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火の子供(ひのこども)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-23 14:05:51  点击:  切换到繁體中文

  〈一九四九年 神田〉

 僕は通りがかりに映画館の前の行列を眺めてゐた。水色の清楚なオーバーを着たお嬢さんの後姿が何気なく僕の眼にとまつた。時間を待つてゐる人間の姿といふものは、どうしても侘しいものが附纏ふやうだが、そのお嬢さんの肩のあたりにも何か孤独の光線がふるへてゐた。たつた一人で、これから始る映画を見たところで、どれだけ心があたたまるといふのだらう。幸福さうな、しかし気の毒げな、お嬢さんよ。僕は何気なく心のなかで、そんなことを呟いてゐた。と、その時どうしたはずみか、お嬢さんはこちらを振向いた。その顔は一めん火傷の跡で灰色なのだ。僕は見てしまつたのだ。何故に、そのお嬢さんはたつた一人で映画のなかに夢を求めなければならないかといふ理由を……。

 毎朝、僕はこの部屋で目が覚めるとたん、背筋に真青なものがつつ走る。僕はほんたうに、ここに存在してゐるのだらうか、僕は宙に漾つてゐて、何処かはて知らぬところへ押流されてゐるのではないか。かうした感覚はどこから湧いてくるのだらうか。僕がまた近いうちに、この部屋も立退かねばならぬといふ不安からだらうか。
 僕はあの瞬間、生きてゐた。斃れてはゐなかつた。いきなり暗闇が僕の上に滑り墜ちたので、唸りながらよろめいた。僕はあの時、自分のうめき声をきいた。頭に落ちてくるものは崩れ落ちる破片だつた。だが、僕はもつともつと何かひどいものに叩きつけられたやうな気がした。すべてが瞬時に、とほりすぎた。もの凄い速さが僕のなかで通り過ぎたのだ。あの時から、僕はもう「突然」といふ言葉が奇異に感じられなくなつたし、あの時から僕は地上に放り出された人間だつたのだ。……僕はあの夜のことを憶ひ出す。広島の街は夜もすがら燃えてゐた。僕は川原の堤の窪地に横臥して、人々の号泣をきいてゐた。殆どこれからさき、どうなるのか皆目わけのわからぬ状態のなかに、不思議な静けさがあつた。もはや地球は破滅に瀕してゐて人々は死の寸前に置かれてゐる、さうした不思議な静けさだつたかもしれない。薄暗いなかに負傷者や避難民が一ぱい蹲つてゐた。僕のすぐ側にやつて来て蹲つた男は、どんな男なのか視線ではわからなかつた。だが、声でその人の人柄がわかるやうだつた。「をぢさんについてゐるのだよ。をぢさんについてゐれば大丈夫さ」と男は連れてゐる子供を顧みて頻りに云つてゐた。
「この子は迷ひ子で今朝から私につき歩いてゐるのです」
 僕はその男が皆目わけの分らぬ状態のなかにゐる感動から、迷ひ子を庇つてゐるやうにおもへた。迷ひ子も、それを保護してゐる男も、それから僕も、すべて、かいもく訳のわからぬものに凭掛つてゐたのだらう。だから世界はあの時、消滅しても僕にとつては余り不思議ではなかつた。だが、世界は消滅しなかつた。夜が明けると、僕はまた、まのあたり惨禍のまつただ中にゐるのだつた。僕はあの迷ひ子がその後どうなつたか知らない。あの男によつて、ほんとに保護されて救はれただらうか。それとも突離されてしまつただらうか。

 雑沓の人混のなかを歩いてゐると、あちこちから洩れてくる雑音のなかに、奇妙に哀しい調子をもつたジヤズのギターの音がある。ふと気がつくと、僕のすぐ眼の前を老人が一人妙に哀しい調子で歩いてゐるのだ。老人の肩から縄でぶらさげてゐる小さな荷物の包みは、ギターの音につれてチンチンチンと小刻みに揺れ動いてゐる。視ると、老人の足はびつこなのだ。彼は自分ではもうどんな哀しい後姿を待つてゐるかさへ気づかないのだらう。ジヤズの音に踊らされて地上を飛び歩くやうな奇妙に哀しい切ない恰好は無数の泣号のなかから湧いて出た一つの幻かもしれない。何処か涯しらぬところへ押流されてゆくやうに、何処か涯しらぬところへ人を誘ふやうに、その姿は次第に人混のなかに紛れてゆく。
 僕は夜ふけに部屋を出て深夜の街を歩いてみる。と、露次の芥箱から芥箱へ、何か漁りながら歩いてゐる男がゐるのだ。男は懐中電燈と雑嚢をぶらぶらさせながら、芥箱から芥箱へ飛歩いてゐるのだ。電車通りの舗道では、また別の男を見た。竹のステツキのさきに仕掛を附けて、それで、煙草の吸殻を摘みとつてゐるのだ。吸殻から吸殻へ男は奇妙に哀しい飛歩きの姿をしてゐる。追詰られてゐる人間は、どうして、あのやうに一やうに奇妙なアクセントをもつのだらうか。その姿が僕の姿と重なりあふ。「部屋」といふものを持てない僕はやはり地上を飛歩いてゐる男だらうか。

 僕はこの部屋の真青な冷凍感の底で、ぼんやり夢をみてゐた。家を焼かれ、居住を拒まれだんだん衰弱してゆく子供たち、……ギリシヤに、ポーランドに、ルーマニヤに、……そんなイメージがきれぎれに僕に浮ぶ。僕はそれが昼間、街の舗道に陳列してあつた写真のせゐだとおもつた。あの写真は削げた頬の下の唇が匙でスープを吸つてゐた。あの写真は靴のない痩せた脛が砂の上を飛歩いてゐた。あの写真は掘立小屋の揺らぐテントの蔭の木のベツドで注射の円い肩が波打つてゐた。僕はそれらが今も僕のなかに紛れ込み僕を脅かしてゐるのがわかつた。すると何処からともなしに哀しげな手風琴の音が聞えて来た。すると僕はその音に誘はれて、ぞろぞろと街を歩いてゐるやうな気持がした。だが、僕のゐるところは一向明るくなかつた。仄暗い地下道らしいところに、僕のまはりを大勢の子供がぞろぞろ歩いてゐるらしかつた。僕は子供たちの流れに添つて歩いて行けばよかつた。と、突然、その流れは停止してしまつた。僕のすぐ眼の前に浮浪児狩りの白い網の壁がするすると降りて来てしまつたのだ。

 僕は朝の街角で、すぐ僕の眼の前を歩いて行く若い女の後姿に眼をとめた。午前の爽やかな光線と活々した空気のなかで、その女の小刻みな歩き振りは何の異状も含んではゐなかつた。きちんとした身なりの健康さうな姿だつた。だが、僕の視線がふと、その無表情な洋服の肩のつけ根にとまつたとき、一瞬、相手がバラバラに分解する姿が閃いた。と、あつちからも、こつちからも、悶死者の顔や火の叫喚が僕をとりまいた。ハツとして僕は自分を支へなければならなかつた。……暫くして、僕のなかで犇きあふものが鎮まると、僕はまた先程の女の後姿を眼で追つてゐた。女はもう人混の間に消え去らうとしてゐた。その姿にはどこかはつきりしないが危険な割れ目があるやうだつた。
 だが、どんな人間の姿のなかにだつて、たしかに危険な割れ目は潜んでゐるのではないか。僕はあの原爆の光線で灼かれて死んだ人間たちが、人間といふより塑像か何かのやうに無機物の神秘な表情をしてゐたのを憶ひ出す。滅茶苦茶に膨れ上つた肉塊のなかから、紡錘形や円筒が無言で盛上つて流動してゐたのだ。それは突然襲撃してきたものに対する大驚愕のリズムだつた。すべての痙攣的リズムは絡みあつて空間を掴まうとしてゐた。僕はどうかすると今でも眼の前にある街が脅え上つて、一つの姿勢に凝結する図が浮ぶ。すると群衆の一人一人が円筒や紡錘形の無機物の神秘な表情でひつそりと流動してゐるのだ。

 ある日、僕は満員の外食食堂で、ふと、あたりを見渡して吃驚した。窓から斜に差込んでくる光線のために、薄暗い天井の下に犇めく顔は殆どすべて歪んでゐた。労苦に抉りとられた筋肉と煤けた皮膚と頭髪が入乱れて、粗末な服装のなかに渦巻いてゐる。一瞬、僕は奇怪な油絵のなかに坐つてゐるやうな気がした。
 僕はこの外食食堂でいつとなしに、その顔を見憶えてしまつた青年と舗道で擦れちがふたびに、何となく微かに忌々しい気持にされる。その青年が長い縮れた髪をしてゐることと、洋服の色が華美に明るいことが僕の注意を惹くくらゐなのだが、それでは何も相手を厭ふ理由にはなりさうにない。だが、僕は彼が僕と同じ場所で同じ時刻に似たやうな食事を摂つてゐるといふことが、それだけのことが、ふと堪らなく厭はしくなるのだ。僕のなかには今でも何かを激しく拒否したがる子供らしい傾向が潜んでゐるのだ。だから僕はテーブルの向うでいつも縮こまつて箸を動かしてゐる傴僂男を見ると、やはり微かに気に喰はない感情が湧いて来る。だが、僕はあるとき、その傴僂男が汗みどろでリヤカーを牽いてゐる姿を路上で見てハツとした。僕のなかにまだ残つてゐる子供らしい核心は粉砕されさうになつた。どのやうに僕が今激しく外界を厭はうと、外界の方がもつと激しく僕を拒否するかもしれないのだ。

 僕は金物屋の軒先を通りかかつて、目に入る品物にふと不安を感じる。あんなに沢山の食器類はやがて、それぞれ何処かの家の戸棚に収まるのだらう。が、僕にはもうそれらの食器類の名称がわからなくなつたやうな気さへする。アルマイト……ニツケル……無理矢理に僕は何か忘れかけたものを憶ひ出さうとしてみる。だが、何かが僕から滑り墜ちるのだ。お前が生きてゐた頃、僕は何の不安もなく、家のなかの什器類にとり囲まれてゐた。久しい間、僕には家のなかにある品物の名称も形状もすつかりあたりまへのことになつてゐた。今になつて、僕はあのおびただしい器具や衣類が夢のやうにおもへる。焼けて灰になつてしまつた、それらの夢は、もうどこにも収まりやうはないのだ。
 だから、それらの夢はぼんやりと空気のなかに溶けて、地上を流れてうごいてゆく。お前と死別れてから、「家」といふものを喪つてから、この地上を流転してゐる僕には、おびただしく流れ動いてゐるものを空白のなかに見おくるばかりなのだ。だけど、今でもやはり、この地上には無数の家が存在して、その軒下では無数の憂鬱と親和が繰返されてゐるのだらう。その軒の下でなくては通じない特別の表情や合図がぎつしり詰つてゐるに違ひないのだ。
 僕には焼失せた郷里の家の縁側の感触が夢のなかで甦つてくる。あの座敷の縁側の板のどの部分であつたか、楓の木の茶褐色の節の美しい木目が見えてゐるあたりだつたとおもふ。その辺に僕の死んだ母は坐つて、幼い僕に雷の話をしてくれた。そこからは井戸の側から大きく曲りうねつて空高く伸上つてゐる松の幹が真正面に見えてゐた。
「あの松の木の上の空です。パツと火柱が立つたのです。真赤な大きな火箸のやうな柱が……。それから間もなく火事になりました。香川さんの屋根の上に雷は墜ちたのでした。あのときの怕かつたこと、それは何といつていいのか。まだ朝のことでした」
 母はまだ松の上の空に火柱を視た瞬間の表情を湛へてゐた。それは僕がまだ生れない前の出来事だつたが、母の顔つきから僕には何かほのぼの伝はつてくるものがあつた。
「お前がまだ、おなかにゐた頃、近所に火事がありました。あのときも、それは何といつていいのか驚いてしまひました」
 そんなことを語る母の表情には不思議に僕をうつとりとさすものがあつたやうだ。僕はもしかすると、母の乳房から彼女の脅えた心臓の鼓動を吸ひとつたのかもしれない。それは大地に生存しようとするもの、女性たちの祈りのやうにおもへてくる。(だから、僕にはあの広島の惨劇に遭つた沢山の女の子たちが、やがて母親となつた時、その息子たちに、あのときのことを語る顔つきや言葉が見えてくるやうだ。)
 あの焼失せた家の座敷には、いつも初夏の爽やかな風がそよいでゐた。たしかに、子供の僕は爽やかなものが飛びきり悦しかつたのだらう。僕の死んだ父もやはり微風のなかでものを想像するのが好きだつたらしい。涼しい籐の敷物の上で、少年の僕を膝の上に抱へて、僕に話してくれたものだ。
「お前が大きくなつたら、……さうだね、お前が大人になつたときの話をしよう。お前はその時、大きな大きな家に棲むよ。それから、お前には立派な立派なお嫁さんがある。さうだ、お前は兄弟のうちで、とにかく一番の幸ものになるよ」
 父は自分の予言に熱中して、その時僕がどんな着物着てゐるか、その家の庭の眺めがどんな具合になつてゐるか、一つ一つ細かに描いてみせるのだつた。それは微風が描かせた夢だつたのかもしれない。が、死んだ父はやはり僕に一つの夢を托しておきたかつたのだらうか。
 あの家の二階の北側にある小さな窓からは、いつも漆黒の夜空が覗き込んでゐた。あの窓を開け立てするたびに発する微妙な軋みまで僕には外から覗き込んでゐるものと関連があるやうな気がしたものだ。死んだ姉はよく星のことを話してくれた。姉の眼のなかには深淵に脅えるものと憧れるものとが混りあつてゐたやうだ。しーんとした狭い部屋だつた。少年の僕にはその部屋の上の屋根をめくつて展がつてゐる無限の世界が、じーんと響いてきさうだつた。あの頃から何か不思議なものが僕を魅して僕を覗き込んでゐたのではないだらうか。……お前は知つてゐてくれるだらう。子供の僕がどのやうに烈しく美しいものに憧れたか。てんたう虫の翅の模様、桜桃の光沢、しやぼん玉に映る虹、そんなものを見ただけで、僕の魂はいきなり遠いところへ彷徨つて行つた。僕の眼は美しい色彩にみとれ、頭の芯まで茫としてゐた。子供の僕には美の秘密につつまれた世界だけが堪らなかつたのだ。(だから、僕がお前のなかに一番切実に見ようとしたのは、子供の時の郷愁だつたかもしれない。)
 ときどき僕はこの街なかの雑沓のなかで、お前の幼年時代に似てゐる女の子をちらつと見かけることがある。きちんとした、そして少し悲しさうでさへある、小さな女の子の顔を見ると、あそこにまだお前は成長してゐるのではないかしらとおもふ。それから僕はお前が嘗て夢に描いてゐた子供のことをおもひだす。野つぱらを飛び廻つて跳ね廻つて、見るからに幸福さうな、子供であることの幸福を全身に湛へてゐる子供のことを……、そんな子供は今も何処かこの地上にゐて、やはり成長してゐるのだらうか。
 僕は歩きながら自分の靴音が静かに整つてゐるのを感じる。電車通りから横に折れて、一米幅の小路に入ると、両側の高い建物の上に見える青空がくつきりと美しい。ほんとに、こんな美しい青空が街なかに存在してゐるのだらうか。だが僕は知つてゐる。殆ど餓死に近い状態で焼跡をよろめき歩いたとき、あのときも、天の高みから、さつと洩れて来る不思議に清らかな光があつた。そして僕が生き残つたこと、現にまだ僕が生きてゐること、何かがそのことを僕に激しく刻みつけよと促すやうだ。僕は自分の靴の音を自分の息のやうに数へてゐる。

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