四
女の仕えていた宮が突然お亡くなりになったのを機会に、女は暫く宮仕えから退いて、又昔のように父母の下でつつましい朝夕を送り出していた。さすがに宮仕えをした後には、女はもう世の中が自分の思ったようなものではない事をいよいよ切実に知り出していた。薫大将だの、浮舟だのが此の世にあり得よう筈がない事もわかり過ぎる位わかって来た。が、一方、女はそういうどうにも為様のないような詮らめに落ち着こうとしている自分が、却って昔の自分よりもふがいなく思えてならなかった。
その後も宮からは、絶えず女をお召しになっていた。亡くなられたお方の小さい御子達の相手に女の姪たちを連れて来て貰いたいと云うのだった。女はもう自分だけなら、このまま静かに老いるのも好いと考えていた。それ程女は身も心も疲れ切っていた。しかし、漸くおとなびて来た姪たちの事を考えると、此子達だけは自分のようにさせたくないと、折角の宮からのお召を拒みかねて、二人に附添ってはおりおり又出仕をするようになった。が、こん度は女は宮でもまるっきり新参というのでもなく、そうかと云って又古参という程でもないので、只なんという事なしに女房たちの中に雑じって、もとの朋輩たちと気やすく語らってさえいれば好かった。もう別に宮仕えだけで身を立てようなどともしていないので、外の女房たちが自分よりも上の思召しが好かろうと羨ましいとも思わなかった。そうして、古参の女房からいろんな昔の知りびとの噂などを聞いては、それを淡々と聞き過していた。一方、こうして此頃のように自分がそれに即かず離れずの気もちでいられるようになってから、漸く宮仕えと云うものの趣を自分でも分かりかけて来たような気もしないではなかった。
或冬の暗い夜の事だった。上では不断経が行われていたが、丁度声のよい人々が読経する時分だというので、一人の女房に誘われるまま、女はそちらに近い戸口に往って、そこに伏しながら、それを聴いていた。暫くそうして聴いていると、其処へ殿上人らしい男が一人、そういう二人には気がつかないように近づいて来た。
「どなただか知らないけれど、急に隠れたりなんぞするのも見ぐるしいから、このままこうして居りましょう」と、相手の女房が云うので、その傍に女もじっと伏せていた。
その男は、戸口の近くにそういう二人を認めると、前からの知合らしい一方の女房に向かって、非常に穏かな様子で詞をかけた。「いまお一人はどなたですか――」などとも問うたが、女が困って何んとも返事をせずにいても、それ以上執拗には尋ねなかった。そうしてそのまま二人の傍にすわりながら、そのどちらに向かってともつかず、世の中のあわれな事どもをそれからそれへと言い出して、女達にも真面目に問いかけたりするので、女もついそれに誘われて、いつか二こと三こと詞を交わしていた。「まだ私の知らないこういうお方がいられたのですね――」などと珍らしそうに男は女の方を向いて云って、いつまでも気もち好さそうに話し込み、なかなか其処を立ち上がりそうにもなかった。
星の光さえ見えない位に真っ暗な晩で、外にはときどき時雨らしいものが、さっと木の葉にふりかかる音さえ微かにし出していた。「こういう晩もなかなか好いものですね。」男はそう云いさして、微かに木の葉にかかる時雨の音に耳を傾けながら、急に何か考え出したように沈黙していたが、それから徐かにこんな事を語り出した。
「どうした訳ですか、私は今ふいと十七年ほど前の或晩の事を思い出しておりました。それは私が斎宮の御裳著の勅使で伊勢へ下った折の事です。伊勢に上っておる間、殆ど毎日、雪に降りこめられておりました。ようやく任も果てたので、その明けがた京へ上ろうかと思って、お暇乞に参上いたしますと、ただでさえいつも神々しいような御所でしたが、その折は又円融院の御世からお仕えしているとか云う、いかにも神さびた老女が居合わせて、昔の事などなつかしそうに物語り出し、しまいにはよく調べた琵琶までも聞かせてくれました。私もまだ若い身空でしたが、何んだかこうすっかりその琵琶の音が心に沁み入って、ほんとうに夜の明けるのも惜しまれた位でした。――それからというもの、私はそんな冬の夜の、雪なんぞの降っている晩には極まってその夜の事を思い出し、火桶などかかえながらでも、かならず端近くに出ては雪をながめて居ったものでした。――そんな若い時分の事もこの頃ではつい忘れがちになっておりましたのに、今、こうしてあなた達と話し込んでいますうち、その夜の事が急になつかしく思い出されて来たのです。どういう訳のものでしょうか。――そう云えば、今宵もこれ程私の心に沁み入っていますので、これからはきっとこんな真暗な、ときどき打ちしぐれているような冬の夜の事も、その斎宮の雪の夜と一しょに、折々なつかしく思い出される事でしょう。……」
男はそんな問わず語りを為はじめた時と少しも変らない静かな様子で、それを言い畢えた。
男が程経て立ち去った跡、女達はそのままめいめいの物思いにふけりながら、いつまでも其処にじっと伏せていた。雨は、木の葉の上に、思い出したように寂しい音を立て続けていた。
五
こんな事があってからも、女が何かと里居がちに、いかにも気がなさそうな折々の出仕を続けていた事には変りはなかった。が、出仕している間は、いままでよりも一層、他の女房たちのうちに詞少になって、一人でぼんやりと物など跳めているような事が多かった。しかし、何かの折にいつかの女房と一しょになりでもすると、互に話もないのにいつまでもその女房の傍にいて何か話をしていたそうにしていたり、又、相手があの時雨の夜の事をそれとなく話題に上そうとでもすると、慌ててそれを他に外らせようとしたりした。しかし、女はいつかその男が才名の高い右大弁の殿である事などをそれとはなしに聞き出していた。――そうやって宮に上っていても何か落ち着きを欠いている女は、里に下りて、気やすく老いた父母だけを前にしている時は、一層心も空のようにして、何か問いかけられても返事もはかばかしくなかったりした。そうして一向になって何かを堪え忍んでいるような様子が、其頃から女の上には急に目立ち出していた。
右大弁はときどき友達と酒を酌んでいる時など、ひょいとその時雨の夜の事、――それからそのとき語り合った二人の女のうちの、はじめて逢った方の女の事なぞを思い浮べがちだった。男は勿論、外にも幾たりかの女を知っていた。又、大方の女というものがどういうものであるかも知悉した積りでいた。――しかし、その時雨の夜のように、何ぶん暗かったのでその女の様子なんぞよく見られなかったせいもあるかも知れないが、その女といかにもさりげなく話を交していただけで、何かこう物語めいた気分の中に引き摩られて行くような、胸のしめつけられる程の好い心もちのした事などはこれまでついぞ出逢ったことがなかった。何かと云えばいま一人の女房を立てて、自分はいかにも控え目にしていた、そんな内端な女のそういう云い知れぬ魅力というものは何処から来るのだろうかと、男は自問自答した。もう一度で好いから、あの女と二人ぎりでしめやかな物語がして見たい。私の琵琶を聞かせたらどう聞くだろうか、――此頃になくそんな若々しい事まで男は思ったりもしていた。しかし、男は何かと公儀の重い身で多忙なうちに、その女の事も次第に忘れがちになって往った。――が、ときどき友達と酒でも酌んでいるような時に、思いがけずふいとその髣かに見たきりの女の髪の具合などがおもかげに立って来たりした、……。
その翌年の春だった。或夜、右大弁は又その一の宮に音楽のあそびに招かれて往っていた。暁がた、男は一人で庭に降り立って、ほんのりとかかった繊い月を仰ぎ仰ぎ、読経などをしながら、履音をしのばせてそぞろ歩きしていた。細殿の前には丁子の匂が夜気に強く漂っていた。男はそれへちょっと目をやりながら、遣戸の前を通り過ぎようとした時、ふいとその半開きになっていた遣戸の内側に一人の女のいるらしいけはいを捉えた。女房の一人でも月を眺めているのだろう位に思って、男は何の気なしにそれへ詞をかけた。内の女は暫く身じろぎもしないでいたが、漸っとためらいがちに低く返事をした時、男ははじめてそれが誰であったかに気がついた。
「あなたでしたか。あの時雨の夜はかた時も忘れずになつかしく思っておりました」
男はわれ知らず少し上ずったような声を出した。
そうしてそのまま男は黙って返事を待っていた。遣戸の内からは、暫くすると女がこんな歌をかすかに口ずさむのが聞えて来た。
「なにさまで思ひ出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを」
その時その細殿の方へ履音を響かせながら、五六人の殿上人たちが男を追うようにやって来た。男はそれと殆ど同時に、遣戸の奥へ女がすべり込んで往くけはいに気がついた。
男は殿上人たちに拉せられながら、細殿の前に漂っていた丁子の匂を気にでもするように、その方を見返りがちに、再び履音をさせながら其処を立ち去って往った。
六
女が、前の下野の守だった、二十も年上の男の後妻となったのは、それから程経ての事だった。
夫は年もとっていた代り、気立のやさしい男だった。その上、何もかも女の意をかなえてやろうとしていた。女も勿論、その夫に、悪い気はしなかった。が、女の一向になって何かを堪え忍んでいようとするような様子は、いよいよ誰の目にも明らかになるばかりだった。しかし、もう一つ、そう云う女の様子に不思議を加えて来たのは、女が一人でおりおり思い出し笑いのような寂しい笑いを浮べている事だった。――が、それがなんであるかは女の外には知るものがなかった。
夫がその秋の除目に信濃の守に任ぜられると、女は自ら夫と一しょにその任国に下ることになった。勿論、女の年とった父母は京に残るようにと懇願した。しかし、女は何か既に意を決した事のあるように、それにはなんとしても応じなかった。
或晩秋の日、女は夫に従って、さすがに父母に心を残して目に涙を溜めながら、京を離れて往った。穉い頃多くの夢を小さい胸に抱いて東から上って来たことのある逢坂の山を、女は二十年後に再び越えて往った。「私の生涯はそれでも決して空しくはなかった――」女はそんな具合に目を赫やかせながら、ときどき京の方を振り向いていた。
近江、美濃を過ぎて、幾日かの後には、信濃の守の一行はだんだん木深い信濃路へはいって往った。
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