その翌朝は、霧がひどく巻いていた。私はレエンコートをひっかけて、まだ釘づけにされている教会の前を通り、その裏の橡の林の中を横切って行った。その林を突き抜けると、道は大きく曲りながら一つの小さな流れに沿うて行った。しかしその朝はその流れは霧のためにちっとも見えなかった。そしてただ、せせらぎの音ばかりが絶えず聞えていた。私はやがて小さな木橋を渡った。それからその土手道は、こんどは今までとは反対の側を、その流れに沿うて行くのであった。さて、その土手道へ差しかかろうとした途端、私はふと立ち止まった。私の行く手に何者かが異様な恰好でうずくまっているのが仄見えたので。その異様なものは、霧のなかで私自身から円光のように発しているかに見える、私を中心にして描いた円状の薄明りの、丁度その円周の上にうずくまっているのだった。しかし霧は絶えず流れているので、或る時は一層濃いのが来てその人影をほとんど見えなくさせるが、やがてそれが薄らいで行くにつれてその人影も次第にはっきりしてくる。漸っとそれが蝙蝠傘の下で、或る小さな灌木の上に気づかわしげに身を跼めている、西洋人らしいことが私には分かり出した。もっと霧が薄らいだとき、私はその人の見まもっているのが私の見たいと思っていた野薔薇の木らしいことまで分かった。向うでは私のことに気づかないらしかった。そのため、誰にも見られていないと信じながら何かに夢中になっている時、ややもすると、あとでそれを思い出そうとしても思い出せないような変にむつかしい姿勢をしていることがあるものだが、私の行く手を塞いでいるその人も恐らくそんな時の姿勢をしているのにちがいなかった。……気がついて見ると私のすぐ傍らにもあった野薔薇の木を、それが私の見たいと思っている野薔薇の木のほんのデッサンでしかないように見やりながら、私はそのままじっと佇んでいた。――やっとその人影は身を起し、蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから歩き出した。そうしてずんずん霧のなかに暈けて行った。
私も歩き出しながら、やっとその野薔薇の小さな茂みの前に達した。そうして今しがたその人のしていたような難しい姿勢を真似ながら、その上に身を跼めてみた。そうすればその人の心の状態までが見透かされでもするかのように。その小さな茂みはまだ硬い小さな莟を一ぱいにつけながら、何か私に訴えでもしたいような眼つきで私を見上げた。私は知らず識らずの裡にそれらの莟を根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている自分自身に気がついた。ふとさっきの人のしていた異様な手つきがまざまざと蘇った。そうしてその小さな茂みがマイ・ミクスチュアらしい香りを漂わせているのに気がついたのもそれと殆んど同時だった。湿った空気のために何時までもそのこんがらかった枝にからみついて消えずにいるその香りは、まるでその小さな茂みそのものから発せられているかのように思われた。
――私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。そう言えば、さっきから向うの方に霧のために見えたり隠れたりしている赤茶けたものは、そのサナトリウムの建物らしかった。
私は再び霧のなかの道を、神々しいような薄光りに包まれながら、いくら歩いてもちっとも自分の体が進まないようなもどかしさを感じながら、あてもなく歩き続ていた。私の心はさっき霧の中から私を訴えるような眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽ見もしなかったけれど、今度こそ、私もそれらの花に対して私のありったけの誠実を示すことの出来る機会の来つつあることを心から喜んでいた。そしてそのための私の歓ばしさと言ったら、昔の詩人等が野薔薇のために歌った詩句を、口ずさむなんと言うのではなく、それを知っているだけ残らず大きな声で呶鳴り散らしたいような衝動にまで、私を駈り立てるのであった。
私の書こうとしていた小説の主題は、漸くその日その日を楽しむことが出来るようになったこんな田舎暮しの中では、いよいよ無意味なものに思われて来た。それに、そんなものを書くことは、自分で自分を一層どうしようもない破目に陥し入れるようなものであることにも気がついたのだ。「アドルフ」の例が考えられた。ああいうものにまで私は自分の小さな出来事を引き揚げたかったのだ。弱気でしかも自我の強いために自分自身も不幸になり、他人をも不幸にさせたところのアドルフの運命は又、私の運命さながらに思えたからだ。しかし、「アドルフ」の作者ほど、そういう弱々しい性格(恐らくそれは彼自身のであろうけれど)に対するはげしい憎悪も持っていない、むしろそういう自分自身を甘やかすことしか出来そうもない私がそんな小説の真似なんかしようものなら、それによって更にもう一層自分自身をも、又他人をも不幸にするばかりであることが、わかり過ぎるくらい私にはわかって来たのだ。……こういうような考え方は、私の暗い半身にはすこし気に入らないようだったけれども、この頃のこんな田舎暮しのお蔭で、そう言った私の暗い半身は、もう一方の私の明るい半身に徐々に打負かされて行きつつあったのだ。
そうして今の私がそれならば書いてもみたいと思うものは、たとえどんなに平凡なものでもいいから、これから私の暮らそうとしているようなこんな季節はずれの田舎の、人っ子ひとりいない、しかし花だらけの額縁の中へすっぽりと嵌まり込むような、古い絵のような物語であった。私は何とかしてそんな言わば牧歌的なものが書きたかった。私はこれまでも他人の書いたそういう作品を随分好きでもあり、そういう出来事に出遇ったということでその人を羨ましくも思って来たが、私自身でそう言うものを書いてみようとも、又、書けそうにも思えなかった。が、それだけ一層、今の私はそういう牧歌的なものを書いてみたいと思い立ったのである。――私はしかし、それを書くためには、いま自分の暮らしつつあるこの村を背景にするよりほかはなく、と言って一月や二月ぐらいの滞在中にそういう出来事が果して私の身辺に起り得るものかどうか疑わしかった。莫迦莫迦しいことだが、私は何度も林の中の空地で無駄に待ち伏せたものだった。男の子のように美しい田舎の娘がその林の中からひょっこり私の前に飛び出して来はしないかと。……そんな空しい努力の後、やっと私の頭に浮んだのは、あのお天狗様のいる丘のほとんど頂近くにある、あの見棄てられた、古いヴィラであった。あのヴィラを背景にして、そこに毎夏を暮らしていた二人の老嬢のいかにも心もとなげな存在を自分の空想で補いながら書いて行く――それなら何んだか自分にもちょっと書けそうな気がした。この間その家の荒廃した庭のなかへ這入り込んで其処から一時間ばかり眺めていた高原の美しい鳥瞰図だの、一かどのニイチェアンだった学生の時分からうろおぼえに覚えていた zweisam という、いかにもその老嬢たちに似つかわしいドイツ語だのを、ひょっくりと思い浮べながら……。
或る夕方、私は再びそのヴィラまで枯葉に埋まった山径を上って行った。庭の木戸は私がそうして置いたままに半ば開かれていた。私の捨てた煙草の吸殻がヴェランダの床に汚点のように落ちていた。私は日の暮れるまで、其処から林だの、赤い屋根だの、丘だの、それから真正面に聳えている「巨人の椅子」だのを、一々暗記してしまうほど熱心に見つめていた。……ときどき、こんな夕暮れ時に、二人のうちの私のよく覚えている方の神々しいような白髪の老婦人が、このヴェランダの、そう、丁度私の坐っているこの場所に腰を下ろしたまま、彼女のとうに死んでいる友人と話し合ってでもいると言ったような、空虚な眼ざしがまざまざと蘇ってくる……と思うと、一瞬間それがきらきらと少女の眼ざしのようにかがやく……家の中からは夕餉の支度をしている、もう一方の婦人の立てる皿の音が聞えて来る……彼女はふと十字を切ろうとするように手を動かしかけるが、それはほんの下描きで終ってしまう……彼女にだけは一種の言語をもっていそうな気のする「巨人の椅子」……そんな一方の老嬢のさまざまな姿だけは、私が実際にそれらを見て、そして無意識の裡にそれらを記憶していたのではないかと思えるくらい、まざまざと蘇って来るが、――もう一人の老嬢の方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、容易に私の物語の中には登場して来ようとはしない。私はどうしても彼女の俤を蘇らすことが出来ないのである。……
そんな或る午後、私のあてもなくさまよっていた眼ざしが、急に注意深くなって、私の丁度足許にある夕日のあたっている赤い屋根の上にとまった。何か黒い小さなものがその屋根の頂きからころころと転がって来ては、庇のところから急に小石のように墜落して行くのだった。しばらく間を置いては又それをやっている。私は何だろうと思って、眼を細くしながら見まもっていた。そうしてそれ等が二羽の小鳥であるのを認めた。それ等が交尾をしながら、庇のところまで一緒に転がって来ては、そこから墜落すると同時に、さあと二叉に飛びわかれているのだった。同じ小鳥たちなのか、他の小鳥たちなのか分らないが、それが何回となく繰り返されている。――これは私の物語の中にとり入れてもいいぞ、と思いながら私はそれを飽かずに見まもっている。――こんな風にして、自分の見つつあるものが自分の構想しつつある物語の中へそのままエピソオドとして溶け込んで来ながら、自分からともすると逃げて行ってしまいそうになる物語の主題を少しずつ発展させているように見える……。
アカシアの花が私の物語の中にはいって来たのもそんな風であった。それの咲き出す頃が丁度私の田舎暮しもそのクライマックスに達するのではないかというような予覚のする、例の野薔薇の莟の大きさや数を調べながら、あのサナトリウムの裏の生墻の前は何遍も行ったり来たりしたけれど、その方にばかり気を奪られていた私は、其処から先きの、その生墻に代ってその川べりの道を縁どりだしているアカシアの並木には、ついぞ注意をしたことがなかった。ところが或る日のこと、サナトリウムの前まで来かかった時、私の行く手の小径がひどく何時もと変っているように見えた。私はちょっとの間、それから受けた異様な印象に戸惑いした。私はそれまでアカシアの花をつけているところを見たことがなかったので、それが私の知らないうちにそんなにも沢山の花を一どに咲かしているからだとは容易に信じられなかったのであった。あのかよわそうな枝ぶりや、繊細な楕円形の軟かな葉などからして私の無意識の裡に想像していた花と、それらが似てもつかない花だったからであったかも知れない。そしてそれらの花を見たばかりの時は、誰かが悪戯をして、その枝々に夥しい小さな真っ白な提灯のようなものをぶらさげたのではないかと言うような、いかにも唐突な印象を受けたのだった。やっとそれらがアカシアの花であることを知った私は、その日はその小径をずっと先きの方まで行ってみることにした。アカシアの木立の多くは、どうかするとその花の穂先が私の帽子とすれすれになる位にまで低くそれらの花をぷんぷん匂わせながら垂らしていたが、中にはまだその木立が私の背ぐらいしかなくって、それが殆ど折れそうなくらいに撓いながら自分の花を持ち耐えている傍などを通り過ぎる時は、私は何んだか切ないような気持にすらなった。アカシアの並木は何処まで行っても尽きないように見えた。私はとうとう或る大きなアカシアを撰んでその前に立ち止まった。私は何とかしてこれらのアカシアの花が私に与えたさっきの唐突な印象を私自身の言葉に翻訳して置きたいと思ったのだ。それらの花のまわりには無数の蜜蜂がむらがり、ぶんぶん唸り声を立てていた。しかしそれらの蜜蜂は空気のなかで何処で唸っているともつかなかったし、それに私はさっきから自分の印象をまとめようとしてそれにばかり夢中になっていたので、そんな唸り声にふと気づく度毎に、何んだか私自身の頭脳がひどい混乱のあまりそんな具合に唸り出しているのではないかと言うような気もされた。……
その村の東北に一つの峠があった。
その旧道には樅や山毛欅などが暗いほど鬱蒼と茂っていた。そうしてそれらの古い幹には藤だの、山葡萄だの、通草だのの蔓草が実にややこしい方法で絡まりながら蔓延していた。私が最初そんな蔓草に注意し出したのは、藤の花が思いがけない樅の枝からぶらさがっているのにびっくりして、それからやっとその樅に絡みついている藤づるを認めてからであった。そう言えば、そんなような藤づるの多いことったら! それらの藤づるに絡みつかれている樅の木が前よりも大きくなったので、その執拗な蔓がすっかり木肌にめり込んで、いかにもそれを苦しそうに身もだえさせているのなどを見つめていると、私は無気味になって来てならない位だった。――或る朝、私は例の気まぐれから峠まで登った帰り途、その峠の上にある小さな部落の子供等二人と道づれになって降りて来たことがあった。その折のこと、その子供たちはいろいろな木に絡まっている、もっと他の山葡萄だの、通草だのをも私に教えてくれたのだった。子供たちは秋になるとそれ等の実を採りに来るので、それ等のある場所を殆んど暗記していた。それからまた小鳥の巣のある場所を私に教えてくれたりした。彼等は峠で力餅などを売っている家の子供たちであった。大きい方の子は十一二で、小さい方の子は七つぐらいだった。三人兄弟なのだが、その真ん中の子が村の小学校からまだ帰らぬので峠の下まで迎えに行くのだと言っていた。
子供たちは何を見つけたのか急に私を離れて、林のなかへ、下生えを掻き分けながら駈けこんでいった。そうして一本のやや大きな灌木の下に立ち止まると、手を伸ばしてその枝から赤い実を揉ぎとっては頬張っていた。それは何の実だと訊いたら、「茱萸だ」と彼等は返事をした。そうして彼等はときどき私の方をふり向いて手招きをしたが、私が下生えに邪魔をされてなかなか其処まで行くことが出来ずにいると、大きい方の子がその実を少しばかり私のために持って来てくれた。私は子供たちの真似をしてそれを一つずつこわごわ口に入れてみた。なんだか酸っぱかった。私はしかしそれをみんな我慢をして嚥み込んだ。そうして子供たちが低い枝にあった実をすっかり食べつくしてしまうと、今度は高くて容易に手の届きそうもない枝をしきりに手ぐろうとしては失敗しているのを、私は根気よく、むしろ面白いものでも見ているように見入っていた。
子供たちはまた林の中のいろいろな抜け道を私に教えてくれようとした。そうして急な草深い斜面をずんずん駈け下りて行った。私はそのあとから危かしそうな足つきでついて行った。ほとんど何処からも日の射し込んで来ないくらい、木立が密生して枝と枝との入りまじっているところもあった。かと思うと急に私たちの目の前が展けて、ちょっとの間何も見えなくなるくらい明るい林のなかの空地があったりした。私たちがそういう林の中の空地の一つへ辿り着いた時、突然、一つの小石が何処からともなく飛んで来て私たちの足許に落ちた。その飛んで来たらしい方を私たちがまぶしそうに振り向いた途端、数本の山毛欅を背にしながら、ほとんど垂直なほど急な勾配の藁屋根をもった、窓もなんにもないような異様な小屋の蔭へ、小さな黒い人影が隠れるのを私たちは認めた。それを知っても、しかし、私の小さな同伴者たちは何も罵ろうとせず、却って私に向って何かその言訣でもしたいような、そしてそれを私に言い出したものかどうかと躊躇っているような、複雑な表情をして私の方を見上げているので、私は不審そうに、
「あの子は白痴なのかい?」と訊いた。
子供たちは顔を見合わせていた。それから大きい方の子が低声で私に答えた。
「そうじゃないよ。――あれあ気ちがいの娘だ」
「ふん、それであんな変な家にいるんだね?」
「あれあ氷倉だ。――あの向うの家だ」
しかしその氷倉だという異様な恰好をした藁小屋に遮ぎられて、その家らしいものの一部分すら見えないところを見ると、恐らく小さな掘立小屋かなんかに違いなかった。
「気ちがいっておとっつぁんがかい?」
「……」兄も弟も同時に頭を振った。
「じゃ、おっかさんの方だね?」
「うん……」そう答えてから、兄は弟の方を見い見い誰に言うともなく言った。「ときどき川んなかで呶鳴っているなあ」
「おれも一度向うの川で見た」弟の返事である。
「向うって何処だ?」
「向うの方だ」弟は何んだか自信のなさそうな、いまにも泣き出しそうな顔をして、漠然と或る方向を私に指して見せた。
「そうか」私はわかったような振りをした。「……おとっつあんは何をしているんだ?」
「木樵りだなあ」とこんどはまた兄が弟の方を見い見い言った。
「変なとっつあんだ」弟は顔をしかめながらそれに答えた。
氷倉の蔭から、再びちらりと小娘らしい顔が出たようだったけれど、私たちの方からは丁度逆光線だったので、よくもそれを見分けないうちに、その顔はすぐ引っ込んでしまった。それっきりその小娘は顔を出さなかった。ただ私たちはそれから間もなく異様な叫びを耳にした。それはその小娘が私たちを罵ったのか、それとも私たちには見えぬ小屋の中からその小娘に向ってそれが叫ばれたのか、それとも又、その裏の林のなかで山鳩でも啼いたのだろうか? ともかくも、その得体の知れぬアクセントだけが妙に私の耳にこびりついた。――が、私たちは無言のまま、ただちょっと足を早めながら、その空地を横切って行った。私たちはそれから再び林の中へ這入った。その中へ這入ると急に薄暗くなったようだけれど、私たちの眼底にはいまの空地の明るさがこびりついているせいか、暫らく私たちの周りには一種異様な薄明りが漂っているように見えた。そんな林の中をずんずん先きになって駈け下りて行く子供たちの跡について行きながら、彼等がいまだに何となく昂奮しているらしいのを、私は漠然と感じていた。そうして、こんな風に彼等と一緒に峠を下りて行く私は一体彼等にはどんな人間に見えているのだろう? とそういう現在の私自身にも興味を持ったりした。
峠を下り切ったところに架っている白い橋の上に、小さな男の子が一人、鞄を背負ったまま、しょんぼりと立っていた。私の連れ立っている子供たちがその男の子に同時に声をかけた。彼等を見るとその男の子はにっこりと微笑した。が、私にも気がつくと、人見知りでもするかのように、橋の下の渓流の方へその小さな顔をそむけた。私も私で、しばらくその渓流をぼんやり見下ろしていた。さっき林のなかの空地で子供の一人が漠然と指したそのずっと上流にあたる方を心のうちに描きながら。それから私は三人の子供たちに小銭をすこし与えて、彼等と別れた。
雨が降り出した。そうしてそれは降り続いた。とうとう梅雨期に入ったのだった。そんな雨がちょっと小止みになり、峠の方が薄明るくなって、そのまま晴れ上るかと思うと、峠の向側からやっと匍い上って来たように見える濃霧が、峠の上方一面にかぶさり、やがてその霧がさあと一気に駈け下りて来て、忽ち村全帯の上に拡がるのであった。どうかすると、そういう霧がずんずん薄らいで行って、雲の割れ目から菫色の空がちらりと見えるようなこともあったが、それはほんの一瞬間きりで、霧はまた次第に濃くなって、それが何時の間にか小雨に変ってしまっていた。
私はその暗い雲の割れ目からちらりと見える、何とも言えずに綺麗な、その菫色がたまらなく好きであった。そうしてそれは、殆んど日課のようにしていた長い散歩が雨のために出来なくなっている私にとっては、たとえ一瞬間にもしろそれが見られたら、それだけでもその日の無聊が償われたようにさえ思われた程であった。――「おまえの可愛いい眼の菫、か……」そんなうろおぼえのハイネの詩の切れっぱしが私の口をふと衝いて出る。「ふん、あいつの眼が、こんな菫色じゃなくって仕合せというものだ。そうでなかった日にや、おれもハイネのようにこう呟やきながら嘆いてばかりいなきゃなるまい。――おまえの眼の菫はいつも綺麗に咲くけれど、ああ、おまえの心ばかりは枯れ果てた……」
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