僕は今、よろよろと坂路を登つてゆく。僕の細長い影は力なく仄暗い風のなかにある。僕は殆ど乞食のやうな己れの恰好を疑はない。ここの石坂で僕はそつと煙草の捨殻を拾ひとることもあるのだ。そんなときの僕の姿は……。僕は後から後から次々に生徒に追越されてゐる。足許は既に暗い。ふと僕はそはそはしてくる。向うのコンクリートの三階建の校舎は生徒の群でざわざわしてゐる。僕の歩きかたも少しせかせかしてくる。僕は一階の廊下を廻つて、教員室の扉を押す。電燈の点いてゐるゴタゴタした部屋の片隅に僕は蝙蝠傘を置く。それから中央にある大きなテーブルに凭掛る。これが僕たち教員のテーブルなのだ。僕は出勤簿に印を押す。お茶を啜る。空腹がふと急に立ちもどつてくる。僕のまはりに教師たちが何か話しあつてゐる。電燈の色で見る先生の顔は何と侘しい暈なのだらう。僕はもう一杯お茶を啜る。今、廊下の外で頻りにドタドタ靴の音がしてゐる。誰か生徒が僕の側を通りすぎて、戸棚のところに行く。電球を持つて行くのだ。ああして生徒は毎日、電球を教室に持つて行つて着けたり、外づして持つて戻つたりするのだ。だが、そんなことが餓じい僕には珍しいのだらうか。部屋の隅にゐた小使がベルを振りだす。と、みんなそはそは廊下に出て行く。僕は壁に掛けてある出席簿を取り、箱の中からチヨークを二本把む。僕はそろそろ廊下に出て、三階まで階段を昇つてゆく。灯の点いてゐない階段は真暗で、僕は手探りで昇つてゆく。茫漠とした廊下の突当りの教室に灯が洩れてゐる。僕はそこの扉を押す。電燈の光のなかに四五十人の顔が蠢めいてゐる。僕は教壇の椅子に腰を下ろして、出席簿を机の上におく、パタンとそれをひらく。それから僕は急しげに生徒の名前を読みあげてゐる。僕の声が僕の耳にきこえる。(おや、こんな声だつたのか)これは僕が今日はじめて人間にむかつて声を出してゐるのだ。僕はくるりと後向きになつて、塗りのわるい黒板にプリントの字を書いてゆく。I can swim, Can I swim? You can swim, Can you ……ふと僕はチヨークを置いて、教壇を下りる。煤けた壁際に添つて、教室の後の方へ歩いてゆく。僕は眼をあげて黒板に書いてある自分の字を眺め、それから煤けて真黒の天井壁を眺める。天井からは何か黝ずんだ蜘蛛の巣のやうなものが、いくすぢも、いくすぢも、垂れ下つてゐる。あれは一たい何なのだらう。時間があんなところに痕跡を残してゐるのだらうか。
昔、僕がこの大学の予科に入学した頃は、この三階の建物はまだ新しく、僕には何か大きな素晴しい城砦のやうな気持がした。ある天気のいい日曜日の一日を僕は蓮華の咲いてゐる郊外の河岸をぶらぶらと歩いた。その翌朝もまるで磨きたてのやうに美しい朝だつた。僕はこの三階のバルコニーに立つてゐた。むかふに見える大きな邸の煉瓦塀や鬱葱と繁つてゐる楠の巨木や空を舞つてゐる鳶に僕は見とれてゐた。すると、僕はそれからのすべてを領有してゐるやうな幸な気分だつた。ふと僕の側に一人の友人がやつて来た。が、僕と彼とはお互に暫く黙つたまま同じ景色のなかにゐた。「僕たちの時代が来るね」ふと彼は呟いた。僕たちはその頃お互を立派な詩人になれると思ひ込んでゐたし、祝福はちやんと約束してあるやうにおもへた。
僕の立つてゐる窓の破れから、冷たい風が襟首を撫でる。僕は声を出してプリントを読みあげる。I can swim, Can I swim? You can ……喋りながら教室を歩く。なるべく疲労しないやうに、ふらふらと軽く……。それから椅子に戻つてくる。肩も足も疼くやうに熱つぽい。空腹で目もとは昏みさうになる。急に教室はざわざわしてくる。今ふらふらのこの半病人が生徒の眼にはどう映るのか。突然、僕は授業をやめてしまひたい衝動に駆られる。が、僕の眼は何かを探すやうにプリントに注いでゐる。なるべく疲労しないやうに、疲労しないやうに、と、その祈り……その祈りがふと僕に戻つてくる。僕はまた授業のつぎほを見つけてゆく。そのうちにベルが鳴る。僕は教員室に戻つてくる。
僕があの海の見える中学ではじめて教師になつたとき、その頃、お前は、寝たり起きたりの病人であつた。はじめて教壇に立つた僕はあべこべにまるで自分が中学生にされたやうに、剥きだしに晒された自分を怖れた。ときどき、僕は家に残つてゐる自分の影をおもつた。そんな弱々しい僕を病人のお前は労はつてくれようとした。その僕の影は……。僕は今、頻りにお茶を飲んで空腹を紛らしてゐる。すると小使が部屋の隅でベルを鳴らす。僕は疲労を鞭打つて立上る。暗い階段を匐ふやうに昇つて行く。灯のついた教室に入る。僕は黒板の方へ向く。消してない字で一杯の黒板を僕はおそるおそる困つたやうに眺める。それから思ひきつて黒板拭きで消してゆく。おびただしい白い粉が僕のまはりに散乱する。それは今、僕に吸はれてゐる。と、僕は朝の咳の発作をおもひだす。淡い淡いあぢさゐの花……。疲れないやうに、疲れないやうに、と軽い、軽い、祈り……。僕はふらふらと授業を続けてゐる。ベルが鳴る時間を待ちかまへてゐる。その時刻は電燈の光のなかにちらちらしてゐる。そして、ほんとにベルが鳴る。僕は手探りで階段を降り教員室へ戻つてくる。
蝙蝠傘を提げて、僕は坂を下りてゆく。坂の下の表通りの闇のなかの灯が眩しく、それは僕を吸ひ込みさうだ。夜の闇色と感触がずしんと深まつてゐて、今はまるで海のやうだ。僕はそのなかを泳ぐやうにして歩く。僕は電車通を越えて、省線駅に来る。暗いホームは人で一杯だが、電車は容易にやつて来ない。突立つてゐる僕の脚は棒のやうだ。突立つてゐる、昨日も今日も、それから恐らく明日も……。明るい灯のついた満員電車が僕の前で停まる。僕は棒のやうに押込まれてゆく。僕の胸を左右から人間が押してくる。押してくる人間のいきれが僕をつつんでゐる。僕は何を考へてゐるのだらうか。Can I swim? Can I swim? ……疲れないやうに、斃れないやうに、ふらふらの軽い、今日の勤めも果たした。それが今の僕の生活を支へてくれるのではないのに、とにかく今日の今日も耐へて来た。それがとにかく僕に安心を与へてゐるのだらうか。人間のいきれ、……惨劇のなかに死んで行つた無数の人間、……吻と今、僕をつつんでゐる人間のいきれ、僕を滅茶苦茶に押してくる人間、人間の流れ――それが斃れさうな僕を逆に支へてゐるのかもしれない。……
僕は人間の流れに押出されて、電車から降りる。人間の流れは広い鋪道を越えて、急な石段をぞろぞろ上つてゆく。僕もそろそろと石段を上つて行く。ほの暗い路が三つに岐れて、人間の流れも三つに岐れる。僕はいつもの谷間のやうな、ひつそりした、ゆるい坂路を歩いてゐる。僕のまはりに疎らになつた人間の足音がまだ続いてゐる。僕の少し前方でききとれる、コツコツといふ固い靴の音……。帰宅を急ぐ足どりの音……。あれはどういふ人間なのだらうか。はつきりとリズムを刻んで進んでゆく静かな靴の音……。僕はそれに惹きつけられて、その後について歩いてゐる。コツコツといふ軽い快げな靴の音が僕の耳に鳴る。あれは明確な目的から目的へ静かに進んでゐるのだ。ふと僕の耳に僕のゴム底靴の鈍い喘ぐやうな音がきこえる。いつのまにか、さつきの美ごとな靴音は消えてゐる。
僕はがくんと突離されたやうな気持だ。路は急な下り坂になつてゐる。そこから茫とした夜の塊りが見える。僕の帰つて行く道もあの中にある。僕は溝の橋を渡つて、仄暗い谷底のやうな路を進んでゆく。……と、僕のなかには、あの家の前の暗い滑りさうな石の段々が、夢のなかの情景のやうに浮んでくる。あの石段と僕のふらふらのゴム底靴が触れあふ瞬間、僕はあの、しーんとし息を潜めたガラスの家の怒りが、こちらへ飛掛つて来さうな気持がするのだ。……が、僕は今もうその石段のところまで来てしまつてゐる。ひつそりとした、階下も二階の方にもまるで灯が見えない。停電らしいのだ。僕はおどおどと段々を踏んでゆく。僕は喘ぐやうに、その家の扉をそつと押す。狭い狭い入口に屈んで、難しい姿勢で靴の紐を解く。この棒のやうに重い脚、ふらふらの頭、僕の心臓は早く打ち、息が苦しげなのがわかる。僕はそつと靴を下駄箱に入れて、ふわふわと立上る。それから僕の眼は暫く暗闇のなかでぼんやり戸惑つてゐる。
ガラス壁の側にあるテーブルに白い紙のやうなものが仄かに見える。たしかあそこはいつも僕の食事が置いてある場所なのだ。僕はおそるおそる床板の上を歩いてゆく。匐い寄るやうな気分で、椅子の上に腰を下す。テーブルの上の新聞紙をそつと除けてみると、たしかに何か食べものが置いてある。僕は手探りで箸を探す。だが、ふとぼんやり疑が浮ぶ。僕は食べて差しつかへないのだらうか、これはほんとに僕のだらうか……。何かわからないが僕に課せられてゐる苛責が、それが冷やかに僕の眼の前に据ゑてあるのではないか……。だが、僕はわからないが、その、しーんとしたものを既に食べ始めてゐる。冷たい菜つぱ汁とずるずるの甘藷が、暗闇のなかで僕に感じられる。僕は食べながら、かすかに泣いてゐるやうな気がする。どこか体がぐつたり熱くなつてゆくやうな、やりきれない感覚に悩まされる。僕はひそひそと静かに急いで食べ了つてしまふ。それから、椅子を離れ、そろそろ闇のなかを手探りで歩く。細い細い階段を泳ぐやうに登つてゆく。僕の部屋の扉を手探りで押す。真暗な小さなガラス箱の部屋が僕に戻つてくる。やつと戻つたのだ。僕は蝙蝠傘をそつと板の間に置き、肩にぶらさげた雑嚢を外す。それから、ごろりと板の上に身を横たへる。ぐつたりとして、かすかに泣きたいやうな熱いものが、……僕はぐつたりと板に横たはつてゐるのだ。
と、暗闇のなかにある堅い板の抵抗感が、僕に宿なしの意識を突きつける。僕はそつと板の感触をはづし、軽く軽く、できるだけ身を軽く感じやうとしてゐる。が、どうしても、ぐつたりとしたものが僕を押しつけてくる。
ふと僕はさつきから、何か小さな、ぼんやりした光を感じてゐたやうな気がする。見ると、その光はたしかに回転窓の三インチばかりの隙間のところから射して来るのだ。僕はだんだん不思議な気持がしてくる。たしかに、あれは星の光なのだが、どうしてたつた一つの星があんな遙かなところから、こんな小さな隙間に忍び込んで来ることができるのか。今夜のやうに、どんよりとした空に、今の時刻を選んで、僕の方に瞬きだすことができるのか。この小さな光はまるで無造作に僕のところへ滑り込んできて何気なく合図してゐる精霊のやうなのだ。……今、僕の眼の前には、昼間の、あの靄を含んだ柔らかい空気が顫へだす。地の果てにある水晶宮のキラキラした泉の姿が……。
僕はお前の骨壺を持つて郷里に戻ると、その時、兄の家で古いアルバムを見せてもらつたことがある。昔の写真のなかから、僕は久し振りに懐しい面影を見つけた。僕が少年の頃、死別れた姉の写真であつた。こんな優しい可愛い娘さんだつたのかと、僕はそんな女のひとがこの世に存在してゐたことを不思議に思ひ、僕がその女の弟であつたことまで誇らしく思へた。姉は結婚して二年目に死んだのだから、娘さんとは云へないだらうが、僕の目にはあまりに可憐で清楚なものが微笑みかけ、それが柔かく胸を締めつけるやうであつた。僕は大切にその面影を眼底に焼きつけておいた。
それから僕はときどき、こんな想像に耽けりだした。もしも死んだお前が遙かな世界を旅してゐるのであるなら、どうか僕の死んだ姉のところを訪ねて行つて欲しいと。だが、この祈願は、今ではかなへられてゐるのではないかと思ふ。僕は、眼もとどかない遙かなところで、お前と僕の姉との美しい邂逅を感じることが出来るやうだ。
お前と死別れて一年もたたないうちに、僕は郷里の街の大壊滅を見、それからつぎつぎに惨めな目に遇つて来てゐるが、僕にはどこか眼もとどかない遙かなところで、幸福な透明な世界が微笑みかけてくる瞬間があるやうだ。
僕の姉は僕が中学に入る前の年に死んだ。僕は姉の死ぬる少し前、姉の入院してゐる病室を訪ねて行つたことがある。ベッドの中の姉は少し弱々しさうだつたが、不思議に冴えて美しい顔色だつた。澄んで大きく見ひらかれた眼が僕を見つめ、――こんな風な回想をしてゐると、僕はその女のひとが姉だつたのか、それともお前だつたのか、ふとわからなくなるやうだ。――姉は僕に何か話をしてくれさうな様子だつた。僕はその頃ひどく我儘で癇癪持ちの子供だつたが、姉の前でだけはいつも素直な気持になれるのであつた。姉の唇もとが動きだすのを僕は恰度お前の唇もとが動きだすのを待つやうな気持で待つてゐた。やがて、姉は静かに話しだした。僕はすつかりその話に魅せられてゐた。それはアダムとイブの、僕がはじめて聴く創世記の物語であつた。姉の澄んだ眼は、彼女がこの世のほかに、もつと遙かな場所――そんな場所をお前もどんなに熱心に求めてゐたか――を疑はない眼つきだつた。そしてそれはまつすぐ僕にも映つて来た。姉の話が終つたとき僕は何か底の底まで洗ひ清められてゐた。急に僕の眼には今迄と世界が変つて来たやうにおもはれた。その夕暮、僕がその病院を出て家に戻つてくる途中、街はづれにある青い山脈が何か活々と不思議におもはれ、僕のまはりにある凡てのものが、もつと遙かなところから繋がつてゐるのではないかとおもへた。僕は生れ変るのではないかとおもへた。僕は僕のうちにどんな世界がひらけてくるのか、まだ分らなかつたが、視えない世界の光が僕のなかに墜ちてくるのを思つてぞくぞくしてゐた。
僕が幸福の予感にふるへ、その世界をもつともつと姉から教へてもらひたかつた時、恰度その時、僕の姉は死んだ。臨終には逢へなかつたので、僕が姉と逢つたのは、あの病室を訪ねて行つた日が最後だつた。僕は姉が話してゐた、あの遙かな世界に、もうほんとに姉は行つてしまつたのだらうと思つた。だが、僕の上には何かとり残されたものの空虚が滑り墜ちてゐた。そのうちに姉の追憶がやつて来て、その空虚を満たすやうになつた。幼い時から僕はこの姉が一番好きだつたし、僕はこの姉から限りない夢を育てられたやうな気がする。子供の僕は姉が裁縫してゐる傍で不思議なお伽噺をうつとりとききとれたものだが、姉が嫁入したときのことも僕には何だかお伽噺のやうにおもへる。お伽噺の王女のやうに幸福さうだつた姉がほんとに死んでしまつたのだ。死んでしまつたといふことも僕にはだんだん美しい物語のやうにおもへた。二階の窓を夕陽が赤く染めてゐる時、僕は遙かな遙かな世界を夢みてゐる少年であつた。
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