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諸家の芸術価値理論の批判(しょかのげいじゅつかちりろんのひはん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-25 14:52:52  点击:  切换到繁體中文


         二 此の一連の事実は如何に説明されるか?

 ロシア共産党の一指導者が、彼の国のプロレタリア文学について論じたときに、プロレタリアは既にすぐれた作家と作品とをもつやうになつたが、まだ欠けてゐるのは、トルストイとドストエフスキーとをもつに至らないといふ点である、といふやうな意味のことを言つた。
 この言葉を私たちは如何に解すべきであらうか? いふまでもなくそれはロシヤのプロレタリアの前衛が、トルストイとドストエフスキーとの文芸作家としての偉大さを正当に、且つ十分に認識して、現在のプロレタリア作家には相当すぐれた作家は出て来たが、この両人のやうに図抜けて偉大な作家はまだあらはれてゐないといふことを自認した言葉であるとより解釈する道はない。ではこの両作家は何によつて偉大であるか? 明かにそれはマルクス主義的イデオロギイの卓越してゐるために偉大なのではなくて、「マルクス主義イデオロギイ」や、プロレタリアの「政治闘争」と「直接の関係をもたぬ」に拘らず、彼等が芸術家としてすぐれた資質をもつてゐるために偉大なのである。それは私の言葉によれば、「芸術的価値」の優越してゐるために偉大なのである。キツプリングがすぐれた詩人であるのは、彼の詩がイギリスの帝国主義的思想を歌つてゐるだけのためではないと同じく、ゴリキイの小説が偉大なのは彼の作品が社会主義的思想に浸透してゐるだけのためではない。両者は、共通の芸術家としての偉大さをもつために、少なくも、そのためにも偉大なのである。私が「芸術的価値はマルクス主義イデオロギイや政治闘争と直接の関係をもたぬ」と言つたのは(この言ひ表はしかたが拙劣であるのは別として)その意味なのであるが、ロシヤのマルクス主義者のやうに寛容でも率直でもない日本のマルクス主義文学批評家たちは、この事実を認めることを、マルクス主義にとつて一大事であるかの如く誤解して、事実をおほひかくさうとこれつとめるのである。私はこの事実を認めたつて、マルクス主義の真実性はびくともするものでないことを以前も現在も十分に信じて疑はぬ。
 またある論者は、この価値を歴史的価値といふカテゴリーの中へ編入することによりて、この問題のすべての困難をあつさり片附けようとする。だがその瞬間に論者は歴史的価値といふ言葉のもつ内容を無制限に拡大して、マルクス主義と相容れないものは凡べて歴史の中へ編入し、現代の大衆を活発に支配してゐる文学作品でも、明日の大衆を支配しつゞけてゆくであらうところの作品ですらも、一切合財、歴史的価値といふ合財袋の中へ入れてしまへば、それで問題は片附いてしまつたと考へるのである。だがこの種の人たちが過去帳の中へ記入してしまつた価値が、現代の生きた大衆を生き生きと支配してゐることには、遂に彼等は気がつかぬのであり、気がついてもそれを公言するのをはゞかるのである。何故かと言へば、この種の人たちは事実よりも一つの公式の方が大事なのであつて、しかもこの公式は、事実の暗礁の中をよけて通つてゆかねばすぐに壊れてしまふ程脆弱なものだからである。
 今一つの場合を私は指摘しよう。或る作家たとへば片岡鉄兵、もしくは細田民樹といふ作家が、その文学的生涯の或る時期に、非マルクス主義陣営から、マルクス主義陣営に移籍し、はつきりしたマルクス主義的イデオロギイを獲得すると同時に、その所属団体の紀律に従つて爾後の文学的行動をつゞけて行つたと仮定する。そしてこれは、この二人の作家がそれ/″\その文学団体を統制する政治的な党の綱領に忠実である限り、仮定であるばかりでなく事実である。この「移籍」の場合にこの二人の作家の文学的活動に起つた変化は何であるか? 明かに、二人の作家としてのタレントには何等の変化も起つてゐないであらう。若し起つてゐるとしても、それは附随的な変化に過ぎぬであらう。そして本質的な変化は二人の作品活動が、それ以来、一定の政治的目的を意識して営まれるといふ点に存することになるであらう。二人の作家の作品の芸術的価値は従つて殆んど増減しないに拘らず、それ等の作品は新たに政治的価値を獲得し、又は従来の作品のもつてゐた政治的価値と異つた政治的価値をもつて来るであらう。この二つを社会的価値といふ一つの価値に直ちに還元してしまふことのできないのは、次の例によりて明かである。
 こゝに文学的タレントのすぐれたAといふ作家と文学的タレントの劣つたBといふ作家とが同時にマルキシストになつたとする。この場合前者は矢張りすぐれたマルクス主義作家になるであらうが、後者はマルキシストになつたといふ理由だけではすぐれたマルクス主義作家にはなれぬであらう。だが後者はいかに拙劣な作家であるにしてもマルクス主義作家であるといふ点にはかはりはない。といふのは彼は、マルクス主義政党の規定する紀律に服して、一定の目的を意識して作品行動を営んでゐるからである。
 そこで私たちは、マルクス主義作家をしてマルクス主義作家たらしむるものは、政治的なものであるが、彼をすぐれた作家たらしめたり、拙劣な作家たらしめたりするものは、芸術的なタレントであるといふ重要な結論に到達する。
 ところが、「芸術的価値」は社会的価値であるといふ、わかりきつた説を繰り返すことに忙しい「一元論者」たちは、この明々白々たる事実を無視し、現実にある芸術的価値を頭の中でのみ抹消して、私の「二元論」を撃破し得たと称するのである。そしてまるで「芸術的価値」が社会的価値であることさへ証明すれば私の理論が成立しないかのやうにしふるのである。

         三 芸術的価値は独自性をもたぬか?

 私は「政治的価値と芸術的価値」の中で、「これ(芸術的価値)を、私は神秘的な先験的なものだとは解してゐない。それは社会的に決定されるものだと信じてゐる」とわざ/\ことはつてゐるのに、それを詳しく説明しなかつたといふ理由で、多くの批判者から手厳しい批判を受けた。
 だが、この批判は、厳密にいへば批判とは言ひがたい。何故なら、私が今更くど/\しく説明する必要はないと思つた事柄を、どんなに詳しく説明したつて、それは私の理論の補足になつても批判にはならぬからだ。たゞ、私の批判者たちが独創的である点は、芸術的価値が社会性をもつこと、社会的に決定されること、換言すれば社会的価値であることが証明されゝば、芸術的価値は如何なる意味に於いても成立しないと考へ、そのついでに、私がまるで、芸術的価値は社会から絶縁され、孤立されて、天からでも降つて来たやうに存在する価値であると信じ又言つたかの如く曲解し曲言することであつた。
 凡そ社会の現象はすべて何等かの社会的価値をもつ。自然現象でも、社会と連関する限りに於いては社会的価値をもつ。たとへば、水力は、人間が全然これを利用し得なかつた時代には一つの自然力としては存在してゐたに相違ないに拘らず、社会的価値をもつてはゐなかつたが、人間がこれを水車に利用し、これを利用して発電所を設けるやうになると、社会的価値を獲得して来る。その逆に汽船ルシタニア号はそれが人間や貨物を積んで太洋を横断してゐる限りに於ては、即ち社会的存在であつた限りに於ては社会的価値をもつたが、それが海底に沈んでしまつた、その瞬間からそれのもつてゐた一切の社会的価値は消滅して自然物に帰する。
 文学作品も、それが社会的に生産され、且つ、社会的に利用されるものである以上、社会的価値をもつものであることは勿論である。だがそのために文学作品の芸術としての価値即ち芸術価値は何等の独自性をもたぬことになるだらうか?
 疑ひもなく、近世に於ける社会科学の発達は、社会の諸現象を、ばら/\に独立して存在するものでなく、相互依存の関係にあるものとして理解する方法を確立した。私たちは今や社会の諸現象を統一的に説明し、理解することが或る程度までゞきるやうになつたし、今後社会科学の発達は、この見解を益々助長し、完成せしめてゆくであらう。これは自然科学に於いても見られるところの傾向であつて、両者は相まつて、私たちの統一的世界観の確立に貢献しつゞけてゆくであらう。そして社会現象を統一的に理解せしめる最もすぐれた方法を与へたものは、少くも現在に於いてはマルクス主義の社会観であることを私は信じてゐる。
 だがマルクス主義は、芸術も、宗教も、道徳も、科学も、別々に無関係に発達してゆくものではなく、相互に依存しあひ、相関々係のもとにおかれてゐるものであり、しかもこれ等をひつくるめての所謂上層建築の変化は、経済的基礎の変化によつて条件づけられるものであることを教へはするけれども、社会の文化の各部門がそれ/″\の独自性を、従つて価値を失つて、社会的価値といふ一つの価値しか成立し得ないなどゝは決して教へない。かやうな見方はたしかに日本の或るマルクス主義文芸批評家たちにその発見の全名誉が帰せらるべきものである。たとへばブハリンは、「史的唯物論」の中で文化の各部門の価値といふ言葉をつかつてゐるし、もつと具体的な例をあげるならば、プレハノフは「芸術と社会生活」(蔵原惟人氏訳)の中で『フロオベルの「マダム・ボヴアリイ」とオーヂエの「ル・ジヤンドル・ド・ムシユウ・ポアリエ」とその芸術的価値に於いていづれが高く立つてゐるか?』とはつきり言つてゐる。
 そこで芸術的価値とは何かといふ問題が残される。
 私の批判者たちは、芸術的価値を社会的価値に還元することによりてこの問題を簡単に片附けてしまつたが、さういふことなら、十頁の唯物史観の入門的パンフレツトを読んでもわかるし、テエヌの芸術論を二三十頁よんでもわかることなのであつて、あへて優秀なマルクス主義文芸批評家たちの頭脳を煩はすには及ばなかつたのだ!
 とはいへ、実をいふと、私は芸術的価値とは何かといふ問ひに対して、十分説得的な答へをする準備をもつてゐない。この問題は非常に難しい問題であつて、まだこれに十分な解答を与へた人はないと言つてよい。だから私は、私自身が答へる代りに、プレハノフの言葉を断片的に拾ひ上げて、彼に答へさせることにする。
「ラスキンは見事に言つてゐる――少女は失はれたる愛について歌ふことはできる、しかし守銭奴は失はれたる金について歌ふことはできない、と。そして彼は正当にも、芸術的作品の価値はそれによつて表現さるゝ気分の高さによつて決定される、と言つてゐる。……中略……芸術は人と人との間の精神的結合の手段の一つである。そして与へられたる芸術的作品によつて表現されたる感情が高ければ高いだけそれだけ都合よく他の諸条件とゝもにこの作品は上記の手段としての自己の役割を果し得るのである。何故に守銭奴は失はれたる金銭について歌ふことはできないか? 至つて簡単である――たとひ彼がその損失について歌つたとしたところで、彼の歌は何人をも感動せしめない、言ひ換へれば、彼と他人との間の結合の手段に役立たないからである」(前掲書四〇――四一頁、傍点引用者)
 無論この引用文によつて「芸術的価値」の何たるかを理論的にはつきりと把握することは困難である。しかし芸術的価値が一つの独立した価値を形成するものであることは明白に知ることができる。即ち或る芸術作品のうちに表現されてゐる気分の高さ或は感情の高さこそ芸術的価値の大いさなのである。
 この芸術的価値が、社会的に決定されるものであるに拘らず直接には政治的価値と無関係であることは、プレハノフの同じ書物からの次の引用によりて明かである。
「初期レアリスト達の、保守的な、そして部分的には反動的でさへある思想形態は、彼等が彼等を囲繞する環境をよく研究し、芸術的意味に於いて非常に価値のある作品を創作するのを妨げなかつた。しかしそれが彼等の視野を甚だしく狭めたことには何等の疑ひがない。」(前掲書五六頁、傍点引用者)
 この種の引用はいくらでもあげることができるであらうが、たゞこの論文を煩雑にするだけであるから、たゞ社会的価値以外にその一部分としての芸術特有の価値を認めない愛すべき吾が国の一群のマルキシスト・クリチツクたちに反省の一つの材料を提供するだけにとゞめておかう。そして、正直なマルクス主義批評家林房雄氏が、藤森成吉や前田河広一郎のやうな左翼の作家の作品とならべて、島崎藤村や菊池寛のやうな右翼の作家の作品を賞揚したのは、政治的価値と芸術的価値とを分離せずして、如何にして理解されるかを宿題として考へて貰うことにしておかう。
 一九二九年に地球の円いことを証明するのが退屈な仕事であると同様に、芸術作品に芸術的価値があるといふことを証明するのも、実に退屈なことである! 人間は一般にわかりきつたことを繰り返し言ふことを好まぬものだ。そのためにのみ、私は、前の論文で芸術的価値の説明を省略したのだ。
 次に私は簡単に主なる批判者の批判を個々に批判してゆくであらう。

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