一
文学作品の大衆性の問題は、ルナチヤルスキイ等がいふやうに、文学作品の形式の問題に止まるであらうか? 更に進んでは、これは文学そのものに内在する問題であらうか? そして或る作品が大衆性を有するといふこと自体が、その作品の何か非常に望ましき芸術的なメリツト若しくは価値であるだらうか?
私は最近まで、この疑問に対して「然り」と答へるのを常としてゐた。それどころか、秀れた文学作品は必らず大衆性をもつべきものであり、大衆性をもつといふことは、その作品がすぐれてゐるといふことの不可欠の条件であると考へてゐた。
尤も、最近に、私は、この考へに多少の制限を加へて、出版商業主義の力が、文学の大衆性を決定する上に相当な役割を演じてゐるといふことを認めるやうになつて来たが、それでも、なほ、私は、この商業主義の力は、文学作品の大衆性に対して付随的な条件に過ぎないと考へてゐた。ところが近頃になつて、私は、文学作品の大衆性の問題は、文学の本質的な問題といふよりも、寧ろより多く、商業主義によりて決定される問題であり、大衆性といふことに関する限りに於いては、出版商業主義の力こそ、まさに本質的な要素であると信ずるやうになつて来た。
そこで、私は、言はゞ、文学作品の芸術的価値に対立して、その商業的価値とでもいふべきものを仮想する必要に迫られた。マルクス主義文学の作品の場合に、政治的価値と芸術的価値とを対立させたやうに、いはゆる大衆文学の作品の場合には、商業的価値と芸術的価値とを一応分離して対立させなければ、文学作品の大衆性といふ問題を十分に理解することは不可能であると考へるに至つた。
さきに、芸術的価値と政治的価値とを私が分離したときに、この二つは互に排撃しあふものであると私が主張したかの如く誤解した人が随分あつたが、私はこの二つは、別々の要素であるにかゝはらず、一作品のうちに両立し得るものであることは認めたが、マルクス主義文学の場合には、政治的価値が優位を占めなければならぬと言つたまでゞある。
この関係は、大衆文学に於ける、芸術的価値と商業的価値との場合にも全く同じである。この二つの価値は互に排撃しあふものではないが、大衆文学の作品の場合には、後者が前者よりも重要視され、後者を十分に発揮するためには前者は幾分犠牲にされることもある。尤もマルクス主義文学の場合にも、大衆文学の場合にも、二つの価値が、それ/″\最高度に到達してゐる場合、即ち、前の場合では芸術的にもすぐれてゐながら、政治的目的にもかなひ、後者の場合には、芸術的にもすぐれてゐながら、大衆性をももつてゐる場合が、最も完全な、最も望ましい場合であるが、その場合でも私たちは、二つの価値構成要素を矢張り分析し得るのである。
二
近代文学に於いて最も大衆性をもつてゐるものは小説である。これは最近に於ける各国の出版物の中で、発行部数に於いても、書物の数に於いても嶄然と他を抜いてゐるものは小説であるといふ一事がよく証明してゐる。
では小説は何故かくも多数の人々に読まれるか? マイケル・ジヨセフといふ人は The Commercial Side of Literature といふ書物の中でこの問ひに対して次のやうに答へてゐる。序でに断つておくが、この書物は、卑俗な、取るに足らぬ書物ではあるが、そのために却つて多くの暗示的な問題を蔵してゐる。
彼は言ふ。
『或る読者は漠然と「自分はたゞ慰さみに読むのだ」と答へるであらう。もう少し教養のある、率直な人は、小説を読むと、実生活のひどい単調と冷酷無常な現実とから一時的に逃避できるから、一種の麻酔剤として、精神的刺戟として小説を読むのだと答へるであらう。又極く少数の人は、恐らく無意識的にでもあらうが、小説の中から教訓を抽き出さうとするであらう。或る者は彼等の知的眼界を広め、経験を富ますために小説を読み、他の者は小説から、観察と批評の楽しみをひき出すであらう。又会話のたねを仕入れるために一流の流行作品を読む人も少くないであらう。だが、根本的には、小説に対する要求は、一般に潜在意識的にではあるが、つらい、絶望的な実生活が与へることのできないイリユージヨンを楽しみたいといふ慾望によつて鼓吹される。このことは、大衆が、ハツピー・エンデイングの物語を喜ぶことによりて説明される。人々は実生活に於いて自己の努力で、勝利のクライマツクスを味はふことができないものだから、実生活に幻滅して、小説に慰安を求め、暗々裡に、自ら作中の主人公若しくは女主人公のつもりになつて、一時的な、幻想的な満足を感じようとするのである。近代の舞台に上演されるわざとらしいハツピー・エンデイングの戲曲も、それと同様の目的を果してゐるのである。』
この言葉は、生一本な芸術至上主義者を憤慨させるに足るであらう。これから小説家としてのキヤリーヤを一歩ふみ出さうとする若い人たちは、かういふ見解に対しては、多かれ少なかれ失望を感ずるであらう。だが、私はこれこそ事実であり、これこそ読者大衆の小説に対する最も普遍的な態度であらうと思ふ。それだからこそ、芸術的価値に於いては
如何はしいと思はれる大衆文学の或る作品が、屡々読書界を席捲するやうな現象を起すのである。
或る小説が、文学としてすぐれた作品であるといふことゝ、その作品がよく売れるといふこととは、往々にしてそれが一致する場合があるにしても、全く別の原則によりて支配されてゐる。そして最もよく売れるといふことを目的として書かれた小説が、意識的な大衆文学を形成するのであり、従つて、大衆文学に於いては、よく売れるといふこと、即ち、商業的価値が第一義的に置かれる。商業的価値を無視して、現代では大衆文学といふ特殊な存在を理解することはできない。尤も大衆文学に限らず、近代の小説は、多かれ少なかれ、商業的価値を眼中において書かれる場合が多く、凡ての小説が大衆文学化しつゝあることは事実であるが、このことは、大衆文学の特質を抹消するものではなく、却つて、大衆文学の勝利、従つて、文学作品の商品化を意味するのである。
だが、商業的価値は、商業といふものゝ本来の性質として、甚しく投機的であり、不安定であつて、一般的にこれを規定することは甚だ困難である。多く売らうと企画された作品が必らずしも多く売れるとは限らず、売れ行を危んで書かれ、出版された小説が、意想外な売行を示して、出版者をも作者をも驚かす場合が甚だ多い。マイケル・ジヨセフも言つてゐるやうに「少数の運のよい例外を除いては、何人も、故意に、良く売れる書物をこしらへることはできない。何人も人気の風向きがどちらへ吹いてゆくかを前もつて知ることはできない。」
三
マイケル・ジヨセフは、併しながら、「最も良く売れる書物の作者」best sellers の資格、即ちある作品に商業的価値を附与する大まかな条件を列挙してゐる。
第一にそれは作品に作者のシンセリチイがあらはれてゐることである。読者大衆は知的には鈍感であつても、作者のシンセリチイの有無を見わける力は非常に正確である。だから、シンセリチイといふことは best sellers の最高の資格である。
次に best sellers は、その内容に good story をもつてゐなければならぬ。良き物語といふのは良き筋といふことである。筋のよいといふことは、必らずしも凡ての小説にとつての必要条件ではないが、よく売れることを目的として書かれた大衆小説にとつては、これは本質的な条件である。即ち大衆小説の筋は活動、変化に富み、人間味に富んでゐなければならぬ。こゝで人間味 human interest といふのは、読者を作中の人物に同化させ、その作品の中の問題、事件に身をもつて当面してゐるやうに感じさせ、読者をして絶えず「これからどうすればいいだらう?」“Now what am I going to do ?”と手に汗を握らせることである。だが、あまりにこの点を誇張しすぎて信ずべからざるやうな筋をこしらへると読者は書物を投げ出してしまふ。「冬来りなば」の成功は大部分は一般の読者がマーク・セーバーに共感するためであり、この小説を好まない人はエフイーの挿話があまりありさうもない話であることをこの小説の欠点と見做すのである。
第三に、前にも言つたことであるが、最も良く売れる小説である為めにはハツピー・エンデイングの小説であることが必要である。といつても悲痛な要素がストーリイの中にあつてはいけないといふことを意味するのでなく、却つて作中の人物のうける苦悩、迫害、不幸が多ければ多いほどハツピー・エンデイングの効果は増して来るのであることを注意しなければならぬ。
第四に、良く売れる小説には、はつきりした、テーマ或はモラルが物語全体に浸透してゐなければならぬ。即ちそのストーリイがたゞの話よりも極く少しく高尚で、普通読者の胸を打つ何物かをもつてゐなければならぬ。
最後にもつと実際的な問題としては物語りの長さである。普通の小説は平均八万語内外のものが多い(日本文に翻訳すると約二十万字見当である)。ところが、最もよく売れる小説は、一般にこれよりも大分長い。“If Winter Comes”“Peter Jackson”“Sonia”“Sinister Street”“The Woman Thou Gavest Me”“The Green Hat”“The Way of Revelation”“The Rosary”“The Middle of The Road”等の人気のある小説はどれを見ても普通の小説よりも長い。しかし、この理由はよくわからない。同じ定価でなるべく分量の沢山あるのを読者が好むからなのか、それとも大衆に受けるやうな小説は相当スケールが大きくなければならんので、短い紙面では書きあらはせないからなのかも知れない。
以上は既刊のよく売れた小説を基礎にしての立論であるが、その他に、出版の時機が小説の売れると売れないとに大関係がある。“If Winter Comes”も丁度よい時期に出た。“The Middle of The Road”が若し一九二三年でなくて、もう一年早くかおそくか出たらあれだけの成功を博しなかつたであらう。それから標題が小説の売れ行きに関係するところも尠少でない。マイケル・ジヨセフも A happy title is a tremendous asset と言ってゐる。同じ内容の短篇小説集が英国と米国とで、ちがつた題名で出版され、英国では大成功し、米国では散々に失敗したことがある。そこで米国の出版者は思ひきつて英国版と同じ題名にかへて再版を出したら、急に売れ行きが増して来たといふことである。
包装或はその道の言葉でいへばジヤケツもまた小説のポピユラリチイに大関係をもつてゐる。はじめは書物の汚損を防ぐためであつたこのラツパーの最近の発達は著しいものである。それが所謂馬子にも衣裳といふエフエクトをもつのであることは説明するまでもない。
短篇小説集が一般に売れ行きが非常に少いことは顕著な事実で、長篇小説なら三四万の読者をもつ作者の短篇小説集が五千部以下しか売れないことは珍らしくない。その他、最近に於いて大衆性のない小説は、歴史小説、宗教小説、教訓小説、及び凡て世界大戦前に題材をとつた小説であつて、これ等は大衆小説としては殆んど皆失敗してゐる。尤も中にはラフアエル・サバチニの歴史小説のやうな例外がないわけでもないが。
四
以上、私はマイケル・ジヨセフの議論をかなり長く引用した。文学論として、(若しこれを文学論といへるなら)およそこれ位プロザイツクな文学論はまたとないであらう。彼は文学作品を全く商品として観察してゐるのである。ところで文学作品を商品として見る限り、問題とされる価値は商業的価値のみである。そして商業的価値を構成する要素と芸術的価値を構成する要素とは、以上述べたところによりて、全く別箇のものであることが容易に看取し得られるであらう。
今日の大衆文学とは、この商業的価値の最も大きい、若しくは商業的価値の最も大きかるべきことを目的として製作された小説であるといつても大過ないであらう。
勿論、文学の大衆性の問題はフオルムの問題と全然無関係であると私は主張するのではない。ことにプロレタリア大衆文学の問題は、それ自身、商品としては売られないで宣伝用として頒布されるやうな場合も予想できるので、商業的価値をあまりに重要視することはできないであらうが、それでも、少くも資本主義国に於けるプロレタリア大衆文学は、商業的価値を軽視することはできないし、この場合には商業的価値とはいへなくても、芸術的価値とは更に一層言へない何等かの価値(殆んど商業価値に換算できる価値)が関与することをも考慮しなければならぬ。更に進んではフオルムそのものが、芸術的価値を構成する一要素であると同時に、商業的価値を構成する一要素でもあると言へるであらう。しかも後の場合では極く小さい要素に過ぎないであらう。何故なら、良く売れる小説は必らずしも名文であるとは限らないからである。
文学の大衆性の問題は種々な視角から眺めらるべき問題である。私が文学作品を商品としてここに論じたからと言つて、私が文学作品に商品以外の性質を見ないのだなどゝ早合点されては困る。たゞ私は、大衆文学の問題は、文学作品を一応商品としても見なければ、十分に理解し得ざること、大衆性とは、芸術的価値の一属性であるよりも、むしろ商業的価値と私が名づくる別箇の価値の別名であることを指摘したにとゞまるのである。
(昭和四年五月「思想」)
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