと同じような物音が起った。ずいぶん沢山の硝子が破れたらしいな……と思う間もなく、彼の耳は彼自身のすぐ身ぢかに起ったらしいそれよりも数倍も大きな音響のために麻痺したようになった。それは彼の部屋のなかで起ったものらしかったが、彼はそれを確めようともせずに頭からすっぽりと毛布をかぶってしまった。そして彼は枕もとに用意してあるヴェロナアルを飲もうとしたけれど、このまま何も知らずに眠ってしまうことも恐しかった。それからどのくらい時間がたったか分らなかった。――ただその間も彼はたえず自分の眼底に、さまざまの色の微粒子がちらちらしているのをば感じていたが、そのうち不意にエレヴェタアの下降に伴うような感じで彼の全身がすうとしだすのと同時にそれらの幻覚も一時に消えてしまった。それは明らかに眠りではなかった。それはどこかしら脳貧血に似ていた。
本当の眠りはただその発作を長びかせるような作用をした。
彼がそういう一種の仮死から蘇ったのは翌朝の十時頃だった。もう風はすっかり止んでいたし、露台を四五寸埋めている雪からは水蒸気がさかんに立ちのぼっていた。そのせいばかりでなく、その露台の眺望は、いつも彼のベッドの上から見えるのとは非常に様子が異っていた。そしてそれが、彼の病室の窓硝子が跡方もなく破壊されているからばかりでなしに、その露台に通じているドアがその蝶番ごとそっくり剥ぎとられてしまっているためであることに彼は漸っと気がついた。硝子の破れる音は彼もうつつに聞いて知っていたが、あんなに巌畳だったドアがこんなにまで破壊し尽されたことを昨夜少しも知らずにいたことが彼を気味わるがらせた。
南アルプスの山頂はまた一面に真白になりながら、いつの間にか彼の窓からずっと後へ退っていた。それを眺めながら、彼が自分のいま生きていることを確めでもするように、彼のもじゃもじゃになった髪の毛へひょいと手を触れたら、その一本一本が神経そのものであるかのように痛んだ。
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