六 勝本清一郎氏の主張
勝本清一郎氏の「新潮」六月号に発表された「芸術運動に於ける前衛性と大衆性」及び「芸術的価値の正体」は、少くも前者は、直接私の理論を対象として批判されたものではないが、非常に密接にそれに関連した問題が取り扱はれ、後者は殆んど専ら私の理論が対象とされてゐる。
この二つの論文に於ける勝本氏の私に対する批判は、小宮山氏や大宅氏のそれに比べて遥かに、理解が深められ、問題の中心に接近してをり、且つ多分に示唆的なものをもつてゐる。言はば小宮山氏は何んにも考へずに俄づくりの公式をもつて漫然と問題に向ひ、大宅氏は私の文章から、言葉だけを拾つて、問題そのものは氏自身の頭の中で組み合はせて、更にそれを壊して見せられたのであるが、勝本氏は問題の意味を正しく理解することにつとめられたといふことができよう。
先づ「芸術的価値の正体」の中に展開されてゐる氏の価値論は、結論としては正しいことを私は躊躇なく承認する。
『我々は芸術の芸術たる姿を政治的見地からの側面や、商業的見地からの側面やその他の各種の側面やをすべて切り払つて、それから離れての「純粋」な方向に見ようとする態度の誤りであることを覚らなければならない。さういふ風にして行けば、芸術の、従つて芸術的価値の正体は、何もなくなつてしまふのである。……我々はさうした方向とは反対に各種の複雑な側面をもつ全的芸術現象をこそ芸術の姿として見、その内面に統一されてゐる各種の観念の複雑な全結合をこそ、そのまゝ芸術の内容として認め、あらゆる社会的条件と連合した社会的尺度によつての社会的価値をこそ、その芸術品の真の価値であると主張したいのである……』
これが大体に於いて氏の結論である。そしてこれは私の考へと殆んど一致してゐる。私はかつて、「文学の本質について」といふ論文の中で、文学の本質は経験的なものであつて、経験的なものをすべて取り去つてしまへば、本質は消滅してしまふことを説明した。勝本氏は私が経験的なものと言つたのを「側面」といふ言葉で言ひあらはしてゐるだけであつて論旨は殆んど符合してゐる。
だが、芸術は社会現象のすべてゞはない。その一部分でしかない。しかも一部分といふのは量的な一部分といふ意味ではなくて、質的に異つた一部分である。芸術も科学も社会的な一つの機能をもつてゐるが、それは同じ機能ではない。両者はひとしく社会に有用なものであり、従つて社会的価値をもつてゐるのであるが、その価値は別箇の価値である。これはちやうど水素も窒素もラヂウムも物質であるが、これ等の元素はそれ/″\別箇の性質をもつてゐるのと同じである。もとよりこれ等の性質が、究極に於いてヘリウム核の周囲に排列された電子の数によつて決定されるやうに、各種の社会的価値は、一つの社会的価値に帰することはできる。だがそのために、芸術的価値がその特殊性を全く失ふだらうか。
また芸術価値は純粋なものでなくて、多くのものゝ複合によつて形成されるものであり、この複合物を全部とり去ればあとには何も残らなくなることも真実である。同様に商業価値も、倫理価値も、政治価値も純粋なものではない。しかし、重要なのはさういふ側面を数へ上げることではなくてその複合される各要素の種類や、比例の差によつて、即ち複合状態によつて芸術的価値と政治的価値とが区別されることを知ることである。水の中にも硫酸の中にも酸素が含まれてゐるからといつて、両者が区別して考へられないことはない。大宅氏の言葉を借りると両者を独立の王国と見做すことが不合理とは言へない。
勝本氏が芸術的価値の純粋性、先験性を否定してこれを複合的に、経験的に、社会的に考察されたことは、それ自身で正しいにかゝはらず、私の主張はそのために少しも手傷を負ふものではないのである。
芸術性と芸術的価値との区別についての蔵原惟人氏と勝本氏との考へ方は、全くの論理的遊戯でしかない。しかもこの遊戯は勝本氏の理論の一貫性を破綻せしめる危険な遊戯である。それは芸術性といふ神秘的なものを設定して、芸術的価値といふものを全く功利的なものとしてそれから区別せんとするものだからだ。プレハノフの所謂ある作品の気分の高さ、感情の強さ、換言すれば人を動かす力は、芸術作品の芸術性であつて、同時に芸術的価値である。それは複合物であつても純粋物であつてもかまはないのだ。新奇な言葉をつくり出すことは、決して問題を解決する所以ではない。「人間の行為には倫理性はあるが倫理価値はない」といふやうな主張は、マルクス主義からソフイズムへの復帰以外の何物でもない。
次に同氏の「芸術運動に於ける前衛性と大衆性」は、最近にあらはれたこの種の論文の中で最もブリリアントなものであつた。
勝本氏のこの論文に於ける主張の中心問題は「プロレタリア芸術の確立のための運動」と「大衆化のための運動」とを一応分離し、更にこの両者は一つの方向に向つて統一されるといふ点にある。この考へ方によつて、私は明かに私の多くの批判者よりもより高度の認識に達してゐることを示してゐる。氏は、いま現在ある文学作品をその外部にあらはれた相貌によつて分類した。分類といふ方法はたしかに現象を理解するに必要欠くべからざる方法ではある。だが、この外部的分類は徹底的に現象を理解せしめる方法ではない。徹底的理解に達するためには、外部的分類でなしに、内部的分析の方法によらねばならぬ。私は勝本氏が外部から分類したことを、内部からその価値構成要素を分析して、政治的[#「政治的」は底本では「政治団」]価値と芸術的価値といふ二つの価値の結合をマルクス主義文学の中に認めたのであつた。勝本氏が作品の相貌によつて分つたことを、私は作品の機能によつて分つたのである。
従つて氏が、私の所謂マルクス主義文学を、「昨年の三月十五日事件以後の政治的情勢に結びついた大衆化の過程に於けるプロレタリア的アヂ・プロ文学運動の場合を主として指したに違ひない」といふのは、あまりに問題を局限しすぎてゐる。私は意識的マルクス主義の文学全体について言つてゐるのだ。強ひて日附を示すなら、日本では目的意識の理論が文学に導入された時から以後の文学作品をさしてゐるのだ。氏等の所謂「プロレタリア文学確立のための運動」をも政治的ヘゲモニイのもとにたつ意識的運動であると解してゐるのだ。この点では私の見解は、勝本氏よりも寧ろ、鹿地、中野両氏に近い。これはナツプに於いてプロレタリア芸術確立の運動が政治的に規定されてゐるし、又さうされねばならぬことが証明してゐる。たゞことによると私が両氏と異つてゐるであらう点は、志賀直哉の作品にも中野重治の作品にも、歴史的価値ではない、アクチユアルな芸術的価値を認め、その芸術的価値はマルクス主義批評家の場合にも一応は取り上げられ、然る後、マルクス主義文学の政治的ヘゲモニイの故に、「涙をのんで」志賀氏の作品はすてられねばならぬと考へる点にある。ついでに言つておくが、大宅氏は私に対して、実際の作品批評の場合に私がどんな基準をとるかと詰問揶揄されたが、私は大体今述べたやうな基準をとるし、これは私がマルクス主義者でないとしても(実際、私は少なくともどんなマルクス主義団体の紀律にも服してゐないといふ点でマルクス主義者では決してないことを承認する。せい/″\マルクス主義の真実性を認めるといふ意味での同伴者でしかないことを認める。)凡ての進歩的批評の基準であると信ずる。たゞ或る作品のイデオロギイの稀薄である場合は芸術性のみを批評の対象とする場合もあり、その逆の場合には芸術性がすぐれてゐればゐる程、深刻に批判しなければならぬ場合があること、並びに私が理想として信じてゐることを文字通り実現する能力が私にないことは認める。批評と数学とはその点でちがふのだ。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页