……音楽爆弾。
突然、その言葉が頭の一角に閃光を放つと、衝撃によろめくやうにしながら人混のなかで立留まつてゐた。たつた今、無所得証明書とひきかへに封鎖預金から千円の生活費を引出せたので、その金はポケツトの中にあつた。それほどの金では一ケ月の生活を支へることも不可能だつたが、その金すら、いつ紙屑同然のものと化するかわからない。今も今、ポケツトの中の新円は加速度で価値を低下しつつある。それどころか、たしかに彼のやうな男の生存をパツと剥ぎ奪つてしまふ不可知の装置が、彼の感知できない場所で既に着々と準備されてゐる。――さうした念想が踵の方まで流れかけてゆくと左右の雑沓が急に緊迫して音響を喪つてゐた。
……音楽爆弾。
突如、その言葉が通り過ぎると、冷やりとした一瞬がすぎ、眼の前の雑沓はまた動きだしてゐた。彼の体も二三歩動きはじめた。だが、脳裏を横切つた閃光は、遙か遠方で無限に拡大してゆくらしく、それを想つただけでも耐らなく頭が火照る。体全体が熱と光のくるめきに、つん裂かれさうになつた。いけない、いけない、と彼は努めて平静を粧ひ、雑沓の中を進んだ。が、爆発しさうなものは爪さきまで走り廻つた。
省線駅入口に向ふ路が露店を並べて狭まつてゐた。彼はライター修繕屋のテーブルに眼をとめ、ピカピカ光る金属を視つめた。(今、何ごとも発生してはゐない。すべてはもとのままではないか。)だが、衝撃は刻々と何処かで拡大されてゆくやうにおもへた。もう一度、遭難地点を吟味するやうに、さきほどから自分の歩いてゐる場所を振りかへつてみた。銀行から電車通を抜けてK駅にむかふ路の入口まで来たとき、恰度その時、突然あの言葉が閃いたのだつた。
その言葉の発想とともに無数の連想の破片が脳裏に散乱した。最初、音楽爆弾の言葉が浮ぶと同時に閃いた考は、すべて有機体は音楽に依つて影響を蒙るといふ仮説だつた。それなら、無機物も音楽の特殊装置によつて自在に変化できる。その装置による微妙な音楽は原子核をも意のままに操作配列さす。そして、この方法によつて発生する魔力は遂には全く人間の想像を絶したものになる。それは……、そして……、それから……、それらは……。この奇妙な着想とともに、その魔力が既にぞくぞく彼の肉体に影響してくるやうな錯覚と、それから、いつも彼の脳裏にある、あの広島の体験と、こんどの音楽爆弾の予感がひどく混乱して、何か制しきれない苦悩を叫んでゐた。
……アダム
突然、一つの名称が奇蹟のやうに浮んだ。それは嘗て酸鼻と醜怪をきはめた虚無の拡がりの中に、底抜けの静謐を湛へてゐる青空を視たとき、不意と彼の念頭に浮び、それきり発展しなかつたアイデアであつたが、その名称が今何か救済のやうに思ひ出された。
(さうだ、アダム……。音楽爆弾の空想は君にまかせよう。君はあの死体の容積が二三倍に膨脹し、痙攣がいたるところに配列されてゐるシインのなかから、ぽつかりと夢のやうに現れたイメージだつた。君の名はアダム……だが君の名をいま僕はニユー・アダムと呼びたい。音楽爆弾でも何でもいいから勝手に勝手な空想をしてくれ給へ。いづれ僕はそいつも小説に書かうと思ふから、これからは時々やつて来てくれ給へ。だが今は僕はかうして街なかを歩いてゐるのだし、日常生活の姿勢でゐなければ、どうも困るのだ。)
さういふ会話を仮想人物に与へると、さきほどまで彼を苦しめてゐた感覚は次第に緩められて行つた。漸く普通人の気分に戻ると、彼は吻として切符売場の行列に加はつてゐた。
毎朝、彼はニユー・アダムの囁に悩まされだした。それを彼は次のやうにノートに書きしるした。
「顔を洗つたり、外食をすませてくる間に、一ダース位の小さな念想が泡立つてくる。素敵だ、ノートに書きとめてやらう、と直ぐペンをとりたい思ひに駆られながらも、目さきの用件に追はれてゐる。漸くつまらぬ用が済んで朝の部屋に落着くと、さきほどの念想は高い梢にとまつた目白のやうに、チラチラとこちらを嘲つてゐる。
君たちを捉まへて、小器用にまとめれば、君たちはノートのなかで晴れやかに囀るだらう。だが、君たちを飛ばしたり囀らす母なる大地とその秘密の方が、もつとも僕を悩ましてゐるのだ。見給へ、僕の部屋は頗る無器用に朝の宇宙に突立つてゐる。……」
彼の部屋は神田のある事務所の二階にあつたが、朝から晩まで騒音攻めにされてゐた。半年あまり部屋がないため、さんざ悩まされた揚句、漸くその事務所の一室に転がり込んで来たのだが、何ものかに追ひ詰められてゐる気持は今もまだ附纏つてゐた。
「悪意ある童話」――それは彼が原子爆弾遭難以来、絶えず条件に追ひつめられ追ひまくられて行く窮鼠の心情を述べようとするものだつたが――その題名だけがノートの端に書いてあつた。
彼はある朝、頭上に真黒な一撃を受け、つづいて家の崩壊を眺め、それからそこを逃出して行つたのだが、あの時から、もはや地上に生存してゆくことを剥奪されたのかもしれなかつた。その後、うちつづく飢ゑと屈辱の底をくぐり抜け、田舎から東京へ出て来たが、そこでも同じやうな条件が待伏せてゐた。彼を迎へてくれた友人の家の細君は、彼がその部屋に居ついて一ケ月も経たないうちに、もうそこを立退いて欲しいと仄めかした。それからそこでは隠忍と飢ゑの生活が一年あまり続いた。が、そのうち彼の友人は社用で遠く旅に出掛け、そのまま消息がなかつた。その友人が旅先で愛人が出来、もはや東京へは戻らないといふ決意を知らせて来たので、彼は早急にそこを立退かうと思つてゐる矢さき、その家の細君からも立退命令を受けた。前からその細君の無気味な顔にいつも脅かされてゐた彼は、火のついたやうに狼狽ててしまつた。彼はその頃、やはり下宿を追出されて、友人の下宿に同居してゐる中野の甥のところへ無理矢理に転がり込んで行つた。それから、そこでも紛糾と困憊の蒸返しであつた。とにかく部屋が見つかる迄といふ約束で泣き附いたのだつたが、彼が持込んで来た荷物を見ただけで、この部屋の主人公は眉を顰めた。
歯科医専の学生である、その甥の友人は、その部屋の特別席にあたるテーブルでいつも石膏いぢりをやる。その友人が出掛けて行くと、部屋中に散乱してゐる粉末や破片を甥は丹念に掃除した。人間一人増えたため、この甥は二倍も気を使つてゐたが、一番余計者の彼は片隅に身を縮め、できるだけその存在を目だたないやうに努めた。
その友人が外に出て行くと、彼と甥は始めて解放されたやうに畳の上にのびのびと横はる。だが、さうしてゐても火がついて追ひまくられてゐるやうな、あちらの岸の火が衰へたかとおもへば、こちらの岸の火が燃え上つてゆく、あの日からひきつづく強迫があつた。衣類を売り書物を手離し餓死とすれすれに生きのびて来ても、インフレは後から後から彼を追つて来るのだ。重傷者がごろごろしてゐる炎天の砂地や、しーんとした死者の叫喚はすぐ眼の前にあつた。身軽に逃げのびて、日蔭に憩つてゐても、すぐ彼の隣では三尺幅の日蔭を争つて、両手片足を捩がれた男と全身血達磨の青年が低い声で唸りあつてゐる。あのとき、見た数々の言語に絶する光景はまだ彼にとつて終結したのではなかつた。……彼は避難民のやうな恰好で、若い甥と話し合ふのだが、この甥と話しあふとお互にもやもやしたものが燃え上つた。
「まるで、とにかく、今では生きてゆくことが吹き晒しの中にまる裸にされてゐるやうな感じがするな」
「だけど、君はまだ帰つて行ける処があるが、僕はもう、あの日から地上の生存権を剥奪されたのだ」
すると、甥は何か不満さうに彼の言葉に抗議しだした。「そいつは少々言ひすぎだよ。とにかく、あんなひどい目に遇ひながら今日まで生きのびて来られたのは、やはり感謝していいだらう」
甥は九州の連隊にゐたため惨劇には遭はなかつた。家の焼跡にもその後バラツクが建てられたので、とにかく身を容れる最後の場所だけはあつた。ところが彼の方は今もまだ身一つで逃げ惑つてゐる形だつた。……夢中で全速力で彼は走つてゐるつもりなのだが、忽ち条件が怪物の如く彼の行手を塞ぐ。かと思ふと、血走つた彼の眼には、突然一切がだらけ切つてどうにもならぬ愚劣の連続となる。……炎天の下、今にもつんのめりさうな、ふわふわに腫れ上つた火傷患者に附添つて、彼は立つてゐる。重傷者の列は蜿蜒と続いてゐるが、施療の順番は殆ど無用の手続のため、できるかぎり延期されてゐる。……銀行、郵便局、町会事務所、食糧営団、いたるところの窓口が奇妙な手続で弱者の嘆願を拒んだ。無器用な彼は到る処で悪意に包囲されてゐるやうにおもへた。それは予想を裏切り想像を絶した形で突如出現する。
(……ある瞬間、ある瞬間を境に、地上の凡ては変形してしまつた。到る処に、いたるところに人間が満ち溢れ、もう何処でも食事を摂ることも身を横たへることも困難になる。更に人間の増えてゆく予感がこの時ぞくぞくと彼を脅かし、「逃げよ、逃げよ、今度こそ失敗るな」といふ声がする。だが、彼は今暫らく情況を確かめた上でと躊躇つてゐる。そのうちにも人間はぐらぐらと増えてゆく。今はもう呼吸をすることすら困難になつた。切羽詰つて無我夢中で左右の人間を押しのけ、鉄道線路めがけて逃げ出す。が、線路のところは、ここはもう先を争ふ人々で身動きもならない。ふらふらになりながら列に押され、列をくぐり抜け、どうにかかうにか、今突進してくる急行列車目がけて投身自殺を試みる。自殺は成功した。だが、死んだ筈の彼は、ふと気がつくと、一向に情況は変つてゐないのだ。両手片足の捩げた男、血まみれの裸女、全身糜爛の怪物、内臓の裂けて喰みだす子供、無数の亡者、無数の死体がすぐ彼の側を犇めきあひ、ぞろぞろと押されて進んで行く。ざわざわした人声のなかから、「もう墓地なんかありはしないよ」と鋭い悲しげな声が聴きとれる。どこへ、それでは何処へ?……どこへ行つたつて、もう君たちの憩へる場所はないのだ。)――かうした「悪意ある童話」の断片はいつとはなしに彼のなかに蓄積されてゐた。
「人間は一本の葦に過ぎない。自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考へる葦である。彼を圧し潰すには、全宇宙が武装するを要しない。一吹の蒸気、一滴の水でも彼を殺すに充分である。しかし……」
彼がノートに書とめてゐるパスカルの言葉を読んできかせると、若い甥は目を輝かす。大学に籍はありながら、これまで殆ど纏つた勉強の出来なかつた甥は終戦後、飢ゑてゐるやうに書物を読みたがつた。だが、この二人が「考へる葦」として許されてゐる時間は極く限られてゐた。この部屋の主人公が戻つて来れば忽ち事情は一変する。頗る無表情な顔で、その医学生は脱ぎ捨てた服をポンと部屋の片隅に放りつける。すると、甥の顔つきは見る見るうちに戸惑つて行く。その甥の姿を見てゐると彼も直ぐ弾き出されるやうに、「さうだ、一刻も早くここを立去らねば」と外へ出てゆく。それから何か貸間の的があるかのやうに雑沓のなかを歩いてゐる。軒下にぎつしり並んだ露店や、あたりに犇めいてゐる人波は、みんな絡れあつて彼の眼に流れ込んでくる。「やつて来るぞ、やつて来るぞ」と、奇怪な狂気に似た囁があつた。
そのうちに、部屋の主人公が休暇で帰省し、つづいて甥も休暇で郷里へ帰つて行くと、切迫した気分が一時に緩んだ。荒れはててゐる部屋だつたが、それでもとにかく下宿屋の六畳らしい落着があつた。日が沈んで、一日中ギラギラ光つてゐた窓の外が漸く穏かになる頃、彼はごろりと畳の上に寝そべつて、その部屋の天井板や柱をぼんやりと眺めた。妻と死別した男が火と飢ゑの底をくぐり抜け漸く雨露を凌げる軒に辿りついたやうな気持がするのだつた。
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