「どうぞおはいり下さい」膝の上に女の児を抱へてゐる若い女が僕の方へ声をかけた。狭い汚れた畳の上には白米が一杯に新聞紙に展げてあつたが、僕が入つて来ると、真黒な腕をした痩せた老人が、それを両手で掻き集めて隅の方へ片づけた。壁に凭掛つて汚れたモンペ姿の老婆が二人、脚を投出してゐた。五人暮しかしら……僕はこの部屋の人員のことをぼんやり考へてゐた。
「お天気がわるくていけませんね。いい部屋ですよ、日もよくあたりますし……」若い女は落着払つて日常の会話を持ちかけて来た。僕はさつき土地会社の男から、その部屋の条件についていろいろきかされてはゐた。アパート管理人の諒解は後でうけることにして、最初は同居人の形でずるずる入り込むこと、(さうでもしなければこの節、部屋など絶対にないと彼は云つた)だから、部屋を見に行つても、前から識りあひの人が訪ねて来たやうに振舞つて欲しい、さうして同じアパートの煩さい人々の手前をうまく繕つてもらひたいといふのが、その条件であつた。差当つて僕はこの条件に縛られて行くより他はなささうだつた。若い女はあたりの部屋に聴かすため大きな声で世間話をするのだつた。それから、あたりを憚るやうな声で部屋の説明をした。
「あと三日位で部屋はきれいに開けますよ。ですけど、当分、間代は私の方から管理人へ払ふことにさせて下さい。それからアパートの人達にはとにかく身内だといふことにしておいて下さい。いいえ、隣近所はみんなそれはいい人たちばかりです」
その説明は何か眼の前にある、僕には見えない、複雑な糸について云つてゐるやうな、もどかしさがあつた。
「それであなたたちの出て行くあてはあるのですか」
「こんどは事務所の二階へ移ります。いいえ、この人たちは郷里から一寸来てゐましたが明日は帰ります」
僕は古びた箪笥や境台でごたごたした壁際や、向ふに見えるガラスの破損した窓に視線をやり、何かがつかりしたやうな気持だつた。僕と案内人とがその薄暗い芥箱のやうなアパートの建物を抜けて外に出ると、あたりは陰気な雨の巷であつたが、それでも外の光線や空気がすつと爽やかに感じられた。
返事を少し待つてもらふことにしたが、僕は怯気づいてゐる気持を強ひて鞭打たなければならなかつた。どんな陰惨な建物だらうが、暗い環境だらうが、とにかく自分の部屋として、いくらかの空間が与へられれば、それでいいではないか。さうすれば、その部屋の中に何ものにも侵されない僕の部屋を持つことができるのだ。だが、やはり最初あの部屋の入口に佇んだ時の、あのもぢやもぢやとした濁つた気味のわるいものが、どうにもならなかつた。僕はどう決めていいのか思ひ惑つてゐた。……朝がた僕は奇怪な夢をみた。アパートの部屋のあのもぢやもぢやとした真黒い塊りが一瞬、電撃のやうに僕の頭のなかに再現したかとおもふと、「あれは、泥棒の巣だ」と、はつきりした声が聴きとれた。僕は妙に胸苦しく脅えた感覚に突落されてゐた。
朝の外食を済ませて部屋に戻ると、甥から電報が来てゐた。
〈アサツテカヘル〉
僕には殺気立つた甥の顔が目に見えてくるやうだつた。もはや躊躇してゐる際ではなかつた。僕は早速外出した。出版社に立寄つて、前から申込んである前借の金を頼んだ。金はその時、都合よく融通してもらへた。一万円の包みを受取ると、僕はとにかくめさきが少し明るくなつた。それから、その足で土地会社へ立寄つた。もの馴れ顔のブローカーは僕の来るのを待つてゐたかのやうな顔つきだつた。
「まだ少し不審があるのですが、あんな風な条件で約束しても、ほんとに相手は他へ移る的があるものかどうか」
「さあ、それはあの人も子供まである婦人ですし、まさか大それたことはしないでせう。何でも借金の期限に追はれてゐるやうで、話は急いでゐるやうです。誰でもいいから約束する人を見つけてくれと今朝もやつて来ました」ブローカーは慎重さうな顔つきで更につけ加へた。「とにかく、相手の身元をはつきり確かめておきなさい。米穀通帳なり金融通帳なり見せて貰つて控へておけば大丈夫でせう」
僕はまだ割り切れないものがあつたが、その足でアパートの部屋を訪れた。入口に立つたとき昨日と変つて、部屋は稍すつきりした(少くともそう感じようとする気持が僕にあつたのかもしれない)感じだつた。部屋には昨日の若い女がひとり壁に凭掛つてゐた。
「少しは広々したでせう。今朝、箪笥を売払つてさつぱりしたところなのです」
女は自嘲的な調子で狭い部屋を見廻した。それはやはり何かに追つめられてゐるものの顔だつた。
「子供は母が郷里へ連れて帰りました。これからはほんとに新規蒔直しでやるつもりです」
僕は米穀通帳のことを持ち出した。
「あ、身許調査ですか」と、女は汚れた通帳を取出して僕の前に展げた。ずらりといろんな姓名が記入してあるなかから杉本花子といふところを指して教へてくれた。その通帳の住所は福島県になつてゐた。女はそのことを弁解しだした。
「以前はここで配給とつてゐたのですが、田舎の方が欠配もないし、ずつといいので、あちらへ移したのです。だから、お米はあちらから背負つて運んでゐるのです」
僕には何だかよく事情がわからなかつた。すると女はこんなことを云ひ出した。
「あなたの荷物は沢山おありなのですか。明日あたり私はここを引揚げるつもりですが、ただ少しお願ひがあるのです。目ぼしい荷物は持つて行きますが、この鏡台とか押入の行李などは当分ここへ置かして下さいませんか。どつちみち間代は当分私の方から管理人へ払ひます」女はもう僕がここを借りることにしているやうだつた。
その夕方、土地会社の男が僕を訪ねて来て、僕の返事を求めた。僕はまだ何とも決心がつかなかつた。するとまた翌朝、土地会社の男はやつて来た。何しろ相手は急いでゐるのだから手金だけでも今日中に渡してやつてくれ、でなければ話を他へ持つて行くと急かしだした。たうとう僕はその申込を承諾した。彼が帰つて行くのと入れ違ひにアパートの女が金を受取りに来た。女は金を受取ると、それでは早速今日のうちに荷物を少し運んで頂きたいと云ひだした。僕はいま荷物を向ふへ運んでみたところで、まだどうにもならないだらうと思つた。あまり気はすすまなかつたが、とにかく行李を一箇だけその部屋に運んで行つた。……その部屋の片隅に僕の行李が置かれると、僕といふ存在はひどく中途半ぱな気持にされてしまつた。だが、こんな風な困難な状態も焼け出されの僕にとつては止むを得ないことかのやうにおもへた。
翌日は残金を渡して、一応とにかく部屋を開渡してもらふ約束だつた。僕が約束の時刻に訪ねて行くと、部屋はいろんな荷物でごつた返してゐた。
「ああ、くたびれた」と女は大きな溜息をついて、「昨夜いろんなことを考へるととても眠れなかつたのです」と、なほもごそごそ細かい品物を引掻廻してゐた。しかし僕から残金を受取ると、女は急に真面目さうな顔になり、
「では今日からこの部屋を使つて下さい」と小声で呟いた。それからふと何か説明しにくい纏らないことを喋る時のやうに、こんなことを云ふのだつた。
「私はすぐ出て行きます。ですけれど、これからもやはり時々はお邪魔させて頂きますよ。それから鍵を一つ、この方を預けておきます。気をつけて下さい。ここのアパートでは品物がよく無くなりますから、鍵だけはお願ひします」
それから暫く荷拵へをしてゐたが、やがて大きな包みを背に負ふと両手に籠や風呂敷包を持つて出掛けて行つた。相手が出て行くと、僕は自分の荷物のことを考へながら、そこの押入を開けてみた。押入はまだ半分以上、女の荷物で塞がつてゐた。これではどうにもならなかつたが、差当つて僕は夜具だけでも向ふの下宿から運ばうと思つた。
僕はその夜そこのアパートへ夜具を運んで来ると、その時からその部屋での僕の生活が始まつた。だが、これはほんとに僕の部屋なのだらうか……。ここには女の残して行つた鏡台や卓袱台が僕の目の前にあり、押入の中には自堕落な暮し振りがはつきり見えてくる。しかし、それは僕の知つたことではない。僕は僕の周囲にある無関係の物質から影響されたくはないのだ。だが、僕の眼の前の窓ガラスには大きな穴があつて、そこへ貼られた半紙は皺くちやになつてゐて、そして今にもとれてしまひさうなのだ。ガラス戸の桟は歪んで緩るみ、開け立てするたびにぐらぐらする。壁も畳も襖も滅茶苦茶に汚なく、時々、プーンと芥溜の臭ひがする。それから……、この部屋の周囲にある陰惨な空気について云へば殆ど限りがなかつた。部屋は廊下と同一平面の高さにあるので、外をガタガタ歩く下駄の音は寝てゐる僕の枕頭に直接響いて来る。階段の脇の光線のあたらぬ流場は煤けた蜘蛛の巣か何かのやうに真黒だつたが、僕はその水道の栓を捻つてみると、水は一滴も出なかつた。水道はもう数年前から壊れてゐたのだ。通風のわるい狭い廊下では部屋毎に薪を燃やす。その煙は建物の中を匐い、容赦なく僕の目や鼻を襲つた。僕は外から帰つてこのアパートに入ると、入口のところでむんむんする人間の異臭のかたまりと出あふ。躓きさうな階段をのぼつて薄暗い廊下の方へ来ると、青ぶくれのおかみさんが廊下に乳飲児を抱へて、すぐ扉の脇に小便をさせてゐるのだつた。……僕は自分が子供だつた頃のことを憶ひだすのだ。子供の僕は自分の家の納屋の荒壁の汚れた部分を見てもひどく気持悪かつたが、他所の家の惨めな姿など見ると、すぐ夢にまで出て来さうな寒気を感じた。そんな風な弱々しい子供の僕は今でも僕のすぐ手の届くところにゐるのだが……。
ある朝、早くからこの部屋をノツクするものがあつた。僕が睡不足の眼をこすりながら内側から鍵を外すと、背に大きなリユツクを負つた旅行者の扮装で、女は扉の外に立つてゐた。
「只今」と女は勝手にどかどか部屋に上つて来て肩の荷を外した。
「一寸郷里まで行つて来ました」と女はまだ旅行の浮々した弾みを持つてゐるやうだつた。僕は彼女が今度引越すと云つてゐた事務所の方へ行つてゐたこととばかり思つてゐた。だが、相手は僕の思惑など眼中になく、今、古巣に戻つて来たやうに振舞ひだした。リユツクの紐を解くと新聞紙を展げて白米をざあつと移した。それから、両手で白米を掻きまぜては、口に茶碗の水を含みプーツと吹き掛けだした。
「ああ、お米よ、お米よ、米ゆゑ苦労はたえはせぬ」
そんなことを呟きながらゲラゲラ笑ひ、升で測つては風呂敷に移した。軈て風呂敷包を一つ抱へてふいと外へ出て行つた。暫くすると、女はすぐに部屋に戻つて来た。続いて、背の高いマーケツト者らしい男がのそつと部屋に上つて来る。男は部屋にゐる僕の存在を無視し、立つたまま畳の上の白米を蔑んだ眼つきで見下してゐたが、やがて黙つて出て行つた。それからも、女は絶えずそはそはしながら部屋を出入しながら昼すぎまでゐたやうだが、何時の間にか姿を消してゐた。
日が暮れると毎晩停電なので、アパートは真暗になるが、僕は蝋燭を点ける気もしないので、真暗な部屋に蹲つた儘ぼんやりしてゐた。誰かが僕の部屋の扉をノツクして、濁み声で「杉本さん」と叫ぶ。
「杉本さんはゐませんよ」僕は扉の外からさう応へたが、相手はなかなか去らなかつた。扉をあけて僕は用向を訊ねてみた。
「困つたな、杉本さんゐないのですか。自転車を一つあづかつておいてもらひたいのですがねえ」
「自転車を? この部屋へ」僕はただ驚くだけであつた。やがて相手は黙々と帰つて行つた。
殆ど毎日いろんな不可解な人物が杉本を訪ねて来た。結婚媒介所で教へてもらつたといつてやつて来る若い青年や、その媒介所の親爺までやつて来るやうになつた。それから債権者らしい男も頻繁に苛立たしくやつて来る。僕はこの部屋の先住者にどんな複雑な事情があるにしろ、なるべく早く立退いてもらひたいと思ふ心で一杯だつた。
と、ある朝早くから扉を叩く音で僕は起された。女はこの前と同じやうにリユツクを背負つて意気込んでゐた。僕は何時頃ほんとにこの部屋を開けてもらへるのか、そのことをすぐに訊ねた。と意外な障害物と遭遇したやうに、ぴしりとしたものが閃き、それから急に女はひどく萎れた顔つきになつてゐた。
「私の方にもいろいろ都合がありますので、……それに実はお米のことで二千円ぺてんにかかつたところなのです。闇屋にお金渡したのに約束の米はくれなかつたので……相手が悪かつたので」
そんなことを憂はしげに呟いてゐたが、軈てリユツクの紐を解きだした。白米は新聞紙に展げられ、両手で荒々しく掻き廻されてゐた。
「食ふか、食はれるか」何か凄惨な姿で女はひとり呟いてゐた。
僕は殆ど毎晩すぐ隣室で泣き叫ぶ子供のために眠れない。親はまるでその子をいびり殺さうとしてゐるのだらうか、――撲りつける手の音がピシピシと僕の耳にひびく。僕の頭のなかの状態はこのアパートのどうにもならぬ疵だらけの姿と似て来る。どうにもならぬ人間たちが朽ちかかつた階段を降りて巷へ出て行く。どうにもならぬ人間の群はぞろぞろぞろぞろ駅の方で押合つてゐる。さうした人間たちは、混乱の電車の中やマーケツトに、お互の符牒と動物力で僕と無関係に生存してゐる。そして、さうした人間たちはいつも土足で僕の頭のなかを踏みにじるのだ。僕の頭には次第に訳のわからぬ怒りが満ちて来る。怒りはこの部屋に満ちてゐる。これはほんたうに僕の借りた部屋なのだらうか。それともこの汚ならしい部屋までが現在の僕を愚弄しようとしてゐるのではないか。……なにごとももう考へるな、と夜はきまつて停電になつた。毎晩の停電は僕を日が暮れると絶望的にすぐ床に横はらせる。僕はこんな詩を考へる。
わびしい部屋のなかの海。頭のなかの海、くらい怒りを溶かす海、大きな大きなあまりにも大きなものにむかつて睡り込んでゆかうとする、ぎしりぎしりと頭のなかに渦巻く海。
真黒な思考の夜のつぎには、毎日、この部屋にも朝がやつて来る。すると、僕にはとにかく何やら新しく拭はれた気持にされてゐる。この畳とも云へない位、汚れきつた畳の上にも、今、秋の光線はひつそりとしてゐる。その澄んだ光は……。遠方の友よ、僕は君に呼びかけてゐるのだ。
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