文学の方法論的研究が、近頃やうやく一部の人々の注意を、惹くやうになつて来た。このことは相当長期に亘る停滞時代を経てきた文学批評界に、恐らく劃時代的の活発な論議をまき起すやうになるだらう。片上伸氏は、既に二回までもこの問題について論議された。私はまだ遺憾ながら同氏の論文を読んでゐないが、伝へ聞くところによると同氏の論文は、マルクス主義的、即ち弁証法的唯物論の立場からなされた、堂々たる述作であるといふことである。
私も「社会問題講座」の一講座で、簡単にこの問題を論じたことがある。けれども、実を言へば、私は、この問題で独自の体系を述べるやうな程度の研究はまだ積んでゐないし、従つて、何等自信のない研究を急いで発表することは躊躇する。私はたゞ、種々の理由によりて、文芸作品は科学的研究の対象になり得るものであるといふこと、換言すれば文芸学(Literaturwissenschaft, Science of Literature[#「Literature」は底本では「Iiterature」])なるものが存在し得ること、そして、さういふ方面への研究が、今後の文芸批評家の重要な一つの任務であることを信ずるのみである。
文芸作品を享楽し、鑑賞することのみが批評家の任務であると考へる人は、園芸家のほかに植物学者のあることを知らぬ人である。否園芸家にでも、通俗な植物学の知識は必要である。それがなければ花をたのしむことすら十分にできはしない。花が植物の生殖の器官であることを知つたゝめに花の美しさは減殺されるどころではなくて、却つて、そこに造花の至妙を私たちは感得して驚歎するであらう。
ハクスレーが、アルプス山は地殻の冷却による収縮によりて生じたものであるといふ地質学の真理は、アルプス山に対する登山者の崇高の念を少しも減殺するものでないと言つたのは至言である。
文学に就いてもそれと同じであつて、私たちは、文学作品を享楽し、鑑賞することはできるが、そのほかに、それが発生する根拠、それが進化してゆく様態を、科学的に研究し、理解しようと努力することも決して排斥すべきことではなくて、むしろ、その方が重要な位である。ところが最近では、さういふ方面の研究に一歩でもはいらうとすると、彼れは文学がわからないのだときめられてしまうのである。
勿論鑑賞的批評も重要であるし、それも今の日本にはかけてゐる。私は、みだりに過去を追慕する人にはくみしない。過去は、個人について言つても、どんなに苦しい、醜い過去でも、たゞ過去であるがためになつかしまれるものである。過去を考へる場合ほど、私たちに冷静な厳正な判断の必要であることはない。それにもかゝはらず、私は、最近の批評が一向進歩してゐないといふ説、むしろ退歩してゐるといふ説には一面の真理があることを否定し得ないのである。
こゝでは、私は専ら、文学の方法論的研究に注目することにしよう。そして過去の人たちが、この方面でどれだけの業績をのこしたかを見逃さないために、この方面に於ける最も偉大なる一人である、エミイル・ゾラの説を紹介しようと思ふ。それは、近代の文学研究の方法に決定的な基礎を与へたものはナチユラリズムであるにかゝはらず、ナチユラリズムの文学理論は、日本には、まだまとまつて紹介されてゐないと思ふからである。私たちは、ナチユラリズムの本質に触れないで、たゞその外貌だけを眺めて通つて来た観があるからである。以下に述べるところのゾラの説は、今では私たちを全く説得するに足る力をもつていないであらう。(さうでないならば私たちの恥辱である!)けれども、極めてイージーにナチユラリズムを卒業して来たと考へてゐる人たちの考へる程、それは鎧袖一触の値しかないものだらうか?
一
エミイル・ゾラは、有名な「実験小説論」の冒頭で次のやうにことはつてゐる。
『実験方法なるものは、クロオド・ベルナアルによりて、「実験医学研究序論」の中で、しつかりと、且つ驚くほどはつきりと確立されてゐるのだから、私はこゝではたゞそれを応用しさへすればよいのだ。この決定的な権威ある学者の著書が、私の議論の堅牢な基礎にならんとしてゐるのだ。この書物の中には凡ての問題が取り扱はれてゐるから、私は、たゞその中から必要なる部分を抜粋して、それを否む能はざる論拠としてゆけばよいのだ……大抵の場合に、この書物につかつてある「医学者」と言ふ言葉を「小説家」と言ふ言葉にかへさへすれば私の考へをはつきりさして、それに科学的真理のもつ厳密性を与へることができるのである。』
しからば、クロオド・ベルナアルは、『実験医学研究序論』に於てどんなことを述べてゐるのであるかといふと、彼は、当時まで、一の技術であると思はれてゐた医学に実験的方法を適用し、これを技術から科学にかへようとしたのである。実験的方法は、従来無生物に関する学問、即ち、物理学及び化学の研究に用ゐられて偉大なる成果をあげてゐたのであるが、クロオド・ベルナアルは、その方法は無生物の研究のみならず、生物の研究、即ち生理学及び医学にも適用さるべきものであるとして、これを無生物の研究から生物の研究へ拡大したのである。
エミイル・ゾラがなしたことは、実験的方法の適用範囲を更に一歩拡大したことにほかならぬのである。彼自身は、それを次の如く言ひ表はしてゐる。
『若し実験的方法によつて肉体生活に関する知識が得られるならば、それによつて情的及び知的生活の知識も得られるに相違ない。化学から生理学へ、生理学から人類学及び社会学へと進んでゆくのは方向の相違ではなくて程度の相違に過ぎない。而してその進路の末端に位するのが実験小説である。』
クロオド・ベルナアルは如何なる論拠に立つて、無生物の研究に用ひられる実験的方法を生物の研究にまで適用しようとするのであるか?
生物と無生物との相違は、彼によれば前者は自発性 Spontanit をもつてゐるといふ点にある。無生物は、普通の外部的環境の中に存在するものであるが、生物体の各要素は所謂内部的環境の中に存在するといふことが両者間の唯一の区別点である。外部環境とは、物理化学がその研究の対象とする環境である。けれども、内部環境も亦物理化学的性質を有し、そこに起る生理現象は、物理化学現象に還元することができる。そこで、外部環境も、内部環境も換言すれば生物界の現象も無生物界の現象も、ひとしく因果関係によりて決定されてゐるといふことになる。それ故に、生物の場合に於ても無生物の場合に於ても、科学的研究の目的、実験的方法の目的は、ある現象を生起せしめる直接の原因を知ること、即ちこの現象がおこるために欠くべからざる条件を明かにすることである。実験科学の目的は、物事が何故起るかを知ることではなくて、如何にして起るかを知ることである。さういふわけで、実験的方法は無生物の研究にのみ限られた方法ではなくて、生物の研究にも用ゐ得る方法であり、これを用ふることによりて、生理学及び医学は真の科学になり得ると彼は主張するのである。
二
従来観察といふ方法のみしか用ゐられてゐなかつたやうに見える文学に、実験的方法を用ふることが可能であらうか? これが第一に起つて来る問題である。それには、観察及び実験のといふ言葉の意味を明かにしておく必要がある。
クロオド・ベルナアルによれば、観察とは、自然に生起するまゝの現象を研究する方法であり、実験とは、自然現象を或る目的をもつて変へてみたり、自然のまゝでは生じないやうな事情或は条件の中で、それ等の現象を起して見て、それを研究する方法である。たとへば天文学は観察の科学であり、化学は実験科学であるが如くである。換言すれば、実験方法とは、或る現象に関する私たちの解釈、推理の真偽をたしかめるためには、その現象を人為的におこして見て、それが私たちの解釈にあつてゐるか否かをしらべて見ることである。そこで科学研究は観察によりてはじまり、実験によりて完成されるといふ関係になるのである。
ゾラによれば、文学も同様に観察と実験との科学である。観察によりて事実が与へられる。出発点が与へられる。人物が活動し、事件が展開してゆくための確乎たる地盤が与へられる。ついで、人物を活動さして、その作品に於て研究せんとする現象の因果関係が要求するとほりに事件が継起してゆくか否かを検するのが実験的方法である。ゾラは、この関係を説明するために、バルザツクの「クージーヌ・ベツト」を例にとつてゐる。そして小説といふものは、人間を一定の個人的及び社会的環境において実験した実験報告書であると論じてゐるのである。
勿論、実験小説が人間について研究した結果は、物理学、化学等のやうな精確さをもつてはゐない。生理学ほどの精確さをすらもつてゐない。しかし、こゝでは研究の結果を論ずるのではなくて研究の方法を論じてゐるのである。実験小説が、他の先進科学に比して幼稚であるのは、それが生れてから間もないために過ぎない。即ち実験小説家が人間を研究する方法に欠陥があるからでなくて、研究の日が浅いからに他ならぬ。クロオド・ベルナアルが「実験科学者は自然の予審判事である」と言つたに対し、ゾラは「吾々小説家は人間の予審判事である」と言つてゐる。両者の研究方法は全く同じなのである。
この方法に対して次の如く批難するものがある。「自然主義の小説家は専ら人間の写真を撮影しようとしてゐるのだ! 然るにこの写真は到底精密なものではあり得ない。芸術作品をつくるためには、どうしても事実を整理する必要がある!』
ところが、ゾラによれば、実験的方法を小説に導入することによつて、かやうな他愛もない批難は根拠を失つてしまうのである。実験小説家は成るほどありのまゝの事実から出発する。けれどもたゞ事実を観察するだけではなくて、その事実の機構を示すために、さま/″\な現象を起して見る。そしてこの現象を吟味するのである。それはもう写真ではなくて、そこには吾々の創意が加はつてゐる。吾々は小説に実験的方法を適用することによりて、自然の外に出ることなくして、自然を変更するのである。
私たちが、或る事実を観察すると、そこに一つの意想が生れて来る。そして、この意想が真であるか否かを疑問とするやうになる。クロオド・ベルナアルによれば、懐疑者こそ真の科学者なのである。何となれば、懐疑者は、自分自身について、自分の解釈については疑ひをもつけれども、一つの絶対的原理、即ち、現象の決定性をかたく信じてゐる。これを信じないでは、疑問も起りはしないのである。而して、この意想、及びそれに対する懐疑、並びにそれをたしかめるための実験のしかた等は、全く個人的なものであり、そこには芸術家の創意の余地が十分に存するのである。芸術家は決して写真師ではないのである。
[1] [2] 下一页 尾页