五十三
廊下へ出て耳を澄して見たが、三味線は聞えても、矢張歌が能く聞えない。が、愈例のに違いないから、私は意を決して裏梯子を降りて、大廻りをして、窃そり台所近くへ来て見ると、誰も居ない。皆其隣の家の者の住居にしてある座敷に塊まっているらしい。好い塩梅だと、私は椽側に佇立んで、庭を眺めている風で、歌に耳を傾けていた。
好い声だ。たッぷりと余裕のある声ではないが、透徹るように清い、何処かに冷たい処のあるような、というと水のようだが、水のように淡くはない、シンミリとした何とも言えぬ旨味のある声だ。力を入れると、凛と響く。脱くと、スウと細く、果は藕の糸のようになって、此世を離れて暗い無限へ消えて行きそうになる時の儚さ便りなさは、聴いている身も一緒に消えて行きそうで、早く何とかして貰いたいような、もうもう耐らぬ心持になると、消えかけた声が又急に盛返して来て、遂にパッと明るみへ出たような気丈夫な声になる。好い声だ。節廻しも巧だが、声を転がす処に何とも言えぬ妙味がある。ズッと張揚げた声を急に落して、一転二転三転と急転して、何かを潜って来たように、パッと又浮上るその面白さは……なぞと生意気をいうけれど、一体新内をやってるのだか、清元をやってるのだか、私は夢中だった。
俗曲は分らない。が、分らなくても、私は大好きだ。新内でも、清元でも、上手の歌うのを聴いていると、何だか斯う国民の精粋とでもいうような物が、髣髴として意気な声や微妙な節廻しの上に顕われて、吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想い出されて、何とも言えぬ懐かしい心持になる。私は之を日本国民の二千年来此生を味うて得た所のものが、間接の思想の形式に由らず、直に人の肉声に乗って、無形の儘で人心に来り逼るのだとか言って、分明な事を不分明にして其処に深い意味を認めていたから、今お糸さんの歌うのを聴いても、何だか其様なように思われて、人生の粋な味や意気な味がお糸さんの声に乗って、私の耳から心に染込んで、生命の髄に触れて、全存在を撼がされるような気がする。
お糸さんの顔は椽側からは見えないけれど屹度少しボッと上気して、薄目を開いて、恍惚として我か人かの境を迷いつつ、歌っているに違いない。所謂神来の興が中に動いて、歌に現を脱かしているのは歌う声に魂の入っているので分る。恐らくもう側でお神さんや下女の聴いてることも忘れているだろう。お糸さんは最う人間のお糸さんでない。人間のお糸さんは何処へか行って了って、体に俗曲の精霊が宿っている、而してお糸さんの美音を透して直接に人間と交渉している。お糸さんは今俗曲の巫女である、薩満である。平生のお糸さんは知らず、此瞬間のお糸さんはお糸さん以上である、いや、人間以上で神に近い人である。
斯う思うと、時としては斯うして人間を離れて芸術の神境に出入し得るお糸さんは尋常の人間でないように思われる。お糸さんの人と為りは知らないが、歌に於て三味線に於てお糸さんは確に一個の芸術家である、事に寄ると、芸術家と自覚せぬ芸術家である。要するに、俗物でない。
私も不肖ながら芸術家の端くれと信ずる。お糸さんの人となりは知らないでも、芸術家の心は唯芸術家のみ能く之を知る。此下宿に客多しと雖も、能くお糸さんを知る者は私の外にあるまい。私の心を解し得る者も、お糸さんの外には無い筈である……と思うと、まだ碌に物を言た事もないお糸さんだけれど、何だかお糸さんが生れぬ前からの友のように思われて、私は……ああ、私は……
五十四
私の下宿ではいつも朝飯が済んで下宿人が皆出払った跡で、緩くり掃除や雑巾掛をする事になっていた。お糸さんは奉公人でないから雑巾掛には関係しなかったが、掃除だけは手伝っていたので、いつも其時分になると、お掃除致しましょうと言っては私の部屋へ来る。私は内々其を心待にしていて、来ると急いで部屋を出て椽側を彷徨く。彷徨きながら、見ぬ振をして横目でチョイチョイ見ていると、お糸さんが赤い襷に白地の手拭を姉様冠りという甲斐々々しい出立で、私の机や本箱へパタパタと払塵を掛けている。其を此方から見て居ると、お糸さんが何だか斯う私の何かのような気がして、嬉しくなって、斯うした処も悪くないなと思う。
ところが、お糸さんが三味線を弾いた翌朝の事であった。万事が常よりも不手廻りで、掃除にもいつも来るお糸さんが来ないで、小女が代りに来たから、私は不平に思って、如何したのだと詰るようにいうと、今日はお竹どんが病気で寝ているので、受持なんぞの事を言っていられないのだと云う。其なら仕方が無いようなものだけれど、小女のは掃除するのじゃなくて、埃をほだてて行くのだから、私が叱り付けてやったら、小女は何だか沸々言って出て行った。
暫くして用を達しに行こうと思って、ヒョイと私が部屋を出ると、何時来たのか、お糸さんがツイ其処で、着物の裾をクルッと捲った下から、華美な長襦袢だか腰巻だかを出し掛けて、倒さになって切々と雑巾掛けをしていた。私の足音に振向いて、お邪魔様といって、身を開いて通して呉れて、お糸さんは何とも思っていぬ様だったが、私は何だか気の毒らしくて、急いで二階を降りて了った。
用を達してから出て来て見ると、手水鉢に水が無い。小女は居ないかと視廻す向うへお糸さんが、もう雑巾掛も済んだのか、バケツを提げてやって来たが、ト見ると、直ぐ気が附いて、
「おや、そうだッけ……只今直ぐ持って参りますよ。」
と駈出して行って、台所から手桶を提げて来て、
「お待遠様。」
とザッと水を覆ける時、何処の部屋から仕掛けたベルだか、帳場で気短に消魂しくチリリリリリンと鳴る。
お神さんが台所から面を出して、
「誰も居ないのかい? 十番さんで先刻からお呼なさるじゃないか。」
「へい、只今……」
とお糸さんが矢張下女並の返事をして、
「お三どん新参で大狼狽……」
と私の面を見て微笑しながら、一寸滑稽た手附をしたが、其儘所体崩して駈出して、表梯子をトントントンと上って行く。
私が手を洗って二階へ上って見たら、お糸さんは既う裾を卸したり、襷を外したりして、整然とした常の姿になって、突当りの部屋の前で膝を突いて、何か用を聴いていた。
私は部屋へ帰って来て感服して了った。お糸さんは歌が旨い、三味線も旨い、女ながらも立派な一個の芸術家だ。その芸術家が今日は如何だろう? お竹が病気なら仕方がないようなものの、全で下女同様に追使われている。下女同様に追使われて、慣れぬ雑巾掛までさせられた上に、無理な小言を言われても、格別厭な面もせずに、何とか言ったッけ? 然う然う、お三どん新参で大狼狽といって微笑……偉い! 余程気の練れた者でなければ、如彼は行かぬ。これがお竹ででも有ろうものなら、直ぐ見たくでもない面を膨らして、沸々口小言を言う所だ。それを常談事にして了って、お三どん新参で大狼狽といって微笑……偉い!
五十五
感服の余り、私は何とかして此自覚せぬ芸術家に敬意を表したいと思ったが、併し奉公人同様に金など包んでは出されない、何でも品物を呈するに限ると、何故だか独りで極めて掛って、惨澹たる苦心の末、雪江一代の智慧を絞り尽して、其翌日の昼過ぎ本郷の一友人を尋ねて、嘘八百を陳べ立て、其細君を誘かして半襟を二掛見立てて買って来て貰った。値段の処も私にしては一寸奮んだ積だった。
早く之をお糸さんに呈して其喜ぶ顔を見たいと、此処らは未来の大文豪も俗物と余り違わぬ心持になって、何だか切りに嬉しがって、莞爾して下宿へ帰ったのは丁度夕飯時分だったが、火を持って来たのは小女、膳を運んで来たのはお竹どんで、お糸さんは笑声が余所の部屋でするけれど、顔も見せない、私は何となく本意なかった。
待侘びて独りで焦れていると、軈て目差すお糸さんが膳を下げに来たから、此処ぞと思って、極りが悪かったが、思切って例の品を呈した。大に喜ぶかと思いの外、お糸さんは左して色を動かさず、軽く礼を言って、一寸包みを戴いて、膳と一緒に持って行って了った。唯其切で、何だか余り飽気なかった。
何時間経ったか、久らくすると、部屋の障子がスッと開いた。振向いて見ると、思いがけずお糸さんが入口に蹲まって、両手を突いて、先刻の礼を又言ってお辞儀をする。私は何となく嬉しかった。お床を延べましょうかというから、敷って呉れというと、例の通り戸棚から夜具を出す時、昨夜も今朝も手に掛けて知っている筈の枕皮の汚に始めて気が附いて、明日洗いましょうという。なに、洗濯屋に出すから好いと言っても、此様な物を洗うのは雑作もないといって聴かなかった。私は又嬉しくなって、此様な事なら最と早く敬意を表すれば好かったと思った。
お糸さんは床を敷って了うと、火鉢の側へ膝行り寄って火を直しながら、
「本当に嘸御不自由でございましょうねえ、皆気の附かない者ばかりの寄合なんですから。どうぞ何なりと御遠慮なく仰有って下さいまし。然う申しちゃ何ですけど、他のお客様は随分ツケツケお小言を仰しゃいますけど、一番さん(私の事だ)は御遠慮深くッて何にも仰しゃらないから、ああいうお客様は余計気を附けて上げなきゃ不好。本当にお客様が皆一番さんのようだと、下宿屋も如何様に助かるか知れないッてね、始終下でもお噂を申して居るンでございますよ……」
無論半襟二掛の効能とは迂濶の私にも知れた。平生の私の主義から言えば、お糸さんは卑劣だと謂わなければならんのに、何故だか私は左程にも思わないで、唯お糸さんの媚びて呉れるのが嬉しかった。
小女がバタバタと駈けて来て、卒然障子をガラッと開けて、
「あの八番さんで、御用が済んだら、お糸さんに入らッしゃいッて。」
「何だい?」
小女が生意気になけ無しの鼻を指して、
「これ……」
「そう。」
お糸さんは挨拶も々に私の部屋を出て行ったが、ツイ其処らで立止った様子で、
「今お帰り? 大変御緩りでしたね。」
帰って来たのは隣の俗物らしく、其声で何だか言うと、又お糸さんの声で、
「あら、本当? 本当に買って来て下すったの? まあ、嬉しいこと! だから、貴方は実が有るッていうンだよ……」
してみると、お糸さんに対って敬意を表するのは私ばかりでないと見える。
五十六
私がお糸さんに接近する目的は人生研究の為で、表面上性慾問題とは関係はなかった。が、お糸さんも活物、私も死んだ思想に捉われていたけれど、矢張活物だ。活物同志が活きた世界で顔を合せれば、直ぐ其処に人生の諸要素が相轢してハズミという物を生ずる。即ち勢だ。此勢を制する人でなければ、人間一疋の通用が出来ぬけれど、私の様な斗輩になると、直ぐ其勢いに制せられて了って、吾は吾の吾ではなくなって、勢の自由になる吾、勢の吾になって了う。困ったものだが、仕方がない。私は人生研究の為お糸さんに接近しようと思ったのだけれど、接近しようとすると、忽ち妙なハメになって、二番さんだの八番さんだのという番号附けになってる俗物共の競争圏内に不覚捲込まれて了った。又捲込まれざるを得ないのは、半襟二掛ばかりの効能じゃ三日と持たない。直消えて又元の木阿弥になる。二掛の半襟は惜しくはないが、もう斯うなると、勢に乗せられた吾が承知せぬ。憤然となって二日二晩も考えた末、又一策を案じ出して、今度は昼のお糸さんの手隙の時に、何とか好加減な口実を設けて酒を命じた。酒を命ずればお糸さんが持って来る、お糸さんが持って来れば、些との間ならお酌もして呉れる、お糸さんのお酌で、酒を飲んで酔えば、私にだって些とは思う事も言えて打解られる。思う事を言って打解けて如何する気だったか、それは不分明だったけれども、兎に角打解たかったので、酒を命じたら、果してお糸さんが来て呉れて、思う通りになった。
「じゃ、何ですね」、と未だ一本も明けぬ中から、私は真紅になって、「貴女は一杯喰わされたのだ。」
「大喰わされ!」とお糸さんは烟管を火鉢の角でポンと叩いて、「正可女房子の有る人た思いませんでしたもの。好加減なチャラッポコを真に受けて、仙台くんだり迄引張り出されて、独身でない事が知れた時にゃ、如何様に口惜しかったでしょう。寧そ其時帰ッ了や好かったんですけど、帰って来たって、家が有るンじゃ有りませんしさ、人の厄介になって苦労する位なら、日陰者でもまだ其方が勝かと思ったもんですからね、馬鹿さねえ、貴方、言いなり次第になって半歳も然うして居たんですよ。そうすると、私の事がいつかお神さんに知れて、死ぬの生るのという騒ぎが起ってみると、元々養子の事だから……」
「養子なんですか?」
「ええ、養子なんですとも。養子だから、ほら、私を棄てなきゃ、看す看す何万という身台を棒に振らなきゃならんでしょう? ですから、出るの引くのと揉め返した挙句が、詰る所私はお金で如何にでもなると見括ったんでしょう、人を入て別話を持出したから、私ゃもう踏んだり蹶たりの目に逢わされて、口惜しくッて口惜しくッて、何だかもうカッと逆上せッ了って、本当に一時は井戸川へでも飛込ん了おうかと思いましたよ。」
「御尤です。」
「ですけど私が死んじまや、幸手屋の血統は絶えるでしょう? それでは御先祖様にも、又ね、死んだ親達にも済まないと思って、無分別は出しませんでしたけど、余まり口惜しかったから、お金も出そうと言ったのを、そんなお金なんぞに目をくれるお糸さんじゃない何か言って、タンカを切ってね、一文も貰わずに、頭の物なんか売飛ばして、其を持って帰って来たは好かったけど、其代り今じゃスッテンテンで、髪結銭も伯母さん済みませんがという始末ですのさ。余程馬鹿ですわねえ。」
「いや。面白い気象だ。」
「ですから、私は、貴方の前ですけど、もうもう男は懲々。そりゃあね、稀には旦那のような優しい親切なお方も有りますけど、どうせ私のような者の相手になる者ですもの、皆其様な薄情な碌でなしばかしですわ。」
「いや、御尤もです。」
「まあ、自分の勝手なお饒舌ばかりしていて、お燗が全然冷め了った。一寸直して参りましょう。」
「御尤もです……」
五十七
お糸さんがお燗を直しに起った隙に、爰で一寸国元の事情を吹聴して置く。甞て私が学校を除籍せられた時、父が学資の仕送りを絶ったのは、斯もしたら或は帰って来るかと思ったからだ。ところが、私が如何にか斯うにか取続いて帰らなかったので、両親は独息子を玉なしにしたように歎いて、父の白髪も其時分僅の間に滅切り殖えたと云う。伯父が見兼ねて、態々上京して、もう小説家になるなとは言わぬ、唯是非一度帰省して両親の心を安めろと懇に諭して呉れた。そう言われて見ると、夫でもとも言兼ねて、私は其時伯父に連れられて久振で帰省したが、父の面を見るより、心配を掛けた詫をする所か、卒然先ず文学の貴い所以を説いて聴かせて、私は堕落したのじゃない、文学に於て向上の一路を看出したのだ、堕落なんぞと思われては心外だと喰って懸ると、気の練れた父は敢て逆わずに、昔者の己には然ういう六かしい事は分らぬから、己はもう何にも言わぬ、お前の思う通りにしろだが、東京へ出てから二年許りの間に遣った金は、地所を抵当に入れて借りた金だ。己は無学で働きがないから、己の手では到底も返せない。何とかしてお前の手で償却の道を立て呉れ。之を償却せん時には、先祖の遺産を人手に渡さねばならぬ。それではどうもお位牌に対しても済まぬから、己は始終其が苦になっての……と眼を瞬かれた時には、私も妙な心持がした。で、何にも当はなかったけれど、其式の負債は直き償却して見せるように広言を吐き、月々なし崩しの金額をも極めて再び出京したが、出京して見ると、物価騰貴に付き下宿料は上る、小遣も余計に入る、負債償却の約束は不知空約束になって了った。その稍実行の緒に就いたのは当り作が出来てからで、夫からは原稿料の手に入る度に多少の送金はしていたけれど、夫とても残らず負債の方へ入れて了うので、少しも家計の足しにはならなかった。父は疾うに県庁の方も罷められて、其後一寸学校の事務員のような事もしていたが、それも直き又罷められて全く収入の道が絶えたので、父も母も近頃は心細さの余り、遂に内職に観世撚を撚り出したと云う。私は其頃新進作家で多少売出した頃だったから、急に気が大きくなり、それに天性の見栄坊も手伝って、矢張某大家のように、仮令襟垢の附いた物にもせよ、兎に角羽織も着物も対の飛白の銘仙物で、縮緬の兵児帯をグルグル巻にし、左程悪くもない眼に金縁眼鏡を掛け、原稿料を手に入れた時だけ、急に下宿の飯を不味がって、晩飯には近所の西洋料理店へ行き、髭の先に麦酒の泡を着けて、万丈の気を吐いていたのだから、両親が内職に観世撚を撚るという手紙を覧た時には、又一寸妙な心持がした。若し此事が夫の六号活字子の耳に入って、雪江の親達は観世撚を撚ってるそうだ、一寸珍だね、なぞと素破抜かれては余り名誉でないと、名誉心も手伝って、急に始末気を出し、夫からは原稿料が手に入ると、直ぐ多少余分の送金もして、他の物を撚っても、観世撚だけは撚って呉れるなと言って遣った。
で、此時もつい二三日前に聊かばかり原稿料が入った。先月は都合が悪くて送金しなかったから、責て此内十円だけは送ろうと、紙入の奥に別に紙に包んで入れて置いたのが、お糸さんの事や何や角やに取紛れてまだ其儘になっている。それをお糸さんの身上話を聴くと、ふと想い出して、国への送金は此次に延期し、寧そ之をお糸さんに呈して又敬意を表そうかと思った。が、何だか其では聊か相済まぬような気もして何となく躊躇せられる一方で、矢張何だか切に……こう……敬意を表したくて耐らない。で、お糸さんが軈てお燗を直して持って来て、さ、旦那、お熱い所を、と徳利の口を向けた時だった、私は到頭耐らなくなって、しかし何故だか節倹して、十円の半額金五円也を呈して、不覚又敬意を表して了った。
五十八
お糸さんに敬意を表して見ると、もう半端になったから、国への送金は見合せていると、母から催促の手紙が来た。其中に何だか父の加減が悪くて医者に掛っているとかで、物入が多くて困るとかいうような事も書いてあったが、例の愚痴だと思って、其内に都合して送ると返事を出して置いた。其時は真に其積りで強ち気休めではなかったのだが、彼此取紛れて不覚其儘になっている一方では、五円の金は半襟二掛より効能があって、夫以来お糸さんが非常に優待して呉れるが嬉しい。追々馴染も重なって常談の一つも言うようになる。もう少しで如何にかなりそうに思えるけれど、何時迄経っても如何にもならんので、少し焦れ出して、又欲しそうな物を買って遣ったり、連出して甘い物を食べさせたり、種々してみたが、矢張同じ事で手が出せない。お糸さんという人は滅多に手を出せば、屹度甚い恥を掻かすけれど、一度手に入れたら、命懸けになる女だと、何故だか私は独りで極めていたから、危険で手が出せなかったが、傍から観れば、もう余程妙に見えたと見えて、他の客はワイワイいって騒ぐ。下女迄が私の部屋を覗込んでお糸さんが見えないと、奥様は、なぞといって調戯うようになる。こうなると、お神さんも目に余って、或時何だか厭な事をお糸さんに言ったとかで、お糸さんが憤っていた事もある。私は何だか面白いような焦心たいような妙な心持がする。それで夢中になって金ばかり遣っていたから、一度申訳に聊かばかり送金した限で、不覚国へは無沙汰になっている中に、父の病気が矢張好くないとて母からは又送金を求めて来る。遂に伯父からも注意が来た。其時だけは私も少し気が附いて、急いで、書掛けた小説を書上げて若干かの原稿料を受取ったから、明日は早速送金しようと思っていた晩に、お糸さんが切りに新富座の当り狂言の噂をして観たそうな事を言う。と、私も何だか観せてやり度なって、芝居だって観ように由っては幾何掛るもんかと、不覚口を滑らせると、お糸さんが例になく大層喜んだ。お糸さんは何を貰っても、澄して礼を言って、其場では左程嬉しそうな面もせぬ女だったが、此時ばかりは余程嬉しかったと見えて、大層喜んだ。
もう後悔しても取反しが附かなくなって、止むことを得ず好加減な口実を設けて別々に内を出て、新富座を見物した其夜の事。お糸さんを一足先へ還し、私一人後から漫然と下宿へ帰ったのは、夜の彼此十二時近くであったろう。もう雨戸を引寄せて、入口の大ランプも消してあった。跡仕舞をしているお竹が睡たそうな声でお帰ンなさいと言ったが、お糸さんの姿は見えなかった。
部屋へ来てみると、ランプを細くして既う床も敷ってある。私は桝でお糸さんと膝を列べている時から、妙に気が燥って、今夜こそは日頃の望をと、芝居も碌に身に染みなかった。時々ふと気が変って、此様な女に関係しては結果が面白くあるまいと危ぶむ。其側から直ぐ又今夜こそは是が非でもという気になる。で、今我部屋へ来て床の敷ってあるのを見ると、もう気も坐ろになって、余の事なぞは考えられん。今にも屹度来るに違いない、来たら……と其事ばかりを考えながら、急いで寝衣に着易えて床へ入ろうとして、ふと机の上を見ると、手紙が載せてある。手に取って見ると、国からの手紙だ。心は狂っていても、流石に父の事は気になるから、手早く封を切って読むと、まず驚いた。
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