何か広島にはまだ有害な物質があるらしく、田舎から元気で出掛けて行った人も帰りにはフラフラになって戻って来るということであった。舟入川口町の姉は、夫と息子の両方の看病にほとほと疲れ、彼女も寝込んでしまったので、再びこちらの妹に応援を求めて来た。その妹が広島へ出掛けた翌日のことであった。ラジオは昼間から颱風を警告していたが、夕暮とともに風が募って来た。風はひどい雨を伴い真暗な夜の怒号と化した。私が二階でうとうと睡っていると、下の方ではけたたましく雨戸をあける音がして、田の方に人声が頻りであった。ザザザと水の軋るような音がする。堤が崩れたのである。そのうちに次兄達は母屋の方へ避難するため、私を呼び起した。まだ足腰の立たない甥を夜具のまま抱えて、暗い廊下を伝って、母屋の方へ運んで行った。そこにはみんな起きていて不安な面持であった。その川の堤が崩れるなど、絶えて久しくなかったことらしい。
「戦争に負けると、こんなことになるのでしょうか」と農家の主婦は嘆息した。風は母屋の表戸を烈しく揺すぶった。太い突かい棒がそこに支えられた。
翌朝、嵐はけろりと去っていた。その颱風の去った方向に稲の穂は悉く靡き、山の端には赤く濁った雲が漾っていた。――鉄道が不通になったとか、広島の橋梁が殆ど流されたとかいうことをきいたのは、それから二三日後のことであった。
私は妻の一周忌も近づいていたので、本郷町の方へ行きたいと思った。広島の寺は焼けてしまったが、妻の郷里には、彼女を最後まで看病ってくれた母がいるのであった。が、鉄道は不通になったというし、その被害の程度も不明であった。とにかく事情をもっと確かめるために廿日市駅へ行ってみた。駅の壁には共同新聞が貼り出され、それに被害情況が書いてあった。列車は今のところ、大竹・安芸中野間を折返し運転しているらしく、全部の開通見込は不明だが、八本松・安芸中野間の開通見込が十月十日となっているので、これだけでも半月は汽車が通じないことになる。その新聞には県下の水害の数字も掲載してあったが、半月も列車が動かないなどということは破天荒のことであった。
広島までの切符が買えたので、ふと私は広島駅へ行ってみることにした。あの遭難以来、久し振りに訪れるところであった。五日市まではなにごともないが、汽車が己斐駅に入る頃から、窓の外にもう戦禍の跡が少しずつ展望される。山の傾斜に松の木がゴロゴロと薙倒されているのも、あの時の震駭を物語っているようだ。屋根や垣がさっと転覆した勢をその儘とどめ、黒々とつづいているし、コンクリートの空洞や赤錆の鉄筋がところどころ入乱れている。横川駅はわずかに乗り降りのホームを残しているだけであった。そして、汽車は更に激しい壊滅区域に這入って行った。はじめてここを通過する旅客はただただ驚きの目を瞠るのであったが、私にとってはあの日の余燼がまだすぐそこに感じられるのであった。汽車は鉄橋にかかり、常盤橋が見えて来た。焼爛れた岸をめぐって、黒焦の巨木は天を引掻こうとしているし、涯てしもない燃えがらの塊は蜿蜒と起伏している。私はあの日、ここの河原で、言語に絶する人間の苦悩を見せつけられたのだが、だが、今、川の水は静かに澄んで流れているのだ。そして、欄干の吹飛ばされた橋の上を、生きのびた人々が今ぞろぞろと歩いている。饒津公園を過ぎて、東練兵場の焼野が見え、小高いところに東照宮の石の階段が、何かぞっとする悪夢の断片のように閃いて見えた。つぎつぎに死んでゆく夥しい負傷者の中にまじって、私はあの境内で野宿したのだった。あの、まっ黒の記憶は向うに見える石段にまざまざと刻みつけられてあるようだ。
広島駅で下車すると、私は宇品行のバスの行列に加わっていた。宇品から汽船で尾道へ出れば、尾道から汽車で本郷に行けるのだが、汽船があるものかどうかも宇品まで行って確かめてみなければ判らない。このバスは二時間おきに出るのに、これに乗ろうとする人は数町も続いていた。暑い日が頭上に照り、日陰のない広場に人の列は動かなかった。今から宇品まで行って来たのでは、帰りの汽車に間に合わなくなる。そこで私は断念して、行列を離れた。
家の跡を見て来ようと思って、私は猿猴橋を渡り、幟町の方へまっすぐに路を進んだ。左右にある廃墟が、何だかまだあの時の逃げのびて行く気持を呼起すのだった。京橋にかかると、何もない焼跡の堤が一目に見渡せ、ものの距離が以前より遙かに短縮されているのであった。そういえば累々たる廃墟の彼方に山脈の姿がはっきり浮び出ているのも、先程から気づいていた。どこまで行っても同じような焼跡ながら、夥しいガラス壜が気味悪く残っている処や、鉄兜ばかりが一ところに吹寄せられている処もあった。
私はぼんやりと家の跡に佇み、あの時逃げて行った方角を考えてみた。庭石や池があざやかに残っていて、焼けた樹木は殆ど何の木であったか見わけもつかない。台所の流場のタイルは壊れないで残っていた。栓は飛散っていたが、頻りにその鉄管から今も水が流れているのだ。あの時、家が崩壊した直後、私はこの水で顔の血を洗ったのだった。いま私が佇んでいる路には、時折人通りもあったが、私は暫くものに憑かれたような気分でいた。それから再び駅の方へ引返して行くと、何処からともなく、宿なし犬が現れて来た。そのものに脅えたような燃える眼は、奇異な表情を湛えていて、前になり後になり迷い乍ら従いてくるのであった。
汽車の時間まで一時間あったが、日陰のない広場にはあかあかと西日が溢れていた。外郭だけ残っている駅の建物は黒く空洞で、今にも崩れそうな印象を与えるのだが、針金を張巡らし、「危険につき入るべからず」と貼紙が掲げてある。切符売場の、テント張りの屋根は石塊で留めてある。あちこちにボロボロの服装をした男女が蹲っていたが、どの人間のまわりにも蠅がうるさく附纏っていた。蠅は先日の豪雨でかなり減少した筈だが、まだまだ猛威を振っているのであった。が、地べたに両足を投出して、黒いものをパクついている男達はもうすべてのことがらに無頓着になっているらしく、「昨日は五里歩いた」「今夜はどこで野宿するやら」と他人事のように話合っていた。私の眼の前にきょとんとした顔つきの老婆が近づいて来て、
「汽車はまだ出ませんか、切符はどこで切るのですか」と剽軽な調子で訊ねる。私が教えてやる前に、老婆は「あ、そうですか」と礼を云って立去ってしまった。これも調子が狂っているにちがいない。下駄ばきの足をひどく腫らした老人が、連れの老人に対って何か力なく話しかけていた。
私はその日、帰りの汽車の中でふと、呉線は明日から試運転をするということを耳にしたので、その翌々日、呉線経由で本郷へ行くつもりで再び廿日市の方へ出掛けた。が、汽車の時間をとりはずしていたので、電車で己斐へ出た。ここまで来ると、一そ宇品へ出ようと思ったが、ここからさき、電車は鉄橋が墜ちているので、渡舟によって連絡していて、その渡しに乗るにはものの一時間は暇どるということをきいた。そこで私はまた広島駅に行くことにして、己斐駅のベンチに腰を下ろした。
その狭い場所は種々雑多の人で雑沓していた。今朝尾道から汽船でやって来たという人もいたし、柳井津で船を下ろされ徒歩でここまで来たという人もいた。人の言うことはまちまちで分らない、結局行ってみなければどこがどうなっているのやら分らない、と云いながら人々はお互に行先のことを訊ね合っているのであった。そのなかに大きな荷を抱えた復員兵が五六人いたが、ギロリとした眼つきの男が袋をひらいて、靴下に入れた白米を側にいるおかみさんに無理矢理に手渡した。
「気の毒だからな、これから遺骨を迎えに行くときいては見捨ててはおけない」と彼は独言を云った。すると、
「私にも米を売ってくれませんか」という男が現れた。ギロリとした眼つきの男は、
「とんでもない、俺達は朝鮮から帰って来て、まだ東京まで行くのだぜ、道々十里も二十里も歩かねばならないのだ」と云いながら、毛布を取出して、「これでも売るかな」と呟くのであった。
広島駅に来てみると、呉線開通は虚報であることが判った。私は茫然としたが、ふと舟入川口町の姉の家を見舞おうと思いついた。八丁堀から土橋まで単線の電車があった。土橋から江波の方へ私は焼跡をたどった。焼け残りの電車が一台放置してあるほかは、なかなか家らしいものは見当らなかった。漸く畑が見え、向うに焼けのこりの一郭が見えて来た。火はすぐ畑の側まで襲って来ていたものらしく、際どい処で、姉の家は助かっている。が、塀は歪み、屋根は裂け、表玄関は散乱していた。私は裏口から廻って、縁側のところへ出た。すると、蚊帳の中に、姉と甥と妹とその三人が枕を並べて病臥しているのであった。手助に行ってた妹もここで変調をきたし、二三日前から寝込んでいるのだった。姉は私の来たことを知ると、
「どんな顔をしてるのか、こちらへ来て見せて頂だい、あんたも病気だったそうだが」と蚊帳の中から声をかけた。
話はあの時のことになった。あの時、姉たちは運よく怪我もなかったが、甥は一寸負傷したので、手当を受けに江波まで出掛けた。ところが、それが却っていけなかったのだ。道々、もの凄い火傷者を見るにつけ、甥はすっかり気分が悪くなってしまい、それ以来元気がなくなったのである。あの夜、火の手はすぐ近くまで襲って来るので、病気の義兄は動かせなかったが、姉たちは壕の中で戦きつづけた。それからまた、先日の颱風もここでは大変だった。壊れている屋根が今にも吹飛ばされそうで、水は漏り、風は仮借なく隙間から飛込んで来、生きた気持はしなかったという。今も見上げると、天井の墜ちて露出している屋根裏に大きな隙間があるのであった。まだ此処では水道も出ず、電燈も点かず、夜も昼も物騒でならないという。
私は義兄に見舞を云おうと思って隣室へ行くと、壁の剥ち、柱の歪んだ部屋の片隅に小さな蚊帳が吊られて、そこに彼は寝ていた。見ると熱があるのか、赤くむくんだ顔を茫然とさせ、私が声をかけても、ただ「つらい、つらい」と義兄は喘いでいるのであった。
私は姉の家で二三時間休むと、広島駅に引返し、夕方廿日市へ戻ると、長兄の家に立寄った。思いがけなくも、妹の息子の史朗がここへ来ているのであった。彼が疎開していた処も、先日の水害で交通は遮断されていたが、先生に連れられて三日がかりで此処まで戻って来たのである。膝から踵の辺まで、蚤にやられた傷跡が無数にあったが、割と元気そうな顔つきであった。明日彼を八幡村に連れて行くことにして、私はその晩長兄の家に泊めてもらった。が、どういうものか睡苦しい夜であった。焼跡のこまごました光景や、茫然とした人々の姿が睡れない頭に甦って来る。八丁堀から駅までバスに乗った時、ふとバスの窓に吹込んで来る風に、妙な臭いがあったのを私は思い出した。あれは死臭にちがいなかった。あけがたから雨の音がしていた。翌日、私は甥を連れて雨の中を八幡村へ帰って行った。私についてとぼとぼ歩いて行く甥は跣であった。
嫂は毎日絶え間なく、亡くした息子のことを嘆いた。びしょびしょの狭い台所で、何かしながら呟いていることはそのことであった。もう少し早く疎開していたら荷物だって焼くのではなかったのに、と殆ど口癖になっていた。黙ってきいている次兄は時々思いあまって怒鳴ることがある。妹の息子は飢えに戦きながら、蝗など獲って喰った。次兄の息子も二人、学童疎開に行っていたが、汽車が不通のためまだ戻って来なかった。長い悪い天気が漸く恢復すると、秋晴の日が訪れた。稲の穂が揺れ、村祭の太鼓の音が響いた。堤の路を村の人達は夢中で輿を担ぎ廻ったが、空腹の私達は茫然と見送るのであった。ある朝、舟入川口町の義兄が死んだと通知があった。
私と次兄は顔を見あわせ、葬式へ出掛けてゆく支度をした。電車駅までの一里あまりの路を川に添って二人はすたすた歩いて行った。とうとう亡くなったか、と、やはり感慨に打たれないではいられなかった。
私がこの春帰郷して義兄の事務所を訪れた時のことがまず目さきに浮んだ。彼は古びたオーバーを着込んで、「寒い、寒い」と顫えながら、生木の燻る火鉢に獅噛みついていた。言葉も態度もひどく弱々しくなっていて、滅きり老い込んでいた。それから間もなく寝つくようになったのだ。医師の診断では肺を犯されているということであったが、彼の以前を知っている人にはとても信じられないことではあった。ある日、私が見舞に行くと、急に白髪の増えた頭を持あげ、いろんなことを喋った。彼はもうこの戦争が惨敗に近づいていることを予想し、国民は軍部に欺かれていたのだと微かに悲憤の声を洩らすのであった。そんな言葉をこの人の口からきこうとは思いがけぬことであった。日華事変の始った頃、この人は酔っぱらって、ひどく私に絡んで来たことがある。長い間陸軍技師をしていた彼には、私のようなものはいつも気に喰わぬ存在と思えたのであろう。私はこの人の半生を、さまざまのことを憶えている。この人のことについて書けば限りがないのであった。
私達は己斐に出ると、市電に乗替えた。市電は天満町まで通じていて、そこから仮橋を渡って向岸へ徒歩で連絡するのであった。この仮橋もやっと昨日あたりから通れるようになったものと見えて、三尺幅の一人しか歩けない材木の上を人はおそるおそる歩いて行くのであった。(その後も鉄橋はなかなか復旧せず、徒歩連絡のこの地域には闇市が栄えるようになったのである。)私達が姉の家に着いたのは昼まえであった。
天井の墜ち、壁の裂けている客間に親戚の者が四五人集っていた。姉は皆の顔を見ると、「あれも子供達に食べさせたいばっかしに、自分は弁当を持って行かず、雑炊食堂を歩いて昼餉をすませていたのです」と泣いた。義兄は次の間に白布で被われていた。その死顔は火鉢の中に残っている白い炭を聯想さすのであった。
遅くなると電車も無くなるので、火葬は明るいうちに済まさねばならなかった。近所の人が死骸を運び、準備を整えた。やがて皆は姉の家を出て、そこから四五町さきの畑の方へ歩いて行った。畑のはずれにある空地に義兄は棺もなくシイツにくるまれたまま運ばれていた。ここは原子爆弾以来、多くの屍体が焼かれる場所で、焚つけは家屋の壊れた破片が積重ねてあった。皆が義兄を中心に円陣を作ると、国民服の僧が読経をあげ、藁に火が点けられた。すると十歳になる義兄の息子がこの時わーッと泣きだした。火はしめやかに材木に燃え移って行った。雨もよいの空はもう刻々と薄暗くなっていた。私達はそこで別れを告げると、帰りを急いだ。
私と次兄とは川の堤に出て、天満町の仮橋の方へ路を急いだ。足許の川はすっかり暗くなっていたし、片方に展がっている焼跡には灯一つも見えなかった。暗い小寒い路が長かった。どこからともなしに死臭の漾って来るのが感じられた。このあたり家の下敷になった儘とり片づけてない屍体がまだ無数にあり、蛆の発生地となっているということを聞いたのはもう大分以前のことであったが、真黒な焼跡は今も陰々と人を脅かすようであった。ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷いでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随ってはっきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何という初々しい声であろう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さえ泣いているのであろうか。何ともいいしれぬ感情が私の腸を抉るのであった。
槇氏は近頃上海から復員して帰って来たのですが、帰ってみると、家も妻子も無くなっていました。で、廿日市町の妹のところへ身を寄せ、時々、広島へ出掛けて行くのでした。あの当時から数えてもう四カ月も経っている今日、今迄行方不明の人が現れないとすれば、もう死んだと諦めるよりほかはありません。槇氏にしてみても、細君の郷里をはじめ心あたりを廻ってはみましたが、何処でも悔みを云われるだけでした。流川の家の焼跡へも二度ばかり行ってみました。罹災者の体験談もあちこちで聞かされました。
実際、広島では今でも何処かで誰かが絶えず八月六日の出来事を繰返し繰返し喋っているのでした。行方不明の妻を探すために数百人の女の死体を抱き起して首実検してみたところ、どの女も一人として腕時計をしていなかったという話や、流川放送局の前に伏さって死んでいた婦人は赤ん坊に火のつくのを防ぐような姿勢で打伏になっていたという話や、そうかと思うと瀬戸内海のある島では当日、建物疎開の勤労奉仕に村の男子が全部動員されていたので、一村挙って寡婦となり、その後女房達は村長のところへ捻じ込んで行ったという話もありました。槇氏は電車の中や駅の片隅で、そんな話をきくのが好きでしたが、広島へ度々出掛けて行くのも、いつの間にか習慣のようになりました。自然、己斐駅や広島駅前の闇市にも立寄りました。が、それよりも、焼跡を歩きまわるのが一種のなぐさめになりました。以前はよほど高い建ものにでも登らない限り見渡せなかった、中国山脈がどこを歩いていても一目に見えますし、瀬戸内海の島山の姿もすぐ目の前に見えるのです。それらの山々は焼跡の人間達を見おろし、一体どうしたのだ? と云わんばかりの貌つきです。しかし、焼跡には気の早い人間がもう粗末ながらバラックを建てはじめていました。軍都として栄えた、この街が、今後どんな姿で更生するだろうかと、槇氏は想像してみるのでした。すると緑樹にとり囲まれた、平和な、街の姿がぼんやりと浮ぶのでした。あれを思い、これを思い、ぼんやりと歩いていると、槇氏はよく見知らぬ人から挨拶されました。ずっと以前、槇氏は開業医をしていたので、もしかしたら患者が顔を憶えていてくれたのではあるまいかとも思われましたが、それにしても何だか変なのです。
最初、こういうことに気附いたのは、たしか、己斐から天満橋へ出る泥濘を歩いている時でした。恰度、雨が降りしきっていましたが、向うから赤錆びたトタンの切れっぱしを頭に被り、ぼろぼろの着物を纏った乞食らしい男が、雨傘のかわりに翳しているトタンの切れから、ぬっと顔を現しました。そのギロギロと光る眼は不審げに、槇氏の顔をまじまじと眺め、今にも名乗をあげたいような表情でした。が、やがて、さっと絶望の色に変り、トタンで顔を隠してしまいました。
混み合う電車に乗っていても、向うから頻りに槇氏に対って頷く顔があります。ついうっかり槇氏も頷きかえすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがいのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限ったことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。
(昭和二十二年十一月号『三田文学』)
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