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美しい村(うつくしいむら)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 15:31:30  点击:  切换到繁體中文


 そんな鬱陶うっとうしいような日々も、相変らず私の小説の主題は私からともすると逃げて行きそうになるが、私はそれをば辛抱しんぼうづよく追いまわしている。私が最初に計画していたところの私自身を主人公とした物語を書くことはとっくに断念していたけれど、私はそれの代りに、その物語の主人公には一体どんな人物を選んだらいいのか、それからしてもう迷っていた。……どうにか一方の老嬢ろうじょうは私の物語の中に登場させることは出来ても、もう一方の方は台所でさらの音ばかりさせているきりで、何時までってもヴェランダに出て来ようとしない二人の老嬢たちの話、冬になるとすっかり雪にうずまってしまうこんな寒村に一人の看護婦を相手にらしている老医師とその美しい野薔薇のばらの話、ときどき気がくるって渓流のなかへ飛びんではののしりわめいているという木樵きこりの妻とその小娘の話、――そういうような人達のとりとめもない幻像イマアジュばかりが私の心にふとうかんではふと消えてゆく……
 或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘べっそうならんでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古けいこしているらしい音が聞えて来た。私はそのとなりのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳をかたむけていた。バッハのト短調の遁走曲フウグらしかった。あの一つの旋律メロディり返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それをいているうちに、私はまるでにでもかれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、このころの私の小説を考えなやんでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。

     ※(アステリズム、1-12-94)

 或る朝、「また雨らしいな……」と溜息ためいきをつきながら私が雨戸を繰ろうとした途端に、その節穴ふしあなから明るい外光がれて来ながら、障子しょうじの上にくっきりした小さな楕円形だえんけい額縁がくぶちをつくり、そのなかに数本の落葉松からまつ微細画ミニュアチュアを逆さまに描いているのを認めると、私は急に胸をはずませながら、出来るだけ早くと思って、そのためかえって手間どりながら雨戸を開けた。私が寝床ねどこのなかで雨音かと思っていたのは、それ等の落葉松の細かい葉にたまっていた雨滴が絶えず屋根の上に落ちる音だったのだ。私はさて、まぶしそうな眼つきで青空を見上げた。私は寝間着のまま一度庭のなかへ出てみたが、それから再び部屋に帰り、そしてフラノの散歩服に着換きかえながら、早朝の戸外へと出て行った。私は教会の前を曲って、その裏手のとちの林をき抜けて行った。私はときどき青空を見上げた。いかにもまぶしそうに顔をしかめながら。
 私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、そのみちにずっと笹縁ささべりをつけている野苺のいちごにも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る素晴すばらしいもののほんの小さな前奏曲プレリュウドだと言ったように、私を迎えた。私は例の木橋の上まで来かかると、どういう積りか自分でも分からずに二三度その上を行ったり来たりした。それから、っと、まるで足が地上につかないような歩調で、サナトリウムの裏手の生墻いけがきに沿うて行った。私は最初のいくつかの野薔薇のしげみを一種の困惑こんわくの中にうっかりと見過してしまったことに気がついた。それに気がついた時は、すでに私は彼等の発散している、そして雨上りの湿しめった空気のために一ところに漂いながら散らばらないでいる異常なかおりの中に包まれてしまっていた。私は彼等の白い小さな花を見るよりも先に、彼等の発散する香りの方を最初に知ってしまったのだ。しかし私は立ち止ろうとはせずになおも歩き続けながら、私は今すれちがいつつある一つの野薔薇の上に私のおずおずした最初の視線を投げた。私は、私の胸のあたりから何かをうったえでもしたいような眼つきで私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初二つ三つばかりの白い小さな花を認めたきりだった。が、その次の瞬間しゅんかんには、私はその同じ茂みのうちに殆ど二三十ばかりの花と、それと殆ど同数の半ば開きかかったつぼみとを数えることが出来た。それはごくわずかの間だったが、そんな風に私が自分の視線のなかに自分自身を集中させてしまってからと言うもの、そんなにもむらがっているそれ等の花がもう先刻さっきのように好いにおいがしなくなってしまっていることに私はおどろいた。そうして改めてそれをごうとすると、そうするだけ一層それは匂わなくなって行くように見えた。――私は注意深く歩き続けながら、順ぐりにいくつかの野薔薇の木とすれちがって行ったが、とうとう私はいつかレエノルズ博士がその上に身をこごめていた一つの茂みの前まで来た。私は思わずそこに足をめた。――
 そうして私はその野薔薇の前に、ただ茫然ぼうぜんとして、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。どれよりも最も多くの花を簇がらせているように見えるその野薔薇とそっくりそのままのものを何処どこかで私は一度見たことがあるように思えて、それをしきりに思い出そうとしていたかのようでもあった。――それはすこし長い放心状態の後では、しばしば私にやってくるところの一種独特の錯覚さっかくであった。放心のあまりに現在そのものの感じがなくなり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとしてあせっているのかも知れなかった。――それから私は再び我に返って歩き出した。私の沿うて行く生墻には、それらの野薔薇が、同じような高さの他の灌木かんぼくの間にまじりながら、いくらかずつの間を置いてはならんでいるのだった。あたかも彼等が或る秘密な法則に従ってそう配置されてでもいるかのように。そうしてその微妙びみょう間歇かんけつが、ほとんど足が地につかないような歩調で歩きつつある私の中に、いつのまにか、ほとんど音楽の与えるような一種のリズミカルな効果を生じさせていた。……そうしてそれに似た或る思い出をこんどはさっきと異って、鮮明せんめいに私のうちによみがえらせるのであった。……十年ぐらい前の或る夏休みに、私が初めてこの村へ来た時のこと、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと一人ひとりだけ通れるか通れない位の、せまい、小さな坂道を上って行こうとした途中とちゅうで、私はその坂の上の方から数人の少女たちが笑いさざめきながらけ下りるようにして来るのに出遇であった。私はそれを認めると、そういう少女たちとの出会であいは私の始終ゆめみていたものであったにもかかわらず、私はよっぽど途中から引っ返してしまおうかと思った。私は躊躇ちゅうちょしていた。そういう私を見ると、少女たちは一層笑い声を高くしながら私の方へずんずん駈け下りて来た。そんなところで引っ返したりすると余計自分が彼女たちに滑稽こっけいに見えはしまいかと私は考え出していた。そこで私は思い切って、がむしゃらにその坂を上って行った。するとこんどは少女たちの方で急にだまってしまった。そうしてやっと笑うのを我慢がまんしているとでも言ったような意地悪そうな眼つきをして、道ばたの丁度彼女たちのせいぐらいある灌木の茂みの間に一人一人半身を入れながら、私の通り過ぎるのを待っていた。私は彼女たちの前を出来るだけ早く通ろうとして、そのためかえって長い時間かかって、心臓をどきどきさせながら通り過ぎて行った。……その瞬間私は、自分のまわりにさっきから再び漂いだしている異常な香りに気がついて愕いた。私がそんな風に私の視線を自分自身の内側に向け出して、ひょいと野薔薇のばらのことを忘れていたら、そういう気まぐれな私を責め訴えるかのように、その花々が私にさっきの香りを返してくれたのだった。そう、それ等の少女たちの形づくった生墻いけがきはちょうどお前たちにそっくりだったのだ! ……
 私はその朝はどうしたのかクレゾオルの匂のぷんぷんするサナトリウムの手前から引返した。その向うには、その思いがけない美しさでひととき私の心をうばっていたアカシアの花が、一週間近い雨のためにすっかり散って、それが川べりの道の上にところどころ一塊ひとかたまりになりながら落ちているのがずっと先きの先きの方まで見透みとおされていた。
 それから数日間、こんどはお天気のいい日ばかりが続いていた。毎朝私は起きるとすぐその辺まで散歩に行った。しかし私はその花をつけた生墻の前にあんまり長いこと立ちもとおっていないで、それに沿うて素通すどおりして来るきりの方が多かった。私は言わば、ただ、その生墻に間歇かんけつ的にむらがりながら花をつけている野薔薇の与える音楽的効果を楽しみさえすればよかったのであるから。だから或る時などは、それのみを楽しむために、私は故意わざとよそっぽを見ながら歩いたりした。
 或る朝、私はそんな風にサナトリウムの前まで行ってすぐそのまま引っ返して来ると、向うの小さな木橋を渡り、いまその生墻に差しかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、ほかの手でパイプをにぎったまま、少し猫背ねこぜになって生墻の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目をはなして、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点しょうてんを失ったような空虚うつろ眼差まなざしのうちに、彼の可笑おかしいほどな狼狽ろうばいと、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌ふきげんとを見抜みぬいた。
 それから数日後の或る朝だった。だんだんに夏らしい色を帯び出して来た美しい空が、私にだけ、突然物悲しくとざされてしまったように見えた。毎朝のようにそれに沿うて歩きながら、しかし、よく注意して見ようとはしないでいた野薔薇の白い小さな花が、いつの間にやら殆ど全部むしばまれて、それに黄褐色おうかっしょくのきたならしい斑点はんてんがどっさり出来てしまっていることに、その朝、私は始めて気がついたのだった。

     ※(アステリズム、1-12-94)

 ……数年前までは半分こわれかかった水車がごとごと音を立てながらまわっていた小さな流れのほとりには、その大抵たいていが三四十年前に外人の建てたと言われる古いバンガロオが雑木林ぞうきばやしの間に立ちならんでいたが、そこいらの小径こみちはそれが行きづまりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと区別のつかないほど、ややっこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの時分には、私はひとりで散歩をする時などは本当にまごまごしてしまうのだった。確かに抜け道らしいんだが、その小径は突然外人たちのお茶などを飲んでいるヴェランダのすぐ横を通ったりするのだった。そういう私道なのか、抜け道なのか分からないような或る小径に又してもんでしまった私は、私の背ぐらいある灌木の茂みの間から不意に私の目の前がひらけて、そこの突きあたりにヴェランダがあり、とう寝椅子ねいすに一人の淡青色たんせいしょくのハアフ・コオトを着て、ふっさりとかみかたへ垂らした少女が物憂ものうげにもたれかかっているのを認め、のみならず、その少女が私の足音を聞きつけてひょいと私の方をり向いたらしいのを認めるが早いか、私は顔を赤らめながら、その少女をよく見ずにあわてて其処そこから引っ返してしまった。――その時し私がその少女をもっとよく見たら、それが数日前に私が宿屋の裏の狭い坂道ですれちがった数人の少女たちの中の一人であることに気がついて、私の狼狽はもっと大きかっただろうに。……
 この頃ったばかりらしい青々とした芝生しばふが、その時にはその少女のすわっていたヴェランダをこっちからは見えなくさせていた一面の灌木の茂みに代えられて、そうしていま私のぼんやり立っているこの小径こみちからその芝生を真白まっしろさくあざやかに区限くぎって。……そのように、すべてが変っていた。いま私にまざまざと蘇って来たところの、そう言うような、最初に私が彼女かのじょに会った当時の彼女のういういしい面影おもかげと、数カ月前、最後に会った時の、そしてその時から今だに私の眼先にちらついてならない彼女の冷やかな面影と、何と異って見えることか! 彼女の容貌ようぼうそのものがそんなにも変ったのか、それとも私の中にその幻像イマアジュが変ったのか、私は知らない。しかし何もかも、おそらく私自身も変ってしまったのだ。……
 私はそのとき向うの方から何かを重そうににないながら私の方に近づいてくる者があるのを認めた。それは羊歯しだを背負っている宿のじいやであった。私はいつか彼の話していた羊歯のことを思い出した。
 私は爺やの言うがままに、彼についてその庭の中へおずおずと這入はいって行った。そうして爺やが庭の一隅にその羊歯を植えつけている間、私は黙ってヴェランダの床板にこしかけていた。爺やはときどき羊歯を植えつける場所について私に助言を求めた。その度毎たびごとに、私の胸はしめつけられた。
 一通りみんな植えつけてしまうと、爺やは私のそばに腰を下ろした。私の与えた巻煙草まきたばこを彼は耳にはさんだきり、それを吸おうとはせずに、自分の腰から鉈豆なたまめ煙管きせるいた。
 私はふだんの無口な習慣から抜け出ようと努力しながら、これもまた機嫌買いらしい爺やを相手に世間話をし出した。
「爺やさん、とうげの途中に気ちがいの女がいるそうだけれど、それあ本当なのかい?」
「へえ、可哀かわいそうにすこし気が変なんでございますよ、――せんにはうちでもちょいちょい何かくれてやりましたもので、よく山からにこにこしながら、いろんな花を採って来てくれたりしましたっけが。……ただ、そいつの亭主ていしゅというのが大へんなやつでしてね、こっちからわざわざ何か持って行ってやったりしますと、いつも酔払よっぱらっていちゃあ、『くれるというものならもらっといたらいいじゃねえか』と、かかあの気の毒がるのをしかりつけようてった調子なんですからね。……それで、こっちでもだんだん情が通わなくなって来て、この頃じゃ、もう、ちっとも構いませんです」
「何だってね、――その気ちがいって、ときどき川のなかへ飛び込むんだってね?」
「へえ、そんな人騒ひとさわがせなこともときどきやりますが、あれあどうも少し狂言きょうげんらしいんで……」
「そうなのかい? ――どうしてまたそんな……」
 私はふと口ごもりながら、あの林のなかの空地にあった異様な恰好かっこうをした氷倉こおりぐらだの、その裏の方でした得体えたいの知れないさけび声だのを思い浮べた。そうしてそれのものを今だにこんなにも異常に私に感じさせている、峠の子供たちの不思議な領分の上を思った。――子供たちよ、よし大人おとなたちにはそういう狂行がにせものに見えようとも、お前たちは、そんな大人たちにはとざされている、お前たちだけのその領分の中で遊べるだけ遊んでいるがいい。
 爺やとの話は、私の展開さすべく悩んでいた物語のもう一人の人物の上にも思いがけない光を投げた。それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっとにくまれ通しであると言うことだった。る年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者はだれ一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼かいじんに帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故なぜそんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗しつようたずねようとはしなかった。)――それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西スイスに帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固がんこに一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。……私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、つて彼自身もその老外人に一種の敵意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者のおろかしさのしるしであろうか、それともその老外人のかたくなな気質のためであろうか? ……そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇のばら生墻いけがきのことを何か切ないような気持になって思い出していた。
 私はヴェランダの床板ゆかいたに腰かけたきり、爺やがまた何処どこからか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。しかし今度は黙ったままで。そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手のこうを目で追っているうちに、ふいと「巨人きょじん椅子いす」のことを思いうかべた。――私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。
 それから数分後に、私はそのおおきな岩をのあたりに見ることのできる、例の見棄みすてられたヴィラの庭のなかに自分自身を見出みいだした。そのヴィラにむかし住んでいた二人の老嬢ろうじょうのことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。「ああ、セエモオルさんですか」と言ったきりだった。何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」と私は、いま私の下方によこたわっている高原一帯をへだてて、私と向い合っている、はる彼方かなたの「巨人の椅子」を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。
 だんだんに日がれだした。私のすぐ足許あしもとの、いつかその赤い屋根に交尾こうびしている小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、橙色だいだいいろのカアテンのらいでいるのが見えた。ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうにし上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの荒廃こうはいしたヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花ける野、その別荘べっそう、それからもうかすみながらよく見えなくなり出した丘々おかおかひだ、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」などにかたむけ出していた。それにもかかわらず、私はときどきややもするとそれのものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。
 突然とつぜん、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり薄暗うすぐらくなっている大きなもみの、ほとんど水平にびたえだの一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の山鳩やまばとが飛んできて止まった。そうしてそんなところに私のいることに向うでもおどろいたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。あたかも私自身の思惟イデエそのものであるかのごとく重々しく羽搏はばたきながら、そしてそのつばさを無気味に青く光らせながら……。


[#改ページ]



   夏

 突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅つつじしげみの向うの、別館べっかんの窓ぎわに、一輪の向日葵ひまわりが咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。私はやっと其処そこに、黄いろい麦藁帽子むぎわらぼうしをかぶった、背の高い、せぎすな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。……誰かを待っているらしいその少女は、さっきから中庭のあちらこちらに注意深そうな視線をさまよわせていたが、最後にその視線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の上に置いた。そんな最初の出会であいの時には、大概たいがいの少女たちは、自分が見つめられていると思う者からわざとそっぽを向いて、自分の方ではその者にまったく無関心であることを示したがるものだが、そんな羞恥しゅうちと高慢さとの入り混った視線とは異って、私の上に置かれているその少女の率直そっちょくな、好奇心こうきしんでいっぱいなような視線は、私にはまぶしくってそれから目をそらさずにはいられないほどに感じられたので、私はそのときの彼女――最初に私の目の前に現れたときの彼女にいては、そのやや真深かにかぶった黄いろい帽子と、そのつばのかげにきらきらと光っていた特徴とくちょうのあるまなざしとよりほかには、ほとんど何も見覚えのない位であった。……やがて別館から彼女の父らしいものが姿を現した。そしてその二人づれは私の窓の前をななめに横切って行ったが、見ると、彼女はその父よりも背が高いくらいであった。そしてその父らしいものが彼女にしきりに話しかけるのに、彼女はいかにも気がなさそうに返事をしながら、いつまでも私の方へ躑躅つつじの茂みごしにその特徴のある眼ざしをそそぎつづけていた。……その二人が中庭を立ち去ってしまったあとも、私はしばらく、今しがたまでその少女が向日葵ひまわりのように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚うつろになった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしいにおいがただよい出しているのだった。……
 その日の夕方の、別館の方への私の引越ひっこし、(今まで私の一人ひとりで暮らしていた、古いはなれが修繕しゅうぜんされ始めるので――)その次ぎの日の、その少女の父の出発、それからほかにはまだ一人も滞在客たいざいきゃくのないそんな別館での、その少女と二人っきりの、背中合わせの暮らし……。
 しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったきりで、自分の仕事に没頭ぼっとうしていた。その私の書きつつある「美しい村」という物語は、六月頃からこの村に滞在している私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとした高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行ったものだった。そうして私は丁度いま、私がそれまで昔の恋人こいびとに対する一種の顧慮こりょから、その物語の裏側から、そしてただ、それによってその淡々たんたんとした物語に或る物悲しい陰影ニュアンスあたえるばかりで満足しようとしていた、この村での数年前の彼女たちとの花やかな交際の思い出、ことにこの村での彼女たちとの最初のよろこばしい出会いを、とある日、道ばたに咲きそろっている野薔薇のばらの花がまざまざと私のうちによみがえらせ、それがついに思いがけぬ出口を見つけた地下水のように、その物語の静かな表面に滾々こんこんきあがってくるところを書き終えたばかりのところだった。そうしてそういう昔のさまざまな歓ばしい出会いの追憶ついおくふけっているひまもなく、すでに私から巣立っていったそれらの少女たち、ことにそのうちの一人との気まずい再会を恐れて、季節に先立ってこの村を立ち去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、その物語の結尾として、私はこれから書こうとしているところだった。
 私の新しい部屋は、別館の二階のおくまったところで、南向きの窓があり、そしてその窓からは数本の大きな桜の幹ごしに向うの小高い水車の道に面しているいくつかのヴィラの裏側がちらちらと見えていた。そしてその窓のすぐ下を、私がそれらの少女たちと初めて出会ったところの、例の抜け道が、小さな坂になりながら、灌木かんぼくのなかに細々と通っているのだった。……私は私のやりかけている仕事から気持をそらすまいとして、私とたった二人きりでその別館の中に暮らしだしているその未知の少女とは、わざと背中を向き合わせてばかりいた。そのくせ、私は私の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、一定の時刻に、絵具箱をぶらさげながら、その少女が水車の道の方へとのぼってゆくのを見逃みのがしたことはなかった。丁度、午前中のその時刻の光線の具合ぐあいで、木洩こもがまるで地肌じはだひょうの皮のように美しくしている、その小さな坂を、ややもするとすべりそうな足つきで昇ってゆくその背の高い、痩せぎすな後姿を見送りながら、その上の水車の道に出て、さて、それから彼女はどの小径こみちをどう通って、どんな場所へ絵を描きに行くのだろうかと、そこいらの林のなかの小径が実にややこしく、私自身も初めてこの村へ来た当時は、何度も道に迷ってしまった位ではあったし、それにまたそんなことからして一人の少女と私との奇妙きみょうな近づきが始まったりしたので、私は、絵を描く場所をさがしながらそんな見知らぬ小径をさまよっているらしい彼女のことを、何となく気づかわしく思っていた。

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