そんな鬱陶しいような日々も、相変らず私の小説の主題は私からともすると逃げて行きそうになるが、私はそれをば辛抱づよく追いまわしている。私が最初に計画していたところの私自身を主人公とした物語を書くことはとっくに断念していたけれど、私はそれの代りに、その物語の主人公には一体どんな人物を選んだらいいのか、それからしてもう迷っていた。……どうにか一方の老嬢は私の物語の中に登場させることは出来ても、もう一方の方は台所で皿の音ばかりさせているきりで、何時まで経ってもヴェランダに出て来ようとしない二人の老嬢たちの話、冬になるとすっかり雪に埋まってしまうこんな寒村に一人の看護婦を相手に暮らしている老医師とその美しい野薔薇の話、ときどき気が狂って渓流のなかへ飛び込んでは罵りわめいているという木樵の妻とその小娘の話、――そういうような人達のとりとめもない幻像ばかりが私の心にふと浮んではふと消えてゆく……
或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞えて来た。私はその隣りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾けていた。バッハのト短調の遁走曲らしかった。あの一つの旋律が繰り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを聴いているうちに、私はまるで魔にでも憑かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この頃の私の小説を考え悩んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。
或る朝、「また雨らしいな……」と溜息をつきながら私が雨戸を繰ろうとした途端に、その節穴から明るい外光が洩れて来ながら、障子の上にくっきりした小さな楕円形の額縁をつくり、そのなかに数本の落葉松の微細画を逆さまに描いているのを認めると、私は急に胸をはずませながら、出来るだけ早くと思って、そのため反って手間どりながら雨戸を開けた。私が寝床のなかで雨音かと思っていたのは、それ等の落葉松の細かい葉に溜っていた雨滴が絶えず屋根の上に落ちる音だったのだ。私はさて、まぶしそうな眼つきで青空を見上げた。私は寝間着のまま一度庭のなかへ出てみたが、それから再び部屋に帰り、そしてフラノの散歩服に着換えながら、早朝の戸外へと出て行った。私は教会の前を曲って、その裏手の橡の林を突き抜けて行った。私はときどき青空を見上げた。いかにもまぶしそうに顔をしかめながら。
私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、その径にずっと笹縁をつけている野苺にも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る素晴らしいもののほんの小さな前奏曲だと言ったように、私を迎えた。私は例の木橋の上まで来かかると、どういう積りか自分でも分からずに二三度その上を行ったり来たりした。それから、漸っと、まるで足が地上につかないような歩調で、サナトリウムの裏手の生墻に沿うて行った。私は最初のいくつかの野薔薇の茂みを一種の困惑の中にうっかりと見過してしまったことに気がついた。それに気がついた時は、既に私は彼等の発散している、そして雨上りの湿った空気のために一ところに漂いながら散らばらないでいる異常な香りの中に包まれてしまっていた。私は彼等の白い小さな花を見るよりも先に、彼等の発散する香りの方を最初に知ってしまったのだ。しかし私は立ち止ろうとはせずになおも歩き続けながら、私は今すれちがいつつある一つの野薔薇の上に私のおずおずした最初の視線を投げた。私は、私の胸のあたりから何かを訴えでもしたいような眼つきで私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初二つ三つばかりの白い小さな花を認めたきりだった。が、その次の瞬間には、私はその同じ茂みのうちに殆ど二三十ばかりの花と、それと殆ど同数の半ば開きかかった莟とを数えることが出来た。それはごく僅かの間だったが、そんな風に私が自分の視線のなかに自分自身を集中させてしまってからと言うもの、そんなにも簇がっているそれ等の花がもう先刻のように好い匂がしなくなってしまっていることに私は愕いた。そうして改めてそれを嗅ごうとすると、そうするだけ一層それは匂わなくなって行くように見えた。――私は注意深く歩き続けながら、順ぐりにいくつかの野薔薇の木とすれちがって行ったが、とうとう私はいつかレエノルズ博士がその上に身を跼めていた一つの茂みの前まで来た。私は思わずそこに足を停めた。――
そうして私はその野薔薇の前に、ただ茫然として、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。どれよりも最も多くの花を簇がらせているように見えるその野薔薇とそっくりそのままのものを何処かで私は一度見たことがあるように思えて、それをしきりに思い出そうとしていたかのようでもあった。――それはすこし長い放心状態の後では、しばしば私にやってくるところの一種独特の錯覚であった。放心のあまりに現在そのものの感じがなくなり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとして焦っているのかも知れなかった。――それから私は再び我に返って歩き出した。私の沿うて行く生墻には、それらの野薔薇が、同じような高さの他の灌木の間に雑りながら、いくらかずつの間を置いてはならんでいるのだった。あたかも彼等が或る秘密な法則に従ってそう配置されてでもいるかのように。そうしてその微妙な間歇が、ほとんど足が地につかないような歩調で歩きつつある私の中に、いつのまにか、ほとんど音楽の与えるような一種のリズミカルな効果を生じさせていた。……そうしてそれに似た或る思い出をこんどはさっきと異って、鮮明に私のうちに蘇らせるのであった。……十年ぐらい前の或る夏休みに、私が初めてこの村へ来た時のこと、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと一人だけ通れるか通れない位の、狭い、小さな坂道を上って行こうとした途中で、私はその坂の上の方から数人の少女たちが笑いさざめきながら駈け下りるようにして来るのに出遇った。私はそれを認めると、そういう少女たちとの出会は私の始終夢みていたものであったにも拘らず、私はよっぽど途中から引っ返してしまおうかと思った。私は躊躇していた。そういう私を見ると、少女たちは一層笑い声を高くしながら私の方へずんずん駈け下りて来た。そんなところで引っ返したりすると余計自分が彼女たちに滑稽に見えはしまいかと私は考え出していた。そこで私は思い切って、がむしゃらにその坂を上って行った。するとこんどは少女たちの方で急に黙ってしまった。そうしてやっと笑うのを我慢しているとでも言ったような意地悪そうな眼つきをして、道ばたの丁度彼女たちのせいぐらいある灌木の茂みの間に一人一人半身を入れながら、私の通り過ぎるのを待っていた。私は彼女たちの前を出来るだけ早く通ろうとして、そのため反って長い時間かかって、心臓をどきどきさせながら通り過ぎて行った。……その瞬間私は、自分のまわりにさっきから再び漂いだしている異常な香りに気がついて愕いた。私がそんな風に私の視線を自分自身の内側に向け出して、ひょいと野薔薇のことを忘れていたら、そういう気まぐれな私を責め訴えるかのように、その花々が私にさっきの香りを返してくれたのだった。そう、それ等の少女たちの形づくった生墻はちょうどお前たちにそっくりだったのだ! ……
私はその朝はどうしたのかクレゾオルの匂のぷんぷんするサナトリウムの手前から引返した。その向うには、その思いがけない美しさでひととき私の心を奪っていたアカシアの花が、一週間近い雨のためにすっかり散って、それが川べりの道の上にところどころ一塊りになりながら落ちているのがずっと先きの先きの方まで見透されていた。
それから数日間、こんどはお天気のいい日ばかりが続いていた。毎朝私は起きるとすぐその辺まで散歩に行った。しかし私はその花をつけた生墻の前にあんまり長いこと立ちもとおっていないで、それに沿うて素通りして来るきりの方が多かった。私は言わば、唯、その生墻に間歇的に簇がりながら花をつけている野薔薇の与える音楽的効果を楽しみさえすればよかったのであるから。だから或る時などは、それのみを楽しむために、私は故意とよそっぽを見ながら歩いたりした。
或る朝、私はそんな風にサナトリウムの前まで行ってすぐそのまま引っ返して来ると、向うの小さな木橋を渡り、いまその生墻に差しかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、他の手でパイプを握ったまま、少し猫背になって生墻の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を離して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点を失ったような空虚な眼差しのうちに、彼の可笑しいほどな狼狽と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌とを見抜いた。
それから数日後の或る朝だった。だんだんに夏らしい色を帯び出して来た美しい空が、私にだけ、突然物悲しく閉されてしまったように見えた。毎朝のようにそれに沿うて歩きながら、しかし、よく注意して見ようとはしないでいた野薔薇の白い小さな花が、いつの間にやら殆ど全部蝕ばまれて、それに黄褐色のきたならしい斑点がどっさり出来てしまっていることに、その朝、私は始めて気がついたのだった。
……数年前までは半分壊れかかった水車がごとごと音を立てながら廻っていた小さな流れのほとりには、その大抵が三四十年前に外人の建てたと言われる古いバンガロオが雑木林の間に立ちならんでいたが、そこいらの小径はそれが行きづまりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと区別のつかないほど、ややっこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの時分には、私はひとりで散歩をする時などは本当にまごまごしてしまうのだった。確かに抜け道らしいんだが、その小径は突然外人たちのお茶などを飲んでいるヴェランダのすぐ横を通ったりするのだった。そういう私道なのか、抜け道なのか分からないような或る小径に又しても踏み込んでしまった私は、私の背ぐらいある灌木の茂みの間から不意に私の目の前が展けて、そこの突きあたりにヴェランダがあり、籐の寝椅子に一人の淡青色のハアフ・コオトを着て、ふっさりと髪を肩へ垂らした少女が物憂げに靠れかかっているのを認め、のみならず、その少女が私の足音を聞きつけてひょいと私の方を振り向いたらしいのを認めるが早いか、私は顔を赤らめながら、その少女をよく見ずに慌てて其処から引っ返してしまった。――その時若し私がその少女をもっとよく見たら、それが数日前に私が宿屋の裏の狭い坂道ですれちがった数人の少女たちの中の一人であることに気がついて、私の狼狽はもっと大きかっただろうに。……
この頃刈ったばかりらしい青々とした芝生が、その時にはその少女の坐っていたヴェランダをこっちからは見えなくさせていた一面の灌木の茂みに代えられて、そうしていま私のぼんやり立っているこの小径からその芝生を真白い柵が鮮やかに区限って。……そのように、すべてが変っていた。いま私にまざまざと蘇って来たところの、そう言うような、最初に私が彼女に会った当時の彼女のういういしい面影と、数カ月前、最後に会った時の、そしてその時から今だに私の眼先にちらついてならない彼女の冷やかな面影と、何と異って見えることか! 彼女の容貌そのものがそんなにも変ったのか、それとも私の中にその幻像が変ったのか、私は知らない。しかし何もかも、恐らく私自身も変ってしまったのだ。……
私はそのとき向うの方から何かを重そうに担いながら私の方に近づいてくる者があるのを認めた。それは羊歯を背負っている宿の爺やであった。私はいつか彼の話していた羊歯のことを思い出した。
私は爺やの言うがままに、彼についてその庭の中へおずおずと這入って行った。そうして爺やが庭の一隅にその羊歯を植えつけている間、私は黙ってヴェランダの床板に腰かけていた。爺やはときどき羊歯を植えつける場所について私に助言を求めた。その度毎に、私の胸はしめつけられた。
一通りみんな植えつけてしまうと、爺やは私のそばに腰を下ろした。私の与えた巻煙草を彼は耳にはさんだきり、それを吸おうとはせずに、自分の腰から鉈豆の煙管を抜いた。
私はふだんの無口な習慣から抜け出ようと努力しながら、これもまた機嫌買いらしい爺やを相手に世間話をし出した。
「爺やさん、峠の途中に気ちがいの女がいるそうだけれど、それあ本当なのかい?」
「へえ、可哀そうにすこし気が変なんでございますよ、――先にはうちでもちょいちょい何かくれてやりましたもので、よく山からにこにこしながら、いろんな花を採って来てくれたりしましたっけが。……ただ、そいつの亭主というのが大へんな奴でしてね、こっちからわざわざ何か持って行ってやったりしますと、いつも酔払っていちゃあ、『くれるというものなら貰っといたらいいじゃねえか』と、嬶の気の毒がるのを叱りつけようてった調子なんですからね。……それで、こっちでもだんだん情が通わなくなって来て、この頃じゃ、もう、ちっとも構いませんです」
「何だってね、――その気ちがいって、ときどき川のなかへ飛び込むんだってね?」
「へえ、そんな人騒がせなこともときどきやりますが、あれあどうも少し狂言らしいんで……」
「そうなのかい? ――どうしてまたそんな……」
私はふと口ごもりながら、あの林のなかの空地にあった異様な恰好をした氷倉だの、その裏の方でした得体の知れない叫び声だのを思い浮べた。そうしてそれ等のものを今だにこんなにも異常に私に感じさせている、峠の子供たちの不思議な領分の上を思った。――子供たちよ、よし大人たちにはそういう狂行が贋ものに見えようとも、お前たちは、そんな大人たちには鎖されている、お前たちだけのその領分の中で遊べるだけ遊んでいるがいい。
爺やとの話は、私の展開さすべく悩んでいた物語のもう一人の人物の上にも思いがけない光を投げた。それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。或る年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗に尋ねようとはしなかった。)――それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。……私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗つて彼自身もその老外人に一種の敵意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の愚かしさの印しであろうか、それともその老外人の頑な気質のためであろうか? ……そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇の生墻のことを何か切ないような気持になって思い出していた。
私はヴェランダの床板に腰かけたきり、爺やがまた何処からか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。しかし今度は黙ったままで。そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手の甲を目で追っているうちに、ふいと「巨人の椅子」のことを思い浮べた。――私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。
それから数分後に、私はその巨きな岩を目のあたりに見ることのできる、例の見棄てられたヴィラの庭のなかに自分自身を見出した。そのヴィラに昔住んでいた二人の老嬢のことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。「ああ、セエモオルさんですか」と言ったきりだった。何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」と私は、いま私の下方に横わっている高原一帯を隔てて、私と向い合っている、遥か彼方の「巨人の椅子」を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。
だんだんに日が暮れだした。私のすぐ足許の、いつかその赤い屋根に交尾している小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、橙色のカアテンの揺らいでいるのが見えた。ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうに押し上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの荒廃したヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花咲ける野、その別荘、それからもう霞みながらよく見えなくなり出した丘々の襞、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」などに傾け出していた。それにも拘わらず、私はときどきややもするとそれ等のものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。
突然、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり薄暗くなっている大きな樅の、ほとんど水平に伸びた枝の一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の山鳩が飛んできて止まった。そうしてそんなところに私のいることに向うでも愕いたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。あたかも私自身の思惟そのものであるかのごとく重々しく羽搏きながら、そしてその翼を無気味に青く光らせながら……。
[#改ページ]
夏
突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅の茂みの向うの、別館の窓ぎわに、一輪の向日葵が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。私はやっと其処に、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せぎすな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。……誰かを待っているらしいその少女は、さっきから中庭のあちらこちらに注意深そうな視線をさまよわせていたが、最後にその視線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の上に置いた。そんな最初の出会の時には、大概の少女たちは、自分が見つめられていると思う者からわざとそっぽを向いて、自分の方ではその者にまったく無関心であることを示したがるものだが、そんな羞恥と高慢さとの入り混った視線とは異って、私の上に置かれているその少女の率直な、好奇心でいっぱいなような視線は、私にはまぶしくってそれから目をそらさずにはいられないほどに感じられたので、私はそのときの彼女――最初に私の目の前に現れたときの彼女に就いては、そのやや真深かにかぶった黄いろい帽子と、その鍔のかげにきらきらと光っていた特徴のある眼ざしとよりほかには、殆んど何も見覚えのない位であった。……やがて別館から彼女の父らしいものが姿を現した。そしてその二人づれは私の窓の前を斜めに横切って行ったが、見ると、彼女はその父よりも背が高いくらいであった。そしてその父らしいものが彼女にしきりに話しかけるのに、彼女はいかにも気がなさそうに返事をしながら、いつまでも私の方へ躑躅の茂みごしにその特徴のある眼ざしをそそぎつづけていた。……その二人が中庭を立ち去ってしまった跡も、私はしばらく、今しがたまでその少女が向日葵のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし空虚になった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい匂いが漂い出しているのだった。……
その日の夕方の、別館の方への私の引越し、(今まで私の一人で暮らしていた、古い離れが修繕され始めるので――)その次ぎの日の、その少女の父の出発、それから他にはまだ一人も滞在客のないそんな別館での、その少女と二人っきりの、背中合わせの暮らし……。
しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったきりで、自分の仕事に没頭していた。その私の書きつつある「美しい村」という物語は、六月頃からこの村に滞在している私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとした高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行ったものだった。そうして私は丁度いま、私がそれまで昔の恋人に対する一種の顧慮から、その物語の裏側から、そして唯、それによってその淡々とした物語に或る物悲しい陰影を与えるばかりで満足しようとしていた、この村での数年前の彼女たちとの花やかな交際の思い出、ことにこの村での彼女たちとの最初の歓ばしい出会いを、とある日、道ばたに咲き揃っている野薔薇の花がまざまざと私のうちに蘇らせ、それが遂に思いがけぬ出口を見つけた地下水のように、その物語の静かな表面に滾々と湧きあがってくるところを書き終えたばかりのところだった。そうしてそういう昔のさまざまな歓ばしい出会いの追憶に耽っている暇もなく、すでに私から巣立っていったそれらの少女たち、ことにそのうちの一人との気まずい再会を恐れて、季節に先立ってこの村を立ち去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、その物語の結尾として、私はこれから書こうとしているところだった。
私の新しい部屋は、別館の二階の奥まったところで、南向きの窓があり、そしてその窓からは数本の大きな桜の幹ごしに向うの小高い水車の道に面しているいくつかのヴィラの裏側がちらちらと見えていた。そしてその窓のすぐ下を、私がそれらの少女たちと初めて出会ったところの、例の抜け道が、小さな坂になりながら、灌木のなかに細々と通っているのだった。……私は私のやりかけている仕事から気持をそらすまいとして、私とたった二人きりでその別館の中に暮らしだしているその未知の少女とは、わざと背中を向き合わせてばかりいた。その癖、私は私の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、一定の時刻に、絵具箱をぶらさげながら、その少女が水車の道の方へと昇ってゆくのを見逃したことはなかった。丁度、午前中のその時刻の光線の具合で、木洩れ日がまるで地肌を豹の皮のように美しくしている、その小さな坂を、ややもすると滑りそうな足つきで昇ってゆくその背の高い、痩せぎすな後姿を見送りながら、その上の水車の道に出て、さて、それから彼女はどの小径をどう通って、どんな場所へ絵を描きに行くのだろうかと、そこいらの林のなかの小径が実にややこしく、私自身も初めてこの村へ来た当時は、何度も道に迷ってしまった位ではあったし、それにまたそんなことからして一人の少女と私との奇妙な近づきが始まったりしたので、私は、絵を描く場所を捜しながらそんな見知らぬ小径をさまよっているらしい彼女のことを、何となく気づかわしく思っていた。
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