夕暮
青田の上の広い空が次第に光を喪つてゐた。村の入口らしいところで道は三つに岐れ、水の音がしてゐるやうであつた。私たちを乗せた荷馬車は軒とすれすれに一すぢの路へ這入つて行つた。アイスキヤンデーの看板が目についた。溝を走るたつぷりした水があつた。家並は杜切れてはまた続いていつた。国民学校の門が見え、それから村役場の小さな建物があつた。田のなかを貫いて一すぢ続いてゐるらしいこの道は、どこまでつづくのだらうかとおもはれた。荷馬車はのろのろと進んだ。家並が密になつてくると、時々、軒下から荷馬車の方を振返つて、驚愕してゐる顔があつた。路傍で遊んでゐる子供も声をあげて走り寄るのであつた。
微かにモーターの響のしてゐる或る軒さきに、その荷馬車が停められた時、あたりはもう薄暗かつた。みんなはひどく疲れてゐた。立つて歩けるのは、妹と私ぐらゐであつた。私はその製粉所に這入つて行くと、深井氏に声をかけた。表に出て来た深井氏は吃驚して、それから、すぐにまた奥に引込んだ。いま、荷馬車の上の負傷者をとり囲んで、村の女房たちがてんでに私たちに話しかけた。けれども私は、薄闇のなかに誰が何を云つてくれてゐるのやら、気忙しくてわからないのであつた。深井氏はせつせと世話を焼いてくれた。兼ねて、その製粉所から三軒目の家を、次兄が借りる約束にはなつてゐたのだが、かうして突然、罹災者の姿となつて越して来ようとは、誰も思ひがけぬことであつた。
やがて、私たちは、ともかく農家の離れの畳の上に、膝を伸した。次兄の一家族と、妹と私と、二昼夜の野宿のあげく、漸く辿りついた場所であつた。とつぷりと日は暮れて、縁側のすぐ向の田を、風が重苦しくうごいてゐた。
一老人
背の低いわりに顔は大きい、額は剥げあがつてゐるが、鬢の方には白髪と艶々した髪がまじつてゐる、それから、何より眼だが、そのくるりとした眼球は、とてもいま睡むたさうで、まだ昼寝の夢に浸つてゐるやうだし、ゆるんだ唇にはキセルがあつた。……一瞬、あたりの空気がずりさがつて、こちらまで何だか麻酔にかかりさうであつた。が、そのぼんやりした眼が漸くこちらに気づいたやうであつた。すると、その男の顔には何ともいへぬもの珍しげな表情がうかび、唇がニヤニヤと笑ひだした。
「どうしたのだ、黙つてつつ立つてゐたのでは分らないよ」
さきほどから、そこの窓口に紙片を差出して転入のことを依頼してゐる私は、ちよつと度胆を抜かれた。
「これお願ひしたいのですが、さうお願ひしてゐるのですが」
しばらくすると、その男は黙つて、その紙片を机上に展げた。それから、帳面に何か記入したり、判を押したりしだした。反古のやうな紙に禿びたペンで奇妙な文字を記入し、太い指さきで算盤を弾いては乱暴な数字を書込んでゐる。じつと窓口でそれを視入つてゐる私は、何だかあれで大丈夫なのかしらと、ひどく不安になるのであつた。だが、とにかく、かうして転入の手続は済んだ。受取つた米殻通帳その他は、その日から村で通用するやうになつた。
私をおどろかしたその老人は、村の入口の小川の曲り角とか、畑道で、ひよつくり出逢ふことがあつた。いつも鍬を肩にしてぶらぶらと歩いてゐる容子は――畑に釣をしに行くやうな風格があつた。
その後、この村から私が転出する際も、私はまたその老人の手を煩はした。老人は滅多に役場に姿を現さず主に畑を耕してゐるのだつたが、その日、村道の中ほどを悠然と歩いてゐる老人の姿を見つけると、私はやにはに追ひ縋つて、転出のことを頼んだ。村役場の机で、老人は転出証明を書いてくれた。「東京への転出はどうもむつかしいといふことだがな……」と老人は首を捻りながら、とにかくそれを書いてくれたのである。
火葬
「何とも御愁傷のことと存じます」そこの座敷へ上り誰に対して云ふともなしに発した、この紋切型の言葉が、ぐいと私の胸にはねかへつて来て、私は悲しみのなかに滅り込んで行きさうになつた。これはいけない、と私はすぐに傍観者の気持に立還らうとした。広島で遭難してから五日目に、その男は死んでしまつた。この村へ移つて四日目に、私はその葬式に加はつてゐるのだつた。
今あたりを見廻すと、村の人々は、それほどこの不幸に心打たれてゐるやうにはおもへなかつた。みんながいま頻りに気にしてゐることは、空襲警報中なので出発の時刻が遅れることであつた。榊や御幣のやうなものが、既にだいぶ前からそこの縁側に置いてあつた。しばらくすると、警報が解かれた。すると、人々は吻としたやうに早速それらを手に手に取つて、男たちは路ばたに並んだ。棺は太い竹竿に通されて、二人の年寄に担がれた。それが先頭を揺れながら進んだ。村道を突切り、田の小径を渡り、山路にさしかかると、棺を担ふ竹がギシギシと音をたてた。火葬場は山の中腹にあつた。いま、ここまで従いて来る男たちに私が気づくと、それはみんな年寄ばかりなのだつた。
なかの二三人が棺を焼場の中に据ゑ、その下に丸太を並べ、藁を敷いて点火した。火は鉄の扉の向で燃えて行つた。
「それではあとはよろしくお願ひします」と、棺を担いで来た老人と若い未亡人がさきに帰つて行つた。人々は松の木蔭の涼しいところに腰を下ろして、暫く火の燃え具合を眺めてゐるのであつた。鉄の扉からは今も熾んに煙が洩れた。
「ほら、まるで鯔を焼くのと同じことだ。脂がプスプスいつてゐる」と誰かが気軽な調子で云つた。すると、一人が扉のところへ近づいて更に薪を継ぎ足した。暫くみんなは莨を喫ひながら、てんでに勝手なことを喋り合つてゐた。
「よく燃えてゐる。この調子なら、夜はお骨拾ひに行けるでせう」と一人の年寄は満足さうに呟いた。「では、そろそろ引あげませうか」と誰かがいふと、みんなは早速腰を上げた。淡々として、人々は事を運び、いくぶん浮々した調子すら混つてゐる。広島の惨劇がまだ目さきにちらつく私には、これは多少意外な光景であつた。だが、かうした不幸を扱ふに、今はかうした軽い調子によるよりほかないのかもしれない。すたすたと、坂路を降つて行く年寄たちは、頻りにふり仰いでは頭上を指さす。見ると、松の枝のあちこちに小さな竹筒が括り附けてあるのであつた。一人の年寄は態と立留まつて、まるでそれをはじめて眺めるやうに、
「ははあ、なるほど、松根油か。松根油が出るから日本は勝つさうな」と、からからとわらひだした。この村の人々が松根油でさんざ苦しめられてゐるらしいことを、ふと私はさとるのであつた。
農会
はじめて米殻通帳を持つて、その農会へ行つた時、そこの土間の棚にレモンシロツプや麦藁帽子、釦などが並べてあるのを私はじろじろと眺めた。「あれは売つてもらへるのですか」と女事務員に訊ねると頷く。そこで、私は水浸しになつてカチカチに乾きついた財布からパサパサになつてゐる紙幣をとり出し、毛筆とシロツプを求めた。「あそこではこんなもの売つてくれるよ」と私はめづらしさのあまり妹に告げると、妹も早速出掛け、シロツプや釦を買つてもどる。「ほんとうに、お金を出せばものが買へるなんて、まるで夢のやうだ」と妹も妙に興奮してくるのであつた。
だが、その後、お金を出してものが買へるのは既に珍しくない世の中がやつて来た。その頃になると、この村にも、復員青年の姿がぽつぽつ現れた。農会の女事務員は、村の老婆にしつこく年齢を訊ねられてゐた。
「気だてさへよければ伜の嫁にしたいのだが」老婆はむきつけてそんなことを娘に打明けるのだつた。Agricultural Society いつのまにか農会の入口にはこんな木札が掲げられてゐた。
玩具の配給
爺さんは牛を牽いて夜遅く家に帰る途中だつた。後からやつて来た朝鮮人が頻りに頼むので、その荷物を牛の背に乗せてやつたかとおもふと、すぐ側の叢で「万歳! 万歳!」と叫ぶ声がした。見ると薄らあかりのなかに軍刀を閃めかしながら人影が立上つた。「万歳! 万歳!」と猶も連呼しながら、影はよろよろとこちらへ近づいてくる。その時、朝鮮人は荷を持つて素速く逃げ去つたが、牛を連れてゐる爺さんは戸惑ふばかりであつた。「こらへて下さいや。なんにもわしはわるいことしたおぼえはないのです」爺さんは哀願した。だが、朦朧とした眼つきの男は、振りあげた軍刀で牛の尻にぴたと敲きつけると、つづいて爺さんの肘のところを払つた。そして、それきり相手の将校は黙々と立去つたのである。――八月十五日の晩の出来事で、軍刀の裏側でやられた肘の疵を撫でながら、爺さんは翌朝おそろしさうにこの話をした。
そんなことがあつてから五六日目のことだが、爺さんは牛を牽いて、朝早くから玩具を取りに出掛けて行つた。牛の背に積んで戻る程、たんと玩具がやつて来るのかしら、と私は少しをかしくおもつた。すると、お餉ごろ爺さんは村へ帰つて来た。それから暫くして、玩具の配給があるから取りに来いといふのだつた。よろこんで出掛けて行つた甥はすぐにひきかへして来た。
「風呂敷がいる、風呂敷がいるんだよ」
甥はひどく浮々してまた出掛けて行つた。やがて持つて戻つた風呂敷包は、すぐ畳の上にひろげられた。笛がある。カチカチと鳴る奇妙な木片がある。竹のシヤベル。女優のプロマイド。紙の将棋。木の車。どれも、これも、おそろしく粗末なものだが、宣撫用として、久しく軍の倉庫に匿されてゐたものなのだらう。こんなもの呉れるより、米の一升でもくれたらいいのに、と大人たちはあまり喜ばないのであつたが、子供らはてんでに畳の上のものに気を奪はれた。
日が暮れて、私は二階に昇つて行つた。すると、田の方で笛の音がするのだ。それも、一つばかりではない。短かい、単調な、笛の音は、あつちの家からも、こちらの小屋からも、今しきりにもの珍しげに鳴りひびくのであつた。さういへば、堤の方にも、山の麓にも、灯がキラキラと懐しげに瞬いてゐる。私の心も少し潤ふやうであつた。罹災以来ひどく兇暴な眼ざしになつてゐた、小さな姪の眼の色が、漸くやはらぎを帯びて来たのは、それから二三日後のことである。
罹災者
軍から引渡された品が隣組長の処で配給されることになつた。受取りに行つた私は、そこの閾で、二三時間待たされた。蚊取線香、靴篦、歯ブラシ、征露丸、梅肉エキス、蚤とり粉、毛筆、紙挟み、殆ど使用に堪へさうもない安全剃刀、パイプなど畳一杯に展げられてゐたが、ゲートル、帽子、雑嚢などになると、一層奇妙なものが多かつた。
その、腹巻とも、鉢巻ともつかぬ、紐の附いた白い布をとりあげて、「これは、犢鼻褌にしたらいいわな」と側にゐる親爺が私に話しかけた。私が曖昧に頷くと、それからは相手は得意になつて、頻りに愚にもつかぬことを喋りだすのであつた。が、どうも、その弛んだ貌つきと捨鉢な口調とは不可解なものを含んでゐた。
その後、私はその親爺とは時折路上で出喰はすやうになつた。いつも狎れ狎れしく話しかけるし、ひどく出鱈目な身なりや、阿房めいた調子は――こちらまで魯鈍の伴侶にされさうであつた。「芋を供出せえといふお触れが出たが、わしんところには畑はない。それだから他所で買ふて芋をおかみへ供出せねやならんことになるわい」さういつて、ハハと力なく笑ふのであつた。私は彼が罹災者で、大阪から流れ込んで来たことをもう知つてゐた。
隣の家で誰か祈祷師がやつて来て、頻りに怕いやうな声をあげてゐた。その家の娘を揉み療法で祈り治すらしいのだが、ふと、その文句に耳を傾けてみると、ギヤテイ ギヤテイ ハラギヤテイとか、テウネンクワンゼオン、ボネンクワンゼオンとか、いろんな文句が綴り合はされてゐるのであつた。しかし、文句より声の方が凄さまじかつた。――ところが、その祈祷師が、あの大阪の罹災親爺だとは、私は久しく気づかなかつた。
祈祷師、田口の親爺さんは、縁側に腰を下ろして、私の次兄に話しかけてゐた。「箪笥を売らうといふ人があるんだが、あんた買ふ気はないかね。何でも買ふなら今のうちだよ。黒柿の素敵な箪笥ぢや。うんにや、楓の木ぢやつたかな」と、彼は相変らず阿房めいた調子を混じへながら、巧みに話をもちかけてゆくのであつた。
脅迫
私はひどい下痢に悩まされながら、二階でひとり寝転んでゐた。すると、階下の縁側のところに誰だか近寄つて来る足音がした。
「今晩は、今晩は、森さんはここですかいの」その声ははじめから何か怨みを含んでゐるらしい調子であつたが、どうしたわけか、嫂が返事をするのが、少し暇どつてゐた。「森さん、森さん」と、相手の声はもう棘々してゐたが、やがて嫂が応対に出たらしい気配がすると、
「なして、あんたのところは当番に出なかつたのですか」と、いきなり嚇と浴せかけるのであつた。
国民学校の校舎が重傷者の収容所に充てられ、部落から毎日二名宛看護に出ることになつてゐた。が、嫂はいま、死にさうになつてゐる息子の看病に附ききりだつたし、次兄も火傷でまだ動けない躰だし、妹はその頃、広島へ行つてゐた。……何か弁解してゐる嫂の声はききとれなかつたが、激昂してゐる相手の声は、あたり一杯に響き亘つた。
「ええツ! 義務をはたさない家には配給ものもあげやせんからの」
と、とうとう今はそんなことまで呶鳴り散らしてゐる。その声から想像するに、相手はかなりの年配の男らしかつたが、おのれの声に逆上しながら、ものに脅えてゐるやうな、パセチツクなところもあつた。それは、抑制を失つた子供の調子であつた。やがて、その声もだんだん低くなり、まだ何か呟いてゐるらしかつたが、それもぴつたり歇んでしまつた。遠ざかつてゆく足音をききながら、私はその人柄を頭に描き、何となくをかしかつた。
だが、この事件は、決して笑ひごとではすまなかつた。それでなくても、罹災者の弱味をもつ私たちは、その後は戦々兢々として、村人の顔色を窺はねばならなかつた。
嫂は路傍で、村人の会話の断片を洩れ聴きして戻つて来た。
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