或野分立った朝、尼はその女のもとに菓子などを持って来ながら、いつものように色の腿めた衣をかついだ女を前にして、何か慰めるように、
「あなた様もどうして此の儘でいつまでも居られましょう」と言いだした。「こんなことはわたくしとしては申し上げ悪いことですけれど、いまわたくしの所に近江からいささか由縁のありますものの御子息が上京せられて来ておられますが、そのものがあなた様のお身の上を知って、ぜひとも国へお伴れしたいと熱心にお言いになって居りますけれど、いかがでございましょうか、一そそのもののお言葉に従いましては。此の儘こうして入らっしゃいますよりは、少しはましかと存じますが。」
女はそれには何にも返事をしないで、空しい目を上げて、ときおり風に乱れている花薄の上にちぎれちぎれに漂っている雲のたたずまいを何か気にするように眺めやっていたが、急に「そうだ、わたくしはもうあの方には逢われないのだ」とそんなあらぬ思いを誘われて、突然そこに俯伏してしまった。
夜なかなどに、ときおり郡司の息子が弓などを手にして、女の住んでいる対の屋のあたりを犬などに吠えられながら何時までもさまようようになったのは、そんな事があってからのことだった。夜もすがら、木がらしが萩や薄などをさびしい音を立てさせていた。どうかすると、ひとしきり時雨の過ぎる音がそれに交じって聞えたりした。そうでなければ、郡司の息子が、ときどき自分の怖ろしさを紛らせようとでもするのか、あちこちと草の中を歩きまわっていた。……
そんな夜毎に、女は妻戸をしめ切って、ともし火もつけず、身の置きどころもないかのように、色の腿めた衣をかついだまま、奥のほうにじっとうずくまっていた。かくも荒れはてた棲み家では、奥ぶかくなどにじっとしていると、その儘何かの物のけにでも引っ張り込まれていってしまいそうな気がされて、女は怯え切り、殆ど寐られずに過ごすことが多いのだった。
或しぐれた夕方、尼は女のところに来ると、いつものように沁々と話し込んでいた。「ほんとうにいつまで昔のままのお気もちでいらっしゃるのでございましょう。」尼はことさらに歎息するように言った。「それは今のようにでもして居られますうちはまだしも、此のわたくしでも若しもの事がございましたら、どうなさるお積りなのですか。しかし、やがてそういうときの来ることは分かっています。」
女は数日まえのことを思い出した。――数日まえ、尼にその話をはじめて切り出されたとき、突然はっとして「自分はもうあのお方には逢われないのだ」と気づいたときのいまにも胸の裂けそうな思いのしたことを思い出した。あのときから女の心もちは急に弱くなった。それまでのすべての気強さは――畢竟、それはいつかは男に逢えると思っての上での気強さであった。――女はもう以前の女ではなかった。
その晩、尼は郡司の息子をその女のもとへ忍ばせてやった。
それから夜毎に郡司の息子は女のもとへ通い出した。
女はもう詮方尽きたもののように、そんなものにまですべてをまかせるほかなくなった自分の身が、何だかいとおしくていとおしくてならないような、いかにも悔やしい思いをしながら、その男に逢いつづけていた。
漸く任が果てて、その冬のはじめに近江へ帰らなければならなくなったときには、郡司の息子はもうすっかり此の女に睦んで、どうしてもその儘女を置きざりにして往く気にはなれずにしまった。
女はそれを強いられる儘に、京を離れるのはいかにもつらかったけれど、しかし自分の余りにもつたなかった来しかたに抗うような、そうして何か自分の運を試めしてみるような心もちにもなりながら、その郡司の息子について近江に下っていった。
四
しかしその郡司の息子には、国元には、二三年前にめとった妻が残してあった。そうして親達の手まえもあり、息子は、その京の女をおもてむき婢として伴れ戻らなければならなかった。
「そのうちまた、わたくしは京に上るはずです。」息子は女を宥めるようにして言った。「その折にはきっと妻として伴れて往きますから、それまで辛抱していて下さい。」
女はそんな事情を知ると、胸が裂けるかと思うほど、泣いて、泣いて、泣き通した。――すべての運命がそこにうち挫かれた。
が、一月たち二月たちしているうちに、――殆ど誰にも気どられずに婢として仕えているうちに、――こうしている現在の自分がその儘でまるきり自分にも見ず知らずのものでもあるかのような、空虚な気もちのする日々が過ごされた。いままでの不為合せな来しかたが自分にさえ忘れ去られてしまっているような、――そうして、そこには、自分が横切ってきた境涯だけが、野分のあとの、うら枯れた、見どころのない、曠野のようにしらじらと残っているばかりであった。「いっそもうこうして婢として誰にも知られずに一生を終えたい」――女はいつかそうも考えるようになった。
此処に、女は、まったく不為合せなものとなった。
山一つ隔てただけで、こちらは、梢にひびく木がらしの音も京よりは思いのほかにはげしかった。夜もすがら、みずうみの上を啼き渡ってゆく雁もまた、女にとっては、夜々をいよいよ寝覚めがちなものとならせた。
それから数年後の、或年の秋、その近江の国にあたらしい国守が赴任して来て、国中が何かとさわぎ立っていた。
国内の巡視に出た近江の守の一行が、方々まわって歩いて、その郡司の館のある湖にちかい村にかかったときは、ちょうど冬の初で、比良の山にはもう雪のすこし見え出した頃だった。
その日の夕ぐれ、丘の上にあるその館では、守は郡司たちを相手にして酒を酌みかわしていた。
館のうえには時おり千鳥のよびかう声が鋭く短くきこえた。――すっかり葉の落ち尽した柿の木の向うには、枯蘆のかなたに、まだほの明るいみずうみの上がひっそりと眺められた。
守は、すこし微醺を帯びたまま、郡司が雪深い越に下っている息子の自慢話などをしているのをききながら、折敷や菓子などを運んでくる男女の下衆たちのなかに、一人の小がらな女に目をとめて、それへじっと熱心な眼ざしをそそいでいた。他の婢と同様に、髪は巻きあげ、衣も粗末なのをまとってはいたが、その女は何処やら由緒ありそうに、いかにも哀れげに見えた。その女をはじめて見たときから、守の心はふしぎに動いた。
宴の果てる頃、守は一人の小舎人童を近くに呼ぶと、何かこっそりと耳打ちをした。
その夜遅く、京の女は郡司のもとに招ぜられた。郡司は女に一枚の小袿を与えて、髪なども梳いて、よく化粧してくるようにと言いつけた。女は何んのことか分からなかったが、命ぜられたとおりの事をして、再び郡司の前に出ていった。
郡司はその女の小袿姿を見ると、傍らの妻をかえりみながら、機嫌好さそうに言った。「さすがは京の女じゃ。化粧させると、見まちがうほど美しゅうなった。」
それから女は郡司に客舎の方へ伴れて往かれた。女は漸っと事情が分って来ても、押し黙って、郡司のあとについてゆきながら、何か或強い力に引きずられて往きでもしているような空虚な自分をしか見出せなかった。
守の前に出されると、ほのぐらい火影に背を向けた儘、女は顔に袖を押しつけるようにしてうずくまった。
「おまえは京だそうだな。」守はそこに小さくなっている女のうしろ姿を気の毒そうに見やりながら、いたわるように問うた。
「…………」女はしかし何とも答えなかった。
そうして女は数年まえのことを思い出した。――数年まえには、田舎上りの見ず知らずの男に身をまかせて京を離れなければならなかった自分が自分でもかわいそうでかわいそうでならなかった。そうしてそのときは相手の男なんぞはいくらでもさげすめられた。が、こんどと云うこんどは、その相手がかえって立派そうなお方であるだけに、そういう相手のいいなりになろうとしている自分が何だか自分でもさげすまずにはいられないような――そうしていくら相手のお方にさげすまれても為方のないような――無性にさびしい気もちがするばかりだった。女にしてみると、こうして見出されるよりは、いままでのように誰にも気づかれずに婢としてはかなく埋もれていた方がどんなに益しか知れなかった。……
「己はおまえを何処かで見たようなふしぎな気がしてならない。」男はもの静かに言った。
女は相変らず袖を顔にしたぎり、何んといわれようとも、懶げに顔を振っているばかりだった。
館のそとには、時おりみずうみの波の音が忍びやかにきこえていた。
そのあくる夜も、女は守のまえに呼ばれると、いよいよ身の置きどころもないように、いかにもかぼそげに、袖を顔にしながら其処にうずくまっていた。女は相変らず一ことも物を言わなかった。
夜もすがら、木がらしめいた風が裏山をめぐっていた。その風がやむと、みずうみの波の音がゆうべよりかずっとはっきりと聞えてきた。おりおり遠くで千鳥らしい声がそれに交じることもある。守はいたわるように女をかきよせながら、そんなさびしい風の音などをきいているうちに、なぜか、ふと自分がまだ若くて兵衛佐だった頃に夜毎に通っていた或女のおもかげを鮮かに胸のうちに浮べた。男は急に胸騒ぎがした。
「いや、己の心の迷いだ。」男はその胸の静まるのを待っていた。
突然、男の顔から涙がとめどなくながれて女の髪に伝わった。女はそれに気がつくと、いかにも不審に堪えないように、小さな顔をはじめて男のほうへ上げた。
男は女とおもわず目を合わせると、急に気でも狂ったように、女を抱きすくめた。「矢張りおまえだったのか。」
女はそれを聞いたとき、何やらかすかに叫んで、男の腕からのがれようとした。力のかぎりのがれようとした。「己だと云うことが分かったか。」男は女をしっかりと抱きしめた儘、声を顫わせて言った。
女は衣ずれの音を立てながら、なおも必死にのがれようとした。が、急に何か叫んだきり、男に体を預けてしまった。
男は慌てて女を抱き起した。しかし、女の手に触れると、男は一層慌てずにはいられなかった。
「しっかりしていてくれ。」男は女の背を撫でながら、漸っといま自分に返されたこの女、――この女ほど自分に近しい、これほど貴重なものはいないのだということがはっきりと身にしみて分かった。――そうしてこの不為合せな女、前の夫を行きずりの男だと思い込んで行きずりの男に身をまかせると同じような詮らめで身をまかせていたこの惨めな女、この女こそこの世で自分のめぐりあうことの出来た唯一の為合せであることをはじめて悟ったのだった。
しかし女は苦しそうに男に抱かれたまま、一度だけ目を大きく見ひらいて男の顔をいぶかしそうに見つめたぎり、だんだん死顔に変りだしていた。……
●表記について
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